旧・南北ベトナム
ナビゲーションに移動
検索に移動
- 関連項目:ベトナム戦争
北ベトナム[編集 | ソースを編集]
- 混同されやすいが、現ベトナムとは違う国。
- そもそも最初は共産圏の国になるつもりはなかったらしい。
- 日本はアメリカに先駆けること1973年には、南北統一前から既に北ベトナムを承認していた。もちろん、南ベトナムとの外交関係も維持したまま。
- 鳥取県で言えば因幡。
南ベトナム[編集 | ソースを編集]
- 正式名称は「ベトナム共和国」。
- 分裂国家は、だいたいにおいて社会主義国側の方が評判が悪いが、ここだけは逆。
- 建国から亡国に至るまで、米国の傀儡、独裁政権というイメージがつきまとったままだった。
- サイゴン陥落直前には、多数の難民を米国に空輸し、抵抗組織を存続させようとした。
- 大勢の子どもを載せた輸送機が離陸直後に墜落事故を起こしたこともある。
- 米国には今でも亡命政府がある。
- 当初の国名は「ベトナム国」。阮朝の流れをくむ君主国として発足した。
- 王朝の後ろ盾がフランスだったので、フランス撤退とほぼ同時期に共和制となりアメリカの傘下に入った。
- 国旗がカタルーニャを髣髴とさせるデザイン。
- 阮朝時代の旗に由来するらしい。
- 今でもアメリカのベトナム人社会は反共色が強く、こちらの旗を掲げることがある。
- 3本の赤い縞はそれぞれベトナムの北部、中部、南部を象徴していたがその全てを支配することはできなかった。
- 経済は完全にアメリカなどの援助漬け。
- 政府はカトリックを異常に贔屓していた。
- そのせいで多数派の仏教徒や新興宗教の信者などをことごとく敵に回してしまった。
- サイゴンの都心で仏教僧が焼身自殺したことすらある。
- そのせいで多数派の仏教徒や新興宗教の信者などをことごとく敵に回してしまった。
- 一応日本から旅行も可能だったらしい。
- 東京や大阪にこの国の航空会社が乗り入れていた。
- 大阪万博で「ベトナム館」を出したのはこちら。
- 70年時点で日本はまだ北と国交がなかったため。
- パビリオンは後に広島県湯来町(当時)に移築され89年時点ではまだ地図に載っていた。
- 鳥取県で言えば伯耆。
南ベトナム臨時革命政府[編集 | ソースを編集]
- 今では知られていないが、旧ベトナムは南北2ヶ国ではなくて、南々北3ヶ国に分裂していた。
- ベトコンとか南ベトナム解放戦線(NLF)とか呼ばれるが、正式な国名は単純に「南ベトナム共和国」である。
- サイゴン陥落後、ベトナム民主共和国(北)と南ベトナム共和国(NFL)の2ヶ国がそれぞれの名前で同時に国連に加盟申請したが、両国ともアメリカの拒否権で却下された。
- 日本は北ベトナム、南ベトナムとも国交樹立していたが、NLF政権だけは最後まで承認しなかった。
- 最後まで「臨時政府」という扱いだった。
セダング王国[編集 | ソースを編集]
- かつて、ベトナムの中央部からラオスにかけての地域にセダング王国という幻の国があった。
- 建国は、ベトナム独立のずっと前、19世紀末にさかのぼるからベトナムの独立より遙か以前である。
- フランス人探検家でプランテーション経営者のシャルル=マリー・デビッドが当時の仏領インドシナにあったセダング族の地域に入り、部族の王に祭り上げられたのが発端。
- その後、マリー1世を自称してフランス政府に対し建国を宣言したが、もちろん無視された。
- セダング族長はそれまで阮朝ベトナム王国の家臣ではなかったので、その被保護国であるフランスの支配下にもないというのが根拠。
- しかし、なんとなく王国は継続していたが、2度の世界大戦を経てベトナム戦争に突入したため、セダング族もばらばらになり、王国は消滅状態に。
- 建国者(?)のデビッド王はマレー旅行中に客死した。決闘事件を起こしたとも毒蛇にかまれたとも伝えられている。
- 今もネット上には亡命政府が活動している。