もしあの競走馬が長生きしていたら
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トキノミノル[編集 | ソースを編集]
- 60年代前半において日本最強の種牡馬となる。
- ノーザンテーストやSSらが入る余地はあったのだろうか・・・
- 史上初の無敗の三冠馬となっていた。
- 共同通信杯は「トキノミノル記念」に改称されていた。
- トキノミノル記念の副称がついたのは69年、共同通信杯を冠したのは83年。
- 「朝日杯セントライト記念(菊花賞トライアル)」がセントライト記念と呼ばれるように、正式名称「共同通信杯トキノミノル記念(皐月賞トライアル)」で通称・略称トキノミノル記念になる。
- 「幻の馬」は制作されなかった。
- むしろ大映はトキノミノルの功績をたたえる映画を制作していた(史実のシービスケットやセクレタリアトみたいなノリで)。
ハマノパレード[編集 | ソースを編集]
- 中長距離の第一線として活躍し、鳴り物入りで種牡馬入りしていた。
- 予後不良の安楽死ルールが確立されないため、別の馬で…。
テンポイント[編集 | ソースを編集]
- case1 故障しなかった場合
- 予定通り海外に進出するが、微妙な結果に終わる。
- 種牡馬入りするも、産駒は大成せず。生まれ故郷で余生を過ごす。
- TTGの残り2頭からはG1馬出てるから、1頭くらいはG1馬が出たかもしれない。
- 明石家さんまによって「ネタ」にされる事も無かった。
- 顕彰馬にはなっていなかった。
- ハンデキャップの見直しがなされず、他の競走馬で同様の悲劇が起きた可能性も。
- case2 忠実同様に故障したが、治療に成功した場合
- ドキュメンタリーが制作され、ハイセイコーに匹敵するアイドルホースとなった。
- 競馬ブームの到来が早まった。
- トウショウボーイと同じく、1984年に初代顕彰馬になった。
シャダイソフィア[編集 | ソースを編集]
- 同期のダイナカールと共に牝馬路線の中心となっていた。
- 同じ牝系にあたるアンティックヴァリューは輸入されないため、ベガとその一族は産まれなかった。
- あるいは“シャダイソフィアの1990”がベガと名付けられていた。
- 1985年の天皇賞(秋)におけるギャロップダイナのシンボリルドルフを破っての勝利は社台グループにとって史実以上の輝かしい戦果になっていた。(同日のスワンステークスでシャダイソフィアが故障、予後不良になっている)
- 社台グループ総帥の吉田善哉が吉川良に対し「ギャロップダイナは勝ったが、わたしが逃げたもんだから、ソフィアがあんなことになっちゃったね。ひとつ勲章をもらったけど、前科ももらっちゃった」と語ることはなかった。
サクラスターオー[編集 | ソースを編集]
- パーソロン→サクラショウリ→サクラスターオーの父系がもう少しは続いていた。
- 平井雄二調教師は1990年代に重賞の一つは勝っていただろう。
- 2006年のサチノスイーティー(アイビスサマーダッシュ)で19年ぶりの重賞勝利という事態にはならなかった。
- 仮に1987年の有馬記念を制していた場合、メジロの有馬記念制覇は1992年のメジロパーマーまで待たなくてはならなかった。
マティリアル[編集 | ソースを編集]
- マイル中距離路線でオグリキャップのライバルとして立ちはだかっていた。
- 種牡馬としても活躍馬を出していたと思う。
- 上記のサクラスターオーやゴールドシチーも健在だった場合87世代が「悲劇の世代」と呼ばれることはなかった。
ケイエスミラクル[編集 | ソースを編集]
- 1993年ぐらいまではマイル・短距離戦線で活躍していた。
- ニシノフラワー・サクラバクシンオーの戦績がもう少し下がっていた。
- 92年の安田記念はケイエスミラクルが制していたかもしれない(史実ではヤマニンゼファーが勝利)。
- ダイタクヘリオスのライバルとしても扱われていた。
- 少なくともナイスネイチャは92年のマイルチャンピオンシップで3着にはなれなかった。
- 種牡馬としても活躍馬を出していただろう。
- ダイイチルビーとの間にも産駒を出していた。
- ダイタクヘリオスのラストクロップではなくミラクルとルビーの仔に「ファーストサフィー」の名が与えられたかも。
- ダイイチルビーとの間にも産駒を出していた。
- 馬なり1ハロン劇場の初期を飾ったヘリオス・ルビー恋物語において悪役キャラにされていた公算が高い。
- 父親のスタッツブラックホークが輸入されていたかも。
- その場合、ブラックホークがヌレイエフ産駒と思われない可能性が高まった?
- 母親の従兄弟であるクラフティプロスペクターの導入はさすがにないか。
イージーゴア[編集 | ソースを編集]
- それでも父系を繋ぐレベルの産駒が出たかは微妙。
- アンフィトリオン(父の父がサンデーサイレンス、母の父がイージーゴア)のような例は増えたかもしれない。
- 史実より多くの産駒が日本に輸入されていた。もしかしたら日本で重賞を勝つ産駒が現れたかも。
ライスシャワー[編集 | ソースを編集]
- ここまで人気が出ることはなかった。
- ウマ娘での彼(女)のストーリーも変わっていた。
- 種牡馬としては不振な成績に終わった。
- それでもリアルシャダイの父系は2010年代も続いていた。
ホクトベガ[編集 | ソースを編集]
- 予定通り引退し、欧州で繁殖牝馬入りしていた。
- 横山典弘がマスコミ不信になることはなかった。
- しかしホクトベガの教訓が無くなるため、横山典弘の息子2人のお手馬が2023年に史実よりも(ryな状態になってしまう。
ナリタブライアン[編集 | ソースを編集]
- 産駒から重賞馬を出していた。
- 後継種牡馬もおそらく出ていた。
- 早田牧場の経営状況はもう少しマシなものになっていた。
- 早田牧場は現在も存続していたかも。
- その場合、天栄ファーム(早田牧場が設立した)はノーザンファーム所有ではなくなるため、史実ほどノーザンファーム1強にならなかった可能性がある。
- ただ存続した場合、ビワハイジがあれほど繁殖牝馬として成功したかは微妙。
- 早田牧場からノーザンファームに移動後にブエナビスタを産んだので…。
- 早田牧場は現在も存続していたかも。
サイレンススズカ[編集 | ソースを編集]
- 1990年後半はおろか、2000年前半まで最強馬として君臨していた。
- グラスワンダー・スペシャルウィーク・エルコンドルパサー・テイエムオペラオーと競馬史に残る死闘を繰り広げた。
- 1998年の有馬記念は、間違いなく、単勝は1~1.数倍の圧倒的人気になっていた。
- 1998年11月1日の第118回天皇賞(秋)では、実史でゴールに上位入線した馬に対し「中央競馬ワイド中継」で「(タイムで)天皇賞レベルに達していない」と酷評される事も無かった。
- 同日放送のフジテレビ「スーパー競馬」でMCの斎藤陽子が感極まる事も無く、普通に進行していた。
- 同じくCX「スーパー競馬」で実況の塩原恒夫の名ポエム「沈黙の日曜日」は生まれなかった。
- 杉本清の「私の夢はサイレンスズカです」もなかった。
- 同レースでの馬連が万馬券にはならなかった(実史の馬連は『6-10』で、1万2210円ついた。当時は馬単・3連複・3連単は無い)。
- 最も有力なサンデーサイレンスの後継種牡馬になっていた。
- そのぶんアグネスタキオンやスペシャルウィークの評価は下がっていた。
- ステイゴールドは種牡馬入りさえ微妙なところ。
- そして消え飛ぶステゴ一族・・・
- ディープインパクトも評価は下がっていた。
- ステイゴールドは種牡馬入りさえ微妙なところ。
- そのぶんアグネスタキオンやスペシャルウィークの評価は下がっていた。
- 武豊が主戦騎手のままであれば、史実(2013年)よりも少し早くGI通算100勝を達成していた。
- 武豊がスペシャルウィークを選び、南井克巳が主戦になってたかもしれない。(宝塚記念は南井騎乗)
- 或いは河内洋。
- 武豊がスペシャルウィークを選び、南井克巳が主戦になってたかもしれない。(宝塚記念は南井騎乗)
- 死んだ年の有馬でセイウンスカイと超絶ハイペースを展開
- 或いは香港カップを勝っていた
- 最強世代はこちらにシフトしていた
- サニーブライアンの項でも言ったけど、この世代、1983年世代に類似したところがあるし、短距離と牝馬に関しては層の厚さは同等以上なので
- アニメ版ウマ娘の展開が変わっていた可能性があった。
- 変わるとしたら天皇賞秋勝利し現役を継続した場合、勝利してもレース後故障発覚→引退だったり、レース中故障も一命を取り止めた場合はそのまま。
- ゲーム版のメインストーリーも。
- 北杜夫の著書のドクトルマンボウ遺言書の前書きのところでサイレンススズカの安楽死に触れなかった。
- 正式タイトルは「マンボウ遺言書」。
- 流石にエルコンドルパサーと一緒に凱旋門賞に行くのは夢見過ぎ?
- 1000メートル55秒台は普通にあった。
- 2003天皇賞秋が引退レースとなり、3頭でハイペースになった。
シンボリインディ[編集 | ソースを編集]
- 2002年ぐらいまでは現役を続けていた。
- GIは厳しいかもしれないが、GⅡ・GⅢなら複数勝っていたかも。
- 産駒からも重賞勝利馬を出していた。
サンデーサイレンス[編集 | ソースを編集]
- 今でも産駒が生まれまくっている。
- 非SS系種牡馬の地位がもう少し上がっていた。
- 流石に2010年前後には引退して功労馬になっていたとは思う。
エルコンドルパサー[編集 | ソースを編集]
- キングカメハメハと共にミスプロ系種牡馬の先頭に立っていた。
- モンジューの産駒とエルコンの産駒で凱旋門賞リベンジマッチ(勿論、鞍上はマイケル・キネーンと蛯名正義)。
エアシャカール[編集 | ソースを編集]
- サンデーサイレンス×ボールドルーラー系のため、アグネスタキオンのようにダートでも走る馬を出したかもしれない。
- 重賞勝ち馬も出したと思われる。
アドマイヤベガ[編集 | ソースを編集]
- 同じ父、母父を持つハーツクライの種牡馬成績は下がっていた。
- シュヴァルグラン、リスグラシューあたりはアドマイヤベガ産駒になっていたかもしれない。
ナリタトップロード[編集 | ソースを編集]
- ベッラレイア以外にも中央で重賞馬を出していた。
- ディクタス→サッカーボーイの父系は令和の時代でも健在していた。
ラインクラフト[編集 | ソースを編集]
- マイル路線でなおも活躍していた。
- 産駒からも重賞馬を出していた。
コスモサンビーム[編集 | ソースを編集]
- マイル短距離戦線の主役となっていた。
- ロードカナロアより先に日本馬として香港スプリントを初制覇していたかもしれない。
ゴルトブリッツ[編集 | ソースを編集]
- コパノリッキー、ニホンピロアワーズ、ローマンレジェンドと共にダート戦線の主役となっていた。
- ホッコータルマエのGI(JpnI)勝利数が2つぐらい減っていた。
ジョワドヴィーヴル[編集 | ソースを編集]
- ジェンティルドンナの戦績がもう少し下がっていた。
- 桜花賞と秋華賞は勝てなかったかも知れない(オークスは史実通りか)。
トレーディングレザー[編集 | ソースを編集]
- 日本に種牡馬として輸入されていた。
- 東京競馬場の高速馬場化はさほど問題視されなかった。
- 2018年のジャパンカップは2分22秒~23秒のタイムで決着していた。
- ジャパンカップに外国馬が参戦しないといった事態も回避できていただろう。
シャケトラ[編集 | ソースを編集]
- 2019年の古馬戦線の主役に躍り出ていた。
- 天皇賞秋でアーモンドアイに勝利していたかもしれない。
- 間違いなく天皇賞春には勝利していた。フィエールマンの代わりに凱旋門賞へ遠征していただろう。
- フィエールマンは国内に専念、秋はオールカマー→ジャパンカップ→有馬記念というローテをとっていた。
シーオブクラス[編集 | ソースを編集]
- もし疝痛を起こさず現役を続行していたらあと1~2勝はGIを取れていた。
- もしナッソーSに出走していたらディアドラは敗れていた。
- 凱旋門賞に出ていたら3着ぐらいには入っていたかも。
- 疝痛が悪化せずに治療できていたら繁殖牝馬として日本に輸入されていた。
ドゥラメンテ[編集 | ソースを編集]
- 後10年は種牡馬をやれていた。
- 間違いなくポストディープのリーディングサイアーの筆頭格になっていた。
- タイトルホルダー、スターズオンアース、リバティアイランドとどんどんクラシックでの活躍馬を出し続けたので種付け料が2千万の大台まで行っていた。