もし江川問題が○○だったら

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江川卓のプロ入りを巡っては、様々な問題が発生しました。もし、史実と異なる展開だったら?

1977年までに江川がプロ入りした場合[編集 | ソースを編集]

  1. もちろん「空白の1日」や「エガワル」という言葉は誕生しなかった。
    • 嫌われものの御三家「江川・ピーマン・北の湖」という言葉も誕生しなかった。
  2. 小林繁は引退するまで巨人で活躍。
    • いや、小林さんは既に女性問題でトレードされるのは時間の問題だった。江川事件で早まっただけ、いずれ巨人から放出されてた。
    • 江川のおかげで、小林は炎上せずに済んだということか?江川は「小林さんに申し訳ない」とずっと思っていて、某酒造メーカーがおぜん立てしたCM対談で正式に謝罪しているが、小林は「(江川のせいではないから)君は悪くない」と気にしていない態度をとっているが、ひょっとしてホッとしたのかもしれない。
  3. 1978年ドラフトで、巨人は誰を獲っていたのだろうか・・・?
    • 落合博満が巨人入りしていた。
      • 落合博満が中日監督に就任することは無かった。
      • 牛島和彦は現役最終まで中日。
      • 巨人のチーム事情を考えると、落合は外野にコンバートされていたかも。
      • しかし巨人が落合を育てきれたとは思えない。中途半端な起用で、不本意なシーズンを5年くらい送ったあと、三宅宗源との交換でロッテにトレード→そこで真価発揮か?
      • 何だかんだで、入団一年目、OBの金田に批判される一方でOBの張本には絶賛される。前者を嫌い、後者を慕うようになり史実のロッテ時代のような数字を残す。
        • ブーマーではなくバースと三冠王争いを繰り広げる。
        • セリーグ投手になれているため正田、篠塚を差し置いて、また古田を差し置いて右打者としては7回の首位打者になる。
        • 三冠王は結局3回(85年か86年と90年から92年の中で)
      • 「ミラクルジャイアンツ童夢くん」で魔球を打つ悪役として登場しなかった。
        • 古田敦也あたりが魔球を打っていたか?
  4. テレビ埼玉が日本テレビ制作の巨人主催試合のトップ&リレーナイターを1979年に打ち切ることはなかった。

73年に阪急に入団していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 史実より5年長くプレーしていたので200勝はしていたかも。
    • 右肩の疲労骨折(史実だと大学2年)が起きないとすれば、300勝も行けたんじゃ?
  2. 大学に進学しなかったので443奪三振の記録は生まれなかった。
  3. 阪急はパリーグでV10を達成させていた。
    • 当時は山田久志や福本豊がいた。
    • 阪急は現在に至るまで身売りされなかったかもしれない。
      • この場合本拠地を京都に移していたかも。
  4. 74年は阪急がリーグ優勝していた。
    • 中日との日本シリーズも制していた可能性大。
  5. 阪急戦のテレビ中継が増えた。
    • よって、山田・福本・加藤秀らは実力相応の人気と一般的知名度を得ていた。
    • サンテレビジョンは阪神戦を中継できない火曜日と木曜日と土曜日でも阪急戦を中継しており、中継数が史実よりも多くなっていた。
  6. なぜか「去る山田、そして福本、江川・・・」となって阪急消滅とともに引退する。
    • そして史実の山田や福本と同様、オリックスでコーチを務めていたかも。
  7. 南海の野村監督が目の敵にする。
  8. その後、作新から阪急→オリックスに指名される選手も何人か出ていた。
  9. 西宮球場の観客動員も史実よりも増えていた。
    • (史実では1986年)観客動員100万人突破も史実よりも早く達成したかも。
  10. その後、1979年オフにトレードで巨人に行っていたかも。
    • 1987年オフに蓑田浩二とともにもしくは、蓑田の代わりに移籍していた可能性もあり得る。
    • それとも、1985年オフに定岡正二とのトレードで移籍していたかも。
    • 藤城和明氏とのトレードで移籍していた可能性もあり得る。
    • 1988年オフに移籍していた可能性もあり得る。
  11. 2001年オフに仰木彬氏の後任監督として、オリックスの監督に就任していた可能性もある。
    • その代わりに石毛宏典氏は楽天の監督に就任していた。
  12. 引退後は、日本テレビの解説者ではなく、フジテレビ・関西テレビの解説者になっていた。
    • プロ野球ニュースに出演していた。
    • 巨人に移籍していたら、史実通り日本テレビの解説者になっていた。
    • 掛布雅之氏と同様に読売テレビの解説者になっていた可能性もあり得る。
  13. 1974年にパ・リーグの新人王を獲得していたかもしれない。
  14. 法政大学では、鎗田英男氏や佃正樹氏らの登板機会が史実よりも多くなっていた。
    • そして、宿敵・明治大学の島岡吉郎監督が、合宿所のトイレにまで「江川の高めストレートは捨てろ!」という指示の貼り紙を掲げて、打倒江川に精魂を傾ける機会もなかった。
  15. 阪急電鉄のCMに出演していた。また、同社のイメージキャラクターになっていた。
  16. 70~80年代の宝塚歌劇団の看板スターだった寿ひずるさんは、歌舞伎の五代目・坂東八十助丈(当時⇒のちの十代目・坂東三津五郎丈、故人)ではなく江川さんと結婚したかもしれない。その場合、当代の二代目・坂東巳之助丈は生まれていず、かわりに母娘二代のタカラジェンヌが誕生していたかも?
  17. 阪急の身売りがなかったか遅れていた。

73年ドラフトで巨人が指名していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人はうまく説き伏せることができたので、入団していた可能性がある。
    • 入団したら、今日まで、巨人はドラフト一位指名されて拒否した人は一人もいなかった。
  2. 阪急は別の選手を指名するとしたら、誰を指名していたのだろうか?
    • 投手力補強のために藤沢公也あたりを指名していた。(史実では近鉄から4位指名を受けたが拒否している)
  3. 引退後に巨人監督に就任していた可能性はとても高い。

77年にクラウンに入団していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 今頃はパリーグのどこかの球団で監督をやっている。
  2. 江川は1991年頃巨人に移籍して現役を終えた。
    • その前に鹿取と交換されるのでは。
  3. 森監督退任後、東尾ではなく江川が西武の監督を務めた。
    • 松坂の説得も江川が行っていた。
  4. 西武はV10を成し遂げていた。
  5. 西武バスが一時期日産ディーゼルで統一されることもなかった。
    • 日産ディーゼルの他に三菱ふそう日野いすゞのバスが見ることが出来た。
      • 根拠は?江川とバスメーカーは何も関係がないようだが。
        • 史実では江川がアメリカ留学中に三菱商事の現地駐在員宅に滞在中で、西武が江川と入団交渉しようとして門前払いされたことに対する抗議。
      • 実際は1975年から78年までは三菱ふそうしか入れていなかったので、その後もふそう主体だった可能性も。
    • 共同運行会社の高速バス(特に新潟交通・越後交通・頸城自動車・富山地方鉄道・加越能鉄道・北陸鉄道・西日本JRバス・三重交通)も、開設当初時は三菱ふそう・日野・いすゞ製のバスだった。
    • 子会社の近江鉄道のバスもふそう主体で、日野やいすゞも見られた可能性が高い。
  6. 「スポーツうるぐす」が存在しないので日テレの平日のスポーツニュース(かつての「スポーツMAX」や「すぽんちゅ」など)は土日も同じタイトルで放送していた。
  7. 「ザ・サンデー」の巨人のコーナーで解説役をしているのが江川ではなく中畑。
  8. ライオンズの移転が遅れていた。
  9. 広岡監督と衝突していた。
  10. 79,80年の江川の教育係を野村克也が行っていた。
  11. 引退後は、文化放送の解説者に就任していた。また、フジテレビもしくは、テレビ朝日の解説者にも兼任していた。
    • もしくは、TBSの解説者になっていた。
  12. クラウンガスライターの知名度向上もあり廣済堂傘下になるのもなかったか遅れていた。
  13. 同じ時期に(真弓昭信とのトレードで)入団した田淵幸一と一緒に活躍。

77年ドラフトでクラウンが指名しなかったら[編集 | ソースを編集]

  1. 当然巨人が江川卓を指名していた。
    • 山倉和博が他の球団に指名される。
      • おそらく南海が指名していた可能性が高い。その後、トレードで巨人に移籍していたかもしれない。
  2. 史実より1シーズン+2ヶ月(江川事件による出場停止の分)長くプレーしていたので150勝はしていた。
    • 出場停止じゃなくて、巨人が自主的に課した自粛ですよ。
  3. なぜかライオンズが「弱虫だ」と批判されていた。
  4. 西武が球団を買ってない可能性も。堤が「江川の交渉権」を魅力に感じていたのは事実。
  5. 1981年の沢村賞は西本ではなく江川だった。
  6. 史実通りに、巨人が山倉和博氏を指名した場合、阪急が指名していた。

77年ドラフトから入札方式になっていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 江川はクラウンと巨人から1位指名を受けていた。
    • で、結局クラウンがとったら現実と同じ。
    • ヤクルトや横浜大洋も指名したかも。
    • っていうか、投手が欲しい球団は全部指名する。
      • クラウン、本当は江川を指名したくなかったという説がある。(パリーグ上層部の圧力に屈したと)

西武身売り後に入団を表明したら[編集 | ソースを編集]

  1. 所沢移転初期のライオンズの目玉として活躍。
    • 黄金時代は多少なりとも伸びていた。
    • 野村・田淵のいずれかは獲得していない。
  2. 85年ドラフトで西武は清原を指名しなかったか

78年ドラフト[編集 | ソースを編集]

「空白の一日」がなかったら[編集 | ソースを編集]

  1. 順当なら江川は巨人が単独指名、巨人が江川で他球団と競合し外した場合→外れ1位もしくは2位で落合博満。
    • 巨人3位は鹿取、4位は松沼弟を指名か?
  2. 巨人が抽選に外れた場合、江川は拒否してまた来年・・・と不毛な展開が続いていた。
    • その場合、江川の所属はずっと「作新学院職員」?
      • プロを諦めてロス五輪を目指したかも。

阪神以外が交渉権を獲得していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 「阪神タイガースの小林繁」は誕生しなかった。
  2. コミッショナー裁定で巨人は江川の指名を禁じられた。
    • それがなかった場合、「拒否→翌年またドラフトで指名→拒否」が江川が巨人、最悪でもヤクルトか大洋に指名されるまで続いていた。
  3. 江川の成績は現実よりもっと落ちていただろう。
  4. 江川が「指名された球団に一旦入団→巨人へトレード」となった場合、巨人の誰かがトレードされていた。
    • 阪神以外は全てパリーグなので、仮に巨人の誰かがトレードされることになっても、史実の小林繁の時のような大損はしない。
      • 仮に小林繁がトレードされることになっても、史実程の大損はしない。
南海
  1. おそらく背番号は10番台のいずれかだった。
  2. 野村兼任監督の最後の大仕事と言われていた。
近鉄
  1. (トレードされたと仮定して)小林繁の投手コーチ就任が早まる。
  2. いずれにせよ日本一を達成できた。
ロッテ
  1. 福間納はこの時点で阪神入り。
    • 深沢恵雄がロッテにトレード移籍することもなかった。
      • 1984年の阪神はもう少しいい成績を残していた。
  2. 法大同期の袴田英利と再びバッテリーを組んだ。
    • 袴田の引退が村田兆治と同時ではなかった。

史実で江川を指名しなかった球団が指名していたら[編集 | ソースを編集]

「在京セ球団」を希望していた以上大洋・ヤクルトなら問題なく入団していたかもしれない。

大洋
  1. 江川の活躍で1979年は大洋がリーグ優勝していた。その場合広島の黄金時代到来が遅れていたか下手したら到来しなかったかもしれない。
  2. こんなことになってたかもしれない。
    • 1984年は江川卓・遠藤一彦がチーム内で最多勝争いを繰り広げた。もしかしたら遠藤が史実の西本聖に当たるポジションとなっていたかもしれない。
      • 少なくとも最下位に落ちることはなかった。関根潤三監督も辞任せず、田代富雄⇔レオン・リー、山下大輔⇔高木豊のコンバートも行われなかった。
    • 1983年は遠藤・江川の2本柱を軸に守護神・斉藤明夫の活躍もあって優勝できていた。
  3. 江川はエースとして大洋ホエールズ黄金時代の屋台骨を担い、引退後はベイスターズの監督・コーチを務めていた。1998年の優勝時にもユニフォームを着ていたかもしれない。
    • 現役も長く続け200勝の達成もあったか。
  4. 江川が史実通り背番号30を背負っていた場合、彼の引退後に野村弘樹・佐々木主浩・斎藤隆・三浦大輔のうち誰かがそれを継いでいたかもしれない。
    • 継ぐとしたら斎藤隆か三浦だろう。(佐々木は「2」に拘っていたし野村は左腕)
  5. 法政大時代の先輩に当たる髙浦美佐緒と再びバッテリーを組んでいた。
広島
  1. セ・リーグではあるが江川から「広島は遠い」と言われて入団拒否→トレード。
  2. 小林がトレードされていた場合、カープが史実よりずっと早くリーグ3連覇を達成する原動力になっていた。
    • 北別府学・池谷公二郎・山根和夫・江夏豊とともに赤ヘル強力投手陣の一角となっていた。
  3. 長野久義が丸佳浩のFA補償で巨人から移籍した際の「選手冥利に尽きます」という言葉が史実以上に大きく取り上げられていた。
  4. 小林は引退後に広島でコーチを務めていた…だろうが外様なので流石に監督まではできないか。
  5. 木田勇を指名して拒否されることはなく、木田は横浜大洋か阪急に入団していた。(在京でない阪急が交渉権を得た場合入団拒否していたかもしれないが)
中日
  1. 阪神・広島ほど遠くはないが在京球団でもないため江川からは入団拒否されていただろう。
  2. 小林がトレードされていた場合は移籍先の中日で巨人キラー星野仙一と意気投合した。「燃えよドラゴンズ!」では小林繁が大きく取り上げられた。
    • 小林の活躍次第では1979年にリーグ優勝できていたかもしれない。
      • 宇野ヘディング事件で星野がグラブを叩きつけた遠因となった「どちらが巨人を先に完封できるか」という賭けには小松辰雄だけでなく、小林も加わっていた。
  3. 小林は引退後に星野監督の下で中日投手コーチを務めたり在名局(CBC・東海テレビ/東海ラジオなど)で解説者を務めたりした。
    • 史実通り西本聖が1988年オフに巨人から中日へトレードされた場合、小林とはコーチと選手という立場の違いはあれど新旧巨人のエース格投手(しかも両者とも江川と因縁がある)が同じ中日のユニフォームを着ていたかもしれない。
      • (星野にとって明大の先輩に当たる)池田英俊は中日ではなく古巣・広島の投手コーチに復帰していた。
  4. 巨人と中日の因縁がまた1つ増えることになり、中日ファンが史実よりさらにアンチ巨人色を強めることとなった。
ヤクルト
  1. エースとして、活躍していた。
    • 尾花高夫とともに1980年代のヤクルトのダブルエースを担っていた。ヤクルトの成績も史実より向上し、1980年あたりはリーグ優勝できていた可能性もあった。
  2. ヤクルトのCMに出演していた。
  3. 史実より長くプレーしていた。
  4. 引退後はヤクルトの監督を務めていた可能性がある。
阪急(1977年度ドラフト会議or1978年度ドラフト会議で指名した場合)
  1. 1973年度のドラフト会議におけるリベンジとして、指名していた。
  2. 1984年の日本シリーズでは、日本一になっていた。
    • 1978年の日本シリーズも確実に日本一になっていた。
  3. 観客動員100万人突破が史実よりも早まっていた。
  4. 1987年オフに蓑田浩二氏に代わりに江川卓氏が金銭トレードで巨人に移籍していた。
  5. 山口高志氏が史実より長くプレーしていたかもしれない。
  6. そもそも「在京セ・リーグ球団以外は拒否」という前提だから阪急には入団していないのではないだろうか?結局こちらの場合でも小林がトレードされていた可能性もあるが。

阪神に入団していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 江川が阪神のエースとして活躍し、1979~1985年の間に何度か優勝していた。
    • もちろん1985年の日本一にも貢献。
    • 逆に巨人の優勝回数は減っていた。
    • 暗黒時代突入も無かった・・・はず。
  2. 掛布雅之との同級生コンビが実現していた。
    • 投打の柱となりその後も根強い人気があった。
  3. いくらなんでも9年で引退はしなかったはず。
    • 衰えが見えた途端にあっさり巨人に押し付けたりして。
    • こういうせこいというかうまく手を抜く選手の場合、阪神では息長く活躍しそうではあるのだが。
  4. それでも「ほんまは巨人に行きたかったんやないか?」とネタにされていた。
  5. 背番号は入団当初は史実通り3番を付けるが、ゆくゆくは投手らしい番号に変更されていただろう。可能性があったのは史実で小林さんが付けていた19番あたりか?
    • 安仁屋宗八の広島復帰後に18番か、長谷川勉の引退後に28番を付けていたかも。
  6. 阪神の監督就任もあったかも。
  7. 後年になって巨人入団を熱望していながら不本意ながら西武に入団した清原和博と何かと比較されていた。

いずれにしろ[編集 | ソースを編集]

  1. 2004年に放映された某酒造メーカーのCMで、江川と小林が競演する事が無かった。