「もし阪急宝塚線が○○だったら」の版間の差分
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>生駒線 |
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#*川西能勢口駅が高架化されたのが機に直通運転が開始されたので、それはないと思う。 | #*川西能勢口駅が高架化されたのが機に直通運転が開始されたので、それはないと思う。 | ||
#池田の高架化と同時に高架化された可能性も高い | #池田の高架化と同時に高架化された可能性も高い | ||
#*三国駅の高架化も史実よりも早まっていたかもしれない。 | |||
#こちらもやはり20年早かった場合と同じく宝塚線のダイヤの迷走は回避 | #こちらもやはり20年早かった場合と同じく宝塚線のダイヤの迷走は回避 | ||
#*1990年代には特急の日中での運行が実現していた。 | |||
#朝夕の箕面線直通準急は現在も存在 | #朝夕の箕面線直通準急は現在も存在 | ||
#*箕面線直通電車自体の大幅な減便もなかった | #*箕面線直通電車自体の大幅な減便もなかった | ||
# | #1986年までに豊中駅が高架化していたら、1986年12月のダイヤ改正で全ての急行が豊中に終日停車していた(史実では、1997年11月のダイヤ改正で実現)。 | ||
#1970年の大阪万博が終了後に事業を着手した形になっていた。 | |||
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2021年1月4日 (月) 19:15時点における版
阪鶴鉄道の手で建設されていたら
阪急宝塚線はもともと、JR福知山線の前身となる阪鶴鉄道が国鉄の干渉を受けずに梅田(大阪駅)へ出られるようにと計画した路線で、鉄道国有化後に元阪鶴鉄道の幹部が軌道法準拠に変更して改めて特許を習得、箕面有馬電気軌道として敷設したものでした。
ではもし同線が、国有法交付前の阪鶴鉄道によって開業していたら?
全般
- 開業時の駅は、大阪-三国-服部-岡町-石橋-池田。
阪鶴鉄道がそのまま国有化された場合
- 宝塚、池田、川西、豊中、箕面などの発展はかなり遅れる。片町線沿線同様に昭和後期まで放置されていた可能性も。
- 大阪~宝塚間のメインアクセスは国鉄民営化までは阪急神戸線~今津線がメインとなり、同区間に終日直通急行が運行されていた。
- 阪急神戸線の梅田~西宮北口間は複々線化されていた。
- 大阪~宝塚間のメインアクセスは国鉄民営化までは阪急神戸線~今津線がメインとなり、同区間に終日直通急行が運行されていた。
- 宝塚歌劇団や東宝は存在しない。
- 箕面支線は盲腸線となって昭和後期に廃線。
- 箕面有馬電気軌道も存在しないため、神戸線も敷設されないか、阪神の別線となったかも。
- よって阪神間の独立色は形成されず、埼玉や千葉県民が「~都民」と呼ばれるのと同様、それら住民は兵庫県民でも「~府民」と揶揄されていた可能性がある。
- 片町線と同様、私鉄との競合が無いことから大阪周辺で初期の国電になったかも。
- 福知山線の電化も、早期に宝塚ないし三田辺りまではなされていた。
- 尼崎港支線も電化され、本数は少ないが南武線浜川崎支線のように残っていた。
- 起点は大阪駅12~14線。大阪-岡町-池田-中山寺-・・・が福知山線。
- 能勢電鉄は1067mm軌間となっていた。
- 阪急ではなく西武グループに加わっていた。
- 当初は非電化であったが、福知山線の電化と同時期に電化・複線化され、大阪駅への直通電車が走るようになる。
阪鶴鉄道から分離されて残った場合
- 社名は当初、「池田鉄道」とかになり、後に電化されて「北大阪電気鉄道」(現実の千里線開業会社は当然別社名となる)とでも改称される。
- 川西(後の川西池田)〜宝塚間は敷設されず、よって宝塚の開発はされない。
- やはり宝塚歌劇団や東宝は存在しない。
- 今津線の代わりに塚口〜伊丹〜川西の路線が敷設され、場合によっては能勢電鉄も乗り入れていた。
- 路線名は現実どおり「伊丹線」か?
- 分離・電化の辺りで小林の介入が無ければ、神戸線の敷設はない。せいぜい支線として伊丹・西宮辺りまで伸びる程度。
- 結局は戦時統合で合併させられるが、神戸線の敷設があれば阪急と合併させられて史実とほぼ同じ経過をたどる。もし神戸線が敷設されなかったら阪神と合併させられるか、あるいは阪和電鉄のように鉄道省に買収させられる。
- 能勢電鉄と合併し、当初から梅田〜妙見口駅間が直通していたかも。
- ただそうなると川西能勢口駅の位置も変わってたし、運賃も今の阪急より高かっただろう。
インフラ整備が史実より○○だったら
阪急宝塚線は同じ阪急の神戸線や京都線より混雑率が高かったりします。混雑緩和や利便性向上のために既存インフラの増強や新線の建設などで史実では行われなかったものが行われていたらどうなっていたでしょうか?。線形が悪い路線でもあります。インフラ整備が史実より遅れた場合も想定しましょう。
地下急行線が開業していたら
- 確実に十三~石橋のみの建設となる
- 石橋以遠への建設は明らかな過剰投資とみなされる
- 豊中と蛍池は停車駅に含まれない
- 豊中を通過する急行は現在も存在
- 国道176号線の真下に建設される
- 特急日生エクスプレスもここを通る
- 普通は間違いなく増発される
- 準急も増発される
- 平日夕方の準急は現在も存在
- 土曜休日も朝に限り準急が運転される
- 準急も増発される
- いずれにせよ宝塚本線の混雑は史実より緩和されるだろう
豊中市内の高架化が○○だったら
20年早かったら
- 豊中を通過する急行に史実との変化はさほどないかと
- 普通しか停車しない駅の雰囲気が神戸線の園田によく似ていた
- 宝塚線の最高速度100km/h突破は昭和の間に達成
- 能勢電鉄への直通運転も1985年までには開始できていた
- 平成前期~中期の宝塚線のダイヤが迷走することはなかった
- 通勤特急も設定されなかった
- 快速急行も設定されず
- 昼間が急行(梅田~宝塚)と普通(梅田~雲雀丘花屋敷)の2本立て体制に戻るのは史実より早い。
- 史実で一時あった全ての駅に優等列車が停車するなんて状態は起きたことがない
10年早かったら
- この場合も豊中を通過する急行に史実との差異はさほどない
- 普通しか停車しない駅の雰囲気は池田と似ていた
- 能勢電鉄への直通運転は1987年頃に開始される
- 川西能勢口駅が高架化されたのが機に直通運転が開始されたので、それはないと思う。
- 池田の高架化と同時に高架化された可能性も高い
- 三国駅の高架化も史実よりも早まっていたかもしれない。
- こちらもやはり20年早かった場合と同じく宝塚線のダイヤの迷走は回避
- 1990年代には特急の日中での運行が実現していた。
- 朝夕の箕面線直通準急は現在も存在
- 箕面線直通電車自体の大幅な減便もなかった
- 1986年までに豊中駅が高架化していたら、1986年12月のダイヤ改正で全ての急行が豊中に終日停車していた(史実では、1997年11月のダイヤ改正で実現)。
- 1970年の大阪万博が終了後に事業を着手した形になっていた。
10年遅かったら
- この場合も宝塚線のダイヤの迷走は回避
- 通勤急行と通勤準急は設定されなかった
- 快速急行の設定もなかった
- 宝塚本線の特急は今も存在
- 朝夕の上りと下り2本ずつ程度
- 能勢電鉄への直通運転開始は2007年頃まで遅れた
- 特急系種別は現在まで一貫して池田を通過
- 朝夕の箕面線直通は現在も多数運転
- 箕面線の直通準急は朝夕ともに現在も存在
十三~豊中間が複々線化していたら
- 曽根新線(神崎川~曽根)が開業していた可能性が高い。
- 無論、十三~神崎川間、曽根~豊中間も複々線化されていた。
- 今でも、宝塚線に特急が運行されていた。
- 朝夕ラッシュ時の箕面線直通列車は今でも運行されていた。
三国駅付近の曲線改良が史実よりも早く完成していたら
- 1969年代後半か1970年代前半に着工されていた。
- 阪急新大阪線(十三・神崎川~新大阪~淡路)とセットで整備されていた可能性もある。
- 1981年までに完成していたら、急行の豊中停車が1982年3月のダイヤ改正で実現していた。(史実では、1986年12月に実現した。)
- 同時に三国駅が高架化していたので、スピードダウンをすることはなかった。
- 特急の設定が史実よりも早まっていた可能性が高い。
- 三国駅が島式ホーム2面4線を有する高架駅になっていたかもしれない。
- 三国駅付近にある駅ビルの「Viewl阪急三国」の開業も史実よりも早まっていた。