もし東海道本線が○○を通っていたら
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関東地方[編集 | ソースを編集]
○○が起点だったら[編集 | ソースを編集]
- 新宿経由
- 東海道本線開通当時は東京市ではないので相当な理由が無いと確実に「東京市に経由すべきだ」と反発していた。
- 史実でも海上に線路を通すなど東京市内の用地の確保には苦労していたので、市内に鉄道用地が全く確保できなかったら市外の新宿に駅を設けていた。
- 品川駅は本当に品川区にあったかも。
- 目黒駅も目黒区にあった。
- 品川客車区も品川電車区と同じく大崎にできていた。
- むしろ後の六本木あたりを通っているほうがありそう。
- 少なからぬ部分で旧大名屋敷の用地を転用している。
- 東海道新幹線は新宿経由で決定。
- 最初から東北方面へのスルー化も考慮していた場合。
- 東京で国鉄による環状線が開業しなかったかもしれない。
- 日本鉄道の始発駅は上野ではなかった。
- 新宿駅が東京駅。
- 丸の内線東京駅は丸の内駅。
- 銀座
- 東海道線が今の東京駅に延伸する際に「新橋(汐留)駅から高架で銀座へ伸ばす」案があったそうです
- 汐留駅は新橋のまま。
- 史実の新橋駅は烏森駅だった。
- それでも、近鉄烏森駅には微妙に関係がなさそう。
- 史実の新橋駅は烏森駅だった。
- 銀座の町並みはまったく変わっていた。
- 自慢の煉瓦街は関東大震災より前に消えていた。
- 国鉄にも銀座駅が存在していた。
- 有楽町駅は無かった。有楽町線の駅も日比谷駅。
- 有楽町線の名前は史実の公募で応募数一位だった「麹町線」あたりになっていた。
- 有楽町駅は無かった。有楽町線の駅も日比谷駅。
- 確実に工事は史実より遅れている。
品鶴線ルート[編集 | ソースを編集]
- 電車線を通す際に鶴見-品川間で複々線化用地を捻出できず、中距離列車は新たに作った品鶴線経由に。
- 途中駅は武蔵小杉のみ。
- 武蔵小杉は昔から栄えていたため、タワマンラッシュは起こらず。
- 横須賀線が東海道貨物線経由で運行。
- 貨物列車はさらに海側、根岸線・大黒埠頭・扇島・浮島・羽田空港経由の新線に移行。
東海道貨物線経由[編集 | ソースを編集]
- その前に、埋め立て地をもっと早く行われければまず無理。
- 現実のルートでも開業当時は一部が海の中だったくらいなので江戸の中心がもっと南に寄っていない限り厳しい。
- それでも相模貨物駅・西湘貨物駅は旅客化しないだろう。
- 羽田空港アクセス線構想・神奈川東部方面線はもっと早く開業していたか?
- JR羽田空港駅はすぐ近くの所にはないが、史実の天空橋駅辺りに建設されていただろう。
- 相鉄に関しては上星川(この場合はここが星川駅になっている可能性も)で東海道線に乗り換えられるようになっているだろうから、JRへの乗り入れ構想はあまり活性化しなかったかもしれない。
- 史実の羽沢貨物駅が新横浜駅になっていた可能性大。
- 下と同様に桜木町駅は今でも横浜駅と名乗っていた。
- この場合旅客線が東海道貨物線経由、貨物線が小田原駅以東東海道新幹線経由のルートになっていた。
- 日本の鉄道が標準軌に改軌されていればあったと思われる。
- 勾配が多いわけでもないのでそれは無関係かと。
- 日本最古とされる鉄道忌避伝説の地は川崎に。
- 桜木町以西の複線化用地が捻出できず、羽沢経由の新線を建設。
- 鶴見以東も複々線化用地が捻出できず、既存路線は京浜線にして東海道線は海沿いの新線経由にすることで解決した。
- 実際には東海道線と旧東急の用地を使って京浜線・横浜線の東神奈川-桜木町複々線化ができる。
桜木町経由[編集 | ソースを編集]
- 京浜東北線を桜木町から日ノ出町・井土ヶ谷を経由して東戸塚まで延長する計画があったそうです。
- 中電は史実通り横浜から直で戸塚まで通るだろうから、下記内容とは違い桜木町がターミナルとして残っている可能性は低い気がする。
- 京急本線は桜木町経由となっていた。
- 根岸線開業後は横浜線の桜木町行きが戸塚経由で大船まで乗り入れていたかもしれない。
- 乗り入れ本数次第だが横須賀線も保土ヶ谷・東戸塚を通過していた。
根岸線経由[編集 | ソースを編集]
- 桜木町駅は今でも横浜駅と名乗っていた。
- 現実の横浜駅付近には関東大震災後に平沼駅が京浜東北線の電車のみが停車する駅として開業していた。
- 相鉄線(旧神中鉄道)のターミナル駅も桜木町に建設され、京急線(旧京浜電鉄・旧湘南電鉄)も桜木町を経由していて、どちらも駅名は横浜駅を名乗っていた。
- 東横線の桜木町駅も現存している(みなとみらい線との直通で終点ではなくなってるかもしれないが)。
- 横浜~大船間が不必要に便利になる
- ルート次第では終戦まで呉線さながらに軍機保護のため鎧戸を下ろすよう求められていた。
- 横浜市電が戸塚まで延びていた。
横浜駅以西が海老名経由[編集 | ソースを編集]
- 綾瀬市に東海道本線の駅が出来るが、大和市は東海道本線の駅が無いかもしれない。
- あっても新駅扱いされていた。
- 恐らく想定ルートは「横浜市(神奈川区→保土ヶ谷区→旭区→瀬谷区)→大和市→綾瀬市→海老名市→厚木市→伊勢原市→秦野市→中井町→小田原市」
- 要は相鉄本線&小田急海老名以西のルートでしょ。
- 最初は今の小田急~松田~御殿場線、のちに秦野分岐で上のルートになっていただろう。
- 大山への私鉄が確実に開業していた。
- 恐らく津波を想定したルートか。
- 明治の鉄道当局にそのような思想があったようには到底思えない。
- むしろ軍部が艦砲射撃云々で首を突っ込んできた結果では。
- 少なくとも小田原駅~横浜駅を結ぶ鉄道は別の路線名で開業していた。
- 東急あたりが横浜から東海道沿いに作っていたかもしれない。
- 江ノ電も箱根登山鉄道も東急のものに。江ノ島、湘南、箱根を手中に収める一大観光企業となる。
- 東急あたりが横浜から東海道沿いに作っていたかもしれない。
- 小田急は新宿~海老名~本厚木~平塚か。平塚急行とか町田急行とかになってたかも。
鎌倉駅経由[編集 | ソースを編集]
- 史実通りのルートでは遠回りするため、保土ヶ谷駅から分岐していた。
- 港南台駅にも出来ていた可能性が高い。
- JR東日本の各駅に江ノ電と東海道本線をタップした広告があったかもしれない。
- ルート次第ではそもそも江ノ電自体ない。
- 根岸線も鎌倉終点だった。
- ルートとしては横浜(桜木町)~磯子~栄区南部を経由して鎌倉~江ノ島~辻堂、かな。
- どこかの名刹が線路により境内を分断され無残なことに。
小田原駅以東が東海道新幹線経由[編集 | ソースを編集]
- 東京駅から品川駅は史実と同じルート。
- 西大井駅が大井町駅に。武蔵小杉駅が川崎駅。
- 綾瀬市にちゃんと駅が出来ていた。
- 後に史実のルートも別の路線名で開業しているはず。
- 茅ヶ崎-平塚間は相模鉄道が開業させていたかもしれない(国有化で「湘南線」に吸収)。
- 大磯-小田原間は東海道線に近すぎるため建設されない。
- 大船-戸塚-横浜間は横須賀線として建設される。
- 小田急江ノ島線の急行以上が高座渋谷駅に停車していた。
- 日本の鉄道が標準軌に改軌されていればあったと思われる。
- 開業当時の沿線人口を考慮すると短距離客はほぼ期待できない。
小田急線のルート[編集 | ソースを編集]
- 最初に開業した新橋-横浜間は京浜線として、それとは別に静岡・名古屋方面に(御殿場経由での)最短で建設。
- 中央線・山手線の交点の新宿が起点に選ばれる。
- 大船以西への中距離列車がない分京浜間に余裕が生まれ、横須賀線が川崎経由。
- 平塚は鉄道空白地帯。
- 茅ヶ崎は相模線で、藤沢は江ノ島線で一旦内陸に入ってから厚木・相模大野で東海道線乗り換え。
箱根経由[編集 | ソースを編集]
芦ノ湖 | ||||
あしのこ | ||||
畑宿 | 諏訪神社 | |||
Hatajuku | Ashinoko | Suwajinja |
- 箱根の峠越えが問題になる。
- 場合によってはEF63が箱根峠用に投入されていた。
- 箱根登山鉄道は存在せず、小田急は小田原から熱海に伸ばされていた。
- 伊豆急行は東急ではなく小田急の子会社となっていた。伊東までは小田急の路線として開業していた。
- ロマンスカーが乗り入れているのでリゾート21は開発されなかった。
- となると現実の小田急が「伊豆急」だったのか?
- 強羅・小涌谷地区の観光開発は史実ほど進んでいなかった。
- 伊豆急行は東急ではなく小田急の子会社となっていた。伊東までは小田急の路線として開業していた。
- JR東日本と東海の境界は芦ノ湖駅となる。
- 三島駅もしくは湯本駅となっていた可能性も。
- 後に箱根新道沿いに新線が建設される。
- やはり新幹線になって初めて丹那トンネルが掘られる。
- あるいはこちらも箱根経由になり、小田原-湯本-三島となっていた。
- 常磐線湯本駅は「常陸湯本」となっていた。
- 所在地の旧国名を考えると「磐城湯本」では?
- 御殿場線は箱根裏街道沿いに建設されていた。
- 御殿場線用にEF63が投入されていた。
- 御殿場-沼津間は開業しなかったかもしれない。
- 箱根町は市制施行していた。
- 箱根0460地域の市内局番2桁化も昭和のうちに実施されていた。
- 湯本地区は東京・横浜のベッドタウンとしても発展していた。
- 開業当初は確実にアプト式だった。
- 東西両京の輸送においてとんでもないボトルネックとなっていた。
- 「これでは東海道線に変更した意味がない」と散々に叩かれていた。
- 工事も難航しおびただしい死者が出て開業が遅れていた。
- 日清戦争に間に合わなかったらその後の日本の歴史そのものが激しく変わっていた。
厚木経由(東名高速のルート)[編集 | ソースを編集]
- そもそも東京からルートが違っていたかもしれない。
- 品川ではなく渋谷を通っていた。
- 東京の東海道線ホームは地下ホームになっていたかもしれない。
- 谷町JCT辺りが起点。
- 現実よりも多く東名高速道路と並走していた。
- むしろほとんど並走していた可能性が高い。
- 世田谷区にJRの駅が存在した。
- 場所によっては現実よりも所要時間が短くなっていた。
- 史実の明治時代の状況を考慮すると通る動機が見つからない。
- 相模川が木曽三川並みの暴れ川だったら架橋を考慮して考えられたかもしれない。
- 静岡方面へ路線を作る際に、共用にするとパンクすることが予測できたため、横浜方面とは別路線として御殿場への最短ルートで建設。
- 中距離列車の停車駅は渋谷・用賀・十日市場・大和・綾瀬・海老名・厚木。
- 京浜東北線は厚木まで運転。
- 山北周辺の急勾配は、近くに新線を作って解決していく。今でも御殿場線が本線。
- 小田原へは厚木から分岐する小厚線を建設。
東海地方[編集 | ソースを編集]
大月・御坂峠経由[編集 | ソースを編集]
- もし中央本線の起点が○○だったら#御殿場の逆パターン。
- JRの境界駅は御殿場だった。
- 小田急も御殿場まで路線を伸ばしている。
- 神奈川方面は東京~横浜~熱海~伊東の熱海線が神奈川方面のメインで、のちに熱海~沼津に国鉄の路線ができるが赤字ローカル線の扱いだった。
- さすがに東海道線と神奈川を結ぶ路線なのでたぶん三セク化には至ってないだろう。
- 熱海・伊東地域が路線図的に独立するので、伊豆半島の神奈川化がさらに進んでいた。
- 伊東-下田は東急資本による建設ではなく初めから国鉄線として建設され、単に伊東線の延伸線として開業していた。
- 松田-御殿場-三島は小田急の手によって建設され開業していた。
- おそらくこうなった経緯は東京~大月を敷設するときもまだ中山道ルートの予定だった、というところだろう。中央アルプスのトンネル地帯の工事が難しいのでそこだけ東海道側にした、という感じか。
- 中央本線は大月~名古屋になる。
- でも中央線特急は途中まで東海道線を通るだけで史実通りだったと思われる。
- 富士急行は存在しない。
- 山梨県に東海道本線が通っていた。
- 日本の国土軸に位置することから、山梨県が現実ほど地味な存在にはなっていなかった。
- 県は現実よりも発展し、人口も100万人を超えていただろう。
- 平成の大合併で大月市・富士吉田市が合併して「郡内市」が誕生し、市の人口も10万を超えていた。
- もしくは大月市+都留市で「郡内市」、富士吉田市+富士河口湖町+山中村で「富士山市」になっていた。
- 日本の国土軸に位置することから、山梨県が現実ほど地味な存在にはなっていなかった。
- ここまでくると、「東海道本線」という名称ではなく、単に「東海本線」だったかもしれない。
- 東海道新幹線も多摩地域経由となり、八王子や大月、御殿場に新幹線の駅ができる。
- 東名高速道路も。中央道と東名道の分岐点は大月になっていた。
- 東京国際空港も羽田ではなく史実の米軍横田基地の場所に造られていた。史実での羽田空港の場所は米軍基地になっていて、横田と羽田が逆になっていた。
- この場合、身延線は国有化されず私鉄のままだったか、国有化されたとしてもいずれ3セクか廃線になっていた。
- 私鉄だった場合、こっちが富士急行を名乗っていたかもしれない。ただしこの場合の富士は始点の富士駅か、横を通る富士川に由来する。
- 甲武鉄道は会社自体誕生しなかった。
- おそらく日本の最重要幹線としてはまともに機能できない。
- 御坂峠・篭坂峠といった難所のせいで輸送力確保が至難。
- さらに雪害により不通になるリスクも大きい。
- そのため、小田急が国有化されていた可能性もある。
- 車両面でもトンネル断面が小さいこともあって低屋根の特殊な車両しか走れないという制約が、PS23形パンタグラフが開発される1970年代まで続いていた。
- 御坂峠・篭坂峠といった難所のせいで輸送力確保が至難。
- 神奈川県や横浜市の人口は史実ほどは増加せず、神奈川県が大阪府の人口を上回ることはなかった。神奈川県の人口は2020年時点でも700万人前後で、横浜市が大阪市の人口を上回ったのは2005年になってからで、2020年時点でも横浜市の人口は300万人にすら届いていないかもしれない。
- 川崎市に至っては人口が100万人を超えるのは21世紀に入ってからで、未だに京都市や神戸市、福岡市には抜かれていない。
- 一方、国土軸の幹線に近い相模原市の人口は150万人を超え、2010年代以降は京都市や神戸市の人口を上回っていた。八王子市の人口も100万人を超えて政令指定都市になっていた。
御殿場経由[編集 | ソースを編集]
最初から丹那トンネル経由[編集 | ソースを編集]
豊田(挙母)経由[編集 | ソースを編集]
- 名鉄名古屋本線と完全に棲み分ける形になっていた。
- 東海道本線がやや遠回りになるので名鉄が多少有利になった。
- 大府、刈谷、蒲郡辺りは史実より栄えていない。
- 日進、三好は史実より栄えていた。
- 東郷町は市制施行していたかもしれない。
- 三好は徳島県三好市よりも早く三好市として市制施行していた。
- 東郷町は市制施行していたかもしれない。
- ルート見てる限り蒲郡はあまり関係無い。むしろ安城の方が影響受けている。
- 日進、三好は史実より栄えていた。
- 愛知環状鉄道は豊田駅までしか伸びていない。
- 距離が短い分、多治見まで全通していた。路線名は「挙多線」。
- 東海道新幹線も豊田経由になっていただろう。
- 武豊線は武豊~金山間としてならある。
- 電化が早まった可能性あり。
- ルートは金山~桜山~八事~日進~三好~豊田~岡崎か?
- 岡崎駅は史実の中岡崎駅にあって、史実の岡崎駅は南岡崎駅という小さな駅になっていた。
- むしろ熱田で東海道本線と武豊線が分岐して、熱田~堀田~島田~日進~三好~豊田~上郷~岡崎になっていただろう。
- 名鉄豊田線はなかった。
- 鶴舞線は日清か八事止まり。
- トヨタ自動車が挙母市に工場を設置しなかったかもしれない。
- その場合、挙母市が「豊田市」に改名することはなかった。
- 挙母は工業都市にはならず鄙びた城下町としてのイメージになっていた。
- 工場は安城市あたりに作られ、こちらが「豊田市」になっていたかも。
- その場合、挙母市が「豊田市」に改名することはなかった。
- 大府は乗換駅でなく武豊線の一部となり、刈谷は知立に合併され、安城は新安城駅付近を除き田畑が広がっていた。
- 最大の動機は岡崎中心街へのアクセスか。
- 徳川幕府によって建設されていたらもしかすると…。
名古屋以西が史実の東海道新幹線沿い[編集 | ソースを編集]
- 東海道ルートより先に中山道ルートが開業し、さらに日本の鉄道が標準軌に改軌されていればあったと思われる。
- 建設距離を考慮すると大垣ではなく岐阜での分岐だったのでは。
関西本線・草津線のルート[編集 | ソースを編集]
近畿地方[編集 | ソースを編集]
関西本線のルート[編集 | ソースを編集]
- JR難波駅が大阪駅。
- 京都より奈良が発展していた。
- 京都が鉄道を嫌っていたらこうなっていた。
- 亀山-木津間が電化・複線化されている。
- 名古屋-米原間は北陸本線。
長浜経由[編集 | ソースを編集]
- 国鉄時代の新快速は米原発着だった。
- 米原はただの中間駅。
- 近江鉄道が醒ヶ井経由で米原ー大垣間の路線を建設していた。
- そのまま名鉄と接続していた。
- 大垣駅で近畿日本鉄道と近江鉄道があることになる。
- 新幹線の駅も米原ではなく田村に建設されていたかもしれない。その場合、駅名は「新長浜」となっていた。
- 或いは距離を短縮するため長浜市は通過せず史実と同じようなルートとなっていた。ただし米原ではなく彦根に駅ができる。
- 米原町は平成の大合併で長浜か彦根に吸収されていた。
- 近江鉄道が醒ヶ井経由で米原ー大垣間の路線を建設していた。
- それでも勾配がきついので関ヶ原ー米原間に新線が建設されていた。
- その路線は貨物列車がメインで旅客列車はわずか。
- 扱い上垂井・新垂井のように上下線が分離されている形になっている。
- どのみち長浜経由の路線は複線(垂井線と同様の方式ならば単線並列)化されている。
- 扱い上垂井・新垂井のように上下線が分離されている形になっている。
- その路線は貨物列車がメインで旅客列車はわずか。
- 効率化のためJR西日本の管轄が米原、長浜ー大垣間が含まれていた。
- その場合京阪神の新快速は大垣発着だったかもしれない。
- 大垣夜行との連絡も史実より楽だった。
- その場合京阪神の新快速は大垣発着だったかもしれない。
- 北陸本線の起点は長浜だった。
- もしかしたら北陸本線の直流電化区間は最近まで新潟側にしか無かったかもしれない。
- 長浜駅初代駅舎は現在までに姿を消している。
彦根~草津間が名神高速道路沿い[編集 | ソースを編集]
- 恐らく彦根~多賀~八日市~竜王~栗東~草津というルートだった。
- 近江八幡ではなく八日市が発展していた。
- 平成の大合併でも東近江市という市名は誕生せず、八日市市のままだった。
- ヴォーリズが近江八幡に住むことはなかったかもしれない。
- 多賀大社への観光客が増えていた。
- 栗東には国鉄時代から駅があったかも。
- もちろん現実の栗東駅とは場所が異なっていた。
- その場合、東海道新幹線のびわ湖栗東駅は在来線の栗東駅に併設されていた。
- 車両基地は野洲ではなく竜王にできていた。
- 近江鉄道は現実の東海道本線沿いに米原~草津間を結んでいた。
- 中央本線竜王駅は「甲斐竜王」となっていた。
長浜経由・湖西線ルート[編集 | ソースを編集]
- 米原から長浜経由で湖西を通っていた場合。
- 史実のびわこ線ルートには私鉄(おそらく京阪と近江鉄道)の線路が通っていた。そのため湖西線のような新線は生まれない。
- 湖西エリアが栄える一方で、湖東、湖南エリアはすたれていた。
- 草津や守山は平成の大合併あたりで大津市になっていた。代わりに志賀町が存続し、市制していた。
- さすがに新幹線は史実と同じルートだろう。米原~京都の駅間に駅がないのも史実通り。
- 北陸本線の起点は近江塩津だっただろう。
- 北陸新幹線はおそらく湖西ルートが取られていた。
- 遠回りの上沿線人口も少ないので一体何が動機なのかよく分からない。
- 少なくとも北陸方面への路線の建設費を節約することは考慮されていたはず。
- 余程のことがなければ遅かれ早かれ史実のルートも建設されていた。ないと思うが鉄道連絡船だったかもしれない。
稲荷経由[編集 | ソースを編集]
京街道沿い[編集 | ソースを編集]
淡路経由[編集 | ソースを編集]
- かつて吹田~大阪間は現在の阪急千里線、阪急京都線経由だったらしい
- 新大阪駅は存在しない。
- 代わりに淡路駅付近に新幹線の駅が開業していた。
- もしくは崇禅寺・柴島駅付近に新大阪駅が出来ていたかもしれない。その場合、柴島浄水場は移転していた。
- 地下鉄御堂筋線が新大阪駅に乗り入れないので、その点では現実より不便だった。
- 御堂筋線の西中島南方と東三国の間には駅が造られなかった。新大阪センイシティも別の場所にあった。
- 東淀川駅も宮原操車場も存在しない。
- 代わりに淡路駅付近に新幹線の駅が開業していた。
- 阪急千里線、京都線の都心側ターミナルはいきなり梅田にできていた。
- 天六にターミナル駅は無し。
- 新京阪線は上新庄からまっすぐ南下し、都島・天満を経て梅田に向かっていた。
- 阪急千里線の十三~豊津間は現実よりも西寄りのルートを通っていた。
- 北大阪電気鉄道は京阪に合併されることはなく、戦前のうちに阪急に合流していた。
- 千里線のルートの一部は現実の東海道線(JR京都線)のルートになっていた(神崎川橋梁付近-現新大阪駅付近)。
- 崇禅寺・柴島駅付近に新幹線の新大阪駅が開業していた場合、堺筋線は新大阪駅(現実の柴島駅)までとなっていた。
- 新京阪線→阪急京都線が上新庄-都島-天満-梅田というルートで既に開通していたので阪急と堺筋線との直通運転はなく、堺筋線の直通相手は南海になっていた。以下、もし大阪市高速電気軌道が○○だったら#南海電鉄と相互直通運転をしていたらを参照。
- 淡路駅は1934年の電化・複々線化に伴う電車運転開始と当時に設置され、下新庄駅はJR化後に設置された。
- 淡路に新幹線の駅が併設されなかった場合は、淡路・下新庄ともに普通電車のみの停車駅であった。
- その場合、淡路駅周辺は史実ほど発展しなかった。
- 淡路に新幹線の駅が併設されなかった場合は、淡路・下新庄ともに普通電車のみの停車駅であった。