コンテンツにスキップ

もし大坂の陣が○○だったら

豊臣方が勝っていたら

[編集 | ソースを編集]
  1. 徳川家康を討ち取っていたら可能性があるかも。
    • 家康が討ち死にしても秀忠が討ち死にしない限りはそう変わらないはず。また秀吉と違って家康には一門衆も譜代も多いので秀吉死後のようにはならない。
    • 仮に家康・秀忠共に討ち死にで本能寺の変後の織田家みたいなった場合、伊達政宗が娘婿の忠輝を担いでなんかやる可能性は無きにしも非ず。
      • まあでも、結局は竹千代(家光)が継いでなんとかなりそうな気はするけど。
      • 「長子の子が継ぐべきだ」と、秀康の子忠直を担ぎ上げる勢力もいそう。まあ三河武士軍団であればそう分裂はしなさそうだが。
      • 結局家光派と忠長派で家臣が分裂してしまう。
  2. 最初のうちは勝利を重ねるが、徐々に劣勢になる。
    • おそらくどこかで講和がなされていた。特に1のように家康が戦死するようなことがあった場合は。
関連項目

豊臣方で参戦する大名がいたら

[編集 | ソースを編集]
  • 豊臣秀頼は全国の大名に檄を飛ばしたそうですが、無視されたそうです。
    • なおこの頃豊臣恩顧も清正ら多くは鬼籍に入っており、生存していた福島正則は警戒され過ぎたあまり江戸に留守を命じられました(但し正則の弟が内通したとして後に改易処分となっています)
  1. 間違いなく改易されていた。
    • 場合によっては名跡存続すら許されなかった。
    • 長宗我部盛親や古田織部のように処刑or切腹になっていたかも。
  2. 譜代あたりが寝返ったとなれば大さわぎになりそう。
  3. この時徳川内部の対立が徳川一門を巻き込んで大坂の陣の同時期に発生していた。
    • つまり、徳川VS豊臣ではなく、徳川VS徳川の戦いに豊臣やその他大名が介入もしくは巻き込まれた可能性が高い。
      • 大坂の陣は後世慶長の乱と呼ばれる全国的内戦の一会戦となっていた。

豊臣方から寝返った武将がいたら

[編集 | ソースを編集]
  1. 大坂城の落城が早まっていた。
    • 実際に寝返った武将はいる。ただし、即粛清されたうえにその寝返りを逆に大阪方に利用された。

回避できていたら

[編集 | ソースを編集]
  • 豊臣家は大阪の役の際、浪人の追放や大阪城を出て大和郡山に国替えするか、江戸に上るか、淀殿を人質として差し出すことを条件を突き出しましたが、豊臣家が断固拒否したために大阪の役で滅ぼされてしまいました。
  • もし条件をすべて呑んで、せめて織田氏や足利氏のように、小藩ながらも生きながらえてたらどうなっただろうか?
  1. 淀殿の評価はガラリと変わっていた。
    • おそらく淀殿は1615年まで生存していない。遅くとも史実で家康が幕府を開いた頃までに死亡し、片桐且元が豊臣家の主導権を握っていただろう。
      • いや、前提条件の大阪の役が1614~15年で、家康が幕府を開いたのは1603年なのでこの「もし…」に合わないぞ。
        • 史実で大阪の役が起きた1614年か1615年の段階で淀殿が故人となっていなければ豊臣家の存続は不可能だったと思います。(by2つ前の書き込みをした人)
  2. さらに小藩に飛ばされる(九州の小さな藩とかに)
    • 三池藩とか。
      • この場合、島原の乱ときに乱の首謀者と決め付けられて結局攻め滅ぼされていた可能性もある。
        • 本当に首謀者になっていた可能性もあるが。
    • 江戸から近い房総や常陸じゃないかな?
    • 喜連川藩みたいに「十万石格(実際の石高は一万石未満)」の扱いになっていた。
      • 武家としではなく、公家として遇されていた可能性もある。この場合石高は二千石程度。
  3. 江戸時代は財政難に陥る。
    • 参勤交代の費用やら、手伝普請とかで。
      • 宝暦治水も薩摩藩の代わりにやらされていた。
  4. 御家騒動も起きている。
  5. 豊臣ではなく、「木下」か「羽柴」を名乗っている。
    • 羽柴姓を名乗って選挙に出ている三上氏は羽柴姓を名乗れなくなる。
    • バカとテストと召喚獣の某登場人物も違う名前だっただろうな…
  6. 明治維新の時の藩主が「俺はいつ関白になれるのだ」と発言。
  7. 明治維新の後、公爵の位を受ける。
    • 貴族院議員の議長も歴任したかもしれない。
  8. 織田信成のように子孫が何かのスポーツで活躍。
  9. 堂上公家として存続していたかも。
    • 秀頼の次代かそのまた次あたりで皇室から養子が入った。
  10. 領地は全国にバラバラで一円支配は不可能な状態にされていた。
  11. 途中で養子が入る。
  12. 子孫は大阪市の名士として、何かの団体か法人の名誉会長や理事をしていた。
  13. 遠藤周作が「ヘチマくん」という小説を書くことはなかった。
  14. 60~80万石で大和・伊勢に転封していたら、大和郡山or津は岡山並の都市に成長していた。現在は政令都市になっている。
    • 今の奈良と三重は1県にまとまっていた。
      • 三重は関西地方に属し、名古屋の影響下にない。
    • 史実で津藩32万石の藤堂家は、国替えなしで伊予に留まっていた。
    • 牟婁郡は豊臣家に与えられ、代わりに紀州徳川家には岸和田藩の領地が与えられた。
  15. 秀頼の嫁は徳川の娘なので、時代を経れば家康の血の入っている外様として、幕末には薩摩や伊達と並ぶ力を持っている
    • しばしお待ちを。史実では秀頼と千姫の間に子はなく、側室から国松という息子が生まれたが夏の陣後に処刑されている。
      • よって国松が豊臣家の3代目となった場合、徳川の血は受け継がれない。
      • 千姫が後に男子を産めばそちらが嫡男として跡を継ぐかもしれないが。

冬の陣で決着していたら

[編集 | ソースを編集]
  1. 徳川方が大坂城に発射した大砲で秀頼と淀殿が死亡していたら、その時点で豊臣家は滅亡し夏の陣はなかった。
    • 大坂城が炎上していないため、秀吉時代の構造物が丸ごと埋められ土台が新しくなることはない。
      • それでも天守閣などの主要建築は建て替えられていた。
  2. 真田丸の知名度は現実より低い。
  3. 「外堀を埋める」という慣用句も生まれなかった。
  4. 行き場を失った浪人たちがどこかの外様大名と結びついて騒乱を起こした可能性も否定できない。