もしあの力士が○○だったら
- 力士の追加は(最終的な四股名の)50音順でお願いします。
- 事件関連は発生から半年間は新設禁止とさせていただきます。
テーマ別[編集 | ソースを編集]
- もしあの力士が横綱になっていたら
- もしあの力士が角界入りしなかったら
- もしあの力士が大成しなかったら
- もしあの力士にアクシデントがなかったら
- もしあの人が健在だったら/大相撲
- もしあの力士がもう少し現役を続けていたら
あ行[編集 | ソースを編集]
安藝ノ海節男[編集 | ソースを編集]
- 双葉山の連勝を止めなかったら
- 「あの一番で横綱になることはなかった」と本人が言ったから、当然横綱は無理だ(良くて大関止まり?)。
- 常ノ花の娘婿になることはないから、その後離婚して相撲協会を去ることはなかった。
- 停年(1979年5月)直前まで出羽海部屋付きの年寄として相撲協会に残る(死去したのは1979年3月)。
- 常ノ花死去後その後継者に名乗りを上げる。
曙太郎[編集 | ソースを編集]
- 四股名が「大海」のままだったら
- 千代大海は別の四股名になっていた。
- 「まけぼの」と呼ばれることはなかった。
- そのかわり大敗と呼ばれる。
- 「1年ぶりの春は曙」の名実況は生まれなかった。
- 曙貴時代ではなく大貴時代か海貴時代と呼ばれていた。
- 弟が入門することはなかった。
- 勢が大正時代以来となる一文字四股名の関取として現実以上に注目される。
- それは幕内力士としての話。十両なら1997〜1998年に嵐がいた。
- 一文字四股名の外国人関取第一号は魁だった。
- 1992年春場所で負け越していたら
1992年初場所から夏場所まで13勝2敗(西小結)→8勝7敗(東関脇)→13勝2敗 (西関脇・初優勝)の成績で翌名古屋場所に大関昇進したが、春場所は千秋楽の貴花田戦でようやく勝ち越し。もし貴花田戦に負けて負け越していたら?
- 夏場所は小結か前頭1に落とされていた。
- 夏場所で優勝しても名古屋場所は関脇に返り咲くだけ。大関昇進は少し遅れていた。
- 名古屋場所が史実通り全休だったら、翌秋場所は平幕まで落とされていた。
- 安芸ノ島が小結として千秋楽結びの一番に出場することはなかった。
- 夏場所で優勝しても名古屋場所は関脇に返り咲くだけ。大関昇進は少し遅れていた。
- その後の大関・横綱昇進が遅れた。
- 具体的検証 1992年夏13-2優勝(小結)→名古屋全休(関脇)→秋11-4(前8、史実では9勝だが幕内中位まで落ちることを考慮)→九州14-1優勝(前1)→1993年初13-2優勝(関脇)→春10-5(大関)→夏13-2(大関)→名古屋13-2優勝(大関)→秋14-1優勝(大関)→九州13-2優勝(横綱)
- 1993年名古屋場所後の横綱昇進の可能性もあり。その場合には直前2場所大関で14-1優勝→13-2優勝同点の貴ノ花との整合性から同時昇進となるだろう。
- いくらなんでも2・3場所前が平幕での大関昇進は無理があるのでは。
- 1991年の琴錦で話題に上った「関脇以下での連続優勝なら大関昇進」が適用されると思う。
- 具体的検証 1992年夏13-2優勝(小結)→名古屋全休(関脇)→秋11-4(前8、史実では9勝だが幕内中位まで落ちることを考慮)→九州14-1優勝(前1)→1993年初13-2優勝(関脇)→春10-5(大関)→夏13-2(大関)→名古屋13-2優勝(大関)→秋14-1優勝(大関)→九州13-2優勝(横綱)
- 1999年1月に引退していたら
休場していた初場所中に引退届を密かに提出したが時津風理事長に慰留された。もしそのまま引退していたら?
- 稀勢の里が横綱に昇進した際、1991年以来26年ぶりの4横綱時代到来と報道される。
- 秋場所後に引退相撲を行なった場合、若貴兄弟が休場のため横綱土俵入りは露払いを千代大海、太刀持ちを武蔵丸が務める。
- 2000年名古屋場所は魁皇、九州場所は琴光喜が優勝していた。
- 春場所の貴闘力が千秋楽を待たずに優勝を決めていた可能性がある。
- 少なくとも横綱同士の割が崩される事態は起きない。
- 春場所の貴闘力が千秋楽を待たずに優勝を決めていた可能性がある。
- 同部屋の弟弟子を横綱土俵入りで従えることは一度もなかった。
- 高見盛の十両・幕内昇進も遅れていたかも。
- 史実通り5年間の期限つきで曙親方として協会に残るが、どのみち特権が切れる2004年までに退職していた。
- 相撲界に残ったら
- 師匠の高見山から東関部屋を継いだ。
- 潮丸は部屋付き親方にとどまるが現役は長くなる。
- 潮丸の死後に高見盛が部屋を継ぐことはなかった。
- 潮丸は部屋付き親方にとどまるが現役は長くなる。
- K-1やプロレスには関わっておらず例のAAも誕生しない。
- この場合も「まけぼの」と呼ばれることはなかった。
朝潮太郎(四代目)[編集 | ソースを編集]
- 1988年名古屋場所千秋楽で負けていたら
1988年夏場所は足の怪我で途中休場。次の名古屋場所は角番で千秋楽を7勝7敗で迎え大関陥落のピンチでしたが勝って大関陥落を免れました。もし千秋楽で負けていたら
- 師匠から引退を勧告されてこの場所限りで引退した。
- 現役を続けた場合、次の秋場所で大関復帰を目指すが9勝に終わり、大関復帰は成らなくなる。
- この場所で引退した場合、10月に師匠の高砂親方が死去したため、地位と実績で朝潮が高砂を襲名できた。
- 対戦相手の北天佑が「勝ちを譲った」と思われることはなかった。
- 1981年春場所で北の湖と対戦していたら
この場所は前頭筆頭だったにも関わらず横綱北の湖との対戦がなかった。もし順当に割が組まれていたら。
- 春日野理事長の謝罪内容は休場・引退した横綱・大関陣への言及にとどまった。
- 勝っていれば北の湖は同場所以降3連続で千代の富士との千秋楽相星決戦に出たことになる。
- 翌場所の対戦は序盤に組まれた。
- 北の湖が夏〜名古屋場所に記録した連勝は20を上回った。
朝青龍明徳[編集 | ソースを編集]
- サッカー騒動を起こしていなかったら
- 2007年9月場所と11月場所は当然出場していた。
- 2場所の内、最低1場所は優勝していた。
- 場合によっては2007年の年間最多勝は朝青龍になっていた。
- 「1差で追いかける力士が千秋楽に不戦敗しての優勝決定」はなかった。
- 新入幕の豪栄道が白鵬と対戦しなかったかもしれない。
- 本田医師が有名になることはなかった。
- 王理恵との婚約で名が知られることになる。
- 内舘牧子はもう少し大人しかった。
- 中田英寿は忘れられたままだった。
- 意外と琴光喜戦の連勝ストップが早まったりして。
- 9月場所初日の賜杯返還式で高砂親方が「ツルツル親方!」と呼ばれることはなかった。
- 2010年初場所中に通行人を殴らなかったら
- 横綱審議委員会から引退勧告が出て、それを受ける形で引退することはなかった。
- あと2~3年は現役を続けた。
- 優勝回数も増えて、千代の富士と大鵬の記録を超えたかもしれない。
- 白鵬の63連勝はなかった。
- 朝青龍に勝てなかった把瑠都、鶴竜、栃煌山は白星を得ていた。
- 2001年春場所千秋楽に大関出島に勝っていたら
- 前場所千秋楽に負けて獲り損ねた敢闘賞を2度目の正直で受賞した。
- 出島が関脇に陥落し三役の空き家が減るため小結昇進が遅れる。
- 勝って三役昇進を逃す珍しいケースになっていた。
- 逆に初金星獲得は2場所早まった。
- 横綱在位時(対魁皇・千代大海)も含め「7勝7敗の大関に強い」と言われていた。
旭富士正也[編集 | ソースを編集]
- 「旭國」に改名していたら
- 大島部屋を継承していた可能性が高い。
- 史実通り伊勢ケ浜なら、伊勢ケ浜部屋の所属力士は「〇〇富士」ではなく「〇〇國」と名乗っていた。
- 照ノ富士は2代目照國となっていた。
板井圭介[編集 | ソースを編集]
- 年寄として相撲協会に残っていたら
- 師匠高鉄山の廃業に伴い大鳴戸部屋を継承。
- それ以前に「春日山」を襲名したので、陣岳が株を借りられずそのまま廃業していた。
- 外国人特派員協会での講演で八百長問題を暴露することはなかった。
- 2011年の八百長事件で過去の八百長を暴露する。その発信源が板井であることが分かり相撲協会を追われる。
- 幕下付出で初土俵を踏んでいたら
実業団時代に国体青年の部で優勝しましたが、付出申請を行わなかったため前相撲から取りました。では付出でのデビューが認められていたら?
- 前相撲からのスピード昇進や連勝記録はなかった。
- 入幕直後に低迷せず「高鐵山」の四股名が定着した可能性もある。
- 三役には20代のうちに昇進できた。
- 1度くらいは千代の富士に勝っていた。
大乃国康[編集 | ソースを編集]
- 1991年春場所千秋楽、大関霧島に勝っていたら
- 結局優勝は北勝海。後年の貴乃花バリの「感動優勝」。
- 北勝海、不屈の精神力で結びの旭富士もしくは決定戦の大乃国戦を制す。
- そして膝の怪我が更に悪化し1年以上休場。穴埋めで小錦が横綱昇進...か?
- 北勝海、不屈の精神力で結びの旭富士もしくは決定戦の大乃国戦を制す。
- もしも大乃国が逆転優勝していれば引退した91年名古屋場所も休場して再起を図るという道も許されたはず。翌年くらいまでは延命できたかもしれない。
- 霧島は11敗目を喫し、大関が優勝翌場所に残した最多敗記録(北の冨士の10敗)を更新していた。
- ガチンコ横綱でなかったら
- 少なくとも横綱としての負け越しはない。
- 横綱にはもっと早く昇進していた。
- 千代の富士戦で相手を負傷させたり、自身が怪我することもなかった。
- 八百長問題の際に再評価されることもなかった。
- 弱い横綱という印象しか残らない。
- 千代の富士の連勝を止めることはなかった。
- 板井を苦手にすることもなかった。
かさ行[編集 | ソースを編集]
鶴竜力三郎[編集 | ソースを編集]
- 2012年春場所千秋楽の豪栄道戦に勝っていたら
- 14勝1敗で史実より2年早く初優勝を果たし、大関昇進に花を添えた。
- 横綱・大関による幕内優勝の寡占は夏場所の旭天鵬ではなくここで途切れていた。
- 2014年初場所の千秋楽の本割で白鵬に敗れていたら
- 春場所で史実通り優勝していても、横綱昇進が見送られたかもしれない。
- 2018年春・夏場所に連覇してようやく昇進か?その前に連続休場で大関を陥落した恐れもあるが。
- 白鵬は全6場所全勝優勝を達成していた。
- 春場所13日目で琴奨菊に敗れるまで27連勝を記録した。
- 史実でも2015年初場所で達成しました。
- 同じ星取を記録した1986年春場所の保志が引き合いに出され「オセロなら全敗」と話題になった。
- 2014年初場所の優勝決定戦で白鵬に勝っていたら
- 鶴竜も連続優勝で横綱に昇進していたため、「横綱昇進は連続優勝が絶対条件」という不文律が解かれることは無かった。
- 稀勢の里の横綱昇進が1場所遅れていた。
柏戸剛[編集 | ソースを編集]
- 1963年秋場所千秋楽で大鵬に負けていたら
- 勝った大鵬は「血も涙もない」「情け知らず」「鬼」と叩かれていた。
- 石原慎太郎がスポーツ紙にあの一番を「八百長」と寄稿して、相撲協会から名誉毀損で訴えられることもなかった。
- 翌年春場所の2度目の柏鵬全勝対決で柏戸が大鵬に勝ち、雪辱を果たした。
- 1961年秋場所終了後に横綱に昇進していなかったら
- 「最も低い成績での昇進」「大鵬との抱き合わせ昇進」と言われることはなかった。
- 休場を繰り返した1963〜1965年に番付を大幅に下げていた。
- 下手したら照ノ富士のような番付推移を記録していた。
- 横綱になることはできないが、名大関として名を残していた。
- 1967年時点で大関に在位していれば、夏場所13-2(優勝次点)→名古屋場所14-1(優勝)の成績で横綱に推挙された可能性が高い。
- 東北新幹線開業まで塩原温泉の知名度は低かった。
- 伊勢ノ海部屋を継承していたら
1982年12月に先代柏戸の伊勢ノ海親方が亡くなった際に継承を打診されましたが、1970年に独立して鏡山部屋の師匠になっていた元横綱柏戸は固辞しました。もしこれを受け入れていたら?
- 「柏戸」を名乗った力士が伊勢ノ海部屋を継ぐ原則は守られた。
- 鏡山部屋の弟子たちは伊勢ノ海部屋に移籍する。
- 1984年秋場所の多賀竜は伊勢ノ海部屋として柏戸以来17年ぶりの幕内優勝だった。
- 優勝パレードの旗手は当時十両だった服部(後の幕内藤ノ川)が務めた。
- 1984年秋場所の多賀竜は伊勢ノ海部屋として柏戸以来17年ぶりの幕内優勝だった。
- 元小結藤ノ川は部屋付きの立川親方のままだった。
- 蔵王錦は1983年初場所の引退時に「鏡山」を襲名する。
- 1996年12月の柏戸死去後に伊勢ノ海部屋を継承したか。
- この場合、多賀竜が部屋を継ぐのは藤ノ川が停年を迎える2011年まで待つことになる。
- 史実通り北勝鬨が伊勢ノ海部屋を継承したら多賀竜は部屋持ち親方になれず、名跡も「勝ノ浦」のままだった。
- 鏡桜は別の部屋に入門していた。
- この場合、多賀竜が部屋を継ぐのは藤ノ川が停年を迎える2011年まで待つことになる。
- 多賀竜が柏戸の死後に伊勢ノ海部屋を継承した場合、2023年初場所後の停年まで部屋の師匠を続けていた(史実では2021年7月に鏡山部屋を閉鎖し伊勢ノ海部屋に移籍)。
- 土佐ノ海に「柏戸」の四股名を継いでほしいと期待する声がもっと大きかった。
北の湖敏満[編集 | ソースを編集]
- 1973年九州場所を途中休場していたら
この場所新関脇だった北の湖は12日目に足首を骨折しますが、千秋楽まで出場して10勝を挙げます。もしこの時休場していたら?
- 少なくとも翌場所後の大関昇進はない。
- 大鵬の最年少横綱昇進記録も更新できなかった。
- 四つ主体の取り口に切り替えるのが遅れた。
- 連続勝ち越しも短くなる。
- 栃錦の養子になっていたら
実子がいなかった元横綱栃錦の春日野親方(当時)は同じ一門の北の湖をかわいがり、養子に迎える意向も持っていたそうです。もし2人の養子縁組が実現していたら?
- 本名は「中田敏満」に変更。
- 師匠・三保ヶ関(増位山大志郎)との関係がやや微妙に。
- 北の湖が栃錦の後継者になり、栃錦死去後の春日野部屋が北の湖部屋になっていた。
- 北の湖の死去後は春日野部屋に戻る。
旭道山和泰[編集 | ソースを編集]
- 衆議院議員にならなかったら
- 「廃業」という言葉は今でも普通に使われていた。
- 舞の海も「廃業」扱いになっていた。
- 今でも普通に使うだろ、廃業。
- 旭道山の国会議員転向がきっかけで「廃業」はイメージが悪いということで、全て「引退」扱いになりました。
- それ以前に「廃業」というののイメージの悪さや、実際は相撲にかかわる仕事に再就職しているという例もあるので、公式では言葉をなくすチャンスのひとつだったのかもしれない。
- 旭道山の国会議員転向がきっかけで「廃業」はイメージが悪いということで、全て「引退」扱いになりました。
- 現在でも協会を去った力士は国技館で引退相撲を行えない。
- 朝青龍が現役を退いた際、双羽黒廃業事件がよりクローズアップされる。
- 相撲協会に残っていたら師匠(元・旭國)の停年後に大島部屋を継いでいた。
- 旭天鵬の帰化はないか、実際より遅れる。
- 旭秀鵬を入門させるため普通にやっていたかも、
- 旭天鵬の帰化はないか、実際より遅れる。
- 千代大海と血みどろの張り手合戦を展開する。
- 1990年春場所2日目の千代の富士戦に勝っていたら
- 千代の富士は9日目の琴錦戦で通算1000勝を達成した。
清國勝雄[編集 | ソースを編集]
- 日航123便に妻子が乗っていなかったら
- 伊勢ヶ浜部屋の衰退はなく、桐山部屋に吸収されることはなかった。
- 旭富士は自分の部屋を安治川部屋から伊勢ヶ浜部屋へ変更することもなかった。
- 恐らく甥の玉ノ国、玉乃島兄弟は伊勢ケ浜部屋に入門していた。
- 玉乃島が清国を襲名し、伊勢ケ浜部屋を継承した可能性も。
- 再婚も次男の誕生もない。
- 1964年初場所で15戦全勝していたら
- 大鵬との優勝決定戦で負ければ、千代ノ山以来「全勝しながら優勝できなかった力士」になる。
- 大勝ちしている幕内下位の力士と横綱、大関の取組が史実(1971年以降)より早く実施される。
- 優勝決定戦で勝っていたら、入幕2場所目での優勝となり、入幕3場所で優勝した佐田の山より1場所早く、昭和以降の最短記録を更新することになる(大正時代には新入幕で優勝した両國がいた)。
- 敗れた大鵬にとって最大の屈辱になり、あちこちから叩かれ、気落ちして史実より早く引退した。
- 32回の優勝や45連勝など大記録はなかった。
- 一代年寄を許されることもないため年寄「大嶽」を襲名し、大嶽部屋を創設した。
- 敗れた大鵬にとって最大の屈辱になり、あちこちから叩かれ、気落ちして史実より早く引退した。
- 史実より早く大関に昇進し、横綱に上がったかもしれない。
久島海啓太[編集 | ソースを編集]
- 高卒で入門していたら
- 実力を見るに昭和の内に大関・横綱に昇進していた。
- よって北勝海引退後の横綱不在はなく、曙や貴乃花(貴花田)の壁になっていた。
- 大横綱並みの実績を残していたら、一代年寄として久島海親方になるも2012年の死去により理事長にはなれず。
琴錦功宗[編集 | ソースを編集]
- 女性問題を起こさなかったら
- 騒動を起こした直後の場所は大関取りの場所だったので、場所後に大関に昇進できた。
- 平幕で2回も優勝することはなかった。
- とっくに年寄名跡を取得している。
琴光喜啓司[編集 | ソースを編集]
- 2002年初場所後に大関に昇進していたら
- 後に31歳3ヶ月の最年長大関昇進記録を更新することはなかった。
- 野球賭博に手を出してそれが原因で解雇されることもなかった。
- もしかしたらその勢いで横綱昇進を果たし、朝青龍の好敵手になった可能性も。
- 大関に昇進した日に起きた朝青龍のサッカー騒動で自身の大関昇進のニュースが小さく扱われることはなかった。
- 野球賭博問題がなければ
- 少なくともあと数年は大関を張っていた。
- 大関陥落後も現役を続けた場合、40歳くらいまでできたと思う。
- 魁皇引退から琴奨菊昇進までの1場所だけあった日本人大関不在場所もなかった。
- 佐渡ヶ嶽部屋から大関が3人いる状況が実現していた。
- 引退後は恐らく独立して部屋を興していた。
- まだ余力を残していたのであと1回くらいは優勝できた可能性も。
- とりあえず、「栃東以来10年云々」と言う言葉はなかった。
- 四股名を「琴光喜」ではなく「琴圭傑」か「琴吉勝」に選択していれば
- 恐らく本人が経営する焼肉屋の名前は「やみつき」ではなかった。
- 「琴汚怒」という用語も生まれることはなかった。
- 「琴吉勝」の場合、同部屋の呼出と混同される。
- 「琴圭傑」だったら消極的な相撲を取ると「琴汚傑」と揶揄される。
- 琴ノ若が現役最終戦で変化された際、「弟弟子の報い」と言われたかも。
小錦八十吉(六代目)[編集 | ソースを編集]
- 1984年秋場所千秋楽の琴風戦に勝っていたら
- この後の相撲で朝潮に敗れた多賀竜と13勝2敗同士での優勝決定戦に出場。
- 勝った場合は史上最速となる入幕2場所目での優勝を達成。
- 朝潮の援護射撃が後々まで語り継がれる。
- 本割り(6日目)同様に多賀竜が勝てば、琴風でなく多賀竜が「止め男」と称される。
- 平幕同士の決定戦が史実よりずっと早く行われる。
- 勝った場合は史上最速となる入幕2場所目での優勝を達成。
- 東関部屋へ移籍したら
高見山が高砂部屋から独立して東関部屋を創設する際、ハワイでスカウトした小錦も移籍するのではないかと噂されましたが、高砂部屋に残ったままでした。もし移籍したら?
- 高砂部屋の兄弟子だった朝潮や水戸泉との取組が組まれる。
- 幕内での外国人同士の初の取組は1992年初場所3日目の小錦-武蔵丸戦となった。
- 1988年夏場所に南海龍戦が組まれるのでは?
- 小錦の大関陥落が決定した一番の相手が曙でなかった。
- 1993年初場所で大関同士の取組がなかった。
- 佐ノ山親方として協会に残り続け2009年に東関部屋を継承した。
- 千代大海は別の年寄名跡を取得していた。
逆鉾與治郎[編集 | ソースを編集]
- 失踪事件を起こさなかったら
- 幕内上位から三役で活躍できた。
- 三賞も複数回受賞した。
- 相撲ぶりから見て技能賞も受賞した。
- 1972年の井筒部屋のお家騒動では兄弟子の関脇鶴ヶ嶺に従い、君ヶ濱部屋所属になっただろう。
- 京都でちゃんこ屋を開くことはなかった。
常幸龍貴之[編集 | ソースを編集]
- 2012年1月場所13日目に勝利していたら
- 前相撲から無敗の関取としてメディアに取り上げられた。
- 翌場所後、千代大龍とともに新入幕を果たせば「角界のハンカチ世代」と呼ばれていたかもしれない。
- 史実では稀勢の里、琴奨菊、豪栄道らが期待されていた「日本出身横綱」候補という扱いを受けた。
- 史実と同じく小結止まりであれば、「育成失敗」との声が多く上がった。
たな行[編集 | ソースを編集]
大麒麟將能[編集 | ソースを編集]
- 四股名が「麒麟児」のままだったら
史実では関脇時代の1970年夏場所に改名し、秋場所後大関昇進。もし1974年九州場所中に引退するまで「麒麟児」を名乗り続けていたら?
- 74年初場所で新十両となった麒麟児(垂沢)和春は、別の四股名を名乗っていた。
- これが「若麒麟」だったりして。
- 押尾川部屋を閉鎖しなかったら
- 2007年夏場所後に停年を迎えるまで部屋の師匠だった。
- その後は、部屋付きの不知火親方だった青葉城が継承する。
- ただし青葉城が停年となる2013年限りで閉鎖された可能性はある。
- その後は、部屋付きの不知火親方だった青葉城が継承する。
- 弟子たちが尾車部屋に移籍することはなかった。
- 若麒麟が大麻所持事件を起こして解雇されることもなかったか。
- 若兎馬の断髪式で鋏を入れた。
大徹忠晃[編集 | ソースを編集]
- 押尾川部屋への移籍が認められたら
独立騒動時に籠城した一員で当時三段目だった。
- 千代の富士戦の勝敗を巡って金剛と賭けをすることはなかった。
- 益荒雄との同部屋同時新三役が話題になる。
- 大善の再十両が遅れていた。
- 青葉城とともに「もみあげコンビ」と呼ばれた。
- 二所ノ関部屋を継承していたら
- それでも小部屋のまま。
- 若嶋津は2020年現在も松ヶ根のままだった。
貴乃花光司[編集 | ソースを編集]
- 1992年初場所千秋楽の三杉里戦に敗れていたら
- 曙が勝てば13勝2敗の優勝決定戦。
- 当時の貴花田は曙を苦手としていたため、おそらく曙が優勝していた。
- 貴花田、数場所後に初優勝。最年少優勝はあっても、未成年優勝はなかったかもしれない。
- 「勇退の伯父に餞初賜杯」の句は生まれない。
- 当時の貴花田は曙を苦手としていたため、おそらく曙が優勝していた。
- この場所の前後で小錦の成績が優勝ー1勝差の優勝次点ー優勝となるため春場所後横綱に上がった可能性がある。
- 二子山部屋と藤島部屋の合併が史実以上に批判される。
- 宮沢りえと結婚していたら
- 河野景子は2007年現在でもアナウンサー。
- プロ野球選手かJリーガーと結婚している。
- ふたりとも今の倍の体重になっている。
- りえママが横審のメンバーに。
- 男子が産まれていれば、わんぱく相撲で活躍。
- というか、景子夫人との子が現実に青山学院で相撲部に入っているという話があるんだが。
- 案外早くに離婚し、兄と同じ運命(いや、もっと悲惨か)を辿ったかもしれない。つまり、貴乃花部屋は存在しなかった。
- 師匠の娘じゃないんだし、離婚=退職or継承権喪失にはならないと思うが。
- もし20世紀中に離婚した場合、宮沢りえは芸能界に復帰しその後はほぼ史実通りの展開となる。
- 松村邦洋の「朝も稽古、昼も稽古、夜は愛する~」のネタも誕生しなかった。
- 当然宮沢りえは女優を引退していたので、「3M」(宮沢りえ・牧瀬里穂・観月ありさ)は「2M」になっていた。
- 森田剛は独身のままだったかも知れない。
- 平成時代のうちに孫もできていた可能性も。
- 宮沢喜一も結婚を祝福していた。
- 1993年名古屋場所後に横綱に昇進していたら
- 20歳11ヶ月で最年少横綱になっていた。
- 1993年九州場所(史実では7勝8敗の負け越し)はおそらく途中休場していた。
- 1994年初場所の勇み足による優勝決定はなかった。
- 琴錦が千秋楽結びの一番に出場できなかった。
- 舞の海や濱ノ嶋も金星を獲得していた。
孝乃富士(安田)忠雄[編集 | ソースを編集]
- ギャンブル依存症にならなかったら
- 借金王と呼ばれることもなかった。
- 借金問題で廃業にいたることもなかった。
- もう少し三役にいられたかもしれない。
- 大晦日の格闘技興行も史実ほど盛り上がらなかったかもしれない。
- 石井丈裕が中学の1年後輩であることが現実以上に知られていた。
- 1992年以降も関取で現役だったら2人の対談が実現した。
貴公俊剛(貴ノ富士三造)[編集 | ソースを編集]
- 2018年3月場所中に付き人に暴行していなかったら
- 休場や出直しは無かった。
- 貴乃花の立場が一気に弱まる事も無かった。
- 千賀ノ浦部屋への移籍はなかった。
- 貴ノ富士という四股名の改名もなかった。
玉乃海太三郎[編集 | ソースを編集]
- 取的時代に上海で憲兵を殴らなかったら
- 相撲界を破門され、復帰するまで10年の空白はなかった。
- 20代前半で十両に昇進し、すぐに入幕した。
- 大ノ海や琴錦と同じ位に入幕か。
- 復帰後の番付から見て大関に昇進し、横綱にまで上がったかもしれない。
- 1957年春場所後に大関昇進していたら
- マラリアで連続休場したため2場所で大関から陥落した。
- 「陥落直後に10勝で復帰できる」特例導入の契機とみなされていた。
- 同年九州場所の全勝優勝はなかった。
玉の海正洋[編集 | ソースを編集]
- 1968年夏場所後に横綱に昇進していたら
- 柏戸引退後の横綱が大鵬一人になることはなかった。
- 四股名も「玉乃島」のままだった。
- 佐田の山の引退相撲で太刀持ちを務めた。
- 北の富士より先に横綱に昇進するので、横綱の代数が史実より早く決まった。
- 大鵬の「私の地位を脅かすものは私の力で叩き潰す」発言はなかった。
千代の富士貢[編集 | ソースを編集]
- 1988年九州場所千秋楽で大乃国に勝って54連勝していたら
- 1989年初場所も大乃国以外は圧勝。千秋楽の大乃国戦に勝って69連勝(双葉山と同一1位)達成。
- 1989年春場所初日、平幕力士に圧勝で70連勝達成(単独1位)
- 小結では。
- 1989年春場所初日、平幕力士に圧勝で70連勝達成(単独1位)
- 1989年初場所千秋楽で大乃国に敗れれば68連勝止まり(双葉山まであと1勝)。
- どっちにしても千代の富士の連勝は大乃国が止める。
- 大乃国以外で考えられる力士。安芸ノ島・両国・北天佑。
- 小錦や巨砲辺りも有力候補。このリストに挙がっていない力士が止める可能性だって0ではない。
- 史実では連勝ストップ後の初黒星は1989年初場所8日目の寺尾戦。したがって連勝は61でストップする。
- 一代年寄を襲名していたら
- 引退後に年寄「千代の富士」を襲名。
- 「陣幕」や「九重」を襲名することはなかった。
- 「陣幕」は史実通りだが「九重」は北勝海が継いでいる可能性大。
- どちらかと言えば「九重」は富士乃真が継承していたと考えられる。
- 先代九重の北の富士との名跡交換とか、確執が噂されることはなかった。
- 「千代の富士部屋」が誕生していた。
- 千代大海は千代の富士部屋所属になっていた。
- 巴富士は九重部屋から千代の富士部屋に移籍したことになる。
- 千代天山も。
- 千代の富士親方の死去後は元千代大海が継承して「佐ノ山部屋」となる。
- 引退前は「八角」を所有していたのでこの名跡を他の引退力士に貸しただろう。
- 同門の支持票が増えるため理事選挙ではもっとまともに戦えた。
- 「陣幕」や「九重」を襲名することはなかった。
- 若い頃の大きすぎる取り口を続けていたら
- 小結もしくは前頭上位止まり
- 脱臼をさらに繰り返し、幕内⇔十両の力士生活。前褌引き付けダッシュする相撲は見られなかった。
- 千代の富士に歯が立たなかった琴風、若嶋津が横綱になっていたかも知れない。
- 北尾(双羽黒)は少なくとも1度は優勝し、大乃国、旭富士、小錦らの優勝回数も増えた。
- 脱臼をさらに繰り返し、幕内⇔十両の力士生活。前褌引き付けダッシュする相撲は見られなかった。
- 低く見積もって大旺(元前頭)、最高で益荒雄(元関脇)。
- 怪我で早く廃業した可能性も?
- しかし、あれだけの運動神経の持ち主。他のスポーツ界(格闘技に限らない)転向も?
- 実際にプロレス転向の計画があったらしい。
- 貴ノ花最後の対戦相手と誤解されることはなかった。
- 1979年夏場所で公傷が認められたら
1979年春場所で左肩を脱臼しましたが、手違いで公傷は認定されませんでした。もし公傷が認定されていたら?
- この場所は全休で、その分幕内復帰が遅れる。
- 史実では十両上位だったが、全休すれば幕下落ちの危機になるため3日目から出場。9勝4敗2休で幕内復帰を果たした。
- 公傷を認定しなかった親方達を見返すつもりで腕立て伏せなど筋トレに励むことはなく、取り口を変えることもなかった。
- 喫煙を続けた。
千代の山雅信[編集 | ソースを編集]
- 出羽一門に残留できたら
- 北の富士の太刀持ち露払いは出羽一門の力士が務める。
- 北の富士は「井筒部屋」でなく別の年寄名で九重部屋から独立する。
- 1974年に栃錦の理事長就任に伴い、千代の山が理事に就任する。
- 佐田の山は監事になる。
- 北の富士も1998年の理事選に当選し2002に理事長就任、2007年の停年まで協会に残った。
- 千代の富士と北勝海は出羽一門の横綱になる。
- 新大関の前の山が北の富士と稽古して負傷することもなく普通に出場できた。
天龍源一郎[編集 | ソースを編集]
- 押尾川部屋への移籍が認められたら
- プロレス転向はないので、日本のプロレス史も変わっていた。
- 関脇ぐらいは行けるか?
- 三役にまで上がったら福井県から大正時代の玉手山以来の三役力士となる。
- 大徹より先に昭和時代の福井県の三役力士になった。
- 三役にまで上がったら福井県から大正時代の玉手山以来の三役力士となる。
- 声がガラガラにならなかった。
南海龍太郎[編集 | ソースを編集]
- 1988年秋場所中の泥酔不祥事による廃業がなかったら
- うまくいって大関か?
- 入幕後の成績がイマイチな点を考えると、横綱までは望めない。武蔵丸の方が、入幕後の勢いは上だった。
- パワーだけの相撲。技巧に乏しかったことからすると大関より上は難しい。うまくいって北天佑クラスか?
- 朝潮太郎(今の高砂親方の先々代。第46代横綱)が急死せず、還暦土俵入りも無事やっていた。(実際、還暦土俵入りに使用する赤い綱を貰っていた)
- 長く現役を続け、サモア人の英雄になり、サモア人力士が多くなった
- 西十両筆頭で8勝した花ノ藤の入幕見送りが現実ほど残念がられない。
- 初の外国人力士同士の取組が小錦-曙ではなく、南海龍ー曙だったかもしれない
は行[編集 | ソースを編集]
白鵬翔[編集 | ソースを編集]
- 2006年名古屋場所後に横綱に昇進したら
新大関だった2006年夏場所優勝し、次の名古屋場所は綱取りの場所となりました。この場所白鵬は途中で2敗し14日目に朝青龍が土付かずで優勝を決めました。千秋楽白鵬は朝青龍に勝ち13勝2敗で朝青龍との差を1としましたが、横綱昇進は見送られました。この時に横綱に昇進していたら?
- 21歳4ヶ月での昇進は北の湖、大鵬についで3番目の年少昇進となった。
- 新横綱の秋場所は8勝7敗に終わった。
- 次の九州場所前に左足親指の怪我により全休したが、その次の2007年初場所は横綱のためカド番にはならない。
- よって横綱昇進後の連続出場記録は史実より短い。
- 雅山が2007年名古屋場所後に大関に再昇進した。
- 2006年名古屋では?
- 大関2場所での横綱昇進は横綱昇進の内規が出来てから最も短い昇進となった。
- 横綱初優勝が史実の横綱2場所目よりも遅れる(2回目の優勝が2007年春場所なので4場所目)。
- 魁皇の「横綱・白鵬」への初勝利が史実より早まった。
- 一代年寄が認められたら
- 宮城野部屋が白鵬部屋となった。
- 竹葉山は停年後も年寄宮城野を名乗っていた。
- 石浦が引退しても協会に残留していた。
- 「間垣」は時津風一門に戻り、豊ノ島が襲名した。
- 豊ノ島が退職することはなかった。
- 場合によっては豊ノ島が時津風部屋を継承し、土佐豊が間垣を襲名する。
- 史実では豊ノ島が襲名した井筒は鶴竜が取得した。
- 史実通り、井筒は逆鉾の娘婿の志摩ノ海が取得。鶴竜は音羽山を取得し、部屋を興した。
- むしろ、史実通り石浦が襲名した。
- 豊ノ島が退職することはなかった。
- 2024年に起きた北青鵬の暴行事件で「白鵬部屋」の看板が外され、一時的であるが智ノ花が師匠の「玉垣部屋」に書き換えられる。
- 史実では智ノ花が宮城野部屋の暫定師匠となり、この間、看板は「宮城野部屋」のままだった。その後、伊勢ヶ浜部屋が受け入れ先となった。
長谷川勝敏[編集 | ソースを編集]
- 1972年春場所後に大関に昇進していたら
- その後の成績を当てはめれば、翌年に2場所連続の負け越しがあり大関陥落。その翌場所に復帰を賭けるが負け越す。従って大関としての評価は低くなる。
- 大関に上がるので「史上最強の関脇」と呼ばれない。
- 輪島よりも先に四股名が本名の最初の大関になる。
- 引退会見で「心の中では大関になれたと思っている」と言うことはなかった。
- 輪島が関脇で優勝した1972年夏場所後に大関に昇進した。
- 1972年名古屋場所で関脇が5人になることはなかった(現在まで5関脇はこの場所だけ)。
日馬富士公平[編集 | ソースを編集]
- 2017年11月場所中に貴ノ岩に暴行していなかったら
- 引退や書類送検は無かった。
- 貴乃花と相撲協会の対立がそこまで激化する事も無かった。
- 日村勇紀や松村邦洋のモノマネのレパートリーが減る事も無かった。
- 貴乃花が理事を解任される事も無かった。
- 龍が如く 極2の発売が危ぶまれる事も無かった。
- 優勝回数は確実に2ケタになっていただろう。
- 1年早く暴行していたら
- 2017年春場所で日馬富士と稀勢の里の取り組みが無いため、稀勢の里が怪我を負うことはなく、7場所連続休場はなかった。
- 秋場所は豪栄道が決定戦を経ずに優勝するが、11勝4敗の成績が響き九州場所は綱取りとみなされない。
- 花田優一のメディア露出は今だに皆無だった。
双津竜順一[編集 | ソースを編集]
- 1979年夏場所千秋楽の栃赤城戦に敗れていたら
- 栃赤城が勝ち越しを決め翌場所もそのまま東関脇に居座る。
- 7勝8敗の関脇が翌場所も関脇に留まる現象は平成に入ってから初出した。
- 2007年名古屋場所前に新弟子へのかわいがりを命じなかったら
- 暴行を受けた新弟子が亡くなることはなかった。
- 自身も解雇されその後傷害致死容疑で逮捕されることはなかった。
- 新弟子を死なせた弟子も逮捕され、解雇されることはなかった。
- 時津海が部屋を継ぐために強制的に引退させられることはなかった。
- 大相撲に対する世間のイメージが大きく損なわれることはなかった。
- 霧島の審判部への異動がなかったか、史実より遅れた。
- 時津風部屋力士の改名ラッシュは起きない。
- 四股名に「双」が付く弟子は現在も多かった。
- 時津海の断髪式で止め鋏を入れた。
- 2014年8月、停年の半年前に死去し、この時に引退後に年寄錦島となった時津海が時津風を襲名した。
- 2010年から相撲協会の理事になっていた。
- 1979年名古屋場所で関脇に昇進していたら
- 前頭7枚目で10勝5敗の成績での関脇昇進が幸運な昇進例とされた。
- 小結経験のない最高位関脇の力士となった。
- 三賞受賞歴のない関脇になった。
- 高鐵山、高望山、鳳凰、追風海、北勝力の希少価値が下がる。
双羽黒(北尾)光司[編集 | ソースを編集]
- 1986年名古屋場所終了後に横綱に昇進していなかったら
- その翌場所も「北尾」のままだった。
- どうせ「大関が廃業」で非難される。
- 小錦は横綱に昇進していたかも。
- 意外にも奮起して、次の場所で優勝、不知火のジンクスを打ち崩す大横綱になっていたかもしれない。
- そうなると、やっぱり昇進は急ぎすぎ?
- 史実では頸椎捻挫で途中休場。綱取りは振り出しに戻った。
- 6大関体制が昭和のうちに実現したことになる。
- 1986年名古屋場所で優勝していたら
- 優勝無しで「横綱」に昇進させた事で一般世間から非難されなかった。
- 優勝経験無しの横綱は存在しない。
- 不祥事で引退しなかったら
- 1995年あたりまで綱を張っていた。
- 廃業前の実力のままの感じで綱を張っていれば若い世代の波に飲み込まれて北勝海、旭富士、大乃国引退の流れと一緒に92年頃には引退していたと思う。
- 実力を見事に開花させた場合は千代の富士の好敵手となり独走を阻止、千代の富士引退時はまだ28歳,相撲界の第一人者として君臨し曙、貴花田らを筆頭とする新世代の高い壁になっただろう。もしかしたら若貴フィーバー時は悪役的な存在になったかもしれない。
- 元々休場理由の大半が軽い怪我や病気だったので、ボロボロになって辞める可能性は低そう。
- 「8月12日生まれの光司」対決が話題に。
- 曙や貴乃花の横綱昇進が遅れていた。
- 貴乃花は逆に早まった可能性もある。
- 小錦も横綱に昇進していた。
- 旭富士はもっと早く横綱昇進していた。
- これにより、千代の富士・北勝海・大乃国と共に史実では実現していない5人横綱が実現していた。
- 1992年名古屋場所から1993年初場所にかけての横綱不在期間もなかった。
- 千代の富士の53連勝はなかった。(31回の幕内優勝回数も減っていた)
- 現役を続けていたら優勝回数は軽く10回は越えていた。
- 優勝未経験の横綱は誕生しなかった。
- 不知火型=短命のジンクスを破っていた。
- 旭富士(現・伊勢ヶ濱親方)と共にもう少し立浪・伊勢ヶ濱連合(現・立浪一門)を盛り上げていた
- 旭豊は立浪部屋を継承していない。
- 親方との不仲を見る限り双羽黒もすんなり立浪部屋を継ぐことはなかった可能性も。
- DRAGON GATEは存在しなかったかもしれない。
- 東正横綱を一度は経験していた。
- 大翔山が立浪部屋に入門することはなかった。
- 小錦同様、曙の膝も破壊したかもしれない。
- 武蔵丸が連続勝ち越し記録を更新しなかったかも。
- 横綱昇進基準が厳しくなることもなく、魁皇や栃東が横綱に昇進していた。←よって日本人横綱不在期間がそれほど長くない。
- 協会にいただろうから、晩年苦しんだ糖尿病も相撲診療所の治療で少しはマシになっていた。
- それでも、2023年の時点で存命できていたかどうかは微妙なところだった。
- 断髪式も『北尾光司君を励ます会』という名目ではなく、普通に国技館で開催されていた。
- 高砂部屋に入門していたら
脱走が目立った北尾ですが、頻繁に高砂部屋へ出稽古をしたそうです。
- 5代目朝潮太郎を襲名していたかもしれない。
- さすがに現役中の4代目から四股名を奪うのは無理だろう。
- 「男女ノ川」を名乗って横綱で不振に陥るたびに揶揄されたりして。
- さすがに現役中の4代目から四股名を奪うのは無理だろう。
- 小錦に鯖折りをかけることはなかった。
双葉山定次[編集 | ソースを編集]
- 1938年春場所9日目の両国戦に敗れていたら
前日まで48連勝中の双葉山はこの相撲で両国を寄り倒した際に足を大きく踏み越しており、取り直しの末に勝って連勝を伸ばしましたが、もし勇み足で敗れていたら?
- 連勝は48でストップ。「やはり七十古来稀なり」の名言は生まれなかった。
- 安藝ノ海の横綱昇進はなかった。
- ビデオ判定の導入が史実より早まる。
- 富岡八幡宮の境内にある「超五十連勝力士碑」に名前を刻まれることはない。
- 千代の富士の53連勝が最高連勝記録となり、のちに白鵬の63連勝が最高記録となる。
- 1940年夏場所限りで引退していたら
双葉山はこの場所不振で「信念の歯車が狂った」と発言し突如引退を表明しましたが、周囲の説得で翻意しました。ではもしこの時引退していたら?
- 羽黒山の優勝回数が増えていた。
- 安藝ノ海も複数回の優勝を経験。
- 五ッ嶋の大関在位期間が伸びる。
- 照國の初優勝も早まった。従って「優勝なき横綱」と呼ばれることはない。
- 松の里の知名度が現実より大幅に下がる。
北青鵬治[編集 | ソースを編集]
- 暴力事件を起こさなかったら
- 2025年には大関取りに挑戦していた。
- 宮城野部屋の消滅はなかった。
- オチルサイハンは照ノ富士引退で正式入門していた。
北勝海信芳[編集 | ソースを編集]
- 四股名が「富士若」のままだったら
取的時代に本名の「保志」から改名したが負け越したため1場所で戻した。
- 若の富士と紛らわしくなる。
- 当然弟子に「北勝」の字は与えていない。
- 北勝鬨が八角部屋所属に間違えられることもなかった。
まやら行[編集 | ソースを編集]
武蔵山武[編集 | ソースを編集]
- ボクシングに転向していたら
春秋園事件の際にボクシングへの転向が噂されてましたが、結局は角界に戻りました。もし角界に戻らずボクシングに転向していたら?
- ヘビー級ボクサーとして育成された。
- そのため戦後には日本ヘビー級が活気付いていた。
- 20世紀中に日本人ヘビー級世界チャンピオン(もちろんWBAかWBCで)が生まれた可能性もあった。チャンピオンになれなくても挑戦権を得た選手も少なからずいたはず。
- 世界ランカー以上になったら、同世代のマックス シュメリングとナチス云々のトラブルに巻き込まれていたかも。
- キックボクシングやK-1も史実よりは重量級集めに苦労していた。
- そのため戦後には日本ヘビー級が活気付いていた。
- 同じく角界を退いた力士も転向していただろう。
- 戦後も力士からの転向は史実より多かった。
- 20代のうちに退いた場合、大半はプロレスや総合格闘技に行かずボクシングに行った。
- 男女ノ川の横綱皆勤負け越しはなかった。
吉葉山潤之助[編集 | ソースを編集]
- 人違いで入門されなかったら
- 体の大きさと怪力ぶりを見込まれて、他の部屋に入門していた。
- 化粧廻しが白鵬の奉納土俵入りで使用されなかった。
- 宮城野部屋は創設されていただろうか。
- 十両昇進前に召集されなかったら
- 実際よりももっと早く昇進して、優勝回数も増えたに違いない。
- 戦闘中に足を撃たれその後遺症に苦しめられたが、それに悩まされることもなく、休場も少なかった。
力道山光浩[編集 | ソースを編集]
- もっと長く角界に残っていたら
- 大関ぐらいは昇進していただろう。
- 場合によっては横綱昇進も有り得る。
- 後のプロレス転向もなく、日本でプロレスがメジャーになることもなかった。
- 力士のプロレス転向も史実より少なかったはず。
- 少なくとも暴漢に刺されて絶命することもなかった。
- オープンカーでの優勝パレードはなかった。
わ行[編集 | ソースを編集]
若圭翔裕樹[編集 | ソースを編集]
- 幕下一場所で十両に昇進したら
- 「幕下付出で十両に一場所で昇進した力士」になった。
- 幕下付出で十両に一場所で昇進した力士第一号は落合でなく下田だった。
- 落合が昇進した時も脚光を浴びた。
- 2014年7月現在も未だ十両に上がれず低迷することはなかった。
- 代わりに龍皇の十両昇進が見送られた。
- 2016年春場所限りで引退。結局関取になれないまま「幻の十両」で終わってしまうことはなかった。
- 「宇映」への改名はなかった。
- 「大圭翔」あたりを名乗ったかもしれない。
- 初土俵が一場所早かったら
- 春場所で幕下16枚目にいた柳川との対戦が組まれる。
- 柳川が北太樹戦で負傷休場せずに済んだかもしれない。
- その場合翌夏場所の琴冠佑戦での勇み足もない。
- 柳川が北太樹戦で負傷休場せずに済んだかもしれない。
- いずれにせよ怪我による低迷は避けられなかった。
- 最悪の場合吐合のような運命を辿っていた。
若乃花幹士(初代)[編集 | ソースを編集]
- 十両時代に相撲界を追放になっていたら
十両時代(当時の四股名は「若ノ花」)、料理屋での飲食代が払えず、横綱の東富士に代金の支払いを肩代わりさせました。そのことが他の横綱大関に知られてしまい、「若ノ花を(相撲)協会から追放しろ」という声が上がりましたが、横綱羽黒山が助け舟を出したため、追放は免れました。もしこの時追放されていたら?
- 後に栃錦と一時代を築き「栃若時代」と呼ばれたが、一方の雄がいないため、栃錦単独で「栃錦時代」になるか、栃若時代の三番手だった朝潮が代わって栃錦の好敵手になり、「栃朝時代」と呼ばれるようになる。
- 二子山部屋は創設されないため、若乃花(2代目)や隆の里らの相撲界への入門はないか、他の部屋への入門になる。
- 隆の里が相撲界に入らなければ、千代の富士は隆の里に負けて優勝を逃した場所がいくつかあるため、その分優勝回数が増えることになり、優勝回数は大鵬を超えて史上1位となる。
- それ以前に千代の富士が禁煙せず大成できたかどうか…
- 隆の里が相撲界に入らなければ、千代の富士は隆の里に負けて優勝を逃した場所がいくつかあるため、その分優勝回数が増えることになり、優勝回数は大鵬を超えて史上1位となる。
- 実弟の貴ノ花の入門はなく、その息子の若乃花(3代目)と貴乃花も相撲界に入ることはないだろう。したがって、その後の貴ノ花人気や若貴による空前の相撲ブームは起きない。
- 90年代は曙と武蔵丸の2強時代となり、一方は優勝回数が20を超える。
- 貴ノ浪は大関になれなかった。また他の二子山勢含めて各界入りしなかった可能性もあり、尚更2強の独壇場になっていた。
- ハワイ勢の独走により相撲ブームどころかむしろ相撲人気が低迷していた。
- 魁皇、武双山、琴錦あたりは日本人力士として過度の期待をされては期待に応えられず相撲ファンから叩かれまくっていた。
- 最後の日本人横綱は北勝海まで遡ることになっていた。
- 2017年に稀勢の里が横綱に昇進するまで日本人の横綱は25年間存在しなかった。
- 貴ノ花が相撲界に入らなければ水泳を続けていて、1968年のメキシコ五輪と1972年のミュンヘン五輪の日本代表として出場していた。
- 高校、大学に進学した。
- 結婚も史実より遅くなり、息子の誕生もその分遅くなった。
- 息子がちゃんこ鍋で大火傷を負って死ぬことはなかった。
- 得意技の「呼び戻し」が超レアな大技になる。
- 大晃が決定戦で若乃花に負けた場所の優勝者になっていた。
- 佐田の山の出羽海の理事長就任が史実より早まった。
- 立合いの「待った」に制裁金が課されなかった。
- 1956年春場所千秋楽で優勝していたら
- 翌夏場所で優勝したため、「大関で2場所連続優勝」の横綱昇進の内規に合うため横綱昇進を諮問された。
- 横綱が4人(千代の山、鏡里、吉葉山、栃錦)がいて前例のない5横綱になり、場合によっては若ノ花の横綱昇進が見送られることになるため、先輩横綱の誰かが身を引いて若ノ花の横綱昇進に道を開いたかもしれない。
若乃花勝[編集 | ソースを編集]
- 1993年夏場所千秋楽で小錦に勝っていたら
- この一番が誤審と騒がれることはなかった。
- 成績が11勝で3場所合計で35勝になり、大関に昇進できたかもしれない。
- 翌場所新大関だった場合、13勝で優勝同点になり、その次の場所は綱取りの場所になった。
- この場所で横綱に昇進したら史実より早く「若乃花」を襲名した。
- 1992年春場所に再出場しなかったら
初日から黒星続きの小結若花田は左肩の捻挫で途中休場、その後再出場しますがやはり白星を挙げられず14日目から再度休場しました。もし負傷後千秋楽まで休んだままだったら?
- 起利錦の不戦勝で7勝目→千秋楽不戦敗で負け越しはなかった。
- 翌場所の番付はもっと落ちていた。
- その代わり12勝以上できたかも?
- 1998年秋場所千秋楽の武蔵丸戦に勝っていたら
- 1995年九州場所以来2度目の若貴兄弟対決が実現した。
- 洗脳騒動直後ゆえ国技館は異様な雰囲気に。
- 優勝していたら横綱としての評価が上がった。
- 相撲界に残ったら
- 父の貴ノ花から二子山部屋を継いだ。
- 貴乃花は独立して貴乃花部屋を創設する。
- 「花田虎上」でタレント活動することはなかった。
若ノ鵬寿則[編集 | ソースを編集]
- 大麻が入った財布を落とさなかったら
- 大麻所持の容疑で逮捕され、相撲協会を解雇されることはなかった。
- ただし大関、横綱となっても違法薬物をやめられなかったら、週刊紙などに報道され史実以上に騒がれる大スキャンダルとなっていた可能性もある。
- 2010年の野球賭博問題のときや、2011年の八百長問題のときに発覚していた可能性もある。その場合、それらの問題で警察が押収した携帯電話のメールから発覚するか、それを受けた協会の調査で発覚していた。
- ただし大関、横綱となっても違法薬物をやめられなかったら、週刊紙などに報道され史実以上に騒がれる大スキャンダルとなっていた可能性もある。
- その後全力士を対象とした尿検査で、陽性反応が出た露鵬と白露山が解雇されることはなかった。
- 北の湖親方も白露山の大麻の件で理事長を辞職することはなかった。
- その場合、やはりロシア兄弟も10年や11年の騒動でついでに発覚し、10年や11年の騒動で辞職していたかも。それならば、むしろ12年に返り咲くこともなかった。
- 北の湖親方も白露山の大麻の件で理事長を辞職することはなかった。
- 間垣部屋の衰退はなく、親方も停年を前に退職をすることはなかった。
- 間垣親方が体調不良でまともに部屋運営できないという状態は変わらないし、若ノ鵬も間垣親方に変わって先頭に立って部屋を引っ張っていくタイプではなかったと思うので関係なく衰退したと思う。
- 三役を経験していた。
- まだかなり若かったので大関くらいなら狙えたかも
- かなり若いどころか、前相撲スタートで大学相撲を経験していない力士があれほどのスピードで前頭筆頭まで駆け上がるのは異例。白鵬や照ノ富士の昇進ペースに似ていた。
- そのため、アクシデントがない限り大関にはなっていたのではないだろうか。横綱も十分に狙えただろう。
- かなり若いどころか、前相撲スタートで大学相撲を経験していない力士があれほどのスピードで前頭筆頭まで駆け上がるのは異例。白鵬や照ノ富士の昇進ペースに似ていた。
- 栃ノ心より先にヨーロッパ出身3人目、運が良ければ把瑠都より先にヨーロッパ出身2人目の大関になれていたかも。
- ヨーロッパ出身初の横綱昇進も有り得る。(因みに白人系初の横綱は大鵬幸喜。)
- まだかなり若かったので大関くらいなら狙えたかも
- 照ノ富士は間垣部屋に入門していない。
- 白鵬の強力なライバルとなっていた。
- 2024年現在でも休場がちながら横綱だった可能性がある。
- 白鵬が引退し照ノ富士が休みがちな土俵では普通に綱を維持できたのではないか。
- 20年代の他の大関の陥落が史実以上に早くなっていた。
- ただしそれ以後何もスキャンダルが出なかった場合に限る。
- 白鵬が引退し照ノ富士が休みがちな土俵では普通に綱を維持できたのではないか。
- 2008年夏場所の鶴竜戦で敗れていたら
- この一番が誤審と指摘されることはなかった。
- 入幕後初の負け越しが1場所早まった。
輪島大士[編集 | ソースを編集]
- 年寄株を借金の担保に入れなかったら
- 花籠部屋が閉鎖され、放駒部屋に統合することはなかった。
- 輪島が大ノ海の娘と離婚することもなかった。
- 大ノ海の妻が心労で自殺することもなかった。
- 太寿山は別の年寄名で部屋を興す。
- 現在も日大出身者の入門先になっていた。
- 遠藤が入門していたかもしれない。
- とりあえず、プロレス転向はなかった。
- 入門が早かったら
高校時代国体で優勝しました。各部屋からスカウトされ当時の横綱大鵬も輪島のもとを訪れ食事に連れて行ったほどでした。当然輪島本人もプロ入りに心を動かされ、監督に相談しましたが監督は「プロにはいつでも入れる、それより大学へ入って自分の力を試してみろ」と言ったため、この時点でのプロ入りはありませんでした。もしこの時にプロ入りしていたら?
- 史実より早く昇進した。と言いたいところだが、下積み生活に嫌気が差して早く辞めていた。
- プロ入りしてから関取になるまで、日大の合宿所から部屋へ通ったり、炊事掃除洗濯や付け人修行などが免除されたという。
- 北の湖の優勝回数が史実より増えた。
- 旭國は輪島に優勝決定戦で負けて優勝を逃したため、旭國は優勝できた。
- 高見山の金星の数が一ケタに終わった。
- 当時の大学相撲は長濱(のちの豊山)の一人舞台になった。
- 十両の取組で「森永賞」の懸賞がかかることはなかった。