もしあの藩が○○だったら
(もし加賀藩の藩庁が高岡にあったらから転送)
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長州藩[編集 | ソースを編集]
藩庁が最初から山口にあったら[編集 | ソースを編集]
山口県の前身である江戸時代に成立した長州藩は江戸時代初頭に当時商業で発展していた山口を本拠地にすることを検討しますが、西軍の主流を占めていたことから江戸幕府が認めず、結局日本海側の萩へ本拠地を定めることを命じられます。
実史では幕末に長州藩の山口への藩庁移転は成立しますが仮に江戸時代初頭から山口に藩庁があったら?
- 山口市は名実と共に小京都として有名になる
- 現在の町並みは萩+山口のような感じ
- 北九州市誕生時に「西京市」という名称案は出なかった。
- いや、むしろ毛利氏の城下街建設により大内氏時代のものがなくなり、城下街色が強くなり小京都っぽさは減ると思う。
- 人口は実史の2倍近くはあった
- 最低でも30万は超えていたはず、多い場合は50万近くは人口があったかも?
- 山口県の人口とほぼ同じ人口の愛媛県の県庁所在地である松山市がそんな感じ。
- 小郡は昭和の大合併で山口市に編入されていた。
- 遅くとも大正までには市制施行できた。
- それでも下関市は県西部の拠点として発展する
- 山口市にも一つくらいはJリーグのチームがあった
- 山口は周防にあるので、「長州藩」ではなく「防州藩」と呼ばれていた。
- もちろん「萩藩」という表現もなく、郷土史では「山口藩」がもっぱら使用される。
- 山陽本線は山口駅を通っていた。
- もちろん山陽新幹線も通っていた。
- この場合小郡の知名度は現実よりも高くなかった。小郡といえばむしろ福岡県小郡市の方が有名だった。
- 萩が城下町でなければただの地方都市。萩城も城下町も藩校明倫館も松陰神社もなく、観光しどころがない。
- 観光ガイドで「萩・津和野」とひとくくりにされることもないため、津和野がもう少しだけ島根県と思ってもらえる。
- むしろ「山口・津和野」でひとくくりにされてより山口県と思われるかな?
- 観光ガイドで「萩・津和野」とひとくくりにされることもないため、津和野がもう少しだけ島根県と思ってもらえる。
- 萩に夏みかんがそんなに植えられていなかった。夏みかんは武家屋敷に植えられたものなので。
- 県道(と一部の国道)のガードレールが白色になる。
加賀藩[編集 | ソースを編集]
藩庁が高岡にあったら[編集 | ソースを編集]
加賀藩の本拠地は金沢に置かれてましたが、2代目藩主の利長が高岡への移転を構想してましたが叶わず
結局高岡は利長の隠居場所の都市として発展しました
では仮に加賀藩の高岡移転が実現していたらどうなっていたと思いますか?
- 廃藩置県で成立した県名も「金沢県」でも「石川県」でもなく「高岡県」になっていた
- 郡名由来なら「射水県」に
- 高岡が藩のほぼ中央に位置するため大石川県が存続する
- 県域は現在の石川+富山かな?
- 実史の福井県と石川県(この世界では高岡県)の統合は無かったか、福井県の離脱が早まっていたかも?
- 県の人口が増えるためもしかすると高岡市は政令指定都市になったいたかも知れない
- 高岡市郊外の海沿いが実史の富山市のように発展していた。
- 現実で射水市になっている地域が全て高岡市に含まれている。
- 鉄道管理局は金沢ではなく高岡に置かれていた。
- でも一文字に略すと被ってしまうのが悩みどころ。
- むしろ北陸鉄道管理局(略称:陸)になっていたかも。
- 北陸鉄道と加越能鉄道の社名が入れ替わっていたかもしれない。
- 北陸新幹線は高岡駅に直接乗り入れる。
- 高岡始発・終着の特急「ひだ」が存在する。
- 「加賀百万石」より「越中百万石」という表現が広く使われる。
- この作品はもっと短いタイトルになっていた。
- ゆるゆりに高岡城が登場していた。
薩摩藩[編集 | ソースを編集]
太田川の治水工事をしていたら[編集 | ソースを編集]
- 広島が水害から救われていた。
- そのため広島は鹿児島を尊敬し、広島県と鹿児島県は友好的な関係に。
- カープやサンフレッチェのキャンプは鹿児島で開催されていた。
- 北別府選手はカープで歓迎的に見られていた。
- 広島県に住む鹿児島県出身者が現実より多かった。
- 逆に鹿児島に住む広島被爆者も多かった。
- 八・六水害の後には8月6日が広島県と鹿児島県の交流追悼日になっていた。
- 広島発鹿児島中央行き新幹線も設定されていた。
- そのため広島は鹿児島を尊敬し、広島県と鹿児島県は友好的な関係に。
長岡藩[編集 | ソースを編集]
上越地方以外の越後全域を支配していたら[編集 | ソースを編集]
- 石高は60万石と日本屈指の大藩になっていた。
- 新潟はこの藩の支配下に入るため、開港場にならなかった。
- せいぜい上越レベル。
- 高田藩も上越地方を支配する中藩として16万石位あった。
- 明治維新後、長岡に県庁が置かれ、人口80万の本州日本海側最大の都市として発展。
- 県名も長岡県あたりに。
- 明治期には十大都市に入っていた。
- 言うまでもなく越後藩と呼ばれていた。
松本藩[編集 | ソースを編集]
信濃全域を支配していたら[編集 | ソースを編集]
- 石高は60万石とこちらも日本屈指の大藩になっていた。
- 長野は発展せず上田レベルで松本との対立もなかった。
- 松本市は人口60万人と鹿児島レベルまでに発展。
- 冬季オリンピックは松本で開催された。
- 松本に県庁が置かれ、松本県になっていた。
- 松本城が史実より豪華になる。
- 言うまでもなく信濃藩と呼ばれていた。