もし阪神なんば線が別の時代に全通していたら

2010年3月31日 (水) 12:26時点における>Amberangelによる版 (統合のため一旦コピー)
ナビゲーションに移動 検索に移動

2009年3月20日に開業した阪神なんば線。この路線は戦後すぐに計画され、高度成長期に一部区間の着工までこぎつけたものの沿線の反対により一旦工事が中断され、平成になって第三セクターで工事が再開されるという経緯をたどりました。もし…

昭和40年代に難波延伸を果たしていたら

この路線が予定通り昭和40年代に実現していたらどうなっていただろうかを検証します。

  さくらがわ
桜川
>>>
SAKURAGAWA
おおさかドームまえ {{{back2}}} {{{next2}}} きんてつなんば
  1. 地下鉄千日前線は建設されていなかった。
    • 現実に市は近鉄難波線と競って建設したわけですから、阪神とも競っただけではないかと。
    • 地下鉄今里筋線は今里からは南巽へと曲がって建設された。
    • 四つ橋線難波駅は今も「難波元町」駅のまま。
  2. 阪神なんば線のルートは現実とは異なり、九条から桜川までの間に駅は建設されなかった。
    • しかし1997年の大阪ドームオープンに伴い「大阪ドーム前」駅を新設。
      • 但し場所は異なっていた。
    • 近鉄に配慮して、九条駅に「大阪ドーム前」の副駅名がついた可能性もある。長堀鶴見緑地線開業後はどうなるか分からないが。
    • どっちにしろ大阪近鉄バファローズの観客数は現実より多く、合併は免れ、せいぜい売却で済んだかも。近鉄沿線からもアクセスしやすいし。
  3. 阪神3801系は20m4扉車となり、大量増備されていた。
    • あるいは「2000系」とかいう形式が与えられていた。
  4. 近鉄側は8000系が阪神乗り入れ仕様となっていた。
  5. 千鳥橋駅は2面4線の退避可能駅となり、なんば線内で追い越しが行われていた。
    • 三宮~近鉄奈良間の快速急行は尼崎~大阪難波間で西九条と九条のみに停車していた。
    • 山陽との直通がその分、軽視された可能性も。未だに阪急とも直通していたり…
  6. 阪神・淡路大震災後もJRに客を取られることはなかった。
    • 梅田方面ではなく今では難波方面への輸送がメインになっている。
  7. 村○ファンドによる株買い占めの後、阪急ではなく近鉄と経営統合していた。
  8. 阪神本線の尼崎~西宮間は1980年代に複々線化される。
  9. 近鉄18200・18400系は1976年以降、三宮-賢島の神伊特急に転用されていた(大和八木以東は京伊特急と併結)。
  10. なんば線が開業した直後は三宮~奈良間の直通運転は行われず、阪神側からは当時三宮~西九条間を運行していたN特急を近鉄線内各駅停車で瓢箪山まで延長、近鉄側からは奈良線快速急行が尼崎まで延長運転される。
    • 三宮~奈良間の直通快速急行は1990年代後半に運転開始する。
  11. 阪神春日野道駅の狭いホームを近鉄電車が通過していた。
    • または近鉄乗り入れを機に春日野道駅を大改造していた。
  12. 西九条~九条間の高架区間の防音シェルターは設置されなかった。
    • そのため大阪市内が一望でき、九条手前の地下に潜る部分では前方に地下鉄中央線を見ることができる。
  13. 阪神大震災で、近鉄車両も被災していた。
    • 復旧中は、近鉄から車両を借り受けて運行を行った可能性もある。
  14. そもそも路線名は阪神なんば線ではなかった。
    • 近鉄に倣って「難波線」とするか、あるいは「西大阪線」のままだった。
  15. 加算運賃がなかった。
    • 近鉄難波線同様、90年代までに建設費償還が終わっている。
  16. 阪神タイガースが昭和末期でも大阪球場で公式戦を行っていた(特に夏の高校野球期間中など)。
    • 代わりに西宮球場を利用することが無くなっていた。
  17. 梅田-姫路の直通特急がもっと早く登場していた他、奈良からの快速急行も新開地発着となり、阪急は高速神戸より西に入れなくなっていた。
    • 阪急は市営地下鉄との直通を早い段階で検討し、神戸高速鉄道の高速神戸~阪急三宮間は開業しなかったか、短期で廃線となった。
      • 市営地下鉄との直通が実現していた場合、西灘(現王子公園)~三宮間は新神戸駅経由となり、春日野道駅経由の路線は廃止されていた。
  18. 近鉄難波駅は「近鉄・阪神難波」駅になっていた。
    • あるいは単に「難波」駅になっていたかも。
  19. 初代あおぞら号は山陽乗り入れ対応で製造、播州地域の学生は山陽-(高速-阪神-)近鉄で伊勢方面へ修学旅行に向かっていた。そのため草津線経由修学旅行臨は国鉄時代の早い時期に廃止になっている。
    • 山陽-近鉄による伊勢志摩方面のアクセス強化は草津線の優等列車廃止も早める結果となり、結果草津線は京阪神近郊の通勤路線として早くから発展する結果となる。その為、現在では草津線直通の新快速が運転されているほか、信楽線も3セク化されていない。信楽線脱線事故なんて当然発生していない。
  20. 1980年代前半には近鉄特急の本格的な山陽乗り入れも開始、その後バブルに乗じて乗客数は右肩上がりも、バブル崩壊など不況で衰退に傾く。しかし現在もある程度のフリークエンシー性を保った範囲での本数が確保されている。
    • 阪神大震災の際、神戸高速線は近鉄特急乗り入れの関係で通過できる車両限界に影響を与えない範囲で工事を行なわなければならなかったため、復旧工事はかなりの難工事となった。
      • この事が神戸高速の経営に深刻な打撃を与え、90年代後半には完全な第三種鉄道事業者に転ずる。結果山陽・阪急・阪神間で高速線路線の再分配が行なわれ運賃が安くなっていた。
    • あるいは運賃+料金と所要時間でJR新快速に対抗できないため、これを機に近鉄特急の山陽乗り入れを廃止し、三宮までに短縮されていた。
  21. 南海汐見橋線は現在のような状況にまでは衰退せず、南海電鉄がなにわ筋線に活路を求める事も無かった。なにわ筋線事業がJRの単独で計画が進行していた可能性もある。
    • アメリカ村は桜川駅周辺にまで広がり、桜川が堀江と一体で若者の街として発展していた可能性もある。
  22. 三宮―大阪難波間の所要時間がもっと短縮されていた。
    • 三宮―西九条間にN特急が運行されていた時期、同区間の所要時間は25分であった。西九条-大阪難波間でドーム前と桜川を通過とすると三宮―大阪難波間の所要時間は32~33分くらいだった可能性がある。
  23. ただでさえラッシュ時に混雑する近鉄奈良線の輸送量が限界に達したことから、近鉄東大阪線(現けいはんな線)の生駒以西は1970年代後半には開業していた。
    • 生駒―学研奈良登美ヶ丘間も1990年代のうちに開業。場合によれば当初の計画通り高の原まで延伸されているか、関西文化学術研究都市の中心部への乗り入れを果たしていた。
  24. 1981年の「ポートピア81」の時には近鉄車両もヘッドマークを付けて運行された。
    • 名古屋―三宮間に臨時特急も運転された。

難波延伸が大阪花博と同時期だったら

  1. 阪神8000系は近鉄乗り入れ対応のVVVF車となっていた。
  2. 開業したのがバブル期ということもあり、姫路―賢島間にリゾート特急が運行されていた。
    • 「伊勢志摩ライナー」はこの時に登場していた。もちろん阪神乗り入れ対応。
  3. 奈良-三宮間運転の快速急行は名鉄特急と同じような自由席車6~8両+指定席車2両編成となっていた。

難波延伸が1995年に予定されていたら

  1. 同年1月17日に発生した阪神・淡路大震災により本線が被災し、その復旧を優先したため、難波延伸線の開業は翌1996年にずれ込んでいた。
    • ダイヤ改正(完全復旧)に合わせて、開業日は1996年3月20日に決定。
  2. 阪神9000系は難波延伸線開業と同時にデビューしていた。

難波延伸が1997年の大阪ドーム開業と同時期だったら

  1. 近鉄が奈良線にバファローズ応援列車を運行していた。
  2. 大阪ドームの初年度来場客が現実より多かった。
  3. 阪神9000系は震災廃車の代替新造分を満たして以降も難波延伸・近鉄乗り入れ用として大量に増備されていた。

難波延伸計画そのものが中止されたら

  1. 西大阪線は相変わらずローカル線のまま。
    • 当然路線名の変更もない。
    • いずれワンマン化される。
  2. 尼崎駅の配線も変更されなかった。
  3. 阪神1000系は登場しなかった。
    • 2004年以降も9300系が増備されていた。
    • 9000系の帯の色も変更されず。
  4. 近鉄難波→大阪難波・上本町→大阪上本町の駅名変更も行われなかった。