箱根温泉国

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箱根温泉国
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国旗
国旗なし
未定

基本情報
略称 箱根国
首都 強羅
最大都市 強羅
民族 日本人
元首 田村信之助
首相 薮井愚彦
公用語 日本語
通貨 円、銭
国内総生産(GDP) 8432万円
時間帯 UTC+9
国歌 温泉国箱根賛歌
国鳥 キツツキ
国花 ハコネバラ
国魚 内陸国にそんなのない
国是 是平和国家実化也
建国・独立 西暦2007年8月1日

箱根温泉国とは、箱根を主な領土とする国である。

概要[編集 | ソースを編集]

箱根は世界でも有数の温泉観光地であり、毎年多数の観光客が訪れる。しかし、最近は観光客が減少してきた。そのため、独立国家として再建し、観光客を取り戻そうとして誕生したのがこの箱根温泉国である。

首都[編集 | ソースを編集]

首都は強羅で、そこに各重要機関のほとんどが集まっている。また強羅には、首都としての人の出入りが激しいため多くの観光ホテルが集まっている。

主要都市[編集 | ソースを編集]

首都の強羅を除く主要都市は湯本県と桃源台県である。湯本市は国境を接している。

行政区画[編集 | ソースを編集]

箱根温泉国は府と県で構成されている。以下に箱根温泉国の府県を記す。

  • 強羅府
  • 湯本県
  • 桃源台県
  • 大平台県
  • 早雲山県

なお、強羅は当初、日本に倣って強羅都とする予定だったが、「なんとなく語感が悪い」という反発を受けて強羅府となった。

国の歴史[編集 | ソースを編集]

2004年、箱根町は観光客の低下による収入減の可能性を指摘した。今後様々な対策が練られるものの観光客増にはつながらず、むしろそれらの資金投入により赤字となっていた。そして町民の間では財政破綻するとの悪い噂が立ち始めていた。そこで持ち上がったのは、箱根町独立国家化計画である。町では様々な政策が制限される。国になれば日本の法律やその他規則に従う必要がないので、開発が簡単になると考えたのだ。2006年8月、箱根町は箱根国としての独立を日本に申し出た。当初は断られたが、最後は半ば強引な説得で承諾された。そして2007年8月1日、箱根温泉国は正式に誕生したのである。 近年、特務機関によるジオフロントの計画が持ち上がっている

国名の由来[編集 | ソースを編集]

独立が認められた箱根町は、町民に国名を公募した。協議にあがった国名としては「箱根国」「箱根帝国」「箱根温泉国」「ゆったりはこね国」「芦ノ湖国」があったが、最終的に箱根温泉国に決定した。

政治[編集 | ソースを編集]

箱根温泉国の政治は、箱根温泉国憲法(2007年8月1日公布、同日施行)に則って行われる。箱根温泉国憲法は以下の3つを3大原理としている。

  • 自由と平等を認める「人権尊重」
  • 主権が国民に由来する「国民主権」
  • 観光の元である温泉を守る「温泉尊重」

外交[編集 | ソースを編集]

隣接している日本との関係が深い。独立初日から観光客や貨物が多く出入りした。ただし、一応独立しているため観光にはパスポートが必要で、それを持ち込まず入国できなかったケースが多発した。ちなみに日本と箱根温泉国はビザなしでよい。

小田原~強羅を結ぶ箱根登山鉄道は、入生田~箱根湯本間に国境があるため、強羅方面は入生田、小田原方面は箱根湯本でパスポートの掲示を求められる。もし掲示しなかった場合、強制的に降ろされる。またそれは国境を跨ぐ道路も同じである。

交通[編集 | ソースを編集]

箱根温泉国は、国際交通としては前述の箱根登山鉄道、道路類である。また、独立国家となったことで、観光客や企業を誘致しようと桃源台に箱根国際空港(仮名)を建設する計画がある。完成すれば多くの収入が入るとのことだが、一部の国民は反対しており、計画は進んでいない。

国境を跨ぐ道路は国道1号と国道138号、小田原箱根道路がある。また、有料道路の箱根ターンパイク等がある。いずれも国境でパスポート掲示が必要となる。なお、道路名称は2007年8月現在変わってない。

報道[編集 | ソースを編集]

箱根温泉国唯一の放送機関はテレビの「箱根国営放送」がある。視聴できるのは一応箱根温泉国内だけなのだが、電波漏れのため小田原・南足柄・御殿場の全域・裾野・三島の一部地域で普通に視聴できる。

事件[編集 | ソースを編集]

湯本事件[編集 | ソースを編集]

箱根温泉国は独立以来、乗客が国境隣接駅でのパスポート確認の遅さにいらつくことが多かった。そして2007年8月14日、箱根湯本駅でのパスポート確認にいつも以上に時間がかかり、発射時刻を過ぎてもまだ発車しなかった。挙句の果てに「この列車は10分ほど遅れます」というアナウンスが流れ、これにキレた乗客が暴動を起こした。駅員が止めるものの逆に殴る・蹴る・などの暴動を加えられ負傷した。その後も暴動はとどまるところを知らず、更に悪化した。最終的に警察によって事態は沈静化したが、延べ20人が逮捕された。この事件は独立後初の大規模な混乱となり、お隣の日本でも大きく報じられた。