もしあの鉄道路線が開業していたら/東海
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静岡[編集 | ソースを編集]
小田急沼津~湯ヶ島間の新線[編集 | ソースを編集]
- 沼津を起点に長岡・修善寺を通り湯ヶ島へと至る路線計画。御殿場線直通列車を沼津まで延長したうえでこの路線に乗り入れさせる計画があったとか。
- 駿豆線の開業よりも後に計画されたため、当然伊豆箱根鉄道との競合は避けられなかった。
- 箱根山戦争に続いて伊豆戦争がさらに過激化し、伊豆箱根鉄道各駅から東海バスが締め出されていた。
- 西伊豆・中伊豆フリーパスも駿豆線と伊豆箱根バスが対象から外されていた。
- 御殿場線直通列車は特別準急の時代から沼津乗り入れを果たしていた。
- 勿論現在も「ふじさん」の全列車が湯ヶ島まで運転されている。
- 国鉄末期には御殿場線の小田急への払い下げも検討されていたかもしれない。
- 線内普通列車は本線系統の中古車両で補われている。
- 2400形や2600形、5200形の最後の地は間違いなくここだった。
- 現在は独自のカラーに塗られた1000形が往復運転をしている。
- 大野工場に入場する際はJR線内を甲種輸送の形で回送されている。
- 2400形や2600形、5200形の最後の地は間違いなくここだった。
- 西武グループとの関係次第にもよるが、東海バス共々「ラブライブ!サンシャイン!!」とコラボ出来ていたかどうかは不明。
- 同路線が沼津駅に乗り入れていることを生かして小田急側になびいた場合、西武ドームでのライブが実現できなかった可能性がある。
- 接近メロディの導入も駿豆線より早かった。
- F-Trainの経験を生かして、派手なラッピング車両を走らせていたかもしれない。新宿には来ないから条例に引っかかることもないし。
静岡鉄道三保線[編集 | ソースを編集]
- 急行電車が新静岡・新清水~三保間に運行されていた。
- 旧型電車の巣窟となっていた。
- 国鉄清水港線は1970年代に東海道本線の支線に格下げされていた。
- 当路線が通る場所によっては、三保の松原が景観上の問題から富士山の世界文化遺産の構成遺産になれなかった可能性があった。
- 清水が舞台のアニメ『ちびまる子ちゃん』に登場した可能性も…。
伊豆急行線(未成区間)[編集 | ソースを編集]
- 鉄道敷設法第61号に記載されている区間のうち、修善寺-大仁-松崎-下田(伊豆急下田)間が未成区間。残りは伊東線・伊豆急行・伊豆箱根鉄道駿豆線として開業済。
- なお、実際に伊豆急が建設に着手しようとした区間は伊豆急下田-石廊崎間だという。
- 伊豆箱根線延長としての開通か。
- 伊豆半島の鉄道空白が解消された。
- 何処かに伊豆駅と名乗っていたかもしれない。
- 伊豆急と駿豆線が国鉄の路線になっていたらありえたかもしれない。
- 途中で国鉄再建法が施行され、未成線になった可能性もあるが。
- 「踊り子」が伊東経由と修善寺経由で下田まで運行。
- 混乱防止の為、どちらかが別の名前になっていた可能性が高い。
- いっそのこと東京~伊東~下田~修善寺~東京(とその逆回り)で循環運転してしまえw
遠三鉄道[編集 | ソースを編集]
- 愛知電気鉄道系列の浜松延伸構想で、気賀口から浜松鉄道(遠州鉄道に合併(奥山線)された後廃止)に乗り入れる予定だった。
- JRの浜松~豊橋間の新快速・特別快速は通過運転していた。
- 愛知の静岡免許線も開業していたら静岡まで競合線区になっていた。
- 浜松鉄道は愛電に買収され、遠三鉄道も戦時統合で名古屋鉄道に組み込まれていた。
- 遠州鉄道も名鉄の子会社になっていた。
- どう考えても名鉄浜松線になることは避けられない
箱根登山鉄道裾野延伸[編集 | ソースを編集]
愛知[編集 | ソースを編集]
愛知中央鉄道[編集 | ソースを編集]
- 後に瀬戸電気鉄道と合併し、名鉄の路線になり同社の南瀬戸線になっていた。
- 本笠寺あたりで名鉄名古屋本線と接続して大江まで至っていた。なので、名鉄瀬戸線が孤立路線にはならなかった。
- ミュースカイに尾張瀬戸発着が設定される。
- 本笠寺あたりで名鉄名古屋本線と接続して大江まで至っていた。なので、名鉄瀬戸線が孤立路線にはならなかった。
- 国鉄に買収されていた場合、品野~瀬戸間を岡多線の一部にする計画が浮上していた。
- 当初は瀬戸の陶磁器を名古屋港まで直接鉄道で運べるので重宝する。
- いずれにしろ窯業の衰退で貨物輸送は取りやめている。
- 長久手市は昭和のうちに市制施行していた。
- リニモは建設されていない。
- 愛知万博の際に万博会場への支線が出来ていたかもしれない。
- そもそも万博会場が長久手で確保できなかった可能性もある。
- 愛知万博の際に万博会場への支線が出来ていたかもしれない。
- 覚王山までの支線が出来ていれば、そのまま名古屋市電に乗り入れていた。
- 高針ー覚王山支線が自然に地下鉄東山線のルートとなり、香具山車庫設置。星ヶ丘以東のルートは大幅変更となりおおむね名東本通(中馬街道岩崎ルート)に沿って星ヶ丘ー西山ー高針ー梅森坂ー岩崎(香具山車庫)となる。豊田新線が鶴舞線ではなく東山線の延長として建設された可能性も否定できない。
- その一方で本線の利用が伸びないまま一部廃止された可能性を否定できない。
- 高針駅としては主要集落である古谷、北島が面する札木(現:西友高針店付近)が好ましいと考えられるが、その一方で、勢子坊〜極楽に最初の着工区間があること、その位置から札木までを直線で結ぼうとすると松井池、その沿岸の丘陵、新屋敷の集落等が障害となることから、本線は松井池の西岸を真っ直ぐ南下し、これが中馬街道岩崎ルートにぶつかる地点(現:梅森坂口付近)に分岐駅としての高針駅(東高針駅)を置き、本線は牧野池の東岸、南岸を沿って植田に向かい、札木には必要であれば分岐線最初の駅を置く方が実現可能性が高いと考える。
桃花台新交通桃花台線(桃花台東-高蔵寺間)[編集 | ソースを編集]
- 延伸計画はあったものの、着工されることなく全線が廃止されてしまった。
- 当時の名鉄小牧線と違い名古屋市中心部に直接アクセスできるルートが形成されるので、間違っても廃止になることはなかった。
- 桃花台東駅のループ構造が折り返し運用を除いて無駄になっていた。
- 高蔵寺方面への利用客が中心になった場合はますます無用の長物化していた。
- 名古屋ガイドウェイバスと直通させようとする無謀な構想を誰かが浮かべていた。
- 道路の幅員からして春日井ネオポリスや藤山台の辺りを経由していた可能性大。
- 桃花台新交通の一次開業が1980年代後半か,名鉄が桃花台新交通をグループ化できたら,十分考えられる。
- 高蔵寺駅はJRとの共同利用駅になっていた
愛知電気鉄道市内乗入線[編集 | ソースを編集]
- 名鉄名古屋本線の鳴海~神宮前間に別線を敷く市内乗入線計画が実現していたら?
- 東海道本線に対する本線東部の競争力がより高まっていた。
- 両線とも存続していた場合、市内乗入線が急行線、旧線が緩行線になっていた。
- 特急は全て急行線、普通は全て緩行線を走行。堀田駅が旧線側にあるので急行は系統ごとに走る路線が異なっていた。
- 完全な通過線とするなら途中駅は存在しない方が良いが、それだと地元の同意を得られそうにないので、結局数駅は設けていたかも(鳴海 - 笠寺 - 戸部下 - 新伝馬町 - 神宮前)。
- 普通は全て緩行線を通るので急行線途中駅は急行を停めることになる。すると急行が急行線を走るとかえって遅くなる(緩行線の停車駅は1駅、急行線の停車駅は数駅)という逆転現象が起きる。
豊川鉄道御油支線[編集 | ソースを編集]
- 豊川鉄道が、豊川〜御油(現・愛知御津)の支線を建設して、豊川と東海道本線駅を短絡する計画が実現していたら?
- 愛電線開業で苦境に陥るも、蒲郡方面からの短絡路線としてかろうじて残る。
- 国有化は、財産区分けの関係や名古屋方面へ順行になるから、吉田(現・豊橋)への本線ではなく、支線の方が対象になり、飯田線の起点は東海道本線・御油駅になる。
- 対象とならなかった豊橋―豊川間もどのみち名鉄線になっている。一方で豊川線が史実のような形で建設されたかどうか疑問。
- 軌道規格で新線作るより西豊川支線拡張の方が必要資材も少なく輸送量も多そうなので史実の豊川市内線は作られなかったかも。
- そして名鉄線となった豊橋―豊川(―西豊川)間が「豊川線」になる。
- 西豊川支線の行末は川鉄国有化時の判断次第。国有化されたなら史実通り、名鉄線のまま国鉄線から工員輸送列車を直通させたなら戦後も豊川線の一部として存続(ただし国鉄への貨物列車が残存)
- ダイヤは名古屋本線が特急4本、急行数本、普通2本、小坂井支線経由で豊川に行く急行2本。豊川線は先述の急行と下地・船町だけ通過の急行あわせて計4本と普通2本くらいか。本数制限解除に合わせたダイヤ次第で名古屋―豊橋間は史実より便利になるかも。しかし豊川―名古屋間利用者は史実より不便である。
- 豊川線が作られた場合は小坂井支線を廃止し、国府・豊川・豊橋で巨大なデルタ線を構成。
- 路線名に困る。国府―豊川間、豊橋―豊川間のどちらが「豊川線」になっても、どっちも目的地(終点)が豊川だからもう一方の名前が決めづらい。
- 軌道規格で新線作るより西豊川支線拡張の方が必要資材も少なく輸送量も多そうなので史実の豊川市内線は作られなかったかも。
- 貨物・旅客共に豊橋方面の需要があるので後になって豊橋方面の路線の買収を…しようとして名鉄に反発されたので、愛知御津付近に短絡線を設置。東三河にデルタ線が2つ出来ていた。
- 長距離ローカル列車などは史実通り豊橋発着で、御津―豊川を走る旅客列車は特急や朝夕時に豊川を発着する快速系。一部の列車は豊橋方面からの列車と蒲郡あたりで増解結。
- 対象とならなかった豊橋―豊川間もどのみち名鉄線になっている。一方で豊川線が史実のような形で建設されたかどうか疑問。
名鉄大曽根線[編集 | ソースを編集]
- 現在の小牧線の未成区間であり、上飯田-大曽根間に軌道を敷設する計画だった。
- 瀬戸線の大曽根駅と駅舎が統合され、全列車が栄町まで乗り入れるようになっていた。
- 車両に関しても瀬戸線と共通運用が組まれるので、6750系が犬山まで行く事があったかもしれない。
- それでも名古屋本線とは直接接続しない為、線路こそ繋がっているものの史実同様実質独立した線区扱いとなる。
- もしくは、味鋺~大曽根間が地下化されて、名古屋市営地下鉄名城線と相互直通運転を行っていた可能性もあった。
- その場合、名古屋港~大曽根~犬山・小牧間として運行されていた。
- 京阪京津線と同様に名鉄電車が乗り入れるという片乗り入れという形になっていた。
- 地下鉄上飯田線は計画自体は存在するものの建設されずに終わっていた。
- 間内駅付近に車庫ができていた。
- 栄町駅のホームが2面4線の頭端式ホームになっていた。
- 桃花台新交通が廃止されることはなかった。
- 名鉄300系電車の登場は史実通り。
- しかし、史実よりも遅れて登場していたかもしれない。
- 名古屋市電御成通線は開業しなかったかもしれない。
名鉄名古屋空港線[編集 | ソースを編集]
- 味美~名古屋空港
- 中部国際空港の建設が史実より遅れていれば具体化していたかもしれない。
- 中部国際空港開港以前は全列車が平安通始発となっていた。
- 開港以降はほぼ全ての列車が線内折り返し運転を行っている。運行間隔も30分に一本ぐらいまで減少。
- 三菱の工場への通勤需要がメインになっていれば朝夕に限ってはそこまで衰退していない。
- 休日も空港見学やエアポートウォークの客で少しはにぎわっていた。
- 豊山町唯一の鉄道路線となっていた。
- いつか豊山町中心まで延伸していたかもしれない。
名鉄三河線[編集 | ソースを編集]
- 西中金~足助
- 三河線(猿投~西中金間、碧南~吉良吉田間)の廃止はなかった。
- 廃線になるとしても、碧南~吉良吉田間の廃止に留まっていた。
- 新鵜沼~知立~足助間の臨時特急が運行されていた。
- それどころか一度も三河山線の定期特急は廃止されない。知立-梅坪間は高速化される。
- 香嵐渓に訪れる観光客が増えていた。
- 名鉄グループが熱心にそこを開発したかも。
- 足助町の人口が史実よりも多くなっていたかもしれない。
- それでも豊田市に合併される運命は変わらなかった。
- ディーゼルカーでの運行はなかったかもしれない。
- 6000系電車が史実よりも多く製造されていた。
- 近鉄の「青の交響曲」のような観光列車が運行されていた可能性が高い。
- 名鉄三河線において、知立~豊田市間が複線化されていた可能性が高い。
- 遅くとも豊田市-梅坪間の複線化までにそうなる。
名鉄小牧線[編集 | ソースを編集]
- 上飯田~押切町
- 一宮線に乗り入れて、柳橋まで乗り入れていた可能性が高い。
- 戦後、名鉄名古屋まで乗り入れていた。
- 駅のキャパシティがさらに逼迫していた可能性大。
- 戦後、名鉄名古屋まで乗り入れていた。
- 無論、名古屋市営地下鉄上飯田線の計画はなかった。
名鉄瀬戸線関連[編集 | ソースを編集]
品野延伸[編集 | ソースを編集]
- JR東海バスの一般路線撤退がもっと早まっていた。
- 東濃鉄道の名鉄グループ入りに前後して笠原への延伸を求める声があった。
- 愛環の多治見延伸計画の廃止の代替としてその声が高まっていた。
- 品野~多治見のバスは現在でも運行されていた。
- 瀬戸電時代に笠原鉄道を併合して、笠原まで延伸(笠原-新多治見間電化)できたらそれと同時に廃止。
- それが実現できた場合昭和50年代までは名古屋-多治見間の鉄道利用者は瀬戸電(名鉄)の方が多かった。上手くいけば、瀬戸電は名岐鉄道と合併しなかった。
藤岡延伸[編集 | ソースを編集]
- 藤岡町と瀬戸との結びつきが強まっていた。
- 平成の大合併では史実の豊田市ではなく瀬戸市と合併していた。
- 藤岡に名古屋へ通勤する人向けの大規模なニュータウンが出来ていた。
- 名鉄4000系の誕生が早まっていた。
守山~志段味支線[編集 | ソースを編集]
- 志段味地区の開発はもっと早く進んでいた。
- 早い段階で名古屋への通勤圏となり大規模な開発が行われていた。
- 高蔵寺までの路線延伸が取りざたされている。
- ゆとりーとラインは存在しなかった。
- 存在したとしても現状よりさらに経営状態は悪かった。
- 瀬戸西線は民営化直後に廃止されていた。
- 瀬戸地区は経営が支えられず史実よりも早く撤退している。
新三河鉄道[編集 | ソースを編集]
- 八事 - 挙母
- 八事が地下鉄と名鉄の境界になっていた。
- 赤池は名鉄のものになっていた
岐阜[編集 | ソースを編集]
木曽御嶽鉄道[編集 | ソースを編集]
木曽福島~三岳村を結ぶ計画だった。
- 木材輸送と木曽御嶽登山で賑わっていた。
- 田口線や北恵那鉄道と同じく1076mmの森林鉄道と言われていた。
- 森林鉄道全廃のときに貨物営業が廃止され史実よりもファンが押し寄せる。
- 森林鉄道廃止後しばらくしてマスコミが井川線のように当路線をもてはやす。
御嶽開発水無線[編集 | ソースを編集]
かつて名鉄は子会社の御岳開発に王滝森林鉄道水無線を買収させており、観光列車を運転させる計画だったが水無キャンプ場の破綻で計画が立ち消えとなった。
- ベールに包まれた林鉄に乗れると多くの観光客が詰め寄せていた。
- 史実の小川森林鉄道赤沢線みたいなポジション。もちろん森林浴発祥の地となっていた。
- 林鉄廃止後、車両の保存も行うようになる。
- もし木曽御嶽鉄道が存在した場合、三岳村までの路線を引き取っていた。
- この場合は大井川鐵道井川線みたいなポジションとなる。
北濃鉄道[編集 | ソースを編集]
- 高富町-北武芸村間の計画が存在していたそうである。
- 史実の名鉄高富線の延伸区間として開業。
- おそらく山県市経由だった。
- 戦後に高富線が「輸送力不足でバス転換」などということにはならなかった。
- 長良北町以南を専用軌道化できない限り2005年には廃止されていた。
もしくは88年に市内線の徹明町以北と運命を共にしていた。
- 岐阜市内区間に地下路線を建設して本線と直通していたかもしれない
近鉄岐阜線[編集 | ソースを編集]
- 大垣 - 小熊 - 岐阜羽島と小熊 - 岐阜間。なお戦前から計画が存在し、揖斐大橋は、鉄道が敷設できる構造になっていた。岐阜から高山線に乗り入れる計画だったらしい。戦前の計画では小熊 - 岐阜羽島がなくかわりに結 - 安八の支線を作る予定。
- かわりに名鉄羽島線は開業しなかった。
- 竹鼻線全体が廃止されていたかも。
- それはない。現在の竹鼻線自体、新幹線アクセスとしてよりも沿線の通勤通学路線としての色彩が濃い。
- 羽島線がなかったら江吉良~羽島市役所前間も江吉良以西と同時に廃止されてそう。
- それはない。現在の竹鼻線自体、新幹線アクセスとしてよりも沿線の通勤通学路線としての色彩が濃い。
- 竹鼻線全体が廃止されていたかも。
- たぶん現在は養老鉄道の一路線になっていた。
- むしろ近鉄のままで岐阜~揖斐/養老は特急が走っていた。
- その場合、1435mmへ改軌されていた。
- 高山線乗り入れは現在は廃止されていると思う。
- 1990年代あたりでJRに代わって名鉄名古屋本線との乗り入れ計画が浮上し、名鉄岐阜と近鉄岐阜の連絡線が建設されていた。
- 戦前の計画が実行された場合、戦後安八 - 岐阜羽島が建設されて岐阜・大垣両側から乗り入れていた。
- 岐阜県庁への足として重要視されていた。
- 聲の形にも登場していた。
- 桑名~岐阜間を結ぶ列車と揖斐~岐阜間を結ぶ列車が運行されていた。
- 揖斐大橋と長良大橋が鉄道道路併用橋になっていた。
- 2000年代には分離されていた。
名鉄関線[編集 | ソースを編集]
- 新鵜沼~新関間
- 2000系電車も走っていた。
- ダイヤでは、名鉄広見線と同じレベルになっていた。
- 名古屋への通勤者向けの沿線開発が進めば、朝と夕方~夜に準急・急行(・高速)・特急・快速特急が、河和・内海・豊橋方面から多く直通する。
- 関市に訪れる観光客が増えていた。
- 駅設置はどうなっていたのであろうか。
- 新関駅を関(国鉄時代美濃関)駅に統合(同時に美濃町線新関~美濃間廃止)する計画が1980年代に出た。
- それと共に、長良川鉄道に、キハ8000・8500を使用した急行→特急を直通させる計画が出る。
美濃電気軌道芥見線[編集 | ソースを編集]
- 名鉄岐阜(新岐阜)~下芥見間
- 当然ながら、徹明町 - 北一色間が併用軌道になることはなかった。
- のちに美濃町線となり、廃止になることはなかった。
- ダイヤでは、名鉄各務原線と同じレベルになっていた。
- 併用軌道の時と比べて、駅の数が少なかった。
- 駅設置はどうなっていたのであろうか。
- 新岐阜百貨店は閉店することはなく、名鉄百貨店岐阜店として、リニューアルされていたかもしれない。
中濃電気鉄道[編集 | ソースを編集]
安良田町〜太田町〜金山町〜(下呂)
- 名鉄各務原線は各務原鉄道ではなく中濃電気鉄道によって開業していた
- 遅かれ早かれ名鉄に合併されていた
- 飛騨金山みたいな中途半端なところではなく下呂まで延伸していた
- ↑白川口あたりで分岐して白川、東白川、加子母を通って下呂へ行くのが妥当
三重[編集 | ソースを編集]
四日市あすなろう鉄道内部線(未成区間)[編集 | ソースを編集]
内部から先も延伸する予定でした。
- 内部駅は単なる途中駅になる。
- 鈴鹿ハンターや深伊沢地区は交通が不便にならなかった。
- 笹川経由で伊勢八王子駅につないで一周路線になっていた。
- 従って1974年の災害時も廃止せず復旧した。
- バスの循環路線のように「内部回り・伊勢八王子回り」と呼んでいた。
- 従って1974年の災害時も廃止せず復旧した。
志摩スペイン村新交通システム[編集 | ソースを編集]
川島令三氏が本で言っていました。
- スペイン村はそこまで業績が悪いとは言われない。
- スペイン村はもっとはやっていた。
三岐鉄道三岐線(未成区間)[編集 | ソースを編集]
西藤原から先も延伸を計画していました。
- 三岐線は行き止まりにならなかった。
- 国有化されて関ヶ原まで伸びる(改正鉄道敷設法第75号)。流石に木ノ本までは伸びない。
- 車両はJR東海の電車がベースになっていた。
名張-伊賀上野間を結ぶ路線[編集 | ソースを編集]
こちらも計画はされていました。
- 伊賀鉄道が名張市内に来ていた。
- 史実でも伊賀鉄道(初代)が開業していたわけだが(正確には今の名張駅じゃなくて後の西名張駅まで)…。それとは別物?
桑名電軌(未成区間)[編集 | ソースを編集]
他にも路線を広範囲に拡大する予定でした。
- 戦時中に廃止されることはなかった。
- 近鉄の路線になっていた。
- その後、伊賀鉄道・養老鉄道と同じ方式で分社化されている。
- 分社化後の社名は「桑名ライトレール」になっていた。
- その後、伊賀鉄道・養老鉄道と同じ方式で分社化されている。
- 車両はとさでんのように各地からの車両の寄せ集め。
近鉄名阪短絡線[編集 | ソースを編集]
川合高岡~久居間、用地買収難により、中川短絡線に代替。
- 無論、中川短絡線は建設されなかった。
- 早くても、1963年3月に完成していた。
- これを機に名阪特急を当路線に切り替え、名阪特急の速達化を図った。
- 大阪難波~名古屋間における名阪甲特急の所要時間は2時間台を切っていた。
- 名古屋線か大阪線の支線として、開業していた。
- 路線名は「久居短絡線」になっていた。
- 名阪特急の速達化を目的としている路線であるので、途中駅は設置されなかった。
- 複線化用の用地も確保されていた。
- 名阪特急の利用客が回復した1970年代以降に複線化されていたかもしれない。