もしあのプロ野球選手にアクシデントがなかったら/さ~わ行

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さ~な行[編集 | ソースを編集]

斉藤和巳[編集 | ソースを編集]

肩の痛みに苦しめられなかったら
  1. あと数年は現役だった。
    • 現在(2017年)まで現役かは微妙なところ。
      • メジャーに挑戦していたかもしれない。
  2. 200勝を達成できていたかもしれない。
    • そうでなくても、2000年代での最多勝にはなっていた。
  3. 某所で「プロブロガー」と揶揄されることもなかった。
    • リハビリ担当コーチになることもなかった。
  4. スザンヌとの交際、結婚そして離婚もなかった。

坂口智隆[編集 | ソースを編集]

2012年の5月17日の対巨人戦で、初回に坂本勇人の放った飛球をダイビングキャッチで好捕したが、この際に右肩を地面に強打し負傷退場。検査の結果、右肩肩鎖関節の脱臼、さらに靭帯も断裂と診断され、長期離脱を余儀なくされた。もしそれがなかったらどうなっていたか。
  1. ヤクルトへの移籍はなかった。
    • どちらにせよ2021、2022のどちらかで日本一は経験していた。
  2. オリックス外野陣の顔ぶれが史実とは異なっていた。
    • 次のうちいずれかの事象が起きているに違いない。
      • 吉田正尚のブレイクが遅れていた。
      • 福田周平は内野手のままだった。
        • 宗佑磨も。
      • 駿太のトレードが早まった。
        • トレード先は中日ではなかったかもしれない。
      • 杉本裕太郎もトレードに出されていたかもしれない。
  3. オリックスでゴールデングラブ賞や100安打が途絶えることはなかった。
  4. 今なら2000本安打は達成できてるはず。
  5. オリックスで現実以上に活躍できていたので2013年にAクラス入りし、14年に優勝出来ていたかも。

デニス・サファテ[編集 | ソースを編集]

2018年、股関節の痛みに悩まされなかったら
  1. もちろん、外国人初の250セーブを達成できた。
    • 外国人枠では2人目で投手としては初の名球会員になった。
  2. 森唯斗の守護神転向はなかったか、数年は遅れていた。

城島健司[編集 | ソースを編集]

2010年、腰を傷めなかったら
  1. 現役引退後は恩師のいるホークスへ指導者として出戻りしていた。
    • 釣りタレントとしての顔はもっぱらオフ限定であった。
  2. 藤井彰人がFAで阪神入りする事はなく、「男前」の愛称も定着する事はなかった。
  3. 翌2011年以降も現実以上に活躍していて、阪神の成績ももう少しまともだった。
    • 真弓〜和田監督時代に一度は優勝出来ていた。
  4. 2012年に一塁へのコンバートもなかった。
  5. 日米通産2000本安打を達成できてた。
  6. 引退の時期によっては、狩野恵輔の復活や梅野隆太郎と原口文仁の台頭・ブレイクが遅れていたかも。
    • 梅野と原口が城島の影響を受け、現実以上に「打てる捕手」として活躍するかも。特に原口は城島と自主トレをしていたので尚更。
    • 2013年以降も阪神に在籍しているので、WBC日本代表でチームメイトだった西岡剛や福留孝介と再会していた。
    • 2014年頃から引退までバッテリーコーチ兼任になっていた。
    • 日高獲得はなかったか
  7. 引退まで1軍で出続けられていたかもしれないので、引退セレモニーも甲子園でのラストゲームorファン感謝デーで行われた。
  8. 同じく阪神時代に背番号2を付けた高橋慶彦、松永浩美と比較されることはなかった。
    • その二人が阪神時代に怪我で選手生命を縮めたことからの、「背番号2の呪い」のジンクスをぶち破ったと話題になった。

杉内俊哉[編集 | ソースを編集]

2004年6月1日の対ロッテ戦に2回7失点で降板直後、悔しさのあまりベンチを素手で殴打して両手の小指付け根を骨折がなかったら
  1. 以降、シーズンを棒に振ることはなかった。
  2. この年、リーグ優勝を果たしプレーオフも日本シリーズ進出していた。
    • そして日本一2連覇。
  3. メジャーリーグに移籍していた。
    • 巨人移籍はなかった。
      • 2012年5月30日の楽天戦でのノーヒットノーラン達成はなかった。
  4. 「利き手はやめろ、ブルガリア」という名言が生まれることもなかった。

鈴木誠也[編集 | ソースを編集]

2017年8月22日の対DeNA戦、右中間のフェンス際に放った飛球へのジャンピングキャッチ後の着地で右足首を負傷がなかったら
  1. この年、クライマックスシリーズ対DeNA戦を破り日本シリーズ進出していた。
    • それでもソフトバンクに勝てたかどうかは微妙なところ。
  2. MVP、打点王に輝いていた。
    • ひょっとしたら三冠王に?

ダリル・スペンサー[編集 | ソースを編集]

交通事故によるケガがなかったら
  • 1965年には野村克也氏と三冠王争いをしていた際に、シーズンがあと2週間という中で交通事故でリタイヤし、結局、野村克也氏が三冠王になりました。
  1. 1965年の本塁打王はダリル・スペンサーとなり、野村克也氏が三冠王になることはなかったかもしれない。
    • 本塁打王の記録で野村克也氏と並んでいた可能性もあった。
  2. 1966年には阪急ブレーブスは初のリーグ優勝を果たしていたかもしれない。
    • その場合、監督信任投票事件はなかった。

高橋信二[編集 | ソースを編集]

2005年4月試合中に一塁へスライディングした際に左膝の靭帯を断裂しなかったら
  1. 鶴岡慎也のブレイクが遅れていた。
  2. 一塁転向もなかった。
2010年7月1日に藤田太陽から死球を受けなかったら
  1. マイカ・ホフパワーの獲得はなかったかもしれない。
  2. 巨人へのトレードもなかったかもしれない。

高橋慶彦[編集 | ソースを編集]

1991年のオープン戦の始球式でぶつけられなかったら
  1. 阪神移籍後も現実以上に活躍できていた可能性がある。
    • 92年の優勝争いに貢献出来ていた。
    • 阪神時代が黒歴史になることもなかった。
    • 引退後はロッテだけでなく阪神でもコーチを務めていたかもしれない。
    • 引退後の生活拠点も関西に置き、在阪のテレビ局で解説者になったかも。
  2. 久慈照嘉のブレイクが遅れていた。
    • 松永浩美の移籍もなかった。
      • 但し当時の土井監督とは確執があったそうなので、1993年のオフにFA権を行使してダイエーに移籍していたかも?
    • 松永のトレード相手の野田浩司はあまりブレイクせず、2000年代前半に阪神で引退。
    • 92年の新人王は新庄剛志だったかも。
  3. 娘の雛子が生まれる頃まで現役を続けていた。
  4. 上手くいけば40歳辺りまで現役を続けていた。
    • 晩年は歳の近い真弓明信と共に代打の切り札になっていたかも。

武田久[編集 | ソースを編集]

インフルエンザや両膝の怪我に悩まされなかったら
  1. 250セーブを達成できたかもしれない。
  2. 増井浩俊は中継ぎのままだった。
    • オリックス移籍後に抑えをやってたかは微妙。

田淵幸一[編集 | ソースを編集]

1970年、広島外木場義郎から左こめかみに死球を受け昏倒がなかったら
  1. この年、阪神が優勝していた。
  2. 捕手一筋として活躍。
  3. 「耳当て」付きヘルメットの使用が定着化の存在はなかった。
  4. 「がんばれ!!タブチくん!!」は連載されず、いしいひさいちは無名のままだった。
    • 小学校の先輩である土屋賢二の著書でイラストを描くこともなかった。
1983年、近鉄柳田からの死球による長期欠場がなかったら
  1. バースの前にホームラン日本新記録挑戦が話題になった。
    • それまで55本超のホームランペース。
    • 多少ペースは落ちるにせよ、50本以上は現実的だった。
      • そしてこの年のMVPに
  2. 上手くいけば引退が1、2年遅れていたかも。
    • そうなれば1985年の日本シリーズで西武と古巣阪神との対決で注目されていた。
      • 阪神ファンからも応援されていた。

多村仁志[編集 | ソースを編集]

怪我をしなかったら
  1. スペランカーと呼ばれることはなかった。
    • 史実での個々の怪我はともかく、ほとんどの怪我に無縁の選手だったというのであればそれはもはや多村では無い。
  2. メジャー移籍の話が出てきた。
  3. 2000本安打も達成できたかもしれない。
  4. 中日で育成契約もなかった。
  5. ホークスへのトレード要員にならなかった。

ダルビッシュ有[編集 | ソースを編集]

2014年の首の凝り、2015年の右肘内側側副靱帯の損傷に悩まされなかったら。
  1. 2015年はメジャー登板なしに終わることはなかった。
  2. 田中将大に通算勝利数を抜かれることもなかった。
    • 今は200勝達成できたかもしれない。
  3. 2023年より先に2017年も侍ジャパンに選出されたかも?
  4. サイヤングを受賞するほどに成功していた可能性も。
  5. 松井秀喜、大谷翔平と並ぶレジェンドになっていた。

多和田真三郎[編集 | ソースを編集]

自律神経失調症にならなかったら
  1. 2019年以降も西武のエースとして活躍している。
  2. 西武が2019年のCSで敗退することはなかった。
  3. 松坂大輔、内海哲也の両投手は2020年限りで引退していた。
  4. 辻発彦監督の「(得意球団の)オリックスだと思って投げろ」発言もなかった。

チョ・ソンミン(趙成珉)[編集 | ソースを編集]

1998年のオールスターゲームで右肘を負傷しなかったら
  1. その年の後半戦も活躍し、二桁勝利を挙げていた。
    • ガルベスの出場停止後の投手陣を支えていた。
  2. 1998年の巨人の成績は史実(3位)よりも良くなっていた。
  3. 2000年代前半にはMLB移籍の話が出ていた。
  4. 勿論2020年現在も存命。
    • 金杞泰コーチらと再来日し、二軍で投手コーチを務めてたかもしれない。
    • 妻との死別もなければ尚更。

津田恒美[編集 | ソースを編集]

脳腫瘍になっていなかったら
  1. 史実では脳腫瘍の他にも1990年に右肩や右膝靱帯を損傷するなど怪我を抱えていたため結局のところ長期離脱は避けられなかった。
  2. 大野豊は1992年に先発へ戻っていた。
  3. もちろん現在でも存命
  4. 逆に現実ほど神格化されていない可能性も。
    • 最悪の場合北別府学や大野豊同様「投手コーチとしては無能」の烙印を押されていた。

堂林翔太[編集 | ソースを編集]

2013年に左手第3中手骨を骨折しなかったら。
  1. 今でもレギュラー。
  2. 新井貴浩の広島復帰はあったかどうかは微妙。
    • ポジションは史実と異なってたかもしれない。

中里篤史[編集 | ソースを編集]

2002年の春期キャンプで階段から転落しなかったら
  1. 先発ローテーションに定着し00年代の中日の黄金期をさらに強化していた。
  2. 打撃センスが抜群だったため大谷より先に二刀流を実現していたかもしれない。

長嶋茂雄[編集 | ソースを編集]

1973年10月の阪神戦で左手薬指を骨折しなかったら
  1. 10月22日の甲子園球場での最終戦にもつれこむことはなく、巨人はもう少し早く優勝できていた。
    • そうなると阪神ファンによるあの暴動は起きなかったかも?

中村紀洋[編集 | ソースを編集]

2006年に怪我をしなかったら
  1. オリックスでも現実以上に活躍できていて、同年のオリックスはAクラス入りを果たせていた。
    • 翌年以降の成績次第では、中村勝広の監督解任→コリンズの監督就任もなかった。
    • 勢いが続けば、2008年に優勝出来ていた。
  2. 中村自身もオリックスに残留し、中日などへの移籍もなかったか数年遅れていた。
  3. タフィー・ローズのオリックスでの背番号が異なっていた。

成本年秀・河本育之[編集 | ソースを編集]

1998年、故障しなかったら
  1. スコット・デービソンを獲得することはなかった。
  2. ロッテが18連敗することはなかった。
    • 阪神が18連敗したロッテより弱いことが証明されることはなかった。
    • 最下位に沈むこともなく、もしかしたらAクラス入りもあったかも知れない(この年のパ・リーグは大混戦だったので)。
      • 連敗中に黒木が酷使されることはなかった。
  3. 共に退団が遅れて左右のダブルストッパーとして人気となった。
  4. 小林雅英は中継ぎでブレイクし、NKKの勝利の方程式が成立していた。

二岡智宏[編集 | ソースを編集]

2008年の開幕戦に故障していなかったら
  1. 当年オフにトレードされることはなく、移籍があったとしても数年遅れていた。
    • あの不倫がなければ尚更。
  2. トレード相手だったマイケル中村も移籍がなかったら、日ハムで引き続きストッパーをしていた。
    • よって、武田久のセーブ王獲得も1度減少した可能性があった。
  3. 史実より阪神との最大ゲーム差が広がらず、メイクレジェンドという言葉は生まれていなかった。
  4. 坂本勇人は当初は二塁手としてレギュラー獲得したため、史実よりショートに定着するのが遅くなっていた。

西浦颯人[編集 | ソースを編集]

2020年に特発性大腿骨頭壊死症にならなかったら
  1. もちろん22年現在も現役。
    • 21年に育成選手登録にならなかった。
    • 21年のオリックスのリーグ優勝に貢献していた。

西岡剛[編集 | ソースを編集]

2014年の巨人との開幕シリーズで福留孝介との交錯がなかったら
  1. 上本博紀が「1番セカンド」でスタメン定着しなかった。
  2. 同年の阪神はCS以前にレギュラーシーズンでも優勝出来ていたかもしれない。
    • 下手すりゃ日本一になれていて、「守備妨害で試合終了」もなかった。
      • 西岡自身も2015年以降も活躍できていた。
        • 独立リーグへの移籍も遅れていた。

は行[編集 | ソースを編集]

濱中治[編集 | ソースを編集]

2003年に右肩を傷めなかったら
  1. 同年のオールスター戦のファン投票選出を辞退することはなかった。
    • 阪神は日本一になれていた。
  2. 開幕当初一塁を守っていた桧山進次郎が外野に戻ることはなかった。
    • 三塁もずっとアリアスだったかアリアスと片岡篤史の併用だった。
  3. 翌年に背番号を変更することもなかった。
  4. オリックスへの移籍もなさそう。
  5. 2005年からの応援歌の歌詞に「不死鳥」というフレーズはなかった。

原辰徳[編集 | ソースを編集]

1986年9月の広島戦での津田恒美投手のストレートをファウルした時の左手首の骨折がなかったら
  1. 1986年はシーズン最後まで活躍し、巨人はリーグ優勝していたかもしれない(史実は広島)。
    • その場合、徳光和夫の「巨人の優勝は日本シリーズ第1戦が始まるまで諦めない。だって広島の選手が乗った飛行機が墜落するかもしれないでしょ?」発言はなかっただろう。
  2. プロ通算で450号あるいは500号本塁打を達成していた。
    • この時の負傷により原氏は「自分の思うようなバッティングが出来なくなった」と自ら語るほど左手首の後遺症に悩まされた。
      • 成績上は翌年、翌々年と続けて3割30本塁打を達成しており、むしろキャリアハイを迎えていたことを考えると、そこまで大きく変わったか微妙。
    • 1980年代後半のどこかの年にシーズン40本塁打を達成していた。
  3. 前世紀末まで主力として活躍していた。
    • 現役として活躍する期間が長くなる分、コーチ・監督としての期間がその分短くなっていたかもしれない
    • もしくは、解説者・評論家にはならずにコーチ就任は史実と同じタイミングになっていた
  4. 「チャンスに弱い4番」と揶揄される事なく(とはいえ実際には勝負強かったようだが)、「ONの後継者」と評されていた可能性も。
    • 80年代後期に発売された野球ゲームにて原氏のパラメーターが強打者とは言い難かったような扱いをされていたような感じがするが(当時のチームメイトであったクロマティや吉村よりも低かったような)、強打者にふさわしいパラメーターになっていたかもしれない。
  5. 1989年に外野へコンバートされることはなかった。
  6. 2000本安打を達成して名球会入りしていた。
  7. 津田のボールを打ったのだけではなく疲労が蓄積して骨折したので、別の打席で結局疲労骨折していた。

東出輝裕[編集 | ソースを編集]

2013年2月24日の紅白戦で前十字靭帯を断裂しなかったら。
  1. 2000本安打達成まで現役を続けていたかもしれない。
    • そうとなれば通産本塁打数20本以下での達成になってたかもしれない。
  2. 田中広輔のブレイクが遅れていた。

彦野利勝[編集 | ソースを編集]

1991年6月18日のナゴヤ球場での横浜大洋戦で盛田幸妃からサヨナラ本塁打を放ち一塁ベースで右膝の靭帯が断裂がなかったら
  1. 1991年はシーズン最後まで活躍し、中日はリーグ優勝していたかもしれない。
    • 1988年から4年連続でゴールデングラブ賞を受賞していた。
      • シーズン途中、オリックスから南牟礼豊蔵が移籍することはなかった。
  2. 1994年もリーグ優勝を果たしていた。
    • 本塁打も2桁を放っていた。
    • うまくいけば1996年もリーグ優勝を果たしていたかも。
  3. 晩年に背番号57に戻すことはなかった。
  4. アロンゾ・パウエルが来日することはなかった。
    • 音重鎮も中日へ復帰することはなかった。

平野恵一[編集 | ソースを編集]

2006年のロッテ戦でファウルフライの捕球の際の大怪我がなかったら
  1. 阪神へのトレードはなかった。
    • 平野ではなく後藤が阪神に行っていたかも。
  2. FAで巨人に行っていた。
    • 時期的に2010年オフにFA宣言し、巨人に移籍していた。
    • 仁志敏久の退団後に固定できていなかったセカンドのレギュラーに定着し、2012年~2014年のリーグ三連覇と2012年の日本一に貢献していた。
  3. 大引啓次のブレイクが遅れていた。
  4. 晩年のオリックスへの出戻りは現実通り。
    • 前述のように巨人にFA移籍したとすれば、2015年オフに第2次政権で原監督が退任した頃に再度FA宣言し、古巣オリックスに復帰か!?
  5. 史実より長く現役を続けられ、第一線で活躍し続け2000本安打も達成出来たかも。
    • 40歳ぐらいまで現役を続けられただろう。
  6. 2008年にオリックスをリーグ優勝に導いていた
    • 二塁手部門でベストナインとゴールデングラブ賞にも選出されていた。
  7. 2009年のWBCの日本代表にも選出されていた。
    • 主に2番セカンドでスタメン出場し、侍ジャパンのWBC2連覇に貢献していた。

エリック・ヒルマン[編集 | ソースを編集]

1997年に移籍後すぐに左肩を故障しなかったら
  1. この年、巨人が優勝していた。
    • ヤクルトと20ゲーム差を付けられているのでそれはない。せいぜいAクラスぐらい。その場合、広島の連続Bクラスの始まりが1年早くなっていた。
  2. 「左肩に小錦が乗っているようだ」、「ミスター違和感」というフレーズはなく「昼マン」と揶揄されていなかった。

セシル・フィルダー[編集 | ソースを編集]

1989年、指を骨折しなかったら
  1. 翌年も阪神で活躍していた。
  2. 89年は本塁打王を獲得していた。
  3. 92年まで在籍していたら92年に阪神が優勝していた。
  4. 阪神暗黒期の成績は少しはマシになっていた。
  5. 90年にパリッシュが阪神に移籍してこなかった。

福留孝介[編集 | ソースを編集]

2004年9月1日の阪神戦で下柳剛から死球を受けての左手人差し指骨折がなかったら
  1. 同年の日本シリーズでは中日が西武を下して日本一になっていたかもしれない。
    • その場合、50年ぶりの日本一で名古屋の街は盛り上がっていた(翌年に愛知万博も控えていたので尚更)。

古田敦也[編集 | ソースを編集]

1994年の4月14日に前田智徳のファウルチップを受けての右手人差し指骨折がなかったら
  1. ヤクルトは4連覇を果たしていた。
    • 巨人、中日の10.8自体は存在しなかった。
      • あるいは、10.8決戦は神宮球場での同率首位の巨人VSヤクルトの優勝決定戦になっていた。
        • 巨人が勝利していたら史実通りだが、ヤクルトが勝利していたら、3年連続でヤクルトVS西武の日本シリーズになっていた。
  2. グラッデンと中西親志の乱闘騒ぎも起こることはなかった。
    • 西村龍次は近鉄へ放出されることも無かっただろう。
      • 中西親志はこの年で現役を引退していた。
  3. 2000本安打は2004年の内に達成できた。

ま~わ行[編集 | ソースを編集]

前田智徳[編集 | ソースを編集]

1995年にアキレス腱を断裂しなかったら
  1. 少なくとも慢性的な足の故障に悩まされることも無く、1996年以降もフル出場したシーズンは更にあった(史実では故障以降、2005年のみ)。
  2. 松中よりも先に三冠王を獲っていたか、トリプルスリーを達成していた可能性も。
    • 2000本安打どころか、3000本安打も狙える位置にいたかも。
  3. 松井秀喜、福留孝介の最大のライバルとして君臨していた。
  4. 代打、またはDHに専念するのはもう少し遅くなっていた。
    • あったとしても、流石に衰えを隠しきれなくなった現役最晩年だろう。
  5. 広島も優勝までとは行かなくても数回はAクラスに入ったシーズンが増えていたはず。
    • 1996年は巨人にメークドラマを許さず、首位を保ってそのまま優勝していた。
    • 連続Bクラス記録が長引くことはなく、2000年代は常にAクラスの中日と暗黒期の横浜を除いては、阪神・巨人・ヤクルトとAクラス争いを繰り広げていた。
  6. FA宣言でメジャーリーグに移籍していたかも。
    • 或いは当初の志望球団だったホークスに移籍。FA宣言ができなかったのは宮川孝夫のせい。あのジジイが脅しなんかしなければFA宣言で移籍できたのに。

松井秀喜[編集 | ソースを編集]

2006年にスライディングキャッチの際に左手首を骨折していなかったら
  1. 当然、それ以降も連続出場記録は継続されていたはず。
    • カル・リプケンの記録はさすがに抜けないまでも、衣笠の記録は越えていたかもしれない。
      • 「平成の鉄人」といえば金本よりも松井だった。
  2. その後も変わらず活躍していたと仮定した場合、2009年にヤンキースを退団することも無かった。
    • もしかしたらイチローと共にプレーすることもあったかもしれない。
    • 現役生活そのものも、うまくいけば2012年以降も続いたかもしれない(史実では2012年にレイズ退団後、オフに引退)。
      • 国民栄誉賞の受賞もなかったか数年遅れていた。
      • メジャー通算200本塁打を達成した可能性も十分あった。
      • 日本球界復帰もあったか。

松坂大輔[編集 | ソースを編集]

2009年に右肩の疲労に悩まされなかったら
  1. 現在は日米通算200勝を達成できてるはず。
    • もちろん名球会入りしていた。
    • プロ10年目の2008年までに日米通算141勝を達成しているので、年齢による多少の衰えは考慮しても、このペースで行けば、日米通算200勝どころか250勝、300勝を達成していた。
      • 通算300勝を達成していた場合は、1984年の鈴木啓示氏(近鉄)以来となるため、存命の通算300勝投手である米田哲也氏、小山正明氏、鈴木啓示氏が何らかのコメントを出していた。
  2. 巨人が「松坂を取らなくて正解だった」ということもなかった。
  3. 日本復帰は史実より遅れていたかもしれない。
    • ソフトバンクが獲得していたかどうかは微妙。
      • 直接西武に復帰していたかも。
    • 帰国後も現実以上に活躍できている。
      • 史実の2021年より少し長く現役を続けていた。
      • 2018年と2019年の西武は史実通りリーグ優勝するが、史実とは違いCSでソフトバンクを破って日本シリーズに進出し、場合によっては広島や巨人を破って日本一になっていた。
      • 2022年もオリックス、ソフトバンクに競り勝って西武をリーグ優勝に導き、日本シリーズでもヤクルトを撃破して日本一に輝き、有終の美を飾って引退していた。
        • 25年前のリベンジを果たしたと言われていた。
        • 元メジャーリーガーで所属球団がリーグ優勝し、日本シリーズに進出して有終の美を飾って引退した投手であることから、2016年の広島カープの黒田博樹投手と比較されていた。
        • 辻発彦監督は2023年以降も続投していた。
  4. MLBでも大活躍してサイ・ヤング賞を受賞していた。
  5. 平成の最強の先発投手と言えば、ダルビッシュ有や田中将大らを抑えて文句なしで松坂大輔だった。

松中信彦[編集 | ソースを編集]

2009年以降、肘や膝の怪我に悩まされなかったら
  1. 1999年以降続いた二桁本塁打も2011年にストップすることはなかった。
    • 2013年以降は本塁打0で終わることもなかった。
  2. 2000本安打や400本塁打も達成できたかもしれない。
  3. 引退試合はヤフードームで行われた。

松永浩美[編集 | ソースを編集]

1993年開幕直後に肉離れを起こさなかったら
  1. 93年以降の阪神の成績がもっとマシになっていた。
    • 93年も含めAクラス入りするシーズンも何度かあり、20世紀中に優勝出来ていた。
  2. 「甲子園は子供の砂場」発言もない。
  3. FA移籍第1号は彼ではなく落合博満だった。
  4. 入れ違いにオリックスへ移籍した野田浩司と悪い意味で比較されることもなかった。
    • 同じく「パリーグから阪神へ移籍し背番号2を付けたスイッチヒッター」である高橋慶彦と良い意味で比較されていた。
  5. シーズン途中に背番号を変更することもなかった。
  6. 同じく元オリックスの石嶺和彦の移籍もなさそう。
    • むしろ松永の移籍がないので、石嶺と再びチームメイトになっていたかも。

水谷実雄[編集 | ソースを編集]

1984年の開幕戦で死球を受けなかったら
  1. 1986年or1988年までプレーしていた。
  2. 1984年には打点王か本塁打王を獲得していたかもしれない。
    • 1984年のオールスターゲームに出場していた可能性もある。
  3. 1984年の日本シリーズに出場し、阪急が日本一になっていた。
  4. 阪急でコーチをしなかったかコーチをやるのが遅れていたかもしれない。
    • コーチとして、広島に復帰していたかもしれない。

簑田浩二[編集 | ソースを編集]

1985年に頭部に死球を受けなかったら
  1. その後巨人にトレードされることもなかった。
    • フランチャイズ・プレイヤーになっている。
  2. プロゴルファー転身はなかった。
  3. オリックスの監督に就任している。

カルロス・ミラバル[編集 | ソースを編集]

2005年に故障しなかったら
  1. 上手くいけば日本ハム初の外国人100勝を達成できたかもしれない。
  2. 0及び00を永久欠番にすることもなかった。
  3. コリー・リーやブライアン・スウィーニー、ライアン・グリンを獲得しなかったかもしれない。
  4. 金村曉の移籍が早まってたかもしれない。

村田兆治[編集 | ソースを編集]

1982年に肘を故障して無かったら
  1. ロッテが1983年に最下位に沈むことは無く1984年に優勝してたかもしれない
  2. 200勝も1988年までに達成してた
  3. ロッテがマリーンズに改名した1992年以降もプレーしてた可能性すらある
    • 場合によってはダイエーでのコーチ就任は無く古巣ロッテの監督やコーチに就任してたかも?
    • 引退試合は新本拠地の千葉マリンスタジアムで行われていた。
  4. フランク・ジョーブ博士の日本での知名度が上がるのが遅れた。
    • NPBにおけるトミー・ジョン手術の第2号は荒木大輔になっていた。(第1号は史実通り三井雅晴)

森慎二[編集 | ソースを編集]

2006年のオープン戦で右肩を脱臼しなかったら
  1. MLBで活躍できていた場合、ここの通りになっていた。
  2. MLBで活躍できなかった場合でも、日本球界に復帰して2012年頃までは現役を続けられていた。
    • 2010年までに古巣西武に復帰していた場合、2010年の西武は土壇場で優勝を逃すことはなかったかもしれない。
    • 古巣西武でもあまり期待通りに活躍できなかった場合、間違いなく「俺達」メンバーの一員になっていた。

盛田幸妃[編集 | ソースを編集]

髄膜腫になっていなかったら
  1. もっと長生きしていた。
  2. 三澤興一が移籍することはなかった。
  3. 香田勲男の引退が早まっていた。
  4. 地元、北海道ということもあり北海道日本ハムファイターズへ移籍していた。
  5. 合併する年まで近鉄に在籍し、オリックスバファローズか楽天で現役を終えていた。
    • そしてオリックスか楽天で投手コーチを務めた。

森本稀哲[編集 | ソースを編集]

汎発性円形脱毛症になっていなかったら
  1. サッカー選手になっていた。
    • 『しくじり先生 俺みたいになるな!!』で先生として出演はなかった。
    • 帽子をかぶる野球に傾倒しなかったか。
  2. 2000年代は北海道日本ハムファイターズがリーグ優勝できていたか微妙。
  3. 横浜移籍時にやったラーメンマンのコスプレが似合ってなかった。
    • オールスターゲームでのザビエルのコスプレも似合ってなかった。
  4. そもそもスキンヘッドにしなかった。

山口高志[編集 | ソースを編集]

1978年にゴルフで腰を痛めてなかったら…
  • 1978年に日本シリーズの前に開かれた祝勝会のゴルフコンペで腰を痛めたことにより、1978年の日本シリーズに登板することはできませんでした。
  1. 1978年の日本シリーズでは確実に優勝していた。
    • ヤクルトは1993年まで日本一を果たすことができなかった。
    • 第7戦の1時間19分の抗議も無いので、上田利治監督は辞任せず史実通り1990年まで監督を続けていた。
  2. 1979年もリーグ優勝を果たしていたかもしれない。
    • 最低でも同年のパ・リーグプレーオフで近鉄がストレート勝ちをすることはなかった。
  3. 3年程長くプレーをしていたかもしれない。
  4. 1979年に最優秀救援投手のタイトルを獲得していた。
    • 1979年のオールスターゲームに出場していたかもしれない。
  5. 1984年の日本シリーズでも前回(1975年)同様広島打線を抑え、阪急を日本一に導いていた。
    • 「山口がいなくならない限り広島は阪急に勝てない」と言われていた。
  6. 佐藤義則がクローザーを務めることはなかった。

山崎武司[編集 | ソースを編集]

1999年のセ・リーグ優勝決定試合で左手首を骨折しなかったら
  1. 同年の日本シリーズで中日が1勝しか出来なかったということはなく、ダイエーが日本一になったとしても第7戦までは行われていた。
  2. 中日が日本一になっていた可能性もあり、45年ぶりの日本一で名古屋は盛り上がっていた。

横田慎太郎[編集 | ソースを編集]

脳腫瘍がなかったら。
  1. 背番号24で桧山の後継者の呼び声高く、育成再契約もなかった。
    • メル・ロハス・ジュニアは史実とは違う背番号を背負っていた。
  2. 『奇跡のバックホーム』はなかった。
  3. もちろんもっと長生き出来ていた。
    • 2023年の「アレ」に貢献していた。
      • 彼の活躍次第では森下翔太のブレイクが遅れていたかも。
        • むしろ史実における脳腫瘍の発症時期から考えると順調に育って戦力になっていれば近本光司を獲得しなかった可能性すらあった。
    • 恐らく結婚もしていただろう。
  4. 引退が遅れるので、川藤幸三のYouTubeチャンネルのプロデューサーにならなかった。

吉田正尚[編集 | ソースを編集]

2016,17年に腰痛にならなかったら
  1. 2016年のオリックスは最下位を免れていて、2017年もCSに進出出来ていた。
  2. 正尚自身も2016年に新人王のタイトルを獲得していたかも。
  3. 逆にこの2年間の反動で、18年頃に腰痛になっていた可能性も。

吉見一起[編集 | ソースを編集]

2012年、左脚大腿二頭筋挫傷や右肘の肘頭骨棘骨折をしなかったら
  1. 第3回WBCの日本代表入りを辞退することはなかった。
  2. 2012年で二桁勝利が途絶えることもなかった。
    • 2014年も未勝利で終わることはなかった。
  3. 2013年以降の中日は暗黒時代に突入することもなかったはず。
    • 順調にいけば2015年には国内FA権を取得しソフトバンクに移籍するか、ポスティングでメジャーに行っていたので、どの道離脱して暗黒時代に突入していた。
      • 史実でも2018年オフにFA権を行使せず残留しているので、流石にそれはない。
        • とはいえ、味方の打線に引っ張られて全盛期ほど勝利を挙げられず、暗黒期突入は結局避けられなかった。
  4. 2020年に引退せず2021年以降も現役。
    • 2022年時点で通算200勝とまではいかなくても、同い年の岸孝之(西武→楽天)と同じくらいの150勝はできていた。
    • 2023年現在も現役で、ベテラン投手として中日の先発ローテーションの一角を担っている。
  5. 中日は2013年、2014年はAクラス入りできていたし、それ以降の成績も史実よりマシになっていた。
    • 高木守道監督も2013年オフに退任せず、契約を延長して2015年まで監督を続投し、ノムさんに次ぐ74歳という日本プロ野球史上最高齢タイの監督になっていた。
      • 谷繁元信は選手兼任監督にはならず、普通の選手として引退していた。
      • 2015年オフに森繁和が高木守道の後任の監督に就任し、谷繁元信の監督就任はなかった。

吉村禎章[編集 | ソースを編集]

栄村忠広との衝突事故がなかったら
  1. プロ通算200号本塁打を達成していた。
  2. 事故前の吉村の実力を考えれば200号どころではない。90年代を通して巨人の中軸打者として活躍し、350本塁打ぐらいは打っていたと思う。巨人の優勝回数も増えていたか。
    • 1992年の阪神はAクラス入りできなかった。よって阪神は1987年から2002年までの16年間連続でBクラスに甘んじていた。
      • 1992年のヤクルトのリーグ優勝時の甲子園での阪神ファンからの「帰れ」コールもなかった。
        • 野村ヤクルトの初優勝も1992年ではなくもっと遅かった。
  3. 90年代末の巨人の外野は「吉村・松井・高橋」と左の強打者が揃っていた。
    • それくらいまで、現役続けられたら二岡の背番号は「7」以外の空き番号だった。
    • 清水のレギュラー獲得は遅れていた。あるいはくすぶり続けたまま他球団にトレードされ開花していた
  4. 巨人不動の3番打者となっていた。
    • 松井入団までの「不動の生え抜き4番」になっていた。
  5. 中日に移籍した落合の最大のライバルになっていた可能性も。
  6. 広沢がヤクルトからFAで移籍してくることはなかったかも。
    • その場合広沢の阪神移籍もなく、ヤクルトで選手生命を終えていた。
      • あるいはヤクルトを自由契約になった後野村監督の誘いで阪神へ移籍していた。
  7. 逆にFAを活用せず引き続き生え抜き路線だったか。
  8. 故障した1988年のシーズンに関して言えば、吉村と同じ主力選手であったクロマティも6月にデッドボールによる故障で戦線離脱した影響もあって、結果的にはリーグ優勝した中日に12ゲーム差をつけられて2位に終わったが、シーズン終盤まで巨人と中日の優勝争いになったかもしれない。
    • この年の巨人は前半戦終了までは首位を維持していたが、後半戦は開始早々に中日に首位を奪われると大きくゲーム差をつけられて取り返す事無くシーズンが終わってしまった。
栄村は
  1. 代走、守備要員として巨人で数年過ごしたろう。
    • その後、守備走塁コーチもしくはトレーニングコーチくらいにはなれたかも。
  2. やくみつるの漫画で、頭に角が生えた形で「悪魔」か「バイ菌」として悪意に満ちた描き方をされることはなかった。
  3. 巨人に何らかの形で残っていた可能性あり。
    • 少なくとも審判の栄村孝康と勘違いされることはなかった。