東ドイツ

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東ドイツの噂[編集 | ソースを編集]

  1. 正式名称「ドイツ民主共和国」
    • 西ドイツ側の蔑称は「(占領)地域」="Zone"
      • 日本北海道出身女性アイドルユニット、ゾーンではない。
      • 2chに出てくる珍妙な犬でもない。
      • 「ツォーネ」と発音する。
    • 旧東ドイツ出身者のことをオッシーと呼ぶ。
    • 略称はDDR(Deutsche Demokratische Republik)
      • これのことではない。
        東ドイツ1967年発行記念切手・第15回農業博覧会
  2. 1990年に西ドイツに吸収合併された。
    • 勝者であるはずの西ドイツ人が事あるごとに併合を後悔している。
    • 労働力の質が低いわ、工業力は無いわ、ネオナチは沸くわ…
      • 東側諸国では最優秀の部類だったんだけどねえ。統合後の数年間は、統一ドイツの経済は大混乱になった。
    • フォルクスワーゲンが不正に走ったりしたのも、元を辿ればドイツ再統一の歪みから国の保護が行われたためらしい。
  3. 世界初の人口減少国(戦争・食糧不足などによる一時的な人口の減少を除く)
  4. たいていの物は西ドイツよりも安いが工業製品は別・・・
    • 家賃は収入の5%ほどと激安だったし、食料品や公共交通機関などは政策的に安く抑えられていたので、行列や物不足があったとはいえそれなりの生活水準には達していたのでは?ベルリンの東ドイツ博物館に当時の部屋の展示があるけど、同時代としては結構近代的。
  5. 秘密警察シュタージが常に民衆を監視するために、家族どうしでも反体制的な言動があった場合には密告するよう教育がなされていた。
    • ロシアのプーチン大統領は、KGB時代シュタージの幹部として東ドイツに派遣されていたことがある。
    • 旧東独秘密警察の象徴であるベルリンのホーエンシェーンハウゼン収容所が脅威だった。
    • 石ころ型盗聴器もあった。
    • ただし誰が協力者かは暮らしぶりを見ていれば分かりやすかったとか。
    • いわばゲシュタポとKGBの合いの子。
    • ベルリンにシュタージ博物館があり、実際に使われた盗聴器やカメラ等が展示されている。
    • 実のところ、こうやって国民を監視したり、壁を作ってまで必死に亡命を阻止しようとしていた時点で、共産主義の敗北は明らかだったのである。
    • 盗聴を前提に、会話の端々に「ち〇こ」「ま〇こ」「うん〇」的な卑語をはさんだのは有名な話。
  6. 亡国後、殆どの事物は嘲笑・否定されていったが、ユニークな信号機だけは見事に復活を遂げ、旧西でも人気。
    • 統一直後にはあまりなかった、旧東の事物をなつかしむ風潮が数年前から強まっている。ノスタルジーと東(オスト)をもじって"Ostalgie"(オスタルギー)という。「紙製」トラバントの車体が今も使用されている(エンジンはVWのものに差し替え)のもその現れか?
      • 日本語に無理矢理訳せば「東愁」か…
        • まぁ、この世代の自動車に対する郷愁はトラバントに限ったことじゃないけどね。
      • ただし、オスタルギストはオッシーに限らない。アンペルマンや共和国宮殿の取り壊しなど「何でそこまでするん?」というヴェッシーも多数。
    • 東ドイツは西ドイツよりも「可愛らしさ」のセンスがあったらしい。ザンドマンとか
      • わかる。東ドイツの製品やデザインはシンプルだけど愛らしさがある。
  7. 国歌は西より、かなりかっこいいかつ評判がいい。
    • そしてその国歌は某エロゲーのエロシーンに使われている。
      • しかもそれが使われ続けて18年以上経つ、いやはや恐ろしい話だ
    • とても感動的な国歌
  8. サッカーのミヒャエル・バラックは東ドイツ出身
    • 東ドイツ出身のサッカー選手は他にマティアス・ザマー、ベルント・シュナイダー等。旧西出身者に比べて、テクニックに長けた選手が意外に多い。
  9. 標準ドイツ語の原型となるオーバーザクセン方言が主に使用されていたが、旧西では「東独語」として憎悪・揶揄の標的になっていた。
    • 近縁のはずのベルリン(但し、西)方言の話者からも叩かれていた。
    • これも今は「オスタルギー」で評価が変わってる可能性も…
  10. 東ドイツの名車「トラバント」は紙で出来ていた。
    • 製造当初は樹脂製でかなり先進的な素材を使っていた。紙製と揶揄されるのは東ドイツ経済が崩壊寸前だった1980年代のもの。原料不足で樹脂に紙パルプを混ぜ込んでいた。
    • が、同年デビューした日本の名車と言えばスバル360。屋根はやっぱり樹脂製だったが、トーションバー・サスペンション、横置きリアエンジンレイアウトなど、もっと先進的な技術を採用していた。マイナー・チェンジで分離給油(2ストロークエンジンでオイルと燃料を別々のタンクに給油し、自動的に混合してくれる。トラバントは最後まで燃料とオイルをタンク内に混ぜる混合給油。オイルの混合に偏りが出て焼きつく恐れが高い)も採用。しかも当時日本はまだ工業後進国。やっぱりこの時点で東側の民生技術はダメダメだった。
      • と言うか、もともとトラバントに使われている技術自体が1930年代の最先端技術でしかなかった。
    • トラバントのヘッドライド光軸のハイ/ロー切り替えは一旦車外に出てヘッドライドの横のノブを操作して行う。
    • 未だに旧東ドイツ圏ではトラバントが走っている
      • 日本の、10年落ちぐらいの軽自動車を提供したら喜ばれるんじゃないだろうか? 排気量そんなに違わないし。
      • 排ガス対策でフォルクスワーゲンのエンジンに換装している車体が多数。
      • ベルリンにはトラバントで街中を走るツアーがあったり、チェックポイント・チャーリー付近やDDR博物館などに展示されていたりする。
    • ちなみに1980年代でICを生産できる技術のあった東欧国はソ連と東ドイツだけ。
      • 同じ頃、西ドイツのLSI企業はインテルと大ゲンカ中。
      • もともとアメリカで創業したAMDがドレスデンに工場と研究所を持ってきたため。
        • それはもう少し後の話。この頃Intelは、他社に生産力を依存するセカンドソースを、打ち切り始めたため、世界中で訴訟沙汰になっていた。その1つが、日本のNECと起こした「泥沼のV30訴訟」。
    • トラバントの復活が現在計画されている。
      • 単なる復刻版ではなく、ビートルやFiat500同様の現代ライズされたトラバント。
      • 設計は玩具メーカー。現在、生産するメーカーを探しているとのこと。
      • ホントに出た。しかもなんとEV(電気自動車)!
      • 東西分断時代は、車を注文しても納車に10年以上待ちはザラだった。その為、すぐに入手可能な中古車の方が価格が高かったという。
        • 注文したけど、届く前に東西ドイツ統一により白紙になったって人も多いんだろうなあ。
    • 現在はトラバントのニオイ缶が人気。
  11. 東ドイツの宗教政策に関して。
    • 教会内部での自由は確保されていた。今のところ教会内部のスパイスキャンダルは報告無し。
    • 教会へ通うことは妨害されることも。高校生などが日曜の少年グループ(日本でいうボーイスカウト)に参加せずに教会に通うと、大学入学資格試験の受験資格が剥奪される。
    • 牧師養成も完全に地下活動だった。当時の養成機関は語学学校としてのみ認可されていた。
    • 従って壁の崩壊後、東側の神学者は英雄扱いされた。
    • 崩壊後の方が教会に行く人は減った。崩壊前は集団行動の意識があったのでは?
  12. オリンピックではソ連と並んで驚異的な強さを誇った。
    • ドーピングのおかげである。しかも国家ぐるみで行われていたので質が悪かった。
      • 80年代に西ドイツへ亡命したスキージャンプ選手のアッシェンバッハが内情を暴露し「上からの強制」だった事が判明。
        • しかし西側でも結構やってる事だという。やってないのは日本だけ(それでも種目によっては勝てるんだからすげぇよな)。
          • しかし発覚するのはロシアなど、今でも旧共産圏の国の方が多い気がする。西側の場合は、バックがアメリカのテレビ局だからあまりうるさく言えないのかな?
      • その時期に出された投擲競技などの世界記録は21世紀に入ってからも破られていないものもある。
  13. 東ドイツ軍のヘルメットは何とも言えない独特さがあった。
    • あれは、ヒトラーが戦前に不採用決定したものだそうです。
    • 実際、ドイツ国家人民軍(東ドイツ軍)設立には多くのナチス時代の軍人が関与していたらしい。軍服や行進もどことなく「名残りがあった」とか。
      • うちのオヤジは小学校の頃、ドイツ人の先生(しかも元ナチス軍人!)がいたんだと。日本のだぞ!その先生によくクラスで軍隊式の行進やらされたんだそうな。後で振り返ってみるとその行進もどことなくナチスみたいだったとか言ってた。
  14. 西ではトルコ人が多いが、東が大量に受け入れた外国人労働者はベトナム人。
    • ベトナム系のドイツ人は12万人。トルコ系のドイツ人は270万人。
  15. ホーチミンも東独に訪問し、ベト・ドクちゃんもベトナム、ドイツから名前が由来され、ここで手術された。
    • 2007年にベトちゃんは亡くなりしました。ご冥福をお祈りします。
    • ドクちゃんはコンピュータプログラミングを学び、ツーズー病院の事務員となった。「将来は障害者も働ける旅行会社を設立したい」と言っていた。
  16. ベルリンの壁に対する防衛策しすぎた。壁の設置以外に、地下から穴を掘って逃げる亡命者も探していた。
    • おかげで財政難。そして1989年に消滅。
    • 空から亡命できないようにグライダークラブは全て社会主義統一党傘下団体の指揮下にあった。
    • バルト海の海水浴場のライフセーバーの主な業務には密出国者(泳ぎ・ボートによる)の監視もあったらしい。
  17. メルケル首相は東ドイツ出身でロシア語が得意であり、プーチンは東ドイツ勤務でドイツ語が得意。その影響か仲がいい。
    • でも彼女に言わせれば東ドイツは「不法国家」
    • 正確には西ドイツ(ハンブルグ)生まれの東ドイツ育ち(父親が牧師で異動になり、生後数週間で東ドイツへ)。
    • 東ドイツでは「社会主義の友邦」ということでロシア語が教育課程に組み込まれていた。現在でも旧東独の中高年層にはロシア語が話せる人がいる。
  18. ソ連と東ドイツはあの独ソ戦はなんだったのかと思うほど結構密接だった。
    • 東独は反ファシズムによって樹立された政権だからね。ナチス・ドイツに対する責任を負う立場にないとしていた。
      • しかしやってる事はナチス時代そのまんまだったりする。むしろ酷いか。
    • 東ドイツのホーネッカーとソ連のブレジネフがキスする絵が有名。[1]
      • アッー!
        • ブレジネフとラブラブでノリノリだったがゴルバチョフには振られて国内からフルボッコでアッー!!
    • ロサンゼルスオリンピックはソ連、キューバとともにボイコット。
    • でも過去の経緯からソ連は東ドイツ軍を潜在的脅威と見ていた。一説によると、軍の弾薬や燃料はソ連軍籍のロシア人が管理していたとか(反乱防止の為)
      • 東ベルリンを出てドレスデン方向に向かうと、そこにはソ連の巨大な軍事基地が広がっている。延々と続くアウトバーンの両側にソ連の軍隊が駐屯していた。当然、メルケル首相も当時その様子を目にしていた。壁の近くに出動可能な軍隊を持っていたソ連を、東ドイツの人々は恐れていた。ソ連の強大な軍隊に対する恐怖心は、東ドイツの国民だった人間にしかわからない。軍隊が持つ異様なまでの圧力、恐怖というものは、それを目の当たりにした者でなければ実感できない。あれだけの巨大な軍隊が身近に存在する恐怖。その恐ろしさを肌身に感じていたからこそ、メルケル首相は軍を「出動させなかった」ゴルバチョフ氏に感謝の意を捧げた。
    • それなら飛び地をこの国に返してあげればよかったのに。
  19. 東ドイツはナチスドイツのソ連侵攻から敗戦によって出来たソ連の植民地
    • 東西ドイツは28年分断されており、ソ連侵略の代償大きかった
    • 恨むなら、ソ連に対し悪逆行為をしたヒトラーを憎むべき
    • しかし生活水準はソ連より東ドイツの方が上だったらしい。
  20. 国鉄はDeutsche Reichesbahnと第三帝国時代の正式名称を引き継いでいた。
    • そして今では「Deutsche Bahn」(DB)に分割民営化ならぬ統一民営化が行われた。
  21. 失業者は殆どいなかったとされているが旧東ドイツ時代でも隠れた失業者を含めると失業率は16%はあったのでは?という指摘がされている
  22. ドイツ駐留ソ連軍があった。駐留軍の将兵と東ドイツ市民とが接する機会は少なかった。1945年から始まり1994年を最後に撤退。
    • ドイツ駐留ソ連軍歴代司令官の中でコシェヴォーイはウクライナ人、ヤクボフスキーはベラルーシ人。
      • ちなみに日本がアメリカ(というか在日米軍)に支払っている「思いやり予算」とよく似たものを国家予算から負担していた。
  23. サザエさんそっくりのイラストが描かれた掃除用具がある。
  24. 共産圏内なら、国外旅行が比較的自由に許され、庶民でも夏にゆっくり休暇を取って旅行できた。チェコやポーランド、ソ連、ブルガリアなどが人気目的地。夏は東ドイツ人のトラバントで賑わっていたらしい。
    • ちなみに日本は1964年以降海外旅行は自由だったけど、実際に普通の人が国外に出るようになるのはバブルの少し前くらい。同時代の日本と比べても遜色なかったかも。
    • そもそも東独体制への最大の不満の一つが「自由に国外旅行できないこと」だったもんな。それなりの生活水準がなければ、こんな要求出てくるはずない。
  25. 西ドイツ行の列車に不正乗車する→わざと逮捕される→政治犯として西ドイツへ脱出、という亡命方法があったらしい。
    • このため、西は東にかなりの額を払って政治犯を買っていたとか。
  26. キューバの近くに、東ドイツ亡命政府があるらしい。
    • ただ1ヶ国(それも敵対関係)以外には、どこにも相手にされていない。
  27. 同時代の西と比べて同性愛に寛容だったらしい。
    • 昔のナチスが同性愛者を迫害しまくってたから、その反動かもしれない。
  28. やたら若者のジーンズ着用率が高かった。
    • 需要を満たすため70年代には国内での生産も始まった。
    • 別の分断国家とは違い、アメリカ発祥だからといって排除しなかったんだな。この姿勢の違いがその後の明暗を分けたのかも…
    • そりゃジーンズは「労働者の」服ですから。労働者を排除しちゃいかんでしょ。
  29. インフレ対策のため200マルクと500マルクの紙幣は存在自体秘密扱いだった。
  30. 現在でもこの政府が支配していた地域(+西ベルリン?)をドイツ語で「Ostdeutschland(東ドイツ)」と呼ぶ。
    • 政府を呼ぶ時は「DDR」なので、特に政治的な意味は無いらしい。
  31. 建国当初は社会主義によるドイツの統一を目指していたが、1972年に東西ドイツ基本条約を結ぶと、事実上統一を断念してしまった。
    • しかし、その後20年も経たずに統一が実現してしまった…西側によって
  32. 共産国家としては割りと優秀な経済成長をしていた。
    • これは初代国家評議会議長のウルブリヒトの手腕によるところが大きいと思われる。ウルブリヒトはガチガチのスターリン主義者だったのだが、一方でそれぞれの企業はある程度自己裁量でやらせた方が効率がよいと考えており、上からの完全な計画経済にはしなかった。しかし党内では共産主義的にどうよということで評判が悪く、ウルブリヒト退陣後は普通の計画経済に後退し、共産国家にありがちな停滞への道を歩むことになる。
  33. YouTubeなどでは、80年代の東ドイツがやたらとパンクだった様子が描かれた動画も散見される。文化的抑圧のイメージが強い共産圏としては意外かも。
  34. 旧西ドイツに比べ、小都市でも路面電車が多い。
  35. 外貨獲得手段は、ソ連からライセンス生産したAK自動小銃(Mpi-K)の輸出で、一時期は世界中に出回るAKの1/3が東ドイツ製だったほど。
    • 東ドイツ製AKは丁寧に造られていたので、鉄の国ポーランド製と並んで評判がよかった。
    • しかし、そのせいでソ連製AKがろくに売れなくなったので、AK-74のライセンス契約時に、自国で生産したMPi-AK-74を輸出しないようソ連に約束させられた。
      • しょうがないのでライセンス契約に触れないように、5.56mmNATO弾仕様のWieger自動小銃を造って売り捌こうと企んでいたが、色々やってるうちに国が消滅して全ておじゃん。
  36. 東ドイツでは、自動小銃のことを「短機関銃(Maschinenpistole)」と呼称していた…いやいや、どう見ても短機関銃じゃあないだろ!
    • 自動小銃を示す用語なら既に「突撃銃(Sturmgewehr)」が存在していたものの、これはナチス時代にヒトラーが考えたので、反ファシズムの立場から使えなかったと思われ。
      • 西ドイツ(現在の統一ドイツ)は、単に「小銃(Gewehr)」と呼んでいる。
    • 初期の国家人民軍と人民警察は、ナチス時代のStG44を使っていたが、短機関銃を示す「MPi-44」にわざわざ改名していた。
      • StG44の旧称は、これまた短機関銃という意味の「MP44」だったので、ある意味先祖帰りしたのかも。
  37. 西ベルリンはここ東ドイツにある。東ベルリンも東ドイツにある。というか、あった。

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