晋・五胡十六国

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晋の噂(一般)[編集 | ソースを編集]

  1. スパーク一発勝ち逃げで司馬一族が国を作ったが、あっさり滅亡。
    • 司馬一族隆盛のきっかけは臥龍退治。諸葛孔明は一族の恩人。
  2. どさまぎで漢民族以外が乱入してきてぽこぽこ国を建てた。プライドの高い漢民族は未だにこの事実を認められず、胡という文字を使ってさりげにディスっている。
    • なんで胡が・・・ああ、なるほど(変換して気がついた)
    • ちなみに胡はベトナムのことです。
    • え、それは違うだろ。確かに胡ナントカって君主がベトナムにいたらしいけど。
      • ああ、それは胡漢倉ですね。あ、そうそう。ここでトリビア。漢字は実は支那の漢ではなく胡漢倉というベトナム人が開発した言葉なのです。
      • ↑自作自演はすな!
      • よくもまあこんなデマを臆面もなく流せるな。隷書ができたのは胡漢蒼なんかよりも1500年も前。
  3. 実は三国時代に漢民族は大激減していたので、今の中国人(漢民族)はこのとき流入してきた遊牧民の子孫と言える。
    • 遊牧民族が侵入→そのまま定着→子孫がいつの間にか漢民族と同じ文化風俗に染まりきってしる→繰り返し・・・なのが中国史なのだとすれば、漢民族の戦闘力はともかく文化的同化力は空恐ろしい。

西晋の皇帝[編集 | ソースを編集]

武帝[編集 | ソースを編集]

  1. 親父(司馬昭)の敷いたレールの上を走っただけで皇帝に。本人は大した才覚の持ち主でもなかったらしい。
    • 呉と対峙していた将軍・杜預の上表文に曰く……
      「いま呉では暗君(孫皓のこと)が上にいて、人民が疲弊し、怨嗟の声が高まっています。この機を逃さずに攻めるべきです。もし暗君が退位して明君が立ったら、もはや手がつけられないでしょう」
      ぶっちゃけ言い換えれば「呉が立ち直ったら、あんたの手には負えねえよ」
    • 孫皓の後宮に居た三千人の美女を自分のものにし、以後は淫蕩三昧。
      • 武帝は後宮では羊の車に乗り、それが止まったところの女性のもとで、一夜をすごした。そこで宮女たちは、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛って羊の脚を留めることを考えた。これが日本の料亭の「塩盛り」の由来である。
    • 即位して間もなく、邪馬台国の卑弥呼の後を継いだ壱与が使者を遣わしたらしいが、その一度だけであとは記録がない。武帝が頼りにならぬと見て、以後のつきあいをやめてしまったのかも。
    • 何だかんだいって、例え三国が衰退してるとはいえ、武帝が無能だったら三国の統一なんて到底できないとは思うけどね。

恵帝[編集 | ソースを編集]

  1. 暗愚そのものの皇帝。
    • 恵帝の皇太子時代、酔った廷臣が玉座に近づき、「この座がもったいないことでござる」と涙を流したが、武帝はそれを見てもひとことも無かったとか。
    • 百姓が飢えていると聞き、
      「米がないなら、肉でも食べれば良いものを」……
      はるかな後世の、マリー・アントワネットと双璧をなす名言。
      • 双璧っつーか、原典の可能性大。アントワネットの台詞は後世の創作だけど、こっちは史実だし。
        • 19世紀のフランス人が晋史を読んでいたかなあ。「原典」はさすがにないんじゃね?
  2. 皇后は賈氏。色黒でブスでチビで淫乱でヤキモチ焼きと、史書にさんざんな書かれようをしている女性。
    • 宮廷内の権勢争いには勝利したが、八王の乱が起こると真っ先に血祭りに上げられた。
  3. 自分をかばった家臣の血が付いた服を着替えようとはしなかったという美談もあり
  4. 英wikipediaによると今で言うところの発達障害だったようだ。「カエルが鳴くのは鳴きたいからか?それとも朝廷が命令しているからか?」と真面目に聞いたとか。悪人ではなかったのだろうが、何でこんなのを皇帝にしちゃったのか。

懐帝[編集 | ソースを編集]

  1. 劉漢の捕虜となり、下僕の服を着せられて酒宴で給仕させられたが、あんまりこたえていなかったらしい。

愍帝[編集 | ソースを編集]

  1. 首都・洛陽が陥落し、懐帝が連行・処刑されたのを受けて、長安で急遽即位したが、たちまち劉漢軍に包囲され、3年間なすすべもなく、懐帝と同じ運命を辿った酬われない人。

東晋の皇帝[編集 | ソースを編集]

  1. 一部の例外を除いて、短命な人物が多い。
  2. 全体的に皇帝の権力はあまり無く、官僚や軍閥の意向に動かされっぱなしだった。

元帝[編集 | ソースを編集]

  1. 八王の乱を避け、建業(南京)に移って、愍帝の死を受けて即位。東晋の創始者となる。
  2. 武帝の従弟の子なので、けっこう遠い関係。

明帝[編集 | ソースを編集]

  1. 王敦の乱を鎮圧。けっこう出来の良い皇帝だったようだが、28歳で若死に。
  2. 生母は鮮卑族ともいう。碧眼で紫髪で黄髭といえば、呉の孫権に似ている。

成帝[編集 | ソースを編集]

  1. 幼い時に反乱が起こり囚われの身に。しかしすぐに義軍に救い出される。
  2. 豪族らの山川の私有地を禁止。貴族を戸籍に入れたりもした。
  3. が、17歳で死去。

康帝[編集 | ソースを編集]

  1. 兄の後を継ぐ。在位のほとんどを後趙の石虎との戦いに費やす。
  2. 後に実権を握る桓温が頭角を現している。
  3. 在位2年で死去。

穆帝[編集 | ソースを編集]

  1. わずか2歳で即位。母親の褚太后や重臣が政務を担った。
  2. が実権は桓温に。
  3. でもその桓温は成漢を滅ぼし、356年には一時的にではあるが洛陽を奪回。軍事面においてはがんばった。
  4. 数え年17歳で死去。

哀帝[編集 | ソースを編集]

  1. 即位当時から桓温が実権を握っており、傀儡同然。
  2. 不老長寿を求める長生術に没頭し、政務を顧みなかった。
  3. ついには薬の乱用の結果、365年に中毒死した。

海西公[編集 | ソースを編集]

  1. 桓温に廃され、「公」に降格。
  2. 意外としたたかに生き延びる。

簡文帝[編集 | ソースを編集]

  1. 即位後すぐ病気になり、桓温に帝位を譲ろうとするが、謝安らの反対で断念。間もなく死去。

孝武帝[編集 | ソースを編集]

  1. 治世の前半は、謝安の輔佐よろしきを得て大過なく送る。
    • 淝水の戦いでは、前秦の符堅率いる百万の大軍を撃退したほど。
      • もっとも、百万という数字は大いに眉唾。
        • ま、号して百万、と言ったら実質半分いるかも怪しいし
        • 中国の史書で軍勢の数を「号する」と書いてあった場合は、実数はだいたいその半分と見るべきだと言いますな。
        • なおかつ、その中にはたいてい半分、ひどいときには8割くらいの、荷物担ぎやら雑用係など非戦闘員が含まれているので、この時の実質戦力はせいぜい10万程度だった可能性が高い。
  2. 謝安の死後は、弟の司馬道子に輔佐させて親政を始めるが、間もなく政務に飽きて道子に任せっきりに。
    • 司馬道子はここぞとばかりに私腹をこやす。
  3. 酒の席で愛妾をからかったところ、腹を立てた愛妾に布団蒸しにされて殺された。中国史上でも屈指の間抜けな死に方をした皇帝。
    • 「おまえももうトシだなあ。もっと若いのに取り替えなきゃならんかな」と言ったらしい。女性に齢の話をするのは今も昔も危険なものです。

安帝[編集 | ソースを編集]

  1. 重度の精神薄弱。食事や排泄も自力でできなかったという。
  2. 叔父の司馬道子は安帝から帝位を簒奪しようとするが、安帝の弟・徳文(のちの恭帝)がいつも安帝に付き従っていて果たせなかった。
    • 時に安帝17歳、徳文14歳。14歳の少年に妨害されて簒奪を果たせなかった道子って……
    • ちなみに司馬道子は、このあとすぐ、17歳の息子・元顕に要職からひきずり下ろされる。どこまでアホなんだ、このおっさん。
  3. 桓温の息子・桓玄に一度帝位を奪われるが、桓玄の部将・劉裕によって復位。
    • 劉裕はもともと桓玄に敵対していた劉牢之の部将だったのだが、劉牢之に見切りをつけて桓玄に帰順した男。しかし、最初から桓玄を斃すつもりであったらしい。
  4. 14年後、なぜか突然劉裕に暗殺される。劉裕が何やら予言書を読んだせいだったらしい。

恭帝[編集 | ソースを編集]

  1. 兄・安帝の食事の世話、シモの世話まで献身的にやっていたけなげな人。
  2. 劉裕の指示で、安帝の後を継いで即位した時は35歳。この齢になるまで、なんら政治的な行動を起こしていないところから見ると、人が好いだけが取り柄の人だったのかもしれない。
  3. 劉裕への禅譲が既定路線だったので、疑われないよう、妻妾に男子が産まれるとすべて布団蒸しにして圧殺していた。
  4. 禅譲後、自分も布団蒸しで圧殺された。父・孝武帝と同じ死に方だった。
  5. 劉裕はこのあと劉宋の武帝となる。

五胡十六国の噂[編集 | ソースを編集]

前趙の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 西晋を亡ぼしたのは劉漢だが、劉渕・劉聡と続いた後、お家騒動が持ち上がり、結局洛陽と長安を陥とした殊勲者であった劉曜が勝ち残って自分の王朝を作り、国号を趙とする。
    • しかし、有力な部将の石勒が離反し、同じく趙を称した。
    • 趙という国が同じ年に二つできてしまったので、後世の史家は先に亡びたほうを前趙、あとまで残ったほうを後趙と呼んだ。
  2. 劉曜は皇帝になってから堕落して酒色に溺れた。そこへ後趙軍が攻めてきてあっけなく殺された。
    • 皇太子も同じく殺され、前趙はわずか11年で滅亡。

後趙の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 初代皇帝の石勒は、ガクは無かったが耳学問を好み、けっこう歴史などに通暁していた。
    • 特に三国志を好み、「曹操みたいなぶっとんだことはワシにはできん」と言った。
      • 解釈違う。「劉邦に会ったらパシリになりたい。劉秀に会ったらタイマン張りたい。でも曹操、仲達のように 王朝NTRしたヤツ嫌い」
      • 実際は「劉邦はとても敵わないから従う。劉秀は好敵手になるので戦う。曹操や司馬懿は雑魚なんで相手する気にもならん。」と評していて、三国志(正しくは曹操・司馬懿)を嫌っている。
    • 西晋皇族の葬列を襲ってその主力を壊滅させ、高官の王衍を捕縛した。王衍は石勒に「何で国あんな乱れてたんだよ」と尋ねられ、「サーセン、政治のことはよくわかりません」ととぼけたが「は?お前が政治せずに誰が政治してたんだよ・・・クソが」と処刑された。自業自得である。
  2. 二代目の石弘は仁君の誉れが高かったが、石勒の養子だった石虎に殺される。
  3. 石虎は三代目皇帝となる。痛快なほどに粗暴な男。
    • 宮女の首をはねて、生首を皿に載せて肴にしつつ酒を飲んだりした。
    • 残酷な刑罰も大好で、実の子をもむごたらしく殺害。
    • 大建築も大好きで、財政を破綻させた。
    • 墓荒らしも大好きで、あちこちの墳墓を暴いて財宝をかき集めた。
    • ……とまあ、暴君のしそうなことはなんでもやった男だが、意外なほど信心深く、仏教を厚く保護したという一面も。
  4. 石虎の暴政に人心は離れ、その死後間もなく後趙は滅亡。31年もった。

前燕の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 現在の北京附近に、鮮卑族慕容部が建てた国。
    • 当時の北京附近は東北のさいはてみたいな地域で、その辺で力を養って西暦350年頃に中原へ躍り出、後趙を亡ぼした冉魏を粉砕して洛陽附近に居座る。
    • ちなみに冉魏は、後趙の石虎の養子だった漢人・冉閔が建てたが、あまりに短命な王朝だったので、十六国に数えて貰えない。
  2. 一時は華北を統一するかの勢いを得たが、前秦に阻まれ、覇権を賭けて20年くらいにらみ合う。
    • その間に内紛が起こり、そこにつけこんだ前秦に亡ぼされる。
    • しかし、前秦の皇帝・符堅は、前燕の皇帝や皇族を厚遇。このため、前秦が亡びた際に、健在だった前燕の残党があちこちで自立した。
    • 慕容恪が長生きするか、慕容垂が用いられればまだ前秦とタイマン張れただろうに…。

後燕の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 前秦滅亡時に自立した前燕残党のうち最大の勢力。
    • 同時期に西燕という国もできたが、ほどなく後燕に吸収されてしまい、十六国には数えて貰えない。
    • 一度前秦に降った慕容垂が打ち立てた。
  2. 前燕時代よりはだいぶ縮小した国土を15年ほど保持したが、北魏に攻められて一部の領土を奪われる。
    • それがまた辺境ではなく、国土の中央部分だったもので、分断されてしまう。
  3. その10年後、漢人・馮跋に乗っ取られて滅亡。
    • 馮跋は「燕」の国号をそのまま使ったが、史家は別の王朝と見なし、北燕と呼んでいる。

南燕の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 後燕が北魏に攻められ国土を分断された際、孤立した山東地方で皇族のひとりが自立し建てた王朝。
  2. 12年間頑張ったが、東晋の劉裕(のちの宋の武帝)に亡ぼされる。

北燕の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 後燕の重臣だった漢人・馮跋が後燕を乗っ取って作った王朝。
  2. 27年間頑張り、北魏に亡ぼされる。

前秦の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 青海地方に棲息していた氐族が建てた政権。
    • 最初前趙に従い、その滅亡後は後趙に従い、その滅亡後は東晋に属していたが、そのうち人に従うのがアホらしくなって自立した。
  2. 来る者を拒まないおおらかさがあったせいか、急激に膨張、華北の覇権を賭けて前燕とにらみ合う。
  3. 初代の息子・苻生は幼き頃より隻眼でかなりやんちゃ(いや、やんちゃというレベルではない、織田信長のやんちゃぶりがまだかわいいレベル)で、祖父に嫌われた(祖父は暴走する彼に対して「万死に値する」というが、彼の叔父に止められた)。その後、帝位につくが…人殺しは日常茶飯事だったようで、アルハラ(酒飲みを強要、飲んでいない部下を殺害)でもあった。結局、(犬猿の仲であった)従弟の苻堅に殺された。
  4. 3代目皇帝・符堅の時に前燕を亡ぼし、一旦華北を統一。前燕の皇族や人臣も大いに厚遇。それどころか、氐族と居住地を入れ替えたり通婚を奨励したりした。
    • 符堅という人、相当な理想主義者だったらしい。
      • 正しくは「苻」堅。
    • 漢人・王猛を重用し、理想主義的な政策を次々と断行。
    • が、王猛の死後は理想主義が空回りし始め、だんだん空想的になってゆく。
    • 中国全土を統一する使命をおびていると思いこみ、諸民族混成の大軍を催して東晋を攻めるも、淝水の戦いで大敗。
      • せっかく統一した華北もこれで瓦解してしまった。このあと何人か皇帝が続くが、もはやかつての勢いはなく、首都長安もやがて羌族の姚萇に乗っ取られ、滅亡。

後秦の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 前秦を乗っ取った羌族の姚萇は、「秦」の国号を継承したが、史家は別の王朝とみなし、「後秦」と呼ぶ。
  2. 長安附近を版図としていたため、けっこう栄えたが、東晋の劉裕(のちの宋の武帝)に亡ぼされる。
    • ところが、劉裕は後秦王朝を亡ぼしただけで、なぜか長安附近を制圧することなく、東晋に帰ってしまう。

西秦の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 前秦が姚萇に乗っ取られた際、姚萇に従うのを拒んだ鮮卑族乞伏部が独立してやはり「秦」を名乗った。これが西秦。
  2. 下記の夏に亡ぼされる。

夏の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 後秦が劉裕に亡ぼされたあと、劉裕はそのあとをほったらかしで帰ってしまったので、空白地帯となった長安附近に、オルドス地方を本拠としていた匈奴赫連部が入り込んで王朝を建設。これが夏。
    • 弱小民族のくせに「中華」とほぼ同じ意味を持つ「夏」を国号にするとは大それた話である。
  2. 西秦を亡ぼして領土を拡げたが、その隙を鮮卑慕容部の一派である吐谷渾に突かれて自分も滅亡してしまった。
    • 吐谷渾はなぜか王朝と言うほどのものを作らず、そのうち北魏に追い散らされてしまった。

成漢の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 劉漢が興った頃に、西晋から分断されてしまった四川地方で、李特が建てた王朝。
  2. 三国時代の蜀漢と同じくらい(43年)保ったのに、この国について知られることは少ない。
  3. 東晋の桓温に亡ぼされた。

前涼の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 劉漢が興った頃に、西晋から分断されてしまった西域で、張軌が建てた王朝。西域で興亡したいわゆる「五涼」の最初のもの。
  2. 辺境だけに侵略されることも少なく、59年間存続したが、前秦に亡ぼされる。

後涼の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 淝水の戦いで前秦が敗れ、あちこちで叛乱が起こり始めた頃、一部の氐族が西域に逃げてきて建てた王朝。
  2. よほどまとまりが悪かったのか、10年ほどすると北涼と南涼が、次いで西涼が自立してしまう。痩せ細った後涼は、ほどなく後秦に吸収されて亡びた。

北涼の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 後涼から自立した小王朝その1。
  2. 西涼を吸収して少しだけ大きくなったが、北魏に亡ぼされた。

南涼の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 後涼から自立した小王朝その2。
  2. 西秦に亡ぼされる。

西涼の噂[編集 | ソースを編集]

  1. 後涼から自立した小王朝その3。
  2. 北涼に吸収されて亡びる。
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