もしあの選手の守備位置が○○だったら

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あの選手が野手に転向しなかったら[編集 | ソースを編集]

プロ野球界には高校時代は投手で、プロ入り後に野手に転向して大活躍、というケースがよくあります。もし、あの選手が野手に転向しなかったら?

  • 項目の追加は五十音順にお願いします。

愛甲猛[編集 | ソースを編集]

  1. 中日へのトレードはなかったかも?
    • 横浜からオファーがあったかもしれない。

石井琢朗[編集 | ソースを編集]

  1. そこまで活躍できなかった。
    • 現役最後のドラフト外は木村拓也か?
  2. ドラフト外での名球会入り達成者は秋山幸二だけだった。
  3. 努力次第では三浦と並ぶ横浜の大投手になれたかもしれない。
  4. 登録名は本名の石井忠徳のまま。
    • 古木に「石井朗」と呼ばれることはなかった。

イチロー[編集 | ソースを編集]

  1. 年間13,4勝くらいの投手にはなる。
    • あれだけの身体能力と探究心があれば、山田久志とまではいかずとも山沖くらいの投手にはなる。
  2. 結局野茂に次ぐ投手メジャーリーガーになる。松井秀喜まで日本人野手は使えないというジンクスができてたかも。
  3. 振り子打法は存在しなかったかも。
    • 坪井智哉が「イチローもどき」と呼ばれることもなかった。
  4. 日米の安打数の記録が全て吹き飛ぶ。
    • 張本勲やピートローズから文句を言われることもなかった。

糸井嘉男[編集 | ソースを編集]

  1. 背番号が一桁に変わることはなかっただろう。
    • あるとしたら1番か。(BIGBOSS就任前はハンカチ王子が着用していたことがある)
  2. ダルビッシュに並ぶとまではいかなくても日本ハムのエースになっていた可能性もある。

井上一樹[編集 | ソースを編集]

  1. 中日一筋の20年選手にはならなかっただろう。

王貞治[編集 | ソースを編集]

  1. 当然、ホームランをはじめ打撃に関する記録は吹き飛ぶ。
    • 野村克也が本塁打・打点の最高記録となる。
      • それでも長嶋茂雄より評価が下に見られてしまう。
  2. 1961年に進められていた阪急へのトレードもあっけなく成立。
    • 当然、「ON」という言葉も生まれない。
      • でも投手のままだったらトレード話自体出なかった可能性もある。
  3. 巨人の背番号1は高田・末次・堀内あたりがつけていたかも。
    • 王氏の背番号は18か19あたりか?
      • 空いていたので最初から1を付けていたんだよ。でも、誰かに奪われていた可能性は充分にある。
      • そうなら投手として大成した場合、1番がエースナンバーになっていた可能性はありますね。
        • 現に高校野球はそうなっている。
  4. 巨人の背番号1は永久欠番にならなかった可能性もある。
  5. 打線が手薄になるので、川上巨人軍が大物助っ人を獲得したと思う。
  6. あまり活躍できないまま数年で引退。早実OBの伝手で小さな電気会社に就職。後に独立し、業界では知られた存在になっている(父親は貞治氏を電気技師にするのが夢だった)。

川相昌弘[編集 | ソースを編集]

  1. 犠打記録は吹っ飛んでいたのでバント職人の代名詞にはならなかった。

川上哲治[編集 | ソースを編集]

  1. 「史上初の2000安打」ではなく「史上初の200勝」を達成していた。
  2. ダウンスイング信仰が日本球界に蔓延することはなかった。

高井雄平[編集 | ソースを編集]

  1. 努力次第では石川雅規らとローテーションの一角になっていた。
  2. 今でも150km/h台の速球を売りにしている。
  3. 登録名を「雄平」に変えなかったかもしれない。
  4. 大谷くんのように本格的な二刀流も挑戦していたかもしれない。
  5. セ・リーグの場合、投手として登板しない日は指名打者を使えないのでパ・リーグで二刀流をするより利得が小さいが、投手として登板する日の二刀流の利得は非常に大きくなる。実質的に打線が9人対8人になるため。
  6. 代打リリーフとかもできたかもしれない。

松井稼頭央[編集 | ソースを編集]

  1. 西武はもっと早くAクラスから陥落していた。
  2. 楽天・渡辺直人の横浜移籍はなかった。

宮出隆自[編集 | ソースを編集]

  1. ペタジーニになぞらえ「ミヤジーニ」と呼ばれることはなかった。

あの選手が野手に転向していたら[編集 | ソースを編集]

高校・大学時代投手だった選手が、打撃センスも秀でていた場合、野手に転向し成功するケースがあります。その反面、投手にこだわり、不完全燃焼に終わる場合もあります。そんな投手が野手に転向していたら、どうなっていたでしょうか?

桑田真澄[編集 | ソースを編集]

  1. 入団直後の場合
    • クリーンナップのどこかは打ってたか。
  2. 95年の右肘側副靱帯断裂後の場合
    • 意外と二軍の大将だったかも。

東尾修[編集 | ソースを編集]

  • 入団1年目は不振に終わり、野手転向の話をコーチ持ちかけたが、黒い霧事件の影響でその話はなくなった。
  1. そこまで活躍できなかったかもしれない。
    • 早ければ所沢移転の時期で引退していたかもしれない。
  2. 史実通り黒い霧事件で池永らの永久追放があった場合、西鉄→福岡野球→西武の暗黒時代は史実よりも長かった。

福山博之[編集 | ソースを編集]

  • 2012年オフに野手転向の打診があったが本人が断ったため自由契約になった。
  1. 2018年時点でDeNAに残留している。
    • 球宴出場は出来ていない可能性が。
  2. 身体能力を生かして二遊間のレギュラーで定着(高校時代は二塁手)。

水野雄仁[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人で主軸を打っていた。
    • 原の後の4番候補。
    • 駒田とMK砲を組んでいた。

中里篤史[編集 | ソースを編集]

  • 史実では大ケガで泣かず飛ばずのまま引退し、悲運の天才投手と言われた中日の投手。2001年は強烈な印象を残したがその後数年復帰できず、2011年引退。
  1. 成功していれば、落合の評価はさらに高まっていた。
  2. 立浪の引退はさらに早まっていたかもしれない。
  3. 落合監督辞任後の中日の凋落はもう少しましだった。
    • もしくは、ソフトバンクにFAしていた。
      • 関東出身なので在京球団にFAしたかもしれない。

あの選手があの守備位置で活躍していたら[編集 | ソースを編集]

プロ野球界にはプロ入り後に他の守備位置に転向して大活躍、というケースがよくあります。もし、あの選手があの守備位置で活躍していたら?

長嶋茂雄→遊撃手[編集 | ソースを編集]

遊撃でのエラーが多かったため三塁に回った説も

  1. 打撃ではそれほどにならなかったか守備職人として知られたか。

江藤智→捕手[編集 | ソースを編集]

江藤智は超高校級捕手の名で入団後、三塁手に転向しました。

  1. 古田敦也とベストナイン争いを展開していた。
  2. 逆に西山秀二が三塁手に転向していた。

松井秀喜→三塁手[編集 | ソースを編集]

松井秀喜は三塁手として入団し外野手に転向後も三塁手再転向の話がありました。

  1. 原辰徳は完全に外野手に転向していた。あるいは一、二年早く引退していた。
  2. ジャック・ハウエルはヤクルトに残留していた。
  3. ルイス・サントスは巨人に入団していなかった。
  4. 江藤智は広島に残留していた。あるいは他球団に移籍していた。
  5. どこかのタイミングで実際には幻だった「背番号5」を着けていたかも。
    • 「背番号55」は現実通りスラッガーの代名詞にはなるが、彼(松井)のイメージは強くならなかった。

和田一浩→○○[編集 | ソースを編集]

捕手[編集 | ソースを編集]

  1. 伊東勤は一、二年早く引退していた。
  2. 細川亨は他の球団に入団していた。
    • 細川の入団は、当時捕手登録だった和田が外野に専念することを踏まえた獲得だったので。

三塁手[編集 | ソースを編集]

和田一浩は一時期三塁手として活躍していた時期もありました。

  1. 中村剛也は一塁手に転向していた。

小笠原道大→捕手[編集 | ソースを編集]

小笠原道大は捕手として入団後、内野手に転向しました。

  1. 高橋信二は早いうちから一塁手に転向していた。
  2. 現在も日本ハムに残留していたか中日に移籍していた。
    • 日本ハム残留の場合、鶴岡慎也は控え捕手のまま。

福留孝介→遊撃手[編集 | ソースを編集]

福留孝介は遊撃手として入団後、外野手に転向しました。

  1. 井端弘和は三塁手に転向していた。
    • そして福留のメジャー移籍後に荒木雅博が遊撃手、井端が二塁手になった。
  2. 荒木は史実でも外野も守っていたのでそのまま外野だったかも。

飯田哲也→○○[編集 | ソースを編集]

捕手[編集 | ソースを編集]

入団当時は捕手でした。

  1. 俊足好打のキャッチャーとして活躍していた。
  2. 古田は入団していなかったか、入団していても数年後に他の球団にトレードされていた。
  3. 1990年代前半のヤクルトの外野陣はレフト秦真司、センター城友博、ライト荒井幸雄になっていた。

二塁手[編集 | ソースを編集]

1990年は二塁手のレギュラーとして活躍しましたが、翌1991年に入団したジョニー・レイが二塁手にこだわったため、飯田が外野手に転向しました。

  1. レイの入団が無かったかorレイが外野へのコンバートを拒否しなかったらこうなっていた。
  2. 土橋勝征は外野のレギュラーとして活躍していた。
  3. ジョニー・パリデスやレックス・ハドラーの獲得は無かった。

礒部公一→捕手[編集 | ソースを編集]

礒部公一は捕手として入団後、2001年に外野手に転向しました(但し1999年は外野手または代打として全試合出場)。

  1. 古久保健二は佐々木恭介監督の退任とともに引退し、バッテリーコーチか球団スタッフになっていた。
    • その場合、2001年に岩隈久志と「親子バッテリー」を組む事もない。
  2. 2001年の優勝は史実通り?
  3. 控え捕手として細々と長く現役を続けられたかもしれない。
    • 古久保健二引退後の正捕手になっていたかも。
      • 的山哲也の定着が遅れていた。

内川聖一→遊撃手[編集 | ソースを編集]

  1. コックス・村田・内川・古木のファイアーフォーメーションを続けていた。
  2. しかし、打線の破壊力は格別になっていた可能性がある。
  3. 当時のラビットボールなら誰がやってもたいして変わらなかったかも。
  4. 当時のメインストリームメディアのスモールボール支持の風潮にNoを突きつけた。
  5. もしかしたらショート守備も普通にうまくなっていたかも。
  6. 守備負担で小粒な選手になっていた可能性もある。

村田修一→二塁手[編集 | ソースを編集]

  1. 上記のファイアーフォーメーションを敷いていた。
  2. 失点も多くなるが、ラビットボールなのでしょうがないかもしれない。
  3. 二遊間とは思えないほどの破壊力ある打線になっていたかも。
  4. 動けデブと言われることもなかった。いや、むしろたくさんあったかも。

タイロン・ウッズ→右翼手[編集 | ソースを編集]

  1. 上記の内野ファイアーフォーメーションを続けた場合、こうなっていた。
  2. 実際、これを続けていたらどうなったのか。
  3. ベイスターズの暗黒脱出が案外早まったかもしれない。

カツノリ→一塁手[編集 | ソースを編集]

六大学野球時代は一塁手としてベストナインを獲得したことも。

  1. 守備の負担が減るので、打撃の面でもう少し良い成績を残していた。レギュラーは難しくても、右の代打として出場機会が増えていた。
    • 打撃で成績を残せていて仮にレギュラー定着していたら、上手くいけば父親の半分くらいの通算成績を残せていたかも。