高校野球/大会別

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1970年代[編集 | ソースを編集]

1976年春[編集 | ソースを編集]

  1. 30校のうち13校は初出場であり、初出場が多かった。
  2. 鉾田一の戸田秀明選手がノーヒットノーランを達成した。

1976年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 桜美林が初出場・初優勝した。
    • 東京勢として60年ぶりの優勝だった。
    • 桜美林の校歌が話題となった。
  2. 1点差や2点差の接戦が多かった。

1977年春[編集 | ソースを編集]

  1. 初出場の中村が部員12人で準優勝した。
    • 「二十四の瞳」と称された。

1977年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 2023年現在選抜優勝最多の東邦が唯一夏の大会決勝に進出した
    • 東邦の1年生投手坂本佳一はバンビと呼ばれた。
  2. 決勝はサヨナラホームランで決着した大会。
  3. 2回戦は早稲田実と桜美林の東京対決があった。
    • 4-1で早稲田実が勝利し、桜美林の夏連覇を阻止した。

1978年春[編集 | ソースを編集]

  1. 前橋の松本稔が春夏を通じて史上初の完全試合を達成。
  2. 決勝は浜松商と福井商の前評判が高くなかった学校同士の対戦となり、浜松商が2-0で勝って初優勝。
    • 現時点で商業高校同士の決勝戦は春夏を通じてこれが最後。

1978年夏[編集 | ソースを編集]

  1. この回から現在に至る49代表制となった。
  2. PL学園が初めて優勝した。
    • 準決勝の中京戦は0-4とリードされながら9回裏に追いつき延長12回にサヨナラ、決勝の高知商戦は0-2の9回裏に3点取って逆転サヨナラと連続の逆転劇で、「逆転のPL」と呼ばれるようになる。
  3. 現時点で「四国四商」が揃って出場した唯一の大会。
  4. 後に優勝投手となる箕島・石井、高知商・中西、横浜・愛甲がこの大会で登板していた。

1979年春[編集 | ソースを編集]

  1. 牛島-香川のバッテリーを要する浪商が有力候補だったが、決勝で箕島に敗れた。
    • 決勝では、箕島の四番・北野が選抜史上初のサイクルヒットを達成した。
  2. 2時間未満で終了した試合が1試合しかなかった。
  3. ベスト4を近畿勢が独占した。

1979年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 3回戦の星稜vs箕島は延長18回に及ぶ名勝負として知られる。
  2. その箕島が春夏連覇を達成した。公立高校としては唯一である。
  3. 浪商の香川が春夏を通じて史上初の3試合連続ホームランを打った。
  4. 比叡山が滋賀勢として夏初勝利。これで夏未勝利の都道府県がなくなった。

1980年代[編集 | ソースを編集]

1980年春[編集 | ソースを編集]

  1. 接戦が多く、全29試合中15試合が1点差だった。
  2. 決勝は中西清起の高知商と伊東昭光の帝京の対戦となり、高知商がサヨナラ犠牲フライで初優勝。

1980年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 荒木大輔が初登場した大会。
    • 準決勝まで44回・3分の1を無失点に抑え、決勝の初回が無失点なら大会新記録であったが、2点取られてしまい、惜しくも新記録ならず。
  2. 決勝は荒木の早稲田実と愛甲猛の横浜の対戦。投手戦が予想されたが、打撃戦となり、愛甲も荒木も途中降板する展開。結局、序盤のリードを守り切った横浜が京浜決戦を制した。
  3. 準決勝の第二試合が雨のため一日順延された。
    • 準決勝の第一試合も激しい雨の中での試合だった。
  4. ただでさえ珍しい両軍無三振試合が2試合も生まれた。ちなみにいずれも浜松商がからむ試合。
  5. 札幌商チアガールの露出度の高いコスチュームが話題に。

1981年春[編集 | ソースを編集]

  1. PL学園が選抜初優勝。決勝の印旛戦は3年前の夏を彷彿とさせる逆転サヨナラ勝ち。
    • 中村監督はこの大会が初の甲子園采配だった。
  2. 荒木の早稲田実は東山に逆転負けし、初日に姿を消した。

1981年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 金村義明がエースで四番の報徳学園が決勝で京都商との近畿対決を制し、夏初優勝。
    • 早稲田実の荒木大輔、今治西の藤本修二、名古屋電気の工藤公康と後にプロで活躍する投手を次々に倒した。
  2. 名古屋電気の工藤公康が長崎西戦で夏の大会では金属バット導入後初となるノーヒットノーランを達成。
  3. 3回戦8試合中5試合が延長戦でのサヨナラゲームだった。

1982年春[編集 | ソースを編集]

  1. PL学園が史上2校目となる春連覇。
  2. 中京が春夏通算100勝を達成。
  3. 4度目の甲子園となった早稲田実の荒木は、準々決勝で横浜商に敗れた。
    • ちなみに横浜商のキャプテンは、後にヤクルトでチームメイトとなる荒井幸雄だった。

1982年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 「山びこ打線」の池田が初優勝。
    • 準々決勝では最後の夏だった早稲田実・荒木相手に14点と粉砕。
    • 決勝ではそれまでの高校野球らしい緻密な野球で知られた広島商相手に1回から6点をたたき込んで勝負を決め、12-2と圧勝。
  2. 1回戦の佐賀商業vs木造戦は佐賀商の新谷博が9回二死までパーフェクトに抑えたが、27人目の木造の代打・世永幸仁にデッドボールを与え完全試合を逃してしまった。
    • ただ次のバッターはきっちりと打ちとってノーヒットノーランは達成している。
    • 木造は青森代表だが、実は前年の青森代表の東奥義塾は初戦で鳥取西の田子譲治に「初回先頭打者の内野安打のあとは一人の走者も出せず」の1安打完封負けを食らっていたため、青森代表は2年越しで53人連続アウトというとんでもない記録を作っていた。
  3. 2回戦の益田vs帯広農戦で「4アウト事件」が起きた。

1983年春[編集 | ソースを編集]

  1. 55回大会を記念して出場校が2校増えて32校に。翌年以降出場校が正式に32校となり、以後定着する。
  2. 前年夏優勝の池田が盤石の強さを見せ、史上4校目の夏春連覇を飾る。
  3. 享栄の藤王が11打席連続出塁の大会記録を樹立。

1983年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 池田の夏・春・夏の3期連続優勝なるかに注目が集まったが、準決勝で当時1年生の桑田・清原のいたPL学園に阻止された。
  2. PL学園は決勝でも横浜商を下し、2度目の夏優勝。
  3. 横浜商は春夏連続で開幕戦に勝利しての準優勝だった。

1984年春[編集 | ソースを編集]

  1. この大会から甲子園のスコアボードが電光掲示板となる。
  2. 出場32校中16校が初出場だった。
  3. 決勝では岩倉が山口重幸の好投で夏春連覇を目指したPL学園を破り初出場初優勝を飾った。
  4. 大会記録を大幅に更新する30本のホームランが出た。この記録はいまだに破られていない。
    • 開幕戦の1回表にいきなり先頭打者ホームランが出た。
    • 佐賀商vs高島戦では、満塁からのエンタイトル二塁打が誤審により満塁ホームランと判定される事態が発生。
      • この試合がきっかけで、打球を見やすくするため、ラッキーゾーン後方のフェンスに掲げられていた歴代優勝校の校章入り校名板が外されることとなった。
    • PL学園が砂川北戦で6ホームランを放つ。
  5. 拓大紅陵vs法政二戦後の校歌斉唱の際、負けた法政二の校歌が流された。
  6. 大会期間中の1984年4月1日に明徳の校名が明徳義塾に改称された。
  7. 大船渡高校が旋風を起こした。

1984年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 全体的に打高気味の大会で、大会14日間の全ての試合でホームランが記録された。
  2. 決勝戦は大会2連覇を狙うPL学園を名将・木内率いる取手二が下して茨城県勢初優勝。
    • 取手二高ナインは大会期間中に須磨海岸へ遊びに行った。
  3. 1回戦の法政一vs境戦では境の安部選手が10回2死まで法政一打線をノーヒットに封じたが、法政一の末野選手に投じた124球目をラッキーゾーンに運ばれまさかのサヨナラ負け。

1985年春[編集 | ソースを編集]

  1. KKコンビが決勝進出できなかったのはこの大会だけ。
  2. 準決勝でKKコンビのPL学園を破った伊野商が初出場初優勝。エースは後に西武で活躍する渡辺智男。
  3. 開幕が2日連続雨天順延され、決勝が3日遅れの4月7日にずれこむなど、雨にたたられた大会だった。
  4. 延長戦がなかった。これは13年ぶりのこと。
  5. 夏の東海大山形戦が言われることが多いが、清原の甲子園初登板はこの大会の浜松商戦である。

1985年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 前年は決勝で苦杯を舐めたPL学園が見事にリベンジ。桑田・清原は最後の夏の甲子園を有終の美で飾った。
    • 1回戦東海大山形戦では29点を挙げた。あまりの大差に最後の方は清原がマウンドに上がったほど。
      • この試合は高校野球で唯一毎回得点を記録した。
    • この大会の決勝を最後に、夏の決勝のサヨナラ決着はない。
  2. PLばかりに目が行きがちだが、決勝まで進んだ「ミラクル宇部商」こと宇部商業や、佐々木主浩がエースだった東北をサヨナラ勝ちで下し旋風を巻き起こした甲西も忘れ難いチーム。

1986年春[編集 | ソースを編集]

  1. 優勝は徳島の池田だったが、それ以上に強烈な印象を残したのが富山の新湊。
    • 1回戦の享栄戦は投手戦を制し、2回戦の拓大紅陵戦は6回裏に6点を取って逆転勝ち。
    • 準々決勝の京都西戦は延長14回の熱戦を制し初出場ながらベスト4に進出。
    • 準決勝の宇都宮南戦こそ延長戦の疲れが残り3-8で敗れたが、それでも富山県勢としては春夏通じて初のベスト4進出となった。
  2. KKが卒業したPL学園も出場したが、初戦で前年圧勝した浜松商にリベンジを許した。

1986年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 松山商の水口栄二が1大会個人19安打の大会記録を樹立。現在でもこの記録は破られていない。
    • 2017年に広陵の中村奨成が19安打を放ってタイ記録となった。
  2. 拓大紅陵が49番目に登場した学校として初勝利を挙げた。
  3. 決勝で水口の松山商を下した天理が奈良勢として春夏通じて初優勝。

1987年春[編集 | ソースを編集]

  1. 野村、橋本、立浪、片岡と後にプロで活躍するタレントを揃えたPL学園が3度目の選抜優勝。
    • 3人のエースによる継投策は当時は画期的だった。
    • 前年秋は府大会も近畿大会もベスト4どまりだったため、大会前の下馬評は決して高くはなかった。
  2. 京都西・上羽主将の英語を交えた選手宣誓が話題に。
  3. 八戸工大一が青森勢としては1969年夏の三沢以来の甲子園勝利。
  4. 後に強豪となる常総学院が甲子園初出場を果たしたが、東海大浦安の出場辞退による繰り上げ出場だった。

1987年夏[編集 | ソースを編集]

  1. PL学園が1979年の箕島以来、史上4校目の春夏連覇。
    • 初戦の中央戦で一度リードを許したものの、すべて初回に先制するなど盤石の強さだった。
    • 決勝の相手は今大会で甲子園初勝利を挙げた木内監督率いる常総学院。3年前に木内監督率いる取手二に決勝で敗れた中村監督にとってはリベンジを果たした格好になった。
    • この大会以降PL学園の甲子園優勝はない。
      • 2017年に高野連を脱退したため、これが最後の優勝となる可能性が高くなってしまった。
  2. 帝京の芝草宇宙が2回戦の東北戦でノーヒットノーランを達成。
  3. 1回戦の東海大山形vs徳山戦で、9回2アウトピッチャーゴロで試合終了と思いきや悪送球で同点、そして逆転というまさかの展開に。

1988年春[編集 | ソースを編集]

  1. 60回記念大会のため、出場校が2校増えて34校に。
  2. 「牛鬼打線」の宇和島東が初出場初優勝。
    • 準々決勝の宇部商戦は9回裏に3点取って逆転サヨナラ勝ち、準決勝の桐蔭学園戦は延長16回の死闘を制し、下馬評では不利だった決勝でも観客の後押しもあって6-0で快勝、まさに破竹の勢いでの初優勝だった。
  3. 3回戦の中京vs宇部商戦で球史に残る逆転ドラマが生まれた。
    • 中京のエース・木村龍治が宇部商打線を9回表1アウトまでパーフェクトに抑えていたが、26人目の打者に一、二塁間にヒットを打たれて完全試合の夢が断たれ、バントで送った2アウト2塁から宇部商の一番・坂本にレフトラッキーゾーンに逆転2ランを打たれ、勝利すら逃してしまった。
    • 宇部商は初戦の堀越戦でも9回表2アウトランナー無しから追いつき延長戦で勝利するなど、「ミラクル宇部商」にふさわしい活躍ぶりだった。
      • 前述のとおり、準々決勝の宇和島東戦では2点リードの9回裏に3点取られて逆転サヨナラ負けを喫した。
        • 宇部商は甲子園では先攻を取ることが多く、9回表に多くのミラクルを起こす一方で、この試合のほか1985年夏決勝のPL戦、1998年夏の豊田大谷戦のサヨナラボークなど、印象に残るサヨナラ負けを喫している。
  4. 北陽高校に「太田孔史郎信忠」という選手がいた。この2年後の春には弟の「太田平八郎忠相」という選手も。 甲子園大会史上最強の珍名(下の名前)ではなかろうか?

1988年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 昭和では最後の甲子園大会となった。
  2. 開会式で浩宮さま(現在の天皇陛下)による始球式が行われた。
    • この時打席に立ったのが当時常総学院2年生の仁志敏久だった。
  3. 大会史上初めて近畿勢と四国勢がベスト8に残れなかった。
  4. 波乱の大会を制したのは古豪・広島商。当時の大会記録となる26犠打を駆使して、川崎憲次郎の津久見や、前田幸長&山之内健一の福岡第一といった大型チームを倒し、金属バットによるパワー全盛の時代に一石を投じた。
  5. 1回戦の滝川二vs高田戦は、56年ぶりとなる降雨コールドゲームとなった。

1989年春[編集 | ソースを編集]

  1. 元号が平成となって初めての甲子園大会。
  2. 前年の決勝で涙をのんだ東邦が、逆転サヨナラで上宮を下し、48年ぶり4度目の選抜制覇。
    • 高校野球史上に残る残酷な幕切れだった。

1989年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 準優勝の仙台育英、ベスト4の秋田経法大付、弘前工も青森勢として太田幸司の三沢以来の夏勝利を挙げるなど、東北勢の健闘が光った大会。
  2. 優勝は帝京。それまで春は二度の準優勝を経験していたが、夏は初の決勝で頂点に立った。
  3. 2回戦は三重海星と長崎海星による2回目の同一校名対決があった。

2020年代[編集 | ソースを編集]

2020年[編集 | ソースを編集]

  1. 新型コロナウイルスにより初の春夏連続中止となった。
  2. 夏に選抜の代わりに交流試合が甲子園で行われた。
    • その交流試合で履正社VS星稜が3大会連続対戦するという因縁となる。

2021年春[編集 | ソースを編集]

  1. 2年ぶりの開催となった。
    • 令和初の選抜大会となった。
  2. 明治神宮大会中止により、21世紀枠が4枠となった。
  3. 入場行進曲は前年使用予定だった「パプリカ」が使用された。
  4. 京都国際の韓国語校歌が物議を醸した。

2021年夏[編集 | ソースを編集]

  1. こちらも2年ぶりの開催となった。
  2. 新型コロナウイルスの集団感染で宮崎商と東北学院が途中辞退した。
    • 宮崎商は甲子園で試合ができなかった。
      • 地方大会では春夏連覇がかかっていた東海大相模や星稜などが途中辞退した。
  3. 長雨による順延が多かった。
    • 決勝は史上最も遅い8月29日に行われた。
      • 大阪桐蔭対東海大菅生戦は8回降雨コールドとなった。これが翌年継続試合が導入されるきっかけとなった。
      • 同年は東京五輪(前年のものが1年延期)が開催された関係で開幕が例年より少し遅かった(8月9日)というのもある。
  4. ベスト8は8校とも西日本の学校だった。
    • ベスト4は全て近畿勢が独占。
  5. 決勝は智弁学園と智弁和歌山による智弁対決となった。
    • 智弁和歌山が優勝した。また、昨年冬に智弁和歌山を指導したイチロー氏から祝福のメッセージがあった。
  6. 福島県代表は日大東北。実に15年ぶりに聖光学院以外の学校が福島県代表となった。
  7. 1回戦の小松大谷VS高川学園は高校野球史上最も遅い21:40に試合が終了した。

2022年春[編集 | ソースを編集]

  1. 東海大会準優勝の聖隷クリストファーが選ばれず、ベスト4の大垣日大が選ばれるという問題があった。
  2. 出場するはずだった京都国際が新型コロナウイルスで出場辞退し、補欠だった近江が出場し準優勝した。
  3. 大阪桐蔭が1試合最多塁打(43本)、大会最多本塁打(11本)の記録を残し優勝。
    • 大阪桐蔭は当時セ・リーグ最下位だった阪神タイガースよりも強いのではと言われた。
      • かと言って夏も優勝することは叶わなかった。これが高校野球の面白いところ。

2022年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 仙台育英が東北勢初優勝。夏の高校野球104回目にしてようやく白河の関を越えた。
    • 決勝後の須江監督のインタビューで、「青春ってすごく密なので」が話題となった。
      • 流行語大賞にも選ばれた。
  2. 夏弱いと言われた愛工大名電が41年ぶりにベスト8に進出した。
  3. 聖光学院が初めてベスト4に進出した。
    • また、2回戦で聖光学院が横浜に勝利し、初めて福島勢が神奈川勢に勝った。
    • 優勝した仙台育英も含めベスト4に東北勢が2校も残った。
  4. 地方大会を含めて番狂わせが多かった。
    • その一つとして下関国際が、最強と言われた選抜優勝の大阪桐蔭や選抜準優勝の近江を破り、準優勝した。
      • 春優勝の大阪桐蔭は準々決勝の下関国際戦でトリプルプレーを喫した。
  5. 九州学院にはヤクルトの4番村上宗隆の弟が出場していた他、愛工大名電にはかつて中日に在籍していた岩瀬仁紀の息子が出場していた。

2023年春[編集 | ソースを編集]

  1. 大会期間中、WBCが開催されており、甲子園で高校野球と同時にWBCも見ている人がいた。
    • 龍谷大平安対長崎日大の試合中に、日本がサヨナラ勝ちした時、甲子園で観客がざわめきだした。
    • 常葉菊川対専大松戸の試合中に、日本が優勝し、スコアボードに祝福のメッセージが表示された。
  2. 山梨学院が山梨県勢初優勝。これで関東勢1都7県全て甲子園で優勝達成。
    • 山梨学院の吉田監督は、WBCで日本が優勝した年に決勝進出(2006年と2009年は清峰で決勝進出)というジンクスが生み出された。
      • 吉田監督は、原貢氏(三池工と東海大相模)、木内幸男氏(取手二と常総学院)、上甲正典氏(宇和島東と済美)に次いで、史上4人目の2校を甲子園優勝に導いた監督となった。
    • 4大会連続で初戦3-1で勝利した学校が優勝した。
  3. 開幕戦で東北高校の選手がペッパーミル・パフォーマンスをし、審判に注意された。また、物議を醸した。
  4. 慶応は清原和博の息子が出場した。
  5. 準優勝は報徳学園。決勝戦では過去3戦全勝だったが、春夏通じて初の準優勝となった。
    • 準々決勝では夏春連覇を狙った仙台育英、準決勝では春連覇を狙った大阪桐蔭に勝利している。
  6. この大会から、延長戦突入と同時にタイブレークとなった。

2023年夏[編集 | ソースを編集]

  1. この大会から熱中症対策として5回終了後に10分間のクーリングタイムが導入された。
    • しかし、クーリングタイム終了後に足を攣るなど、途中交代が相次ぎ、賛否両論となった。
    • そのためか、例年に増して夜間に試合時間がずれ込むことが多かった。
      • 試合終盤での大逆転などの番狂わせも少なかった。
  2. 慶応が103年ぶりに決勝進出し、107年ぶりに優勝した。
    • 107年は高校野球全て記録において史上最長ブランクと思われる。
    • 決勝では史上初の先頭打者ホームランを放った。
    • 一部メディアが慶応を贔屓し、批判殺到。
    • 慶応の応援がすごかった。
      • 一時、「応援のせい」がトレンドになった。
    • 慶応には清原和博の息子がおり、親子で甲子園優勝を成し遂げた。
      • それとともに創成館(長崎)にはかつて横浜や楽天で活躍した福盛和男の息子も出場していた。
  3. 優勝の慶応をはじめ、丸刈りじゃない学校が増えた。
    • ベスト8のうち3校は非丸刈り。
  4. 仙台育英は史上7校目の夏連覇を狙ったが、あと一歩及ばず。
    • 須江監督の「人生は敗者復活」発言も話題になった。
  5. 準優勝した仙台育英を含めてベスト8に初めて東北勢が3校残った。
    • しかし、東北勢同士の対決が3回もあった。
    • 逆に近畿勢はベスト16で全て敗退した。
      • 四国勢も2回戦までに全校敗退。全体に東高西低だった。
  6. おかやま山陽は日大山形・大垣日大・日大三の日大系列校と3回連続で対戦し、いずれも勝利したことから日大キラーと呼ばれた。
  7. 北信越勢が33年ぶりに5校とも初戦敗退。
  8. 公立校は3回戦を前に全滅した。
    • 公立校がベスト16に残れなかったのは春夏を通じて初めてだった。
  9. 北海道勢は29年ぶりに2校とも初戦突破。
    • 北北海道のクラーク記念国際は通信制の学校として初めて甲子園で勝利した。
  10. 初出場の高知中央や浜松開誠館の校歌が話題となった。
  11. 終戦記念日(8月15日)の試合が台風接近で中止になったため、正午に鳴るサイレンを聞くことができなかった。
  12. 応援で「盛り上がりが足りない」が流行った。
    • 慶応は監督の名前から「もりばやしが足りない」だった。
  13. 全国高校野球選手権大会は、過去105回で、豊中グラウンド→鳴尾球場→阪神甲子園球場で行われているが、その3会場すべてで決勝に進んだのは慶應義塾が初めて。

関連項目[編集 | ソースを編集]