もし三国志が○○だったら
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官渡の戦いが○○だったら[編集 | ソースを編集]
実史では曹操が華北の覇権を握る契機となった官渡の戦いですがあり得たifを考えて見ましょう
袁紹が勝っていたら[編集 | ソースを編集]
- そののま袁紹が華北を手に入れて曹操は僅か数州を支配する勢力として衰退する
- 曹操の後ろ盾が無くなる以上、漢王室という概念がなあなあになって周王室末期と同じ状態になる。
- 天下統一とはだれも考えず、ちょろちょろ領土の奪い合う群雄割拠の時代がしばらく続くようになる。
両者膠着状態のまま決着がつかなかったら[編集 | ソースを編集]
- 曹操・袁紹の両勢力が膠着状態のまま続くため現実の三国時代は第2次戦国時代と呼ばれるようになる
- 曹操・袁紹のこう着状態を後目に馬騰が中国北西部を制圧、曹操、袁紹、孫権、劉備に続く勢力として北西部で勢力を保持し続ける
袁紹が献帝を奉戴していたら[編集 | ソースを編集]
官渡の戦いの頃に、別働隊で許を攻撃して献帝を奪取していた場合です。
- 袁紹は、献帝奉戴で満足して油断してしまう。
- 曹操の同行如何によっては、また動乱が長く続くだけ。
- 官渡の合戦後に、あっさりと簒奪してしまう。
- それを受けて、劉表など劉姓の勢力が、漢の後継を称してそれぞれ独自に帝位を称していたかも。
蜀が荊州を奪われなかったら[編集 | ソースを編集]
- =蜀呉同盟が破談しなかったら である。
- 劉備・関羽・張飛・劉封・関平は死なずに済んだ。
- 洛陽長安同時攻撃もあり得たから、呉の動きによっては、魏は滅亡していたかも知れない。
- 魏攻めの前に呉の存在を危惧した蜀の首脳陣は馬超・馬岱・向寵・厳顔・法正・黄権等を荊州に派遣し、彼らに呉攻めを指示。関羽自らは荊州の守備継続。
曹丕が禅譲を要求せずに漢王朝が存続していたら[編集 | ソースを編集]
後漢王朝末期、曹操の息子である曹丕は献帝に退位と自分へ皇帝の位を譲るように要求し、ここに漢王朝は滅亡します。その後の中国で劉備が蜀にて漢王朝再興、三国時代(三国志)に突入し後の歴代王朝が禅譲を連発して、中国の歴代王朝が欧州諸国と比べて(長く続いて300年ほど)短い理由の一つになります。ではもし曹丕が日本の藤原氏のように漢王朝を傀儡化する道を選び(曹丕の妹が献帝の正室にもなっているの不可能ではないはず)漢王朝が存続していたら後の歴史はどうなっていたでしょうか?
全般[編集 | ソースを編集]
- 曹一族は曹丕の死後、頭首が若死に連発するなどで急速に衰える
- そのため実史通り司馬一族が台頭、漢王朝を傀儡化する
- 司馬昭と司馬炎は漢王朝の優秀な宰相という形で歴史に名を残す
- 漢王朝があると司馬氏は所詮魏の陪臣だから、そこまで大きな顔はできないと思う。
- 曹丕が死んだら司馬懿は曹氏に遠慮する理由がなくなる
- そのため実史通り司馬一族が台頭、漢王朝を傀儡化する
- 漢王朝が存続するため「三国志」という名前の歴史書が書かれる事は無い
- 三国志演義も存在しないため劉備や諸葛孔明の活躍が地味になる
- 関羽廟も存在しない
- 呂布がバケモノみたいな武人にならない
- 姜維はタカ派の暴走軍人にような扱いで終わっていた
- 劉禅もそれほど無能に書かれなかった
- 三国志演義も存在しないため劉備や諸葛孔明の活躍が地味になる
- 三国時代が有名にならないので歴史といえば戦国と幕末一遍になる
- 中国史への関心も薄くなっていた
- 中国史の人気度は良くてヨーロッパ史並み、下手したらイラン史並みだった。
- もちろんコーエーの三國志シリーズも存在しない
- 真・三國無双が発売されないのでコーエーの肥大化も起きてない
- 「ガンダム無双」や「TROY無双」も出ていないかも。
- 実史よりも早く戦国無双が発売されていて2011年現在は6作品まで発売されている
- 当然「恋姫無双(夢想)」も作られない。でももしかしたら「水滸伝」をモチーフにしたギャルゲーが発売されていたかも。
- 真・三國無双が発売されないのでコーエーの肥大化も起きてない
- 歴史シュミレーションといえば今も「信長の野望」一遍になっていた
- 「太閤立志伝」か「蒼き狼と白き牝鹿」の作品が今でも出てるか「ローマ帝国形成期」か「楚漢戦争」を扱った作品が出ていた
- 禅譲という考えが起きないので南朝では漢王朝が割と長く存続する
- 唐王朝も実史より長く続き、唐の朝廷を各勢力が奪い合い各地の豪族が唐を傀儡化する形で中国を再統一していたかも
- この場合、唐が実史の宋のような役割を果たす
- 北魏(鮮卑系だが自主的に漢化)は征服王朝のような扱いを受けていた
- 恐らく漢の皇族は日本の天皇のような存在になっていたかも。
南朝(漢王朝)が北伐に成功していたら[編集 | ソースを編集]
ここは漢王朝が南朝として続き(実史では晋が最初の南朝)し、その後北伐に成功して中国を再統一した場合を考えましょう
- 中国の英訳はChinaでは無くhanの方が有名になっていた
- よって支那ではなく「漢地」「漢大陸」の方が有名になっていた
- 実史の唐分裂後の五代十国時代でも滅亡せずに存続していたかも
- モンゴルに滅ぼされるまで皇帝は劉一族の子孫(日本では源氏ではないと将軍になれないように)ではないと即位できないというしきたりが出来ていた
- ベトナム(グエン朝)や朝鮮(李朝)は王室の家系図を改ざんして劉一族の子孫の血を多数継いでいた事にして皇帝即位を正当化したかも
- 朱元璋(明王朝)も同様のことをして劉一族の子孫を名乗っていた
- よって朱元璋の王朝も自国の国号に「漢」を名乗っていた
- 漢王朝を滅ぼしたのでモンゴル帝国の残虐非道が中国人によってより書かれていた
- チンギス・ハンは中国でも現実以上に侵略者扱いされていた。
- 辛亥革命で成立した国名も「中華民国」ではなく「大漢民国(略称:漢国)」になってた
- 読みが「かんこく」なので「漢国」と「韓国」の区別がややこしい事になる
- 「中国」や「中華」はあくまでも自国の美称になる
- 袁世凱の皇帝即位は無かった
- 二十一ヶ条の要求もなかった。
- 溥儀(宣統帝)は国外追放されていた(トルコの最後のスルタンであるメフメト6世みたいに)
- そして日本に持ち上げられ満州国を建国するんですね。
蜀が魏を滅ぼしていたら[編集 | ソースを編集]
- 魏の滅亡後、蜀と呉の並立状態となるが、すぐに北方の異民族が侵攻し、魏の旧領を占領。その結果、後期三国時代が始まり、そのまま南北朝時代に移行する。
- 山陽公・劉協の存在は無かったことにされる。
- 蜀史倭人伝が書かれる。
- それを言うなら漢志倭人伝だろう、正式名称は漢で蜀や蜀漢と言う名前は後世の歴史家がつけた名前だし、劉備が洛陽に遷都して漢を再興したと思います。
- ある意味では、周大荒氏の小説「反三国志」以上にスゴい状況になりそう。
- 前漢・後漢ではなく、前漢・中漢・後漢と呼ばれる。
- 漢の時代が全体で600年近く場合は中国の英訳が「China」ではなく「hann」になっていた
- あるいは伯漢、仲漢、叔漢とかになっていたかもしれない。
- 支那よりも漢地の方が有名になっていた
- 漢の時代が全体で600年近く場合は中国の英訳が「China」ではなく「hann」になっていた
- 劉禅がどういう評価になるか興味津々。案外名君と呼ばれたりして。
- 実史でも、あの弱体な蜀漢を、40年もの間平和裡に保ち得ているわけで……軍事センスは無くとも、意外と守成の名君であったのかもしれない。
- 実際白い布のような人(周囲に染まりやすいという意味)と称されていたんだし、優秀な官僚がいれば名君として歴史に残っていたのかも。
- 呉を亡ぼすのは劉禅の次の代でしょうな。
- 現実的な線を考えると蜀が荊州を保持しつつ、もっとも成功の可能性が高かった第1次北伐が成功!長安・洛陽を制圧、諸葛孔明の死亡前後で黄河以南を制圧し本格的に統一へ動くって形かな
- そういう情勢になれば孫氏政権も蜀=漢と天下の覇権を争うよりも江南の地域支配権の維持を優先する方が得策だと方針転換して、帝号を放棄した上で漢(蜀)帝に朝貢して「呉王」の冊封を受けて、自治権を確保する方針を取る公算が大きい。要するにこの時点で、孫氏を滅ぼすことなく、名目的には「漢朝による三度目(高祖と光武帝に続き)の天下統一」が達成されることとなる。
- 劉諶が天下統一して貞観の治をやったりして。
- 劉禅の後継は劉[王睿]だからそれはなさそう
- 実史でも、あの弱体な蜀漢を、40年もの間平和裡に保ち得ているわけで……軍事センスは無くとも、意外と守成の名君であったのかもしれない。
- 曹丕はナントカ公として封じられ天寿をまっとうする。ナントカ公の地位は代々受け継がれるが、子孫には大して実力ある人材も出ないので、そのうち忘れられる。
- 封土はなるべく中央から遠ざけるべく、朝鮮半島の「楽浪公」くらいに冷遇する。卑弥呼を継ぐ倭の小国群は曹家の楽浪公にまず挨拶してから中央に向かう。後世の韓国人の多くは曹家の末裔を自称するようになる。
- 曹一族の誰か(曹植とか?)を担いで叛乱をもくろんだ司馬仲達は処刑される。
- 魏の滅亡は曹叡以降だろう。
- 現在の中国の領域は『漢人民共和国』となり、天安門には劉備の肖像画が掲げられる。
街亭の戦い後に馬謖が処刑されなかったら[編集 | ソースを編集]
- それでも馬謖は後の李厳のように失脚して庶民に落とされていた。
- 諸葛亮の存命中か死後に復帰していたかもしれんが、後継者として政治を主導したのは蒋・費の二人であった。
- 諸葛亮は敗戦を全て自分の責任としてやはり降格を申し出ていた。
- 泣いて馬謖を斬るの故事は存在しない
- 逆に、斬っておくべきだったと後世の歴史家どもに言われてしまう。
- 向朗が処罰されるという事は無かった。
蜀滅亡時、蜀が魏に対し徹底抗戦していたら[編集 | ソースを編集]
劉禅が降伏せず徹底抗戦していたと仮定します。
- 劉禅の評価は現在よりもマシに。
- 黄皓も。
- 滅亡国の理で、扱いがもっと酷くなるかも。
- 鍾会・姜維・諸葛瞻などが蜀の義士として評価される。
- 鍾会は曹操の家臣ですが。
- どさくさにまぎれて寝返る。
- 成都陥落後は(当時の)南蛮の地域からさらに南方にまで避難し、現在のタイやミャンマーはそのまま劉家の子孫を戴く君主国となって、今なお存続している。
○○の場面が関羽でなく趙雲だったら[編集 | ソースを編集]
- 赤壁の戦いでの曹操との対戦相手
- 曹操をかなり追い詰めた可能性大。
- 荊州への任官
- 孔明の教えに従い、孫権と和しただろう。
- 下手したら曹操の死後、魏は蜀呉から攻撃され領土をかなり削られていたかもしれない。
- ひたすら動かずに守りに専念。
- 例え、戦没したとしても無駄な夷陵の戦いに劉備は挑まなかっただろう。
- その分魏延が益々増長することになりそうだ。
- 夷陵の戦いは関羽の敵討ではなく荊州奪回がメインなのでそこは変わらないだろう。
龐徳が蜀の劉備に降伏していたら[編集 | ソースを編集]
- 馬超と共に降伏
- 劉備に馬超と同格扱い・重要され、漢中の戦いでは蜀将として先陣を切って出陣し、漢中太守となる。
あの人物が早逝していたら[編集 | ソースを編集]
- 趙雲
- 劉禅が長阪で死んでしまうので劉封が後継ぎになれたか?
- 実際、関羽と張飛が反対しているので、劉永か劉理の繰り上げになっていた。
- 名実ともに、魏延が五虎将軍の一人に入っていた。
- 司馬懿
- 北伐の結果はもう少し違ったものになったかも。
- おそらく出師の表の辺りで司馬懿が追放ではなく処刑されていたと考えると長安までは落とせていたかもしれない。
- 少なくとも晋王朝は存在しない。
- 死せる孔明誰も走らせず
- 孫権
- 孫登より先に逝った場合、呉は魏のように短命君主が次々代わる国に。
- そもそも皇帝になったのが40代なので皇帝にもなっていないかも。
- 孫亮、孫休は誕生していなかった。
- 二宮事件が発生していない
- 姜維
- 無茶な北伐を繰り返す人がいなくなるので、蜀の滅亡がもう少し遅くなったはず。
- 蜀と魏の滅亡順が入れ替わっていた。
覇王・孫策が生き続けていたら[編集 | ソースを編集]
- 苛烈な猛スピードの勢いで一気に荊州・蜀を電撃制覇。その勢いで西涼まで攻め上って滅ぼし、袁紹と組んで劉備曹操連合軍を滅ぼし、最後には袁紹と激突して大規模な南北戦争に勝利。孫策が天下統一。
- 皇帝を名乗った孫策に対し、諸葛亮が挙兵して反乱。
関羽が呉に降伏していたら[編集 | ソースを編集]
三国時代の猛将関羽は、樊城で負けた際に呉に捕らえられました。結局、関羽は呉に降るのを拒み、息子の関平と供に斬首されてしまいました。ではもし関羽が呉に降っていたら?
- 夷陵の戦いは起こらなかった、かもしれない…
- 劉封も張飛も死なずに済んだ。
- 結果的に劉備ももう少し長く生きられた。
- それどころか呪われないので呂蒙や曹操すら長生きできた。
- 結果的に劉備ももう少し長く生きられた。
- やっぱし対魏戦で活躍するのだろうか?
- 心の梁を折ってしまい、ろくに使い物にならなかったりして。
- 元々矢傷を受けていたし、程なく現役を退いていたかも。
- おそらく腑抜けているはず。赤壁前夜の徐庶みたいな感じ。
- 死後に神格化されることはなく、関帝廟も存在していない。
- 現実の于禁と同じ事になっていたかもしれない。
- 劉備の死後、蜀に帰参することが許されて昭烈帝廟に参るが、呂蒙に降伏する関羽の絵が描かれていて憤死する。
- 現実の于禁と同じ事になっていたかもしれない。
- 関羽千里行2が敢行される。孔明が助けに来る。
- それを防ぐために呉の臣が、関羽を暗殺する。そして病死と公式発表で・・・。
関連項目[編集 | ソースを編集]
- もし古代中国が○○だったら(三国統一以降はこちらへ)
- 孫策が長生きしていたら