政治体制
ナビゲーションに移動
検索に移動
古今東西の政治体制をバカにもわかるように考察する。
全般[編集 | ソースを編集]
- 「寿司食べたい」「焼肉食べたい」で意見が対立した場合…
- 民主主義(民主制):民衆同士あるいはその代表者同士が話し合いを行って「中華にしよう」という別案で一致したり、「両方食べられるすたみな太郎に行こう」という折衷案を見つけ出す。どうしてもまとまらない場合には多数決の原理に従う。
- 専制:一部の権力者が独断で「イタリアンにします」と決める。民衆の意見を聞く場合でも、最終的な意思決定は一部の権力者が行う。
- 貴族制:権力が複数の家系やグループで相伝される場合
- 君主制:権力が単一または少数の家系やグループで相伝される場合。君主の肩書により王政や帝政と呼ばれる。
- 僭主制:誰でも実力(経済力・武力・人望など)をもって、革命やクーデター以外の方法で「一部の権力者」になれる場合
- 僭主が長期間権力を維持すれば君主制や貴族制に移行する
- 独裁制:「一部の権力者」の人数が相対的に少ない場合
- 神権政治:聖職者が「神からのお告げによりフレンチに決まりました」とする。
- 本当に神からのお告げがあったのか、聖職者がそう思い込んでいるだけなのか、聖職者が神を騙っているのかの区別はつかない。専制あるいは独裁制における支配の道具として神託が使われている場合との区別は、聖職者含む構成員のどれだけが神託を信じているか、だけであろう。
- 「民主主義 vs 共産主義」という形で並べられることがあるが、「主義」と付くだけで同じ並びではない。
- どのような政治体制をとったとしても人間が二人以上存在すれば必ず対立が発生するので、全員が満足できる政治というのは不可能である。
- 対立も闘争も存在しない世界を作るには全人類の消滅か、そうでなければ人類補完計画の発動しか方法はないと思われる。
民主主義[編集 | ソースを編集]
自分たちのことは自分たちで決めるという考え方。
- 基本的には話し合いで物事を決めるが、まとまらない場合は多数決の原理をもって意思決定を行う
- 愚者が多数派である場合は衆愚政治となってしまう。
- 小規模かつ離脱が容易なコミュニティがひとたび衆愚政治に陥ると、「愚者ではない構成員」にとっての最善の選択は「コミュニティからの離脱」となるため、コミュニティの末路は破滅か消滅である。
- 大規模あるいは離脱が困難なコミュニティであれば、衆愚政治に陥ったとしても人の入れ替わりで愚者が多数派でなくなったり、クーデターなり革命なりで状況が変わって回復することもあり得る。
- 話し合いよりも多数決の比重が大きく、たった一票差であっても多数派が絶対正義となるのが日本的民主主義だと思う
- 民主主義風味ではあるのだが、その実はプロレタリア独裁ともいえるだろうか。
- 小学校の学級会あたりから発生していると思われるので「学級会的民主主義」と呼ぼうか。
- 学級会的民主主義においては教師が認める範囲を超えた結論に至ると強制的に取り消されるのでそれを「箱庭民主主義」とでも呼ぼうか。
- 普通選挙が行われているということだけでは民主主義とはいえない。選出された代表者が多数決だけで意思決定を行っているのであれば、それは「過半数による専制」である。
専制[編集 | ソースを編集]
一部の権力者がすべてを決めること。
- 「一部の権力者」が有能かつ腐敗しないのであればこれ以上ないほど理想的な政治体制である。
- 江戸時代の日本は一見して君主制(あるいは貴族制)だが、その実は小規模な君主制国家による連邦(幕藩体制)であったので200年間崩壊せずにいられたのかもしれない。
- 専制が不可欠あるいは当然の場合もある
- 資本主義における私有財産の管理に専制は不可欠である
- 自宅に見知らぬ他人が押しかけて、「この家を民主化する」などと抜かして居座ろうものなら、速攻110番である。
- 中学校や高校を「民主化」して、意思決定のすべてを生徒総会で行うようにしたらどうなるかは明らかである。
- 多くの(というか自分が見てきた)教師は、子供たちに生徒会やらクラス委員やらの「なんちゃって民主主義」を与えて民主主義のすばらしさを語るだけでその限界には一切言及しない。
- 中学や高校の「民主化」が非現実的なのは明らかだが、大学自治会ならこれが可能だと考える人もいる。
- 資本主義における私有財産の管理に専制は不可欠である