高校野球/1990年代

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1990年[編集 | ソースを編集]

1990年春[編集 | ソースを編集]

  1. 準優勝の「ミラクル新田」が強烈な印象を残した。
    • 2回戦の日大藤沢戦で四番・宮下が逆転サヨナラ3ラン、準決勝の北陽戦では宮下の同点2ランで追いつき延長17回に池田のサヨナラホームランなど快進撃を見せたが、決勝で力尽きた。
  2. 優勝は過去2年優勝校に敗れていた近大付だった。
    • 雨の影響で決勝の開始が2時間以上遅れた。
  3. 入場行進曲は前年のヒット曲ではなく、この年開催された『国際花と緑の博覧会』のイメージソングだった。

1990年夏[編集 | ソースを編集]

  1. この大会から参加校が4000校を超えた(4027校)。
  2. 沖縄水産が沖縄県勢として初めて決勝に進出。天理との決勝戦も終始押し気味に運んだが、0-1で惜敗。
    • 沖水は翌年も決勝に進出したが準優勝。沖縄県勢の夏の甲子園優勝は20年後の興南まで待つことになる。
  3. 中村紀洋(渋谷)・鈴木一朗(愛工大名電)・松井秀喜(星稜)といった後の名選手たちが出場した大会でもある。
    • 他にも北川博敏(大宮東)・村松有人(星稜)・武藤孝司(横浜商業)など、後にプロで活躍した選手たちも出場した。
    • 中村が所属していた渋谷は無名の高校だったが大阪府大会の決勝で上宮に勝ち、公立高校としては8年ぶりの甲子園出場を決めた。
  4. 9回裏二死ランナーなしから怒涛の連打で逆転サヨナラ勝ちという劇的な試合もあった(2回戦の山陽対葛生戦)。

1991年[編集 | ソースを編集]

1991年春[編集 | ソースを編集]

  1. 決勝は松商学園と広陵という65年前と同じ顔合わせとなり、広陵がサヨナラ勝ちで返り討ちにし、その65年前以来の選抜優勝を果たした。
  2. 準優勝した松商学園のエースは上田佳範。初戦では愛工大名電の鈴木一朗(イチロー)に投げ勝ち、打つ方も5打数ノーヒットに抑えた。
  3. 市川(山梨)が選抜では初となる2試合連続逆転サヨナラ勝ち。
  4. 大阪桐蔭が甲子園初登場。初戦の仙台育英戦は、エース和田がノーヒットノーランを達成するなど10-0で圧勝。衝撃的な甲子園デビューだった。

1991年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 沖縄水産が2年連続準優勝。肘を疲労骨折しながら投げ続けた大野倫投手が痛々しかった。
  2. 選抜で実力の高さを見せた大阪桐蔭が初出場で初優勝。
  3. 3回戦の松商学園vs四日市工戦は、延長16回の大熱戦。最後はサヨナラデッドボールで決着。

1992年[編集 | ソースを編集]

1992年春[編集 | ソースを編集]

  1. ラッキーゾーンが撤去されて初めての大会。
    • 案の定、ホームランは前年の18本から7本に激減(そのうち1本はランニングホームランだった)。
      • そんな中、一人で3本のホームランを打った松井秀喜はモノが違いすぎた。
  2. 三沢興一がエースだった帝京が決勝で東海大相模を破って選抜初優勝。
    • 決勝は9回裏2アウト、同点を狙った走者がライトからの好返球でタッチアウトとなり優勝決定、という劇的な幕切れに。

1992年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 松井5敬遠が起きた大会。
  2. バルセロナ五輪の影響を考慮し、例年より遅い8月10日の開幕となった。また、雨天順延が2日あったため、決勝は(当時)史上最も遅い8月25日に行われた。
  3. 優勝投手の西日本短大付・森尾は5試合をすべて完投、失点は準々決勝の9回表の1点だけで4完封というほぼ完璧な投球内容だった。
    • 意外だが、それ以来高校野球で福岡県勢の優勝はない(春は1度もない)。
    • 余談ながら同年阪神でブレイクした新庄剛志の母校でもある(新庄自身は甲子園出場経験なし)。
  4. 県岐阜商は2試合連続サヨナラ勝ちの後、3戦目で逆にサヨナラ負けを喫した。
  5. 開幕戦でサヨナラ負けした桐蔭学園。サヨナラ負けの瞬間、マウンドに上がっていたのは高橋由伸(当時2年)だった。

1993年[編集 | ソースを編集]

1993年春[編集 | ソースを編集]

  1. この年から『今ありて』が3代目の大会歌となり、この大会の開会式の入場行進曲として演奏された。
  2. 記念大会のため、34校が出場した。
  3. 優勝は4年前の決勝で痛恨の逆転負けを喫した上宮。
    • 吉川・牧野の二人に投手を軸に、攻撃面では従来のイメージとは違い、ホームランはなく、17犠打に16盗塁を記録するなど、機動力を駆使しての優勝だった。
  4. エラーが前年より30個も増え、暴投、捕逸が21試合で記録されるなど、全般的に締まりのない大会となった。

1993年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 冷夏の影響か地方大会で雨天順延が頻発。全ての代表校が出揃ったのは開会式5日前の8月3日だった。
    • 地方大会で波乱が続出したこともあり、初出場が15校というフレッシュな大会に。
  2. 混戦の本大会を制したのは育英(兵庫)。大会新記録の30個の犠打を決め、6試合で僅かに4つのエラーと守備も安定していた。
    • ただ甲子園のお膝元にも関わらず2022年現在夏の大会の優勝はこの年が最後…。それ以来兵庫県勢の優勝は夏に関してはない(春は2002年に報徳学園が優勝)。
      • 21世紀に入って関東勢の優勝が多くなったのも要因だろう。同様に福岡県勢も1992年夏の西日本短大附属以来優勝していない(こちらは春は1度も優勝経験なし)。
  3. 智弁和歌山が甲子園初勝利をあげたのはこの大会だった。
  4. 鹿児島商工は、2回戦の堀越戦で降雨によるコールド勝ち、次の3回戦の常総学院戦では4-0でリードしていた試合が降雨によりノーゲームにされ再試合で負けてしまい、まさに雨に翻弄された格好になった。

1994年[編集 | ソースを編集]

1994年春[編集 | ソースを編集]

  1. 金沢の中野真博が大会史上二人目となる完全試合を達成。
  2. 優勝は前年夏に甲子園初勝利を挙げた智弁和歌山。対戦相手はすべて優勝または準優勝の経験校だった。
  3. 準々決勝の小倉東と桑名西の試合の3回表、小倉東の攻撃中、ミスジャッジにより4ボール2ストライクから二塁打という珍事が発生。
    • 二塁打を打った選手は悪送球二つが重なりホームイン、先制点となった。桑名西が勝ったからよかったものの、小倉東が1点差で勝ったりしたら大問題になっていただろう。
    • ちなみにこの試合は、現時点で選抜では最後の無四死球試合となっている。
      • 2023年の沖縄尚学vs大垣日大戦で、選抜では29年ぶりに無四死球試合が記録された。

1994年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 光高校の選手宣誓が有名となった。
  2. 決勝は佐賀商業と樟南による九州対決となった。
    • 佐賀商業が決勝初の満塁ホームランで優勝。
      • 13年後も同じ佐賀県の佐賀北高校が決勝満塁ホームランで優勝。
    • 佐賀商の2年生エース・峯は6試合を一人で投げ抜いて優勝投手となった。夏の大会での全試合完投の優勝投手は現時点で彼が最後。
  3. 2回戦では砂川北と北海による史上初の北海道対決が実現。

1995年[編集 | ソースを編集]

1995年春[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神・淡路大震災の影響で開催が危ぶまれた大会。
    • 被災者や復興工事関係者への配慮のため、出場校の選手は貸切バスではなく電車を利用しての球場入り・応援団バスの甲子園球場付近への乗り入れ・応援時の楽器使用を自粛などが呼びかけられた。
      • 更に開幕直前の3月20日に発生した地下鉄サリン事件の影響で、入場者には厳重な手荷物検査が実施された。
  2. ライト側のフェンスには高野連と毎日新聞社による「復興・勇気・希望」、レフト側のフェンスは兵庫県と西宮市による「全国の皆さん、温かいご支援感謝します。」というメッセージが掲示された。
  3. 優勝は初出場の観音寺中央(香川)。真っ白いユニフォームが印象的だった。
    • その観音寺中央に決勝で敗れたものの銚子商が久々に復活。初戦では後にプロ入りした澤井良輔とPL学園の福留孝介が対決し、ともにホームランを放ち甲子園を沸かせた。
      • ほかにも、荒木雅博、森野将彦、藤本敦士、鶴岡一成など、後にプロ入りして活躍する選手が数多く出場した大会だった。
  4. この回から両耳の打撃用ヘルメットの着用が義務化。
  5. 宇部商が初戦で初回に6点取られるも逆転勝ち。またしてもミラクル宇部商伝説が生まれた。
  6. 兵庫から3校選出された。

1995年夏[編集 | ソースを編集]

  1. この年から4試合日の1試合目の試合開始時間が8時30分と従来よりも30分繰り下げに。
    • ちなみに第1回抽選で1回戦から3回戦までの対戦校が決まるシステムになったのはこの年から。
  2. 北国のチームが奮闘した大会。ベスト8の半分が北陸・東北・北海道勢だった。
    • 2回戦で15‐13の歴史に残る大打撃戦を制した旭川実や、好投手がいた柳川に延長15回の死闘の末に勝った敦賀気比、そして後に金農旋風で世間を騒がせた金足農などが入った。
      • 旭川実に関しては1点ビハインドの9回2アウトで平凡なサードゴロがイレギュラーしてヒットになる幸運もあった。地元では「ミラクル旭実」とも呼ばれた。
    • そんな中で星稜が石川県勢初の決勝進出。2年生エース山本省吾は決勝で左足を痛めながらも好投したが惜しくも敗れて準優勝。
  3. こういった北国の健闘が光った中で優勝したのは帝京。
    • だが、東東京大会でのコールド回避による得点拒否や、初戦の初出場日南学園戦でのラフプレーなどが原因でヒール役を買って出てしまう。
      • この日南学園をはじめ、後に甲子園の常連となる盛岡大付や山梨学院大付、98年に準優勝した京都成章など近年では多い15校が初出場となった。
  4. 福留孝介が初戦で2HRなどの活躍でPL学園をベスト8に導いた。
    • 全国制覇も狙えたが準々決勝で智弁学園にまさかの敗戦。ちなみにこれが智弁勢初の夏の甲子園準決勝進出となった。
  5. 春夏連覇を狙った観音寺中央がサヨナラ負けのピンチの場面で内野5人シフトを仕掛ける。が、実らず無念のサヨナラ負け。

1996年[編集 | ソースを編集]

1996年春[編集 | ソースを編集]

  1. 初日から夏春連覇を狙った帝京が初出場の岡山城東に敗れる波乱の幕開け。
    • 勢いに乗った岡山城東はベスト4まで進んだ。
      • このほか、隣県の広島高陽東もベスト4まで進んだ。両方とも初出場の公立校。
    • 帝京は去年のセンバツに続いて2年連続でまさかの初戦敗退となった。
  2. 鹿児島実が決勝で2年前の優勝校智弁和歌山を下して鹿児島県勢初優勝を果たす。
  3. ホームランはたったの5本。これは18本も出た前年の3分の1以下だった。
  4. 東海大仰星が毎回安打を放ちながら完封負け。

1996年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 「奇跡のバックホーム」で全て持って行かれた大会。
    • 奇跡のバックホームばかり取り上げられているが、これも色んな奇跡が重なって起きた。
      • 9回裏に1点ビハインドの場面で2アウトから1年生バッターのホームランで熊本工が追いつき、10回裏1アウト満塁で一打サヨナラのチャンスで松山商がライトを変えた直後にライトへ大飛球が飛び誰もが犠牲フライでサヨナラ勝ちかと思った場面で、ライトの矢野正嗣から約80メートルのノーバウンド返球で3塁ランナーをホームでアウトにした。文字で表すのは難しいけど、映像を見ればその凄さがわかるはず。
    • 松山商は大正・昭和・平成と3元号で優勝を果たした。
      • この年は松山商や熊本工を含めてベスト4が全て公立校で占められた。
  2. 三重海星が2回戦で早稲田実に逆転サヨナラ2ランで劇的勝利。学校では今でも伝説になっているらしい。
    • 逆転サヨナラ2ランを打った稲垣正史はその後大学へ進学したが、白血病を発病し23歳の若さで亡くなってしまった。
  3. 丹波慎也が亡くなって1年経った命日の日、横浜が試合をするも9回に6点取られてまさかの逆転負け。
    • この試合に勝利した福井商はその後ベスト4まで勝ち進み、福井県勢2年連続のベスト4入りとなった。
  4. 女子マネージャーが記録員としてベンチ入りした初めての大会。
  5. 関本賢太郎、後藤武敏、石井義人と後に代打の切り札としてプロで活躍する選手が出場した大会。

1997年[編集 | ソースを編集]

1997年春[編集 | ソースを編集]

  1. 雨の影響をもろに受けた結果、決勝戦が午前中に行われることに。
    • その決勝戦は中京大中京と天理の名門対決に。結果天理が勝ちセンバツ初優勝。
      • この年は天理を含め近畿勢が3校もベスト4に残った。
  2. 日高中津が分校として初めての甲子園出場を果たす。
  3. 9回2アウトからエラーでまさかの逆転劇に繋がる試合が2試合もあった。
    • 郡山と育英か…。マモノさん活躍しすぎ…。

1997年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 後に甲子園の常連となった光星学院、日本文理、履正社などが初出場した。
    • 光星学院は青森県勢甲子園初ホームランを放つも佐賀商に逆転サヨナラ負け、日本文理は優勝した智弁和歌山に19失点の大敗、履正社は1点ビハインドの9回2アウト2,3塁のチャンスでホームスチールを仕掛けるも失敗し敗戦。だが、この経験がその後の甲子園での活躍に繋がったのは言うまでもない。
  2. 平安の川口投手が活躍。ビックマウスにも注目が集まった。
    • しかし、決勝で智弁和歌山に打ち込まれ惜しくも準優勝。ちなみにこの時の智弁和歌山のキャプテンは、後にプロ入りして現在は母校で監督を務めている中谷仁監督だった。
    • ちなみに初戦で戦った県岐阜商には石原慶幸、高知商には藤川球児がいた。藤川に至っては兄との兄弟バッテリーで注目を集めた。
  3. 後にプロで活躍する当時2年生エースの和田毅と石川雅規が初戦で激突。最後は9回裏同点の場面でノーアウト満塁から和田が打者の石川に押し出し四球を与えてしまい石川に軍配が上がった。
    • まさかここから秋田県勢が夏の甲子園で10年以上勝てなくなるとは思わなかった。一方和田は翌年も甲子園に帰ってきてベスト8まで進出した。
  4. 市立船橋が甲子園史上最大の8点差をひっくり返す大逆転勝利。ブルーのユニフォームが印象的だった文徳を下した。
  5. 敦賀気比が福井県勢3年連続のベスト8進出も、準々決勝で前橋工の好走塁にやられて無念のサヨナラ負け。
    • その前橋工は2年連続ベスト4に進むもまたしても準優勝校に敗れ群馬県勢初の決勝進出を逃す。
  6. 浦添商が快進撃を見せてベスト4入り。準決勝では優勝した智弁和歌山に互角の試合を演じるも延長10回に無念のサヨナラ負け。沖縄県勢初優勝にあと一歩届かなかった。

1998年[編集 | ソースを編集]

1998年春[編集 | ソースを編集]

  1. 準決勝がともに神奈川vs大阪に。
    • 一方が松坂大輔vs上重聡、もう一方が久保康友vs館山昌平だった。
      • 勝ち上がった松坂と久保が決勝で投げ合い、松坂の完封で横浜が優勝。
        • 横浜とPLは夏も戦うが、まさかこの戦いが歴史的死闘になろうとはこの時は誰も思わなかっただろうな。
  2. 関西学院が61年ぶりに、関大一が69年ぶりに選抜に出場。
  3. 実は近畿勢はこの年8校も選ばれたが、和歌山だけ選出されなかった。

1998年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 記念大会に伴い、東京と北海道に加えて、埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫からも2校出場。
    • その中には、中居正広の母校平塚学園、JFKのK(久保田智之)擁する滑川、後に色んな意味で注目を集めるTDN擁する八千代松陰などが初出場。
  2. 開会式でジャニーズjr.がライブをした結果物議を醸す結果に。
    • 開会式では第1回から予選に出場し続けている15校が招待された。20年後にも行われている。
  3. 平成の怪物松坂大輔フィーバーに沸いた大会。
    • 準々決勝はPL学園に延長17回250球をを投げ切り完投勝利すると、登板回避(9回のみマウンドに上がった)した準決勝の明徳義塾には0-6から8回、9回でひっくり返し劇的サヨナラ勝ち。極め付きは決勝戦でノーヒットノーランを達成し春夏連覇達成。漫画でも描けないような物凄い勝ち方だった。
      • PL学園との試合は球史に残る試合だった。その一方で250球は投げすぎとの意見が増えたため、2000年より延長戦が15回にまで短縮されることになった。
      • 明徳義塾戦ではテーピングをしていた松坂が8回の猛反撃を見てテーピングを取る瞬間、甲子園が一気に盛り上がった。そして9回表マウンドに上がった松坂が3人で抑え裏のサヨナラに繋げた。
      • 準々決勝以降の戦いばかり注目されるが、それまでの戦いも楽な戦いではなかった。特に2回戦では初戦でノーヒットノーランを達成した杉内俊哉擁する鹿児島実に中盤まで抑えられていたが、最後は松坂が杉内からホームランを打つなどして何とか勝利した。
        • この年は松坂や杉内をはじめ、和田毅、村田修一、新垣渚、久保康友、森本稀哲、栗原健太、東出輝裕など多くのプロで活躍する選手が出場した。
      • 松坂に隠れがちだが、準優勝した京都成章の古岡投手もよかった。何せ初戦から決勝まで1人で投げぬいたんだから。
  4. 大会序盤は雨の影響を受けた。第1回大会以来の雨天によるコールドゲームによる引き分け再試合があった。
  5. 何度見ても宇部商藤田投手のサヨナラボークは切ないな…。
    • 延長15回の熱戦の終わりがこれだからな…。この試合に勝利した豊田大谷は次の試合で智弁和歌山の夏連覇を阻止し、その勢いでベスト4まで進んだ。
  6. レフトのラバーフェンスの隙間に腕が挟まって動けなくなる珍事があった。
    • 審判の中に本業が救急隊員の方がいて的確に救出できたとか。
  7. 富山商が逆転の報徳に満塁ホームランを浴びせ逆転勝ち。ちなみにこれが富山県勢11年ぶりの甲子園での勝利となった。
    • 他にも浜田が和田毅の活躍で島根県勢10年ぶりの夏1勝。その勢いで強豪帝京まで撃破しベスト8まで進んだ。
  8. 開幕戦は桐生第一が延長戦の末サヨナラ負け。だがこの翌年、その桐生第一が甲子園を沸かせることに。

1999年[編集 | ソースを編集]

1999年春[編集 | ソースを編集]

  1. この年から初戦の2回攻撃前にお互いの対戦校の校歌が流れるように。またセンバツ限定で第1試合前に小中学生による始球式が行われるようになった。
  2. 沖縄尚学が沖縄県勢として甲子園初優勝。紫紺の大旗がついに東シナ海を渡った。
    • 試合終了後には甲子園全体でウェーブが起きた。
    • この年の入場行進曲が沖縄出身kiroroの「長い間」だったのも何かの縁か。
    • 準決勝のPL学園戦が大熱戦だった。延長12回の死闘、エースの比嘉公也が212球の熱投で完投勝利。その彼は9年後監督として母校を再びセンバツ優勝に導くことに。
      • この年は延長戦が異様に多かった。1回戦の最後の方は4試合連続延長戦が続くことも。
  3. PLと横浜が3季連続で対戦。PLが3度目の正直を果たした。

1999年夏[編集 | ソースを編集]

  1. 好投手が多かった大会。
    • 中でも凄かったのは桐生第一の正田樹。決勝までの全試合をほとんど1人で投げぬいて去年の松坂大輔を上回る防御率1.00の驚異的な数字を残し、群馬県勢初優勝に導いた。
  2. 吉備のドカベンこと森田選手が甲子園で1番飛んだと言われる超特大ホームラン(推定飛距離150m)を放った。
    • 準決勝の智弁和歌山戦では9回1点ビハインドの場面で敬遠され、続く馬場選手が守備の際で負傷した左足の痛みをこらえて逆転サヨナラヒット。岡山理大付を岡山県勢初の夏の甲子園決勝に導いた。
      • 前年の横浜vs明徳の熱戦に隠れがちではあるが、この年の準決勝は2試合とも面白かった。次の試合も緊迫の投手戦だったし。
  3. 都立高が19年ぶりに甲子園に出場した。ここから2003年まで奇数年ごとに出場することに。
  4. 富山の新湊が0‐5で迎えた9回に一挙5点を奪いその後延長戦で勝ち越して劇的勝利。石川の小松との隣県対決を制した。
    • 勝負は下駄を履くまではわからないとはこのことを言うんだな…。小松は甲子園初勝利を思わぬ形で逃した。
  5. 鳥谷敬が甲子園初出場。甲子園のマウンドにも上がった。
    • 他にも田中賢介や鶴岡慎也もこの大会に出場した。
  6. 青森山田が青森県勢として三沢高校以来のベスト8に進出したが、なんと全試合相手が九州勢だった。
  7. 芸人のとにかく明るい安村が旭川実のメンバーとしてベンチ入りしていた。

関連項目[編集 | ソースを編集]