もしあのプロ野球選手があの球団に残留していたら/さ~な行

ナビゲーションに移動 検索に移動

さ行[編集 | ソースを編集]

佐々木主浩(横浜)[編集 | ソースを編集]

※史実では1999年オフにシアトル・マリナーズへ移籍(2004年に復帰)。

  1. 2000年以降の横浜の成績がもう少しだけマシになっていたかもしれない。
    • 少なくとも森監督(2001年に就任)と衝突していなければ、最下位になった回数も減っていたはず。
    • ただし成績が下降線をたどると共に酷使され、現役引退が早まったかも。
  2. 横山道哉は史実よりも早く他球団に放出されていた(2004年に日本ハムへトレード移籍)。
  3. 前妻との離婚&榎本加奈子との不倫騒動は無かったかもしれない。
    • もちろん、史実通りだったという可能性も否定はできないが。
  4. その後も変わらず活躍したと仮定したら、日本球界におけるセーブ記録は揺るがない物になっていた。
    • 名球会への入会基準にセーブの数が加わるのは史実(2003年オフ)よりも早まっていた。

佐々木宏一郎(近鉄)[編集 | ソースを編集]

  1. 少なくとも200勝は行っていたはず。
  2. 1979年・1980年のリーグ優勝に貢献していた。

新庄剛志(阪神)[編集 | ソースを編集]

※史実では阪神退団後メジャー挑戦。

  1. 赤星のデビューは数年遅れていた。
    • 当然「新庄さんの穴を埋めたい」発言もなかった。
  2. 金本がFA宣言しても阪神は興味を示さなかった。
  3. あんなはじけたキャラにはなってなかった。
  4. 森本稀哲は無名のまま日本ハムでくすぶっていた。
  5. その後も「明日も勝つ」発言が出るとファンから必ず非難囂々。
  6. 星野仙一が来なかった・・・のか?
    • 星野さんが史実通り来たとして、新庄の平凡で不安定な成績が槍玉に挙げられ2002年オフの「血の入れ替え」で仕分けられるターゲットにされていただろう。
  7. 阪神暗黒時代が続いていた。
    • そして2008年現在、関西での一番人気スポーツチームはガンバ大阪。
    • 近鉄と合併したのはオリックスでなく阪神だった。
  8. 片岡の人的補償としてハムに移籍したかもしれない。
    • (前年の成績にもよるが)流石にプロテクトから外れることは考えにくいような…
    • むしろ、下柳剛氏と中村豊氏とのトレードで移籍していた可能性が高い。
  9. 松井秀喜が日本人初のワールドシリーズ出場となっていた。
  10. 日本ハムに移籍していたか微妙。そうなると、北海道移転が失敗になっている可能性もある。
    • パリーグ問題で揺れていた2004年にプロ野球ファンを励ます存在が当時の選手会長の古田敦也ぐらいしかいなく、同年の明るい話題が減っていた。
    • コンサドーレ札幌も史実通り低迷していた場合、北海道のプロスポーツ界は冬の時代を迎えていた。
    • もちろんのちの監督就任もなく、「ビッグボス」というニックネームもなかった。
  11. 野村監督時代の連続最下位はなかった可能性もある。さすがにAクラスは難しかっただろうが。
    • 暗黒時代が終わるのは現実通り野村監督退任後かもしれないが、野村監督在任中に最下位脱出出来ていた。
    • 2001年の現実の成績を見るに最下位脱出出来なくもなかったが、21世紀初の優勝はやはり遅れていた。

杉内俊哉(ソフトバンク)[編集 | ソースを編集]

  1. 帆足を獲得することはなかった。
    • 巨人が帆足を獲得していた。
  2. 2012・2013シーズンはもう少し順位が良かっただろう。

た行[編集 | ソースを編集]

田尾安志(中日)[編集 | ソースを編集]

  1. 現役引退までドラゴンズでプレー(史実通り阪神にトレード移籍、という可能性もあるが)。
    • 1988年・ドラゴンズV戦士のひとりになっていたかも。
    • 悲願の首位打者のタイトルも獲得していた。
    • 星野政権下で結局トレードに出された可能性も否定できない。
      • 落合獲得時に交換要員でロッテへ、となっていた可能性も。
        • その場合引退後はロッテの監督に就任し、楽天の初代監督になることはなかった(1年早く野村克也が就任?)
    • 引退まで中日でプレーし、中日一筋で2000本安打を達成していた場合、高木守道から3代目ミスタードラゴンズを襲名していた。
      • 立浪和義は4代目になっていた。
      • 引退後は中日のコーチを務め、楽天の初代監督に就任することはなかった。その代わりに、2011年オフに落合博満の後任として中日の監督に就任していた。
        • 史実の第2次高木政権よりは長期化していただろう。
        • 高木守道の2度目の監督就任はなく、2012年以降の中日の成績も史実よりマシになっていた。それでも優勝はできなかっただろうが。
          • 谷繁元信の監督就任もなかったか遅れていて、選手兼任監督になることはなかった。現役引退が早まっていたかも。
        • 一方、楽天は史実より1年早く野村克也が監督に就任し、初代監督となっていた。
  2. 杉本正大石友好両選手は当面西武でプレーしていた。
    • 当然1988年のドラゴンズに「郭-大石」のリリーフバッテリーは存在しない。
      • 中村武志の運命もちょっぴり変わっていたかも。
        • 楽天でプレーすることなく現役引退。
    • 杉本は工藤公康の、大石は伊東勤の台頭で結局はトレードに出されていたかも。
  3. 「タオタオ坊や」というニックネームをつけられることもなかった。
  4. 1985-86年にそれまで強打を誇っていた中日打線があれほど弱体化することはなかった。もっとも交換された杉本・大石の貢献を考えればチーム成績はそれほど変わらないか。
  5. もう少し長く現役を続けることができ、10.8決戦にも参加していた。
    • 2000本安打を達成し名球会入りできていた。
  6. のちの阪神移籍がなければ、関西テレビで解説者にならなかった。
    • 中日OBとして東海テレビ所属になっているかも。

谷繁元信(横浜)[編集 | ソースを編集]

  1. 横浜の暗黒時代突入は避けられていたはず。
    • 逆に中日の優勝回数は減っていた。
      • 場合によっては落合監督は史実より早く退任していたかも知れない。
      • 谷繁の代わりの正捕手がしっかりしていれば、史実通り黄金時代を築くことができていた。
  2. 中村武志が横浜に移籍することはなく、中日一筋、あるいは中日から楽天へ移籍して引退していた。
    • 史実より3年ほど長く中日の正捕手を務めていた。
  3. 中日は2000年代半ば頃から捕手難に悩まされレギュラーが固定できない状況になっていた可能性が高い。
    • 移籍組の清水将海か小田幸平が正捕手に、あるいは田中大輔が抜擢されていたかも。
    • 谷繁がいて横浜で正捕手になれなかった相川亮二、鶴岡一成が中日に移籍して来た可能性もありそう。
    • 鈴木郁洋や田上秀則が中日から移籍せずにそのまま中日に残ることになるだろうからそこまで捕手難ということにはならないのかもしれない。(ちなみに鈴木はオリックスで長くプレーし、田上はソフトバンクでレギュラーにまで上り詰めた。)
  4. 当然2014年に中日のプレイングマネージャーに就任することはなかった。
    • その代わりに、引退後にDeNAの監督に就任していた可能性はある。
      • その場合、アレックス・ラミレスの監督就任はなかった。
  5. 1998年の優勝メンバーでは数少ない横浜一筋で2000本安打達成・引退した選手となり、引退試合も横浜スタジアムで行われていた。
    • 選手兼任監督にはならなかったので、2000本安打を達成した2013年限りで引退していたかも。

谷佳知(オリックス)[編集 | ソースを編集]

  1. 2000本安打を達成していた可能性は充分あり得た。
    • ただトレードの原因には前の2年の不振が原因なので坂口の台頭で残留しても戦力外になっていた可能性がある。
  2. 妻の谷亮子は、政界に進出することはなかったかもしれない。
  3. 2008年と2014年にオリックスが優勝出来ていた。
  4. 長田昌浩や鴨志田貴司は巨人に残留していても史実通りの出番の少なさとなっていたかも。

田淵幸一(阪神)[編集 | ソースを編集]

  1. 真弓明信は阪神にトレードされず、1979年以降西武でプレーしていた。
    • 従って、2009年以降の阪神の監督になることはなかった。2009年以降の阪神の監督は、平田、木戸辺りが考えられる。
    • 晩年、代打で甲子園をわかせることもなかったので、阪神に「代打の神様」という言葉自体存在していたかどうか。
      • 当時の西武は球団買収直後で福岡時代の選手を次々と放出していたことを考えると、移籍先は阪神ではないにしても真弓が他球団にトレードされていたのは結局同じような気もする。
    • むしろ田淵自身が現役晩年に「代打の神様」になったのでは?
      • 阪神の元祖「代打の切り札」は川藤幸三ではなく田淵だった。
        • あるいは川藤とW代打の切り札になっていたかも?
    • キン肉マンのキン肉大王の名前は「真弓」ではなく別の名前になっていた。
    • あるいは真弓⇔古沢憲司のトレードになっていた。若菜嘉晴・竹之内雅史・竹田和史は別の球団に移籍していた。
  2. 1985年の阪神のリーグ優勝・日本一はなかったかもしれない。
  3. アニメ映画「がんばれ!!タブチくん!!」では阪神の選手として登場していた。
    • ただし原作では実際に阪神時代も含まれていた。
  4. 田淵は星野監督就任以前から阪神のコーチに就任していた(トレードを巡って球団と対立することもなかったため)。
    • 濱中は故障さえ無ければブレイクが早まり、長きにわたって阪神の四番として活躍していた。
    • 中村監督時代に入閣していたらお坊ちゃん首脳陣と批判対象としてあげられていたかもしれない。

田宮謙次郎(阪神)[編集 | ソースを編集]

  1. 史実よりもう少し長く現役を続けていた。
    • セ・リーグで巨人がV9を達成するほどの黄金期に迎えて以降も阪神で現役を続けていた場合、阪神はその間1回位は優勝していたかもしれない。
  2. 俳優の柴田吾郎は田宮二郎に改名されることはなかった。
    • その場合、俳優の方は史実よりブレイクしなかった可能性もある。
  3. 北杜夫が『どくとるマンボウ航海記』でネタにすることもなかった。さすがに1959年の阪神優勝は無理だろうが。

多村仁(横浜・ソフトバンク)[編集 | ソースを編集]

寺原隼人とのトレードがなかったら(横浜→ソフトバンク)
  1. 登録名を変更することはなかった。
  2. 相変わらず怪我がちなので成績は史実と変わらず。
  3. スペ体質から脱却できていた場合内川・村田とクリンナップを形成し2008年~2010年の上位打線はえげつない事になっていた。
    • それでも投手陣が崩壊していたため最下位脱出は出来ず。
  4. 2000年代後半の横浜の投壊は更にひどいものになっていた。
  5. 2011年に日本一を経験する事はなかった。
  6. 2012年オフの大型トレードもなかった。
2012年オフの大型トレードがなかったら(ソフトバンク→DeNA)
  1. 江尻慎太郎と山本省吾はDeNA、吉川輝昭と神内靖はソフトバンクで現役生活を全うした。
    • 江尻は引退後そのままDeNAの2軍投手コーチに就任。
      • 古巣の日ハムかもしれない。
  2. 吉村裕基は筒香とともに大村コーチの下で復活。
    • 或いは、他球団にトレードされていた。
  3. 2014年にも日本一を経験出来ていた。
    • 吉村の代わりに同年のクライマックスシリーズでMVPを獲得していたかも。
  4. ユリエスキ・グリエルはDeNAに入団しなかった。

寺原隼人(ソフトバンク・横浜)[編集 | ソースを編集]

多村仁とのトレードがなかったら(ソフトバンク→横浜)
  1. 現在も12球団勝利のまま。
  2. 山本省吾と喜田剛は横浜に移籍せず、オリックスで現役生活を全うした。
山本省吾らとのトレードがなかったら(横浜→オリックス)
  1. それでも2012年オフにはソフトバンクにFA移籍していた。
    • 人的補償は史実通り馬原孝浩か。

土井正博(近鉄)[編集 | ソースを編集]

  1. DH制を利用し、近鉄で大活躍していた。
    • 1979、1980年は近鉄が日本一になっていた可能性もある。
      • その場合マニエルが加入していないので、リーグ優勝も危うかっただろう。
  2. 清原は史実ほどの成績は残せなかった。
  3. 松井稼頭央も2009年に2000本安打を達成していなかった。
    • そもそもメジャーに行っていたかどうかも疑問
  4. 近鉄で現役を終えそのままコーチを務めていた。
    • 石井浩郎や中村紀洋あたりが彼(土井さん)のおかげで現実以上に活躍していただろう。
    • いてまえ打線が史実以上にえげつないものになっていた。
  5. 80年代〜90年代は西武ではなく近鉄が黄金時代を築いていたかも。

鳥越裕介(中日)[編集 | ソースを編集]

  1. 福留のコンバートが早まった、アライバコンビの台頭にも影響。
  2. 川崎は遊撃手でブレイクできたか。
    • あの段階ならホークスは浜名出しつづけてた。ムネリンが出て来たのはもう少しあと。
      • 当時は守備指標が進化する前だから数値化できないけど、浜名の攻撃力より鳥越のショート守備による失点削減効果のほうが大きいと思うし、鳥越はホークスでスタメン張れてよかったと思うなぁ。
        • ナゴドのパークファクター考えると、中日にいつづけたら貧打すぎて速攻で外されるか、アライバの台頭を妨げた気がする。
  3. もちろん「拝啓、星野仙一様」発言もない。

な行[編集 | ソースを編集]

長嶋一茂(ヤクルト)[編集 | ソースを編集]

  1. 史実通り茂雄氏が復帰していれば親子対決といわれたか。
  2. 同じく野球界の大物を父に持つ野村カツノリとチームメイトになり、ポジションこそ違えど史実以上に何かと比較されていた。

中村紀洋(オリックス)[編集 | ソースを編集]

2004年オフの分配ドラフトでオリックス入団後メジャー移籍しなかったら
  1. 2005年のオリックスはプレーオフ進出していた。
    • 仰木さんは体力が続くまで監督を続けていた。
  2. 背番号は近鉄時代と同じ「5」をつけ、翌年史実通り清原に譲っただろう。
  3. タフィローズは巨人退団後帰国せずに1年早くオリックスに入団していた。
    • 清原・ローズ・中村の強力クリーンナップで2006年もプレーオフ争いしていた。下手すりゃプレーオフ進出出来ていたかも。
  4. 中日は2007年に日本一を成し遂げる事が出来ず、前回日本一(1954年)から60年以上経過してしまう事に。
    • 流石にそれはない。中村がいなくて福留も離脱していたとはいえ、アライバ森野の上位打線と4番のT.ウッズの勝負強さ、谷繁の強力なリード、強力な投手陣は健在で、向こうも前年MVPの小笠原が移籍し、外野守備の要であるSHINJOが引退していたことを考えると、結局は中日が日本一になっていたと思われる。
  5. 2009年に直接FAで楽天に移籍していたか、あるいは2011年に直接横浜に移籍していた。
    • 中村が史実で中日から移籍したのは、サードで森野とポジションが被るから、森野を外野に回さざるを得なくなるという問題が発生するからというのが大きいので、流石にそれはない。
  6. 案外、地元球団のオリックスで現役を終えることができていたかも。
    • その場合、2008年にオリックスの優勝に貢献していた。
      • このときに、日本シリーズで巨人を倒してMVPを受賞していた。
    • 場合によっては、2014年もオリックスが優勝し、有終の美を飾って引退していた。

二岡智宏(巨人)[編集 | ソースを編集]

  1. =山本モナとの不倫スキャンダルを起こしていなかったら、である。
  2. 坂本勇人のブレイクが遅れていた、あるいはセカンドでレギュラーを獲得していた。
    • あるいは二岡がセカンドもしくはサードにコンバートされていた。
  3. 交換相手だったマイケル中村はその後もしばらくは日ハムに残留し、武田久がストッパーになることはなかった。
    • マイケルはもしかしたら横浜あたりにトレードされていた可能性も。
  4. 長野久義は7ではなく違う背番号を着けていた。
  5. 新戦力の台頭と補強により2011年あたりから代打に回ることが多くなっていた。
  6. 故障がちで満足な活躍が出来なくなり史実通り他球団へ放出、となっていた可能性も否定できない。
    • 村田をFAで獲得する際の人的補償でDeNAへ移籍、となっていたかも。
  7. 2009年に日本ハムが優勝する事は無かったかも。

野村貴仁(オリックス)[編集 | ソースを編集]

  1. 2000年以降も中継ぎとして大活躍。
    • 500登板を達成し、最優秀中継ぎ投手を受賞していた。
  2. 引退後、投手コーチに就任。
  3. 98年オフ以降は同じ中継ぎ抑えの平井正史、鈴木平と共に山田久志が投手コ―チを務めることになった中日ドラゴンズに移籍していたかもしれない
    • 地元が高知ともあり、高知ファイティングドッグスの監督に就任していた。
  4. だから×××に染めることはなかった。
    • 自宅もゴミ屋敷ではなかった。

野茂英雄(近鉄)[編集 | ソースを編集]

野茂、近鉄で大活躍編
  1. 大阪近鉄バファローズは何度か優勝・日本一を果たしている。
    • 藤井寺球場か大阪ドームの観客動員数は増えてただろう。
    • 近鉄とオリックスの球団合併はなかったかもしれない。
      • 2004年のプロ野球ストライキや2005年以降のセ・パ交流戦導入はなかったかもしれない。
      • 2004年の球界再編がかなり現実と異なる形となっていたと思われる。但しダイエーに関しては親会社の経営悪化が原因なので現実通りソフトバンクに球団を売却していた。
  2. 今でもイチローはオリックス、松井は巨人、松坂は西武。日本人選手のメジャー行きは無かった。
    • もしくはマック鈴木のように国内プロ野球を経由せずマイナー契約が主流になっていた。
      • ハンカチ王子は大学に進学せず渡米していた。
        • ↑の意味がまったくわからないんだけど。
    • 日本におけるプロ野球人気が現実ほど低下しなかった。
      • 現在でも地上波によるプロ野球中継は多く行われている。
  3. 日本全体の大リーグに対する興味が激減しているはずなので、大リーグの知識が(プロも含めて)貧弱だった可能性もある。そうなると日本はWBCで優勝できていたかどうか……
鈴木監督、長期政権化編
  1. 鈴木監督と対立、徹底的に干された野茂はほとぼりが冷めたころ阪神にトレードされる。
  2. 阪神ではどれだけ力投しても味方の打線に足を引っ張られなかなか勝てず、200勝到達は再度移籍したオリックスでひっそりと成し遂げる。

関連項目[編集 | ソースを編集]

もしあのプロ野球選手があの球団に残留していたら
あ~こ/さ~の/は~わ