もし東海道本線が稲荷経由となっていたら
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東海道本線[編集 | ソースを編集]
- 大津は寂れていた。
- というより近江を統治する県の県庁が大津ではなく彦根か長浜に置かれていた。
- 京阪大津線がある程度の競争力を持っていた。
- 京都市営地下鉄東西線も昭和のうちに開通し、京阪京津線との直通運転も昭和のうちに実施されていた。また、山科-浜大津間は勾配の緩いトンネル新線に付け替えられ、場合によっては浜大津駅も移転していた。
- 大津市内の併用軌道が残っていた場合、2023年現在も大津祭曳山と電車の並走を見ることができた。
- 現実より利用客が多かったので運休にはできないため。
- 大津市内の併用軌道が残っていた場合、2023年現在も大津祭曳山と電車の並走を見ることができた。
- 京都市営地下鉄東西線も昭和のうちに開通し、京阪京津線との直通運転も昭和のうちに実施されていた。また、山科-浜大津間は勾配の緩いトンネル新線に付け替えられ、場合によっては浜大津駅も移転していた。
- 稲荷駅がターミナル化していて、新快速が停車していた。
- 京阪伏見稲荷駅も乗換駅として重要になり、特急が停車していた。
- それでも東福寺駅には新快速は停車しない。
- 名神高速道路や名古屋急行電鉄はどこのルートを通っていたんだろうか。
- 恐らく大山崎から現実の京滋パイパスのルートをたどり、宇治市内から醍醐を経て京都東インターで現実の経路に合流していただろう。
- 京都南インターは現実より南側の久御山町あたりに作られていた。
- 名古屋急行電鉄(阪急京都線)のルートは大宮から河原町、祇園四条を経て東山の下をトンネルで抜け、御陵、山科(現在のJR山科駅と同じ)を通り、山科以東は現在のJR東海道線のルートで膳所に抜けるようになっていたと思われる。
- 恐らく大山崎から現実の京滋パイパスのルートをたどり、宇治市内から醍醐を経て京都東インターで現実の経路に合流していただろう。
- 大阪や京都から滋賀県は現実よりも距離が長くなっていた。
- 東海道新幹線が現実通りのルートをたどっていた場合、滋賀県内から京阪神へ行くのに新幹線を使う人が多くなっていた。びわ湖栗東駅も早期に開業していたかもしれない。
- 滋賀県が京阪のベッドタウンとして発展することはなかった。
- 山科駅は地下鉄東西線小野駅あたりの場所にある。
- 膳所駅が今でも大津駅のままで、大津市の中心は膳所駅周辺へ移っていた。
- 京阪神の快速電車の80系の後継は113系ではなく抑速ブレーキ付きの115系が投入されていた。
湖西線[編集 | ソースを編集]
- 大谷から分岐していた。
- あるいは京都ー山科間は湖西線のルートになっていた。
- この場合、現実の山科駅は新山科駅と名乗っていた。
- 江若鉄道は史実通り湖西線の建設とともに廃止されていた。
- あるいは京都ー山科間は湖西線のルートになっていた。
- そのまま片町線経由になっていた。
奈良鉄道→奈良線[編集 | ソースを編集]
- 上記に反するが国有化後も付け替えられなかったかもしれない。(桃山駅以北は現在の近鉄京都線のルート。)
- 付け替えがあったら、奈良線は稲荷ー木津の路線だった。
- 実史より早く電化されていたかもしれない。
奈良電気鉄道→近鉄京都線[編集 | ソースを編集]
- 別ルートで京都に向かっていたかもしれない。
- または丹波橋駅から京阪電車に乗り入れていた。
- その場合、奈良電気鉄道は京阪と統合していたかもしれない。
- 地下鉄烏丸線は丹波橋から建設されていた。
- そして地下鉄と直通運転時に京阪の乗り入れが廃止、特急が国際会館まで乗り入れていた。
- あるいは烏丸線の京都以南は近鉄の手によって建設されていた。
- 開業自体史実よりも早かったかも。近鉄京都駅は現実と異なり地下駅となり、大阪難波駅と同じように相対式ホーム+島式ホームの2面3線ホームとなっていた。そのうち1線が特急用ホームとなっている。