もしあの鉄道路線のルートが○○だったら/JR西日本

ナビゲーションに移動 検索に移動

独立項目

片町線

京橋~住道間で現実よりも北側を通っていたら

  1. 恐らく府道大阪生駒線沿いのルートとなっていた。
    • 駅は京橋-今福-鶴見-安田-住道あたりになっていた。
      • 信越本線の安田駅は越後安田駅に。
      • 安田駅と鶴見線安善駅が混同されまくる。
  2. 地下鉄長堀鶴見緑地線は片町線とルートが重なることから建設されなかった。
    • 花の万博アクセスはどうなる?
  3. 近畿車輛は現実とは異なる場所にある。
    • 淀川電車区の移転先も放出ではなくなる。
      • 地名を読める人が減る。
      • 放出といえば今でも中古車センター。
    • 尼崎のままだったかもしれない。社名も「田中車輛」のままだったかも。
  4. 片町線は東大阪市内を通らなかった。
  5. 大阪市鶴見区は古くから発展していた。

西木津~住道間が直線だったら

  1. かなりの難工事になっていた。
  2. 近鉄けいはんな線は生駒どまりのままで未だに東大阪線を名乗っていた。
  3. 京阪交野線が生駒まで延びていた。
  4. 京阪東ローズタウンが発展しない。
  5. 開業当初から全線が電化されていた。
  6. 精華町は単独で市制施行できた。

JR東西線

大阪駅を経由していたら

大阪
おおさか Osaka
どうしん
doshin
ふくしま
Fukushima
  1. 京橋~大阪間のルートは京橋~大阪城北詰~扇町~大阪間となっていた。
    • 扇町駅は現実の新福島駅と同様、大阪環状線の天満駅とは別駅の扱いとなっていた。
      • 東西線の仮称と駅名が全て異なっていることを考えると、駅名は「同心」になっていたかもしれない。
    • 大阪~尼崎間は現実通り。
      • ルートを考えるとおそらく福島駅も同一駅になっているはず。
  2. JR東西線の大阪駅ホームは阪神梅田駅との間の地下に設置されていた。
  3. 京橋駅における学研都市線大阪環状線の乗り換え客は現実より少なかった。
    • JR東西線の利用客そのものも現実より多かった。
  4. JR宝塚線の快速は全て東西線に直通していた。
    • 運行形態は篠山口~木津間の「丹波路快速」と宝塚~同志社前間の「快速」を昼間時それぞれ30分間隔で運転。
    • 福知山線の特急は新大阪発着となる関係で従来どおり大阪駅高架ホーム発着となる。
  5. ディアモール大阪は建設されなかった。
  6. 東西線内に待避設備が設置されていた。
  7. 梅田貨物線の地下化や北梅田駅の建設にはそれほど影響はないはず。
    • もしかしたらなにわ筋線共々東西線の大阪駅を地下ターミナルにする案が出ていたかもしれないが。

尼崎側が尼崎港線ルートだったら

  1. 尼崎の「急カーブ」は存在しない。
    • 福知山線側のカーブは残るだろうから、事実上塚口が分岐駅になっていただけだと思う。
  2. それでも尼崎港駅は廃止されていた。
  3. 阪神大物駅にも駅が誕生していた。
    • 御幣島から国道2号の地下をそのまま直進するならむしろ杭瀬が乗換駅になっていたんじゃなかろうか。
    • 海老江(阪神は野田)から杭瀬・大物辺りまで阪神本線と完全に並行していたことから、阪神はさらにJRに客が奪われていた。
    • 駅名は「JR大物」「JR杭瀬」になっていた。
  4. 御幣島駅が史実よりも少し東側に設置されていた。
  5. JR神戸線との直通は行われなかった。
    • その代わりJR神戸線との交点に東西線尼崎駅のホームが設置され、JR神戸線とは長い連絡通路で結ばれていた(史実でも尼崎港線のホームがあった)。
      • JR神戸線尼崎駅が若干西側に移設されていたかも。
      • 逆に福知山線側からは特急と丹波路快速を除き東西線に直通していた。
  6. 加島駅はJR神戸線に設置されていた。

福島以西が東海道本線に並行していたら

  • 当初計画ではこのルートにする案もあったようです。
  1. 福島(あるいは新福島)駅を過ぎると地上に上がり淀川を渡っていた。
  2. 塚本~尼崎に加島駅はやはりできていた。
    • 福島~塚本にも1駅できていたかも。
  3. 西淀川区内は相変わらず鉄道空白地帯になるため、大阪市高速電気軌道千日前線の野田阪神以北の延伸計画が再度具体化していた。
    • 野田阪神からは史実の東西線と同じルートで加島まで伸びていた。史実の御幣島駅の駅名は歌島橋となっていた。

紀勢本線

紀伊田辺~新宮間が本宮経由だったら

  1. 恐らく紀伊田辺~熊野本宮間は国道311号線と、熊野本宮~新宮間は国道168号線と同じルートをとっていた。
    • 本宮駅は東北本線に存在するため駅名に「熊野」を冠する。
  2. 熊野本宮大社や熊野古道中辺路への観光客が増加していた。
    • ただ、観光地としてメジャーになる代償として、世界遺産に登録されていたかどうか。
    • 登録されたのは神社などの部分だけだった。
      • 物件名は単純に「紀伊山地の霊場群」とでもなっていた。
  3. 白浜へは紀伊田辺から「白浜線」という支線が建設されていた。
  4. 白浜~串本~新宮間に鉄道が通らないことから潮岬は現実の室戸岬と同じくらい交通が不便な場所になっていた。
    • 結局串本経由の史実と同じルートの路線ができて、特急は全部そっちにシフトしていたのでは?
    • この場合本宮経由の旧線は元鹿児島本線だった肥薩線と同じような感じになっていた。最悪国鉄末期に特定地方交通線に指定されて廃止されていた可能性がある。
      • 路線名は「中辺路線」か?
  5. 勝浦温泉よりも湯の峰温泉や川湯温泉がにぎわっていた。
  6. 名古屋発の特急「南紀」は熊野本宮が終点となっていた。
  7. 五新線計画はやっぱり頓挫する。
  8. 本宮町が田辺市に編入されたことにそれほど違和感はなかったかも。

御坊市の中心街を経由していたら

  1. 紀州鉄道は存在しない。
    • 現実に紀州鉄道を買収した不動産会社は、鉄道会社のブランド欲しさに別の小私鉄を買収していたと考えられる。ただ、それは恐らく野上電気鉄道や有田鉄道ではない。
      • 野鉄や有鉄はバス部門もあり、微妙に規模があって扱いづらい。むしろ銚子電鉄あたりを買収していたかも。

佐田坂~矢ノ川峠を通っていたら

  1. 尾鷲〜熊野市間が熊野街道沿いに建設される。
  2. トンネルが史実より少なかった為、全通は昭和31年くらいだった。

山陽本線

龍野経由だったら

  1. 姫路から現実の姫新線に近いルートで龍野に至り、そのままほぼ真っすぐに上郡に向かうルート。
    • 当然龍野の市街地に面した駅が「竜野」となり、「本竜野」という駅は存在しない。
  2. 山陽本線が通らないため、網干の知名度は現実より遥かに低い。
    • その代わり余部駅に山陽本線の車両基地が造られ、新快速や快速列車の多くが余部止&始発になっていた。
      • 餘部鉄橋に行こうとして余部行きに乗ってしまう人が続出していた。
      • むしろ揖西町付近、もしくは上郡町付近に作られていた。
  3. 山陽新幹線の駅も竜野に設置された。
  4. 姫新線ではなく、「竜新(りゅうしん)線」になっていた。
    • ただし列車の大半は姫路始発。
    • 智頭急行は佐用始発。
  5. 赤穂線は竜野から分岐。
    • もしくは姫路から現実の山陽電鉄網干線のルートで、御津~相生~赤穂、と経由していた。
  6. 相生は現実より寂れており、場合によっては市制を施行していなかった。
  7. 旧龍野市の市街地を通そうとしたら反対されたため現在の位置に至ったという説もあるがそのへんはどうなんだろう
  8. 太子町内に駅ができており、現実よりも発展していた。
  9. 有年から上郡のように網干から龍野方面へカーブして龍野駅に到着、そのまま真っ直ぐ上郡へ向かうルート
    • それに伴い現実の赤穂線は相生を経由して赤穂へ行く路線として作られており大阪方面から龍野以降西に行く列車は基本的にそっちに行くこととなる。
      • もしかしたら山陽鉄道は少なくとも赤穂まで延びていたかもしれない。
    • 姫新線も現実のルートと同じ場所を通っており龍野駅は現在の赤穂線と姫新線の乗換駅となっていた。
    • 元から龍野を経由していたことから現実より発展しており鉄軌道の利用も減っていないため現在の網干駅と取って代わっており車両基地も龍野に作られた。

赤穂経由だったら

  1. 相生~赤穂~(帆坂峠)~三石、と通るルート。
  2. 山陽鉄道当時(明治期)の開業なので駅名は「播州赤穂」ではなく、「赤穂」。
    • 飯田線の赤穂駅は「信州赤穂駅」として開業し、その後史実通り駒ヶ根駅に改称した。
  3. 帆坂峠近くの山陽新幹線と交差する所に、新幹線駅「新赤穂」が建設された。
    • これにより兵庫県の新幹線駅の数は5つとなり、新富士、掛川両駅が開業するまで最多(新潟岩手県とタイ)となった。
    • 相生に新幹線駅が建設されなかった可能性も。
    • 姫路方面から来る新快速や普通列車の多くが、新赤穂止めになる。
      • これにより、新赤穂という駅名が18きっぱーの間で有名になる(勿論悪い意味で)。
  4. 智頭急行の起点は、相生駅。
    • 上郡は智頭急行ができるまで鉄道のない街に。
      • なので現実より寂れており、「平成の大合併」で赤穂市に編入されたかも。
  5. 山陽電鉄は相生経由での岡山延伸を計画していた。
    • 赤穂鉄道を買収していたかも。

現実の赤穂線のルートだったら

  1. 備前片上駅ではなく「片上」駅になっている。
    • 「天和」駅の字が「鷆和」になっていた可能性も。
  2. 同和鉱業片上鉄道線は、貨物連絡の必要性から国鉄片上駅に乗り入れていた。
  3. 山陽新幹線の駅も、片上に造られる。
  4. 備前市が現実より格段に発展している。
    • あるいは片上町が単独で市制施行して「片上市」になっていた。
    • 三石町は「平成の大合併」まで存続していた。
  5. 長船や邑久も現実より発展していて、少なくとも片方は単独で市制施行しているため、あの僭称市は誕生しなかった。
    • 代わりに備前市が(ry
  6. 和気は現実より寂れている。
    • 同和鉱業片上鉄道廃線後、鉄道のない街に。
    • 「平成の大合併」で佐伯町、吉永町、三石町と和気郡内で合併するも、市制施行条件の3万に届かず...
  7. 鉄道の通らない瀬戸も現実より寂れている。
    • なので「平成の大合併」で素直に赤磐市に参加。
    • 一方、西大寺市は岡山市に吸収されずに今でも独立した市のまま。
  8. やはり赤穂~日生間で普通列車の分断&本数減少が発生し、18きっぱーからの悪評が絶えない区間となる。
  9. 弾丸列車のこの辺りのルートは現実の山陽新幹線のような感じで計画された。

現実の呉線のルートだったら

  1. EF59EF61-200及びEF67は開発されなかった。
  2. 宇品港ではなく呉港が軍港となっていた。
  3. ルートから外れた西条と広島を結ぶ私鉄が開業していた。
    • さらには現広島空港まで延伸していた可能性も。
    • ~西条~三原を結ぶ「西条線」が作られ、山陽新幹線の駅はこの路線との交点に作られていた。
    • 開通時期によっては愛媛が「西条駅」、広島が「安芸西条駅」と駅名が逆転していた。
    • もし電化されていた場合は戦時中に経営統合で広島電鉄に合併、広電西条線となっていた。広電合併後の昭和30年代に1435mmに改軌され、連接車で広島市街地へ直通運転していた。
  4. 東広島市は誕生していないかも。少なくとも安芸津町は合併先が呉市か竹原市になっている。

山陽鉄道の北方線案を採用していたら

  • 所謂「瀬野八」を回避するためのルートも当初は検討されていたようです。
  1. 八本松~志和東~志和掘~上三田~下深川~上八木を経て三滝から直接西広島へ抜けたルート、社長の希望通りほぼ10パーミル。
  2. 山陽本線として現在の芸備線部分と可部線部分が複線電化された。
  3. 軍港のために呉線は作らざるを得ないだろうから後から今の場所の広島駅もできた。
    • 今の広島駅の場所にある駅は松原駅と名乗っていた。
  4. 竜王橋を渡ったところに広島駅がつくられる。

山口駅を通っていたら

  1. 山陽新幹線も山口駅を通っていた。
    • そうなると徳山駅は通らず、旧徳山市内に「新徳山駅」ができていた。
    • 美祢線とも厚狭駅ではなく厚保駅で接続、「新美祢駅」に改名されていた。
    • 現実の小郡駅は存在しないか、存在しても「新山口駅」の改名は無かった。
      • 「小郡駅」が存在しない場合、山口県の「小郡」の地名は現実ほど有名にならなかった。むしろ「小郡」というと福岡県の小郡市の方を指し、「西鉄小郡」駅が「小郡」駅を名乗っていた。
      • 小郡町は史実より早く山口市に吸収されていた。
  2. 宇部線は小郡ではなく防府で分岐していた。
  3. 山口線の方が山陰本線になっていた。
  4. 宇部線は山口駅で分岐し、山陽道小郡宿に「小郡駅」が設置された。しかし、山陽新幹線の停車駅に選定されたので山口市が妬み、「新山口駅」に改称するように迫るが小郡町が拒否し、妥協策として「ちぐまやんし駅」となった。
  5. 史実の山陽本線とあまり変わらないルートの場合はかなりの急カーブになっていた。
    • 「政治家の○○が無理やりルートを曲げさせた」という伝説が確実に存在していた。
      • おそらく山口市出身で鉄道建設にも関与していた井上馨が曲げさせたことになっていただろう。
      • カーブ部分に井上馨の別名にちなんだ「聞多曲がり」という通称が付けられていた。
    • 後に「スピードアップの妨げになる」という理由で短絡線ができていた可能性がある。
  6. 工事が難航し開通が遅れていた。
    • 実際、山陽鉄道は当初から海岸線沿いのルートを検討していた。
  7. 現在の岩徳線のような状態になっているかと。
  8. 史実のルートとの分岐点は徳山か防府のどちらか。
    • 防府経由なら国道262号線に近いルートで山口駅に向かっていた。
      • 但しこの場合だとスイッチバックが出来るので、史実よりも南寄りに山口駅が出来ていたかもしれない。

現実の岩徳線のルートだったら

  1. 現実の山陽本線のルートは柳井線のまま。
    • 柳井線は地方交通線の扱いになっていた。
    • 未だに単線のまま。
  2. もちろん電化されていた。
    • 場合によっては柳井線も電化されていたかもしれない。
    • 史実の「呉線経由」のように「柳井線経由」と明記される特急や急行が存在した。
    • 欽明路トンネルの区間も含め、複線化もされていた。
  3. 岩日線の重要度が高まり、日原駅まで延伸されていたかもしれない。
    • 御庄駅は正式に新岩国駅に編入されていた。
  4. 西岩国駅は「岩国」を名乗り続け、名実ともに岩国市の玄関口となる。一方、現実の岩国駅は未だに「麻里布」のままか、もしくは「東岩国」に改称されていた。
    • 場合によっては新幹線はそちらに出来ていた。
  5. 欽明路トンネルをもう1本増やした方がコストが安かったということになっていた。
    • あるいは「柳井で艦砲射撃や空襲を受けて分断される可能性があるため」とか。
  6. 広島方面から下関方面に向かう運賃は史実よりも安かった。

現実の宇部・小野田線のルートだったら

  1. 新山口ー居能ー雀田ー小野田というルート。
  2. 船木鉄道の起点は居能駅だった。
  3. しばらくして新山口ー小野田を現在の山陽線のルートで通る私鉄が開業するも、戦時中に国有化された。
  4. 本山支線は山陽線の支線として開業していた。
    • クモハ42は投入されていなかった。

山陰本線

国道9号線沿いにできていたら

  1. 山陰本線は京都~益田~小郡(現新山口)の路線になっている。
  2. 益田~長門市~幡生はJR石長線(せきちょうせん。石見と長門から)となる。もちろん地方交通線。
  3. 山口を結ぶ路線が作られた。路線名は「萩線」。
    • もちろん東萩に中心駅の座を奪われたりしていない。
  4. 八鹿が但馬の中心都市になる。
    • せいぜい和田山レベルじゃないかな。歴史的にも中心都市は豊岡もしくは出石かと。
  5. 八鹿~豊岡~宮津~西舞鶴が宮津線となり、後に北近畿タンゴ鉄道に移管。
    • 豊岡~城崎温泉間に開業した城崎鉄道は、昭和の中頃に既に廃止。
  6. 餘部鉄橋は存在していない。
    • もちろん「みやび」はJR化後も健在であり、その代わり「あすか」がなかった。
  7. 兵庫北部-鳥取東部は長大トンネルで抜けていたでしょう。
    • 或いはここだけ国道9号沿いから外れて戸倉トンネル・若桜経由で抜けていたかもしれない。
      • 戸倉峠の勾配は碓氷峠並みだと思う。
      • その碓氷峠には線形改良を経て現在新幹線用に長大トンネルが存在。
      • それだと養父駅からは西へ大屋川沿いに大屋町方面に向かい、若杉峠から波賀町、戸倉峠ってルートかな。これだと八鹿が今より寂れてること必至。
        • このルートをたどっていた場合、山陰本線が旧播磨国を経由することになっていた。
    • 長大トンネルが引き金となって昭和時代の早い時期に全線電化されていた。
    • てか八鹿・若桜間って鉄道計画が実際にあったみたい。実現してたら八鹿から9号沿いに西に進んで、関宮のハチ高原辺りから氷ノ山にトンネル掘って若桜に抜けるみたいな感じになってたんだと思う。さすがに氷ノ山トンネルは難しそうだけど、そのせいで頓挫したんだろうか。
      • これが実現していたら城崎温泉は衰退し、兵庫県但馬地方の中心は養父市となっていた。
      • さらに電化もされていた場合、智頭線は建設されなかった可能性も。
  8. 京都~亀岡間は西京極・千代原口・老ノ坂峠を通るルートとなっていた。
    • 嵯峨嵐山駅は通らず、嵯峨野観光鉄道もなかった。
    • 洛西ニュータウンの交通アクセスが改善されていたかも。
    • 西京極駅が山陰本線と阪急京都線の乗り換え駅としてにぎわっていた。
      • 運賃面では阪急がJRより圧倒的に安いため、亀岡・園部方面から大阪に向かう客は西京極での阪急乗り換えがメインとなっていた。
      • 阪急嵐山線の上桂駅が桂駅として阪急乗り換えのメインになって阪急京都線は松尾から四条通り経由になったと思う。
  9. 園部~福知山間の京都府船井郡京丹波町を、お忘れなく。ちなみに園部~福知山間はJRバス運行区間。
    • 舞鶴線は福知山~東舞鶴間の路線となっていた。
    • 実は福知山へは福知山線(当時は阪鶴鉄道)の方が先に開通していた。舞鶴方面へのスイッチバックを回避するため、阪鶴鉄道が造った「福知山南口」駅がそのまま福知山駅となり、そこに南東から山陰本線が接続するかたちになったかも。
      • その場合、福知山の市街地のかたちは大きく変わっていた。
      • こうなっていたら尼崎(尼港線廃止前は尼崎港)~東舞鶴間が「舞鶴線」となっていた。
        • 福知山駅は山陰本線と舞鶴線がX字状に交差する駅となっていた。
        • 舞鶴線経由で大阪~東舞鶴・小浜間を運行する特急も運行されていた。
    • 綾部駅が現実より不便かつただの中間駅になってしまうので、綾部の街が現実よりも寂れている。
      • 「郡是」(現在のグンゼ)の本社が置かれることもなく、下手すると「平成の大合併」まで「町」だったかも。
        • 郡是の本社は福知山にできたかも。福知山も養蚕業が盛んだったので。
    • 現実の丹波町(現京丹波町)がより発展しており、「平成の大合併」を速攻でまとめて「丹波市」を名乗ったかも。
      • その場合、氷上郡市は丹波市になれず、「ひかみ市」となる。
      • 旧丹波町の須知(しゅうち)には駅ができていて、難読駅名として知られていた。

起点が尼崎だったら

  1. 山陰本線は尼崎~幡生間の路線となり、路線長は20kmほど長かった。
    • 現実の山陰本線は京都~福知山間が福知山線となっていたか、福知山~東舞鶴間が舞鶴線、京都~綾部間が綾部線となっていた。
  2. 山陰本線の正式な起点は尼崎駅だが、列車は原則として大阪駅始発となる。
  3. 廃止された塚口~尼崎港間は「尼崎港線」という独立した路線名が与えられていた。
    • 昭和40年代に「赤字83線」に指定され、篠山線と同時期に廃止されていた(現実には昭和56年旅客営業廃止)。
  4. 京都府の福知山市や宮津市は京都市より大阪市や神戸市との結びつきが強くなっていた。
  5. 2011年3月のJRダイヤ改正で大阪から北近畿タンゴ鉄道への直通特急が廃止されることもなかった。
  6. かつての特急「まつかぜ」は山陰本線全線を走破する列車となっていた。
  7. 大阪から福知山経由で舞鶴方面に向かう特急も運行されていた。
  8. 国道9号線も京都市ではなく大阪市の梅田新道交差点が起点となっていた。
    • 福知山市までは現実の国道176号線のルートをたどっていた。
    • 国道27号線は京都市が起点となっていた。
  9. 急行「出雲」は1961年10月以降も大阪駅経由のままだった。
    • 特急格上げから廃止に至るまで大阪や宝塚への停車が継続されていた。

福知山線

宝塚以東が現実の阪急宝塚線のルートだったら

  1. 福知山線の起点は大阪駅だった。
  2. 阪急宝塚線の方が逆に伊丹経由だったかもしれない。
    • その場合阪急伊丹線はなかった。神戸線と宝塚線は塚口で分岐していた。
  3. 豊中市箕面市池田市は高級住宅地としては発展しなかった。
    • 下手したら箕面市には鉄道が通らなかったかもしれない。
  4. 「あの事故」は起こらなかったかもしれない。
  5. JR東西線は京橋~大阪間の路線となっていた。
    • 東西線開通と同時に福知山線ホームは地下化される。
      • 福知山・城崎温泉方面に向かう特急もここに発着していた。
  6. 能勢電鉄の起点の駅名は国鉄民営化まで川西国鉄前(この場合は史実の川西能勢口駅)だったかもしれない。

篠山市の中心部を通っていたら

  1. 篠山線は建設されなかった。
    • 逆に、篠山線が園部まで行っていた。
  2. 丹波篠山への観光客が増加していた。
    • 京阪神から気軽に行ける観光地として注目を集めている。
  3. 福知山線の複線化は1986年の時点で篠山まで完成していた。(現実には1986年に新三田まで完成)
  4. 線形が大変なことになっていた。
    • よくてオメガカーブ、下手をするとスイッチバックができていた。
    • 現在では福知山線高速化の最大のネックになっている。
    • 阪神淡路大震災を機に篠山を回らないルートが建設される。

塚口ー尼崎間の上り線路付け替えがなかったら

もともと塚口ー尼崎間の上り線路は直線で尼崎に向かっていました。しかしその後直線で向かう上り線路は廃止され尼崎市場を迂回する下り線路側を通るようになりましたが、それがなかったら?

  1. 東西線直通を機に迂回する下り線路が廃止されて上り線路側に統一されていたかもしれない。
  2. そのままだと尼崎駅の配線が複雑になるので宝塚線はJR東西線またはJR神戸線のどちらかの直通がなかった。
  3. 尼崎付近の半径304mの急カーブは無かった。

宝塚-三田で国道176号沿いを通っていたら

  1. 武田尾ではなく西宮市山口地区を通っていた。
    • 駅名は「摂津山口」になっていた。
    • 宝塚-生瀬-摂津山口-道場-三田というルートだった。
    • 武田尾温泉に関しては秘境扱いされていた。
  2. かつて存在した有馬線は摂津山口で分岐。
  3. 1986年の複線電化にあたっては生瀬~摂津山口をトンネルの新線に切り替えていた。
  4. 道場駅の位置が現実と異なっていた。
    • 神鉄道場駅にほど近い位置になっていた。

加古川線

起点が明石だったら

  1. 粟生駅以南は国道175号と並走していた。
  2. 加古川線ではなく「明石線」になっていた。
  3. 神戸電鉄粟生線の終点は三木駅だった。
    • 粟生線ではなく「三木線」になっていた。
  4. 神出あたりで神戸市営地下鉄と接続していた。
    • 場合によっては神戸市営地下鉄は1067mm軌間で建設され、明石線と相互直通していた可能性もある。
  5. 加古川~厄神~三木に三木線→三木鉄道が存在していた。
  6. 明石~西脇市間は国鉄時代末期に電化されていた。
    • 北条線は3セク転換されず、鍛冶屋線も廃止されなかった。
    • 明石~三木間は複線化も行われていた。
    • 朝夕ラッシュ時を中心にJR神戸線への直通快速や普通も運転されている。
  7. 明石線が神戸市内を通っているため、JR神戸線の朝霧・明石両駅が神戸市内駅に含まれていた。

北陸本線

湖西経由

もし北陸本線が米原が起点でなく湖西線とほぼ同じルートをたどっていたら・・・。

  1. 起点は京都駅になっていた。
  2. 近江今津からは近江塩津を経由せずにまっすぐ山を越えて敦賀に抜けていた。
    • 近江今津~上中~敦賀かな。で上中~小浜~舞鶴~綾部が小浜線。
  3. 敦賀~米原間はローカル線。
    • 長浜市は発展していない。
    • 名古屋方面に直通する線形になり、特急「しらさぎ」がスイッチバック無しで運行されていたかもしれない。
      • 米原駅が史実より東側に移転したかも。
    • 「しらさぎ」がある以上湖東ルートがローカル線になる事はない。但し上にある通り名古屋方面に乗り入れる形ならば新快速が長浜方面に乗り入れることは無かっただろう。
      • 駅間距離の関係上、米原に新幹線の駅ができるのはおそらく史実通り。
        • 普通に彦根市に建設していたのでは?ただし、米原~彦根駅間に「新彦根駅」ができていた可能性はあるが。
    • おそらく柳ヶ瀬経由。遅くとも赤字83線の時点で廃止されただろう。
    • 後に滋賀環状線との名目で木ノ本から近江今津まで建設されたであろう。
  4. 線形が悪いので湖西に新幹線を通そうという発想は存在しなかった。
    • あるいは湖西を経由するフル規格新幹線が計画された(実際に計画されているが)。
    • むしろ北陸新幹線の米原経由のルートは計画されなかった。
  5. 江若鉄道は京阪に買収された。
  6. JR各社の事業エリアの範囲が変わっていたのは必至。ひょっとしたら、JR東海が無かったかもしれない。
    • 米原ではなく関ヶ原が境界駅になっていたと思われる。
  7. 果たして塩津・新疋田ルートが検討されたかは微妙。
    • 新彦根駅開業後、東京方面及び彦根・長浜からの最短ルートとして開通させた可能性はある。

湖西線

起点が大津だったら

大津
おおつ Ōtsu
ぜぜ
Zeze
やましな/おおつきょう
Yamashina Ōtsukyo
  1. 湖西線と琵琶湖線を乗り換えるとき、一旦滋賀県を出る必要がなくなる。
  2. 新快速の湖西線への直通運転はなかった。
    • 代わりに大津発着の快速が設定されている。途中の停車駅は史実の新快速と同じ。
  3. サンダーバードなどの特急は大津駅でスイッチバックしていた。
    • スイッチバックを解消するために近鉄伊勢中川駅のような単線の短絡線が新設される。
  4. 草津線と直通運転していた。
    • 大津~草津間の電車の本数は多くなっていた。

関西本線

終点が片町だったら

もし関西本線が名古屋~片町間の路線で、大阪側の終点が片町駅だったら…

放出
はなてん Hanaten
とくあん
Tokuan
しぎの
Shigino
奈良
なら Nara
こおりやま
Koriyama
ならやま
Narayama
  1. JR奈良線はJR難波~奈良~木津~京都間の路線となっていた。
    • 木津駅では奈良線と関西本線が十字状に交差する。
    • 大和路快速は天王寺~京橋~大阪~西九条~天王寺~奈良~京都と走る。
    • 「奈良県を通らない奈良線」と言われることはなかった。
  2. 国鉄時代には片町発名古屋・東京行きの長距離列車が運行された。
    • 当然奈良駅には寄らないので代わりに木津駅に停車する。
      • 愛称は「いこま」か?(当然東海道本線の電車急行は別名になる)
    • しかし奈良駅に寄らないのは効率が悪いので木津駅に連絡線が作られ名古屋・東京~奈良・湊町(現JR難波)間の列車も運行された。
      • あるとしたら「京橋発長尾・木津経由奈良行き」とかだな。
  3. 長尾以東の電化は史実と同じく民営化直後に実現。
    • むしろこっちが幹線になるので電化はされる。但し複線化や加茂直通が増えるのは平成入ってから。
  4. JR東西線が開業すると片町駅が廃止となり京橋駅が関西本線の終点となるのも現実の片町線と同じ。
  5. JR東西線開業後は加茂発東西線経由宝塚・新三田・篠山口行き快速が運転される。
  6. 国鉄民営化以降は(結局は史実通り)「学研都市線」と呼ばれる。
  7. 関西鉄道と大阪鉄道(現在のJR難波~奈良間)は合併しなかった。
    • というよりこの前提がなければ関西鉄道が奈良市に乗り入れない理由はない。
  8. 放出〜久宝寺間は関西本線のルートで、おおさか東線は新大阪〜鴫野間だけになる。

姫新線・芸備線

中国自動車道とほぼ同じルート

  1. さすがに建設時期から考えても山を長大トンネルで貫きまくることは考えづらいから、飯田線などのような勾配だらけの路線になっていた可能性が高い。
  2. ルートとしては(~福知山線~)宝塚~三木~社町~福崎~佐用~(ここから史実のルート)~甲立~安芸高田~可部~(可部線廃止区間のルート)~戸河内~吉和~錦町~鹿野~山口とかかな。
    • 備後落合を経由せずショートカットするルートも計画されるが、結局断念。
  3. 佐用から東側はまあまあ需要が望める。
  4. 予てから無駄な路線といわれ続けたが、阪神淡路大震災でようやく存在意義に気づかされる。
    • 史実では神戸市沿岸部が壊滅的な被害を受けたため、日本海側を除けば使えたのが中国自動車道だけだったらしい。
      • ただ福知山線に繋げるとなると尼崎で分断されてしまう可能性も。
        • どっかで福知山線と東海道線を短絡するルートが建設されていた。
    • 史実の中国自動車道同様、「山陰・山陽両方を結ぶ背骨のような路線」として建設が進められていた。
    • 阪神淡路大震災に関わらず、内陸を通る代替ルートとして史実よりももう少しマシだったかも。
      • 東城〜備後落合が廃止されそうなんてこともなかった。
      • 内陸部の高規格化が進んでいたかどうかは微妙。
        • 阪神淡路大震災を機に少なくとも貨物列車が運行できるくらいにはなる。
    • 戦時中に作られていたら「艦砲射撃を防ぐため」ともされていた。
      • 瀬戸内海を艦砲射撃というのもあれだが、実際広島や岡山が攻撃される可能性もあるので代替ルートが重視されることは十分考えられる。
  5. 広島~甲立、姫路~佐用も建設された。
  6. 内陸部と山陰陽を結ぶ路線もいくらかはマシだった。
    • 急行や特急の一部が現在もここを経由し、現在でも大阪~佐用・津山行きの快速くらいは残っているかもしれない。

木次線

木次以南が国道54号線沿い(飯南町経由)だったら

  1. 松本清張の「砂の器」は存在しなかった。
  2. 急行ちどりは特急化されて今も存在している。

加茂中~木次も国道54号線沿いだったら

  1. 旧大東町はもっと人口が少なかった。

奈良線

巨椋池が干拓されてから奈良線が開通したら

  1. 京都から奈良までの所要時間が短くなる。
  2. 近鉄京阪との競争が激しくなる。(特に近鉄)
  3. 宇治市は京阪宇治線しかなくなる。
  4. 桃山駅が少し京都寄りになる。
    • 桃山駅はJR丹波橋駅になっていたかも。
  5. 新しく観月橋駅、JR向島駅ができる。
    • JR向島駅は近鉄向島駅からかなり遠くなる(近くに小学校があるため)
  6. 複線化が早くなっていた。
    • 高架化も考えられていた。
      • 京都線直通も前向きに考えられていた。

おおさか東線

布施を経由していたら

  1. 現在の位置から500m西にずれた府道24号沿いを走る。
  2. 設置駅は放出、高井田本通、JR布施、太平寺、衣摺加美北、新加美、久宝寺。
  3. 布施駅は乗換駅として発展し、大阪の副都心的なポジションになっていた。
  4. 布施駅の近鉄高架(2Fと3F)を超える、4F高架で駅が作られた。
  5. 乗り換え需要を見込んで近鉄の快速急行が停車していた。