もしあの鉄道車両が更に増備されていたら/国鉄

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少数派に留まった車両や完全な車両置き換えに至らなかった車両がもし、更に増備されていたら?

  • 新規追加は車種別に形式が若い順にお願いします。
    • 項目内に史実の導入編成数を書いていただければ幸いです。
  • 1年以上増備が行われていない形式でお願いします。
関連項目

電車[編集 | ソースを編集]

特急・急行形[編集 | ソースを編集]

165系・457系[編集 | ソースを編集]

  • 急行型電車は1973(昭和48)年をもって新製が打ち切られました。もし、もう少し増備がつづけられていたら。
  1. 70年代終盤あたりから特急型電車がガンガン新製されて、急行増発→急行列車の特急化を推進させられた。
    • その結果、旧型電車・旧型客車(普通列車)は長野・新潟地区はオール165系化、仙台・秋田・青森・金沢地区などは、オール急行型で新性能化される。
    • 紀勢本線の急行「きのくに」は1978.10改正の新宮電化の時点で165系電車に置き換えられていた。
      • 南海からの南紀直通もこの時点で廃止されていた。
      • それでも1985年に特急「くろしお」に格上げ→廃止は史実通りだろう。
  2. 従って、急行形電車は3ドア化、洗面所・デッキ撤去される。
    • 史実の717系900番台と近似の形態となっていた。
    • 近郊型改造に伴い165系は115系、457系は415系の新区分番台に改番されていた。
    • 洗面所撤去だけでなくトイレの数も減らされていた。
  3. よって、ローカル向け115系1000番台(状況次第では2000番台も)、119系、419系電車、50系客車、ED76系交流機関車などはデビューすることはなかった。
  4. 「しらゆき」に投入されていた場合、457系は3電源を発揮できる電車となっていた。
  5. いや、「しらさぎ」は特急化されて「白鳥」と併結運転となっていた。
  6. よって、「白鳥」は1~6号となっていた。
  7. 455・457・475系から改造されたジョイフルトレインも存在していた。
  8. 457系増備→153系廃車→117系の出る幕無しのストーリーも考えられる。
  9. 457系が秋田や長崎にも進出。
  10. キハ58系気動車の余剰廃車が早まっていた。

183系あまぎ・白根用[編集 | ソースを編集]

「あまぎ(現在の踊り子)」「白根(現在の草津)」で運用されていた157系置き換え用に留まることなく、更に増備されていたら?

  1. 185系は登場しなかった。
    • 117系と比べられることなく、「最悪の特急」と揶揄されることもなかった。
    • 「あかぎ」にも183系が投入されていた。よって、新特急も生まれなかった。
      • 「はまかいじ」にもこの編成が充当されていた。
    • 185系は元々急行型電車として開発された車両だから、本来の急行用としては登場してたかもしれない。
  2. 基本10両編成だけでなく、付属5両編成も登場していた。
    • サハ183形が登場していた。
    • 2階建て列車のために貫通路付きクハ183形の製造が再開されていた。
  3. 2005年までにE257系によって置き換えられていた。
    • 上記の通り高崎線特急にも183系が投入されていた場合、同線にもE257系が投入されていた。
      • 651系1000番台は存在せず、E657系投入後に行き場をなくした651系は殆どが廃車されていた。
        • 伊豆クレイルの種車は255系になっていた。
          • 255系の編成からすれば無理があると思うが。
        • 651系はむしろ当初の予定通り波動用に転用されていたのでは?

183系1000番台[編集 | ソースを編集]

史実では関東地区を中心に投入された特急車であったが、登場時期が遅く、1974年設計だった為1985年ぐらいまでは製造できた車両であったことから、全国規模で投入できた。

185系[編集 | ソースを編集]

史実では東海道線の急行伊豆(今の特急踊り子)と新幹線リレー号(後の新特急「あかぎ」、「草津」)向けに東日本地区のみ導入されたのである。

  1. 関西圏にも導入された。
    • 中国地方にも納車された。
    • これらはJR西日本に継承された際に緑色のストライプが青色に変更された。
    • 「北近畿」、「はしだて」などはこれになった。
      • 「エーデル北近畿」、「エーデル丹後」はなかった。
        • あれらは「エーデル鳥取」のみに。
    • 関西地区用の普通車の座席はJR西日本発足後の早い時期に背面テーブル付き回転式リクライニングシートに交換されていた。同時に最高速度を120km/hに向上するための改造工事も行われた。
    • 2000年代に入るとリニューアル工事で683系並みのアコモデーションに改良され、グリーン車は3列シートになるなど、185系とは思えないほどの見違えるような車両になっていた。
  2. のちに普通列車に転用される。

473系[編集 | ソースを編集]

史実では475系が製造されたため1編成しか製造されませんでした。453系並みに多かったら。

  1. 475系の導入が遅れた。
    • 475系は瀬野八越えの区間を抱える山陽~九州方面のみの投入となっていて、北陸方面には1970年の富山地方鉄道立山駅乗り入れの時に457系が投入されるまで475系は投入されなかった。
  2. 413系100番台も複数編成存在している。
  3. 2010年頃まで現役で運用されていた編成も複数あった。
  4. のちに、普通列車に転用されて、50系客車が史実よりも少なくなっていたかもしれない。

普通列車用[編集 | ソースを編集]

103系[編集 | ソースを編集]

史実では3447両製造されましたが、もし製造両数がワム80000形(26605両)並みだったら?

  1. =国鉄が近郊路線にも4ドア車に投入していた場合か。
    • グリーン車使用やクロスシートタイプも製造されていた。
    • 101系は全て103系に改造されていた。
    • 直流電化区間も伸びていた。
      • 3ドア車は常磐線などごく一部にとどまった。
  2. JR東海で令和になっても103系が走っていた可能性大。

105系改造編入車[編集 | ソースを編集]

史実では新規製造車(60両)と改造編入車(61両+補充車1両)がありましたが、もし、105系が全て改造編入車だったら?

  1. 205系の製造数が現実より多かった。
  2. 105系登場が遅れていた。(新規製造車は1981年、改造編入車は1984年)
  3. そもそも105系にはならず103系の番台区分には…流石にならないか。

113系700・2700番台[編集 | ソースを編集]

史実では湖西線向けに開発されたため少なかった。

  1. 草津線の電化が早まっていた。
  2. 湖西線が全線直流になっていた。交流60Hzとは無縁。
    • それも開業当初から。
  3. 福知山線や山陰本線にも早々と導入されていた。
    • 新福知山色は800番台ではなく本番台に塗られていた。
    • 勿論福知山口の電化も史実より早まっていた。
  4. 関西圏の東海道線の3ドア快速は221系が入る前はこれで統一されていた。
    • 丸窓で大目玉は他路線へ行った。
  5. JR東海に継承された編成も登場。
    • そちらは当然ながらブルーシートに牛革のシートカバー。
  6. 小浜線や舞鶴線の電化も早まっていたかも。

113系1500番台[編集 | ソースを編集]

史実では数両程度増備していた。

  1. 横須賀線はSM分離並びに総武本線との直通を境にこれで統一されていた。
    • 1000'番台の東京乗り入れは無くなっていたかも。
      • 全車房総地区に転属。
        • それも史実より早めに。
  2. 民営化以降、置き換え時期が遅くなり早々とE217系に置き換えられるとはなかった。
    • きっと置き換えるときはE231系1000番台の地下乗り入れ版が開発されていたかも。

113系2000番台[編集 | ソースを編集]

史実では2000番台の数は0番台を下回っていた。

  1. 東海道線東京口はSM分離を境にこれに統一されていたかも(勿論サロは1200番台だけ)。
  2. サハ代用のクハは史実よりも早く無くなっていたかもしれない(他線区に転用)。
  3. 111系は史実よりも早く無くなっていたかも知れない。
    • 四国に譲渡されることはなく、紀勢本線に転属していたかも。
    • あるいは四国に113系0番台の配属が早まっていた。

115系2000番台[編集 | ソースを編集]

  1. 高崎線・東北線・中央線で活躍していた0・300番台の115系を他線区の新性能化を図るために全て置き換えると決定し、さほど寒冷地対策は必要とされていない線区の投入であることから2000番台の115系が導入されることが決まり関東地区から1000・2000番台以外のシートピッチが狭い115系はすべていなくなった。
  2. 0・300番台の両数的に1000番台よりも製造数が多くなってたことは間違いなさそう。

123系[編集 | ソースを編集]

  1. 地方交通線の輸送力適正化に一役買う。
  2. 地方私鉄へ譲渡される車両も出てくるかも
  3. 寒冷地向け仕様や山岳地域向け仕様も出てくる。
  4. 南武支線や鶴見線にも少なからず導入され、クモハ12を置き換えていた。
    • 南武支線用101系はなかった。
      • 現在はどちらも205系で置き換え済
  5. 郵政省所有のクモユ143も国鉄に譲渡後直ちに123系に改造された。

201系武蔵野線用[編集 | ソースを編集]

中央線快速用から転用で配置されたものの一部に留まった。

  1. 101系を確実に置き換えていた。
  2. 8両編成化に際しては組み換えで対応していた。
    • 8両編成化で持て余した車両は青梅・五日市線に転用されていた。
    • 補充として205系も更に増備されていた。
  3. 今頃はE233系に置き換えられている。

205系関西地区用[編集 | ソースを編集]

史実では京阪神緩行線用に0番台が7両4編成、阪和線用に1000番台が4両5編成のみ導入されました。もし関西にも205系が本格的に投入されていたら?

  1. 京阪神緩行線の103系は1980年代のうちになくなっていた。
    • 京阪神緩行線の103系の置き換えが終わると大阪環状線や阪和線などにも投入。
    • JR東西線開通に伴い207系が京阪神緩行線に投入された結果、201系は阪和線や大和路線に転用されていた。
    • 京阪神緩行線のスピードアップも実現していた。
  2. 結果として関西から103系が撤退するのが早かった。
    • あるいは高運転台クハ(勿論中間車も後期車のみで構成)の編成だけが生き延びていた。
  3. 1988年以降は1000番台として投入されていた。
  4. 321系は忠実より10年ほど後に227系顔として導入され、205系を駆逐。
    • 阪和線の201系導入は大和路戦同様、205系転属となり後回しに。
      • ただ体質改善されそこそこ綺麗な状態にはなっているはず。
    • むしろホームドアの設置の観念から、4扉車の321系は開発されず、3扉車の323系に相当する通勤型車両が投入される。
      • 網干車に関しては207系との兼ね合いでそうはならない気がする。
  5. 205系の増備に集中して、221系はあまり造られなかった。
    • 恐らく221系は爆音外扇モーター搭載での設計だったかも。
      • むしろ東日本に倣い、西日本の205系も途中から内扇モーター搭載で落成した。

207系900番台[編集 | ソースを編集]

史実では1編成のみの製造でしたが、もし、実用化して量産車が登場していたら?

  1. 常磐緩行線だけでなく、埼京線、横浜線、京浜東北線などにも投入された。
    • 205系は山手線投入分で打ちとめになっていた。
    • JR西日本の205系1000番台も207系として登場していたかも。
      • その場合、221系がVVVF制御車として登場していた可能性もある。
    • 地下鉄乗り入れ用以外は前面非貫通式で登場していた。
    • 京浜東北線への投入時期と編成数によっては、6扉のサハ206形が登場する。
      • 山手線のサハ204も埼京線への転属時にサハ206に編入改造された。
  2. こっちの方が207系0番代になっていた。
    • JR西日本の207系は209系になっていた。
      • 史実における209系はなかったかも。
        • むしろ209系→231系、E231系→E233系、E233系→E235系、E235系→E237系になっていた。
  3. 203系は常磐快速線に転用されていたか他線に転出していた。
    • 常磐快速線に転用されていた場合、誤乗防止のため、E231系のように黄緑の帯が追加されたかあるいは青緑1色に塗装された。
    • あるいは営団東西線乗り入れ用車両(301系・103系1200番代)置換えのために転出していた。
      • 東西線にも207系が投入されていたような気がしなくもない。
  4. 引退は現実よりも遅く、2017年現在の時点でも現役車両がいたかも。
    • 上記のようにJR西日本にも投入されていた場合は尚更。
    • 2000年代後半からIGBT-VVVFへの制御装置更新が行われていた。
    • JR東日本所属車の多くはインドネシアに譲渡される。
  5. 常磐線中距離快速にJRになってすぐに投入される。
  6. 総武線各駅停車の103系置き換え用に投入されていた。
  7. 総武線の地下鉄乗り入れ車に投入されていた。(青帯)
  8. 1994年製造中止?
  9. 試作車を意味する「900番台」は外されていた。
    • 西の207系は別の形式になっていた。
      • 上に書いてあるように209系になっていたか。

211系0番台・1000番台[編集 | ソースを編集]

初期形113・115系の後継車として計画としてされたが、前者は10両編成6本、後者は5両編成11本で製造が打ち切られました。もし更なる増備が継続されたら?

  1. 私見になるが、前者は10両編成14本、後者は5両編成24本まで製造できたと思う。
    • そうなった場合、初期型113系・115系の廃車ペースは史実以上に早められた。
      • 従って、特別保全工事、冷改などは、史実ほどには施工されなかった。
    • しかし、ロングシート編成の製作両数は史実どうり。
  2. 後年、長野転属のさい14本全て向かい合わせ座席になっていた。
  3. 415系はクハ・モハにも1700番台が登場したかもしれない。
  4. そもそもJR東日本がクロスシート車の製造に意欲的だったら十分あり得た(JR東日本発足後はクロスシート車の製造に消極的になったため)。
  5. 1986年〜1987年にかけて、福知山線や阪和線、大和路関西線でも導入される。場合によってはJR西日本も増備を継続していた。
    • 2010年代に体質改善工事を受け、転換クロスシートになる。

211系0番台名古屋地区用[編集 | ソースを編集]

  • 4両編成2本のみの製造となり5000番台へと移行しましたが、もし0番台時代に大量製造されていた場合。
  1. 311系を投入後は東海道線の脇役へと変化。
  2. 211系5000番台は東海道線に投入される時期は短かった。
  3. 313系投入後は中央線を中心に転属。
    • その分1100番代以降の製造が少なかった。
      • 逆に315系の製造数は増える。
  4. 静岡地区にもこれが導入され丸窓の113系が史実よりも早々と無くなっていた。
  5. 2022年の関西線撤退後は即廃車とならず一部が静岡地区に転用され余生を送っていた。

213系[編集 | ソースを編集]

名古屋地区[編集 | ソースを編集]
  1. 関西本線が複線電化が強化されたらこの編成の長編成版が出ていた。
    • M車比率の高い4・6両編成が多く出ていた。
  2. 快速「みえ」用編成も出たかも。

301系[編集 | ソースを編集]

製造コストが非常に高かったことから製造が途中で打ち切られ、103系1200番台の製造へと方針が転換された。

  1. 103系1000番台の代わりに常磐緩行線にも投入されていたかもしれない。
    • どちらにせよ203系の投入とそれに伴う地上転出は史実通り。ただし105系(303系?)に改造されたかどうかは微妙なところ。
    • 103系1200番台は存在しない。1500番台も301系の番台区分になっていた。
  2. 201系辺りでアルミ車体の導入が真剣に検討されていた。
    • この場合203系は201系の番台区分になっていた。
      • 場合によっては205系以降もアルミ車体が継続使用されていたかもしれない。
  3. 国鉄の財政は間違いなく史実以上に悪化していた。
    • 分割民営化が早まったかもしれない。

415系1700番台[編集 | ソースを編集]

史実ではサハ411-1701の1両のみ製造された。

  1. ロングシート車の415系1500番台の製造両数が少なくなっていた。
    • サハ411-1601は登場せず、サハ411-1702として登場していた。
  2. 恐らく九州に投入された415系ステンレス車はこちらになっていた。
  3. JR東日本では混雑緩和のため1500番台よりも先に廃車されたが、JR九州では全車両現役。
    • JR九州でも混雑緩和のためロングシートに改造された車両も存在していた。
    • いくら東でも2007年引退の415系鋼製車よりは長生きするだろう。上野東京ライン開通でE531系が増備された2015年が引き際か。
      • いずれにせよ水戸線が一時的にロングシート車(1500番台とE501系)オンリーになることはなかった。
  4. 811系は投入されなかった。あるいは製造数が減っていた。
  5. むしろ415系1500番台の7両化用に投入されていた。
    • 415系ステンレス車のみで組成された7両編成の登場が実現していた。
      • 史実ではステンレス車のみで組成された7両編成は存在しない。
  6. クハ415-1901は登場しなかった。

417系[編集 | ソースを編集]

史実では仙台地区のみの導入であったが、この他にも秋田や金沢地区などにも導入する計画があった。

  1. 50系客車の製造数が減っていた。
  2. 急行形車両の格下げ転用はなく、急行列車はある程度維持できていた。
  3. 713系・715系・717系・413系・419系・701系は登場しなかった。
    • 田沢湖線改軌時に719系5000番台が投入されていた。
    • えちごトキめき鉄道が「観光急行」を導入することはなかった。
  4. JR西日本所属車はN40改造されていた。
  5. JR東日本所属車は今頃はE721系に置き換えられており、秋田・盛岡地区にも投入されていた。
  6. 金沢地区配置車は新製時から冷房付きとなっていた。
    • 417系にも青や赤1色の車両が登場していた。

713系[編集 | ソースを編集]

史実では試作車4編成が製造されているが、量産車は鹿児島本線にも投入する計画があった。この他にも周波数を変更することで50Hz線区にも投入出来る設計となっていた。もし、量産車が製造されていたら?

  1. 当初の計画通り、ステンレス車体・空気ばね台車となっていた。
    • 時期的に213系を固定クロスシートにした感じの車両となっていた。
    • 空気ばね台車は、他形式の廃車発生品を再利用。
      • やる気があれば、新品のボルスタレス台車に変更されてたかも。
  2. 715系・717系は登場しなかった。
    • 715系は0番台車のみで打ち切られていた。
  3. 東北地区に投入されていた場合は719系・701系は登場しなかった。
    • 417系は、金沢に転属になっていた。
  4. 鹿児島本線に投入されていた場合は肥薩おれんじ鉄道に数編成が移籍していた。
  5. 900番台が主制御機器を更新した際車番が変更されることはなかった。

715系[編集 | ソースを編集]

  • 715系電車は、長崎地区の715系4両編成12本、仙台地区の715系4両15本、金沢地区の419系3両編成15本をもって、製作が打ち切られました。もし、種車の583(581)系のモハ583・582(モハ581・モハ580)の総計118ユニットを全て715系化するとしたならば、どのようになっていたか。
  1. 419系は製作されなかった。
  2. 長崎・仙台地区のほか、青森、秋田、鹿児島地区にも投入された。
    • 場合によっては鹿児島地区に投入される場合、長崎地区のモハ715を先頭車化改造(トイレ・洗面所もあわせて撤去)して3両化。
  3. 417系は、金沢地区に転属になっていた。
    • その結果、715系の総製作数は374両になっていた。
      • よって、583系は国鉄時代に姿を消していたかもしれない。
  4. 急行きたぐには客車のままだった。
    • 特急「はくつる」も史実より早く24系に置き換えられていた。
  5. 12系2000番台は登場しなかった。
  6. 寝台車の絶対数不足が起きるため、20系客車がJR化後も定期運用を持っていた。
    • 銀河・ちくま・だいせん・かいもん・日南の寝台車はJR化後も20系のままだった。

717系仙台地区用[編集 | ソースを編集]

仙台地区の451・453系全車改造に至るまで増備していたら?

  1. 種車が抑速ブレーキを持たないので運用が常磐線に限定されていた。
  2. 水戸乗り入れも末期まで行われていた。
  3. 719系の登場は史実通りであるが、455系が置き換え対象となっていた。
    • 455系の大規模な更新工事はなかった。
  4. ワンマン運転が難しく、輸送力も過剰であるため、一部の編成が701系に置き換えられていた。
  5. 今頃はE721系に置き換えられている。

気動車[編集 | ソースを編集]

キハ35形900番台[編集 | ソースを編集]

史実では10両のみの製作で終わりましたが、もし、更に増備されていたら?

  1. これ以降のキハ30・キハ35は東急車輛製造で作られていた。
    • 205系のように他社への技術開示はできなかったと思われるため。
    • もっともこれができていれば国鉄の歴史は変わっていただろう。

キハ37形[編集 | ソースを編集]

史実では5両のみの製作で終わりましたが、もし、更に増備されていたら?

  1. 加古川線・久留里線のキハ35系を確実に置き換えていた。
    • キハ38形は登場しなかった。
  2. 加古川線のものは電化後は中国地方へ転出していた。
    • 延命工事も行われており、早期廃車の対象になることはなかった。
  3. 久留里線のものは史実通りにキハE130形に置き換えられていた。
  4. 久留里線や加古川線以外の線区にも投入されていた。
  5. 両運転台版も登場していた。
    • 扉配置はキハ40形に準じていた。

キハ38形[編集 | ソースを編集]

史実では7両のみの製作で終わりましたが、もし、八高線のキハ35系全車置き換えに至るまで製作されていたら?

  1. 八高線にキハ110系は投入されなかった。
  2. 八高線電化時に一部が久留里線に転出するのは史実通りであるが、この時点でキハ35系が全廃されていた。
    • 和田岬線用は?
  3. 今頃はキハE130系に置き換えられていただろう。

キハ58・28形[編集 | ソースを編集]

史実では1969年までに製造が続けていましたが、もし、更に増備されていたら?

  1. キハ40系は製造されなかったかも。
    • むしろキハ66・67形の方が登場しなかった。
      • それすらなかったので117系の登場にも影響が出ていた。
    • 史実では1970年〜1974年の間に急行型・一般型の気動車が製造されていないので、この期間に増備されていたことになる。
  2. 50系客車の普通列車はなく、一ノ関以北の東北本線や村上以北の羽越本線に運用されていた。
    • 非電化線区ならともかく、交流電化線区での機関車有効活用や交流/直流電化線区への直通運転、通勤輸送との観点から長編成で有利となることからむしろ登場したのでは?
  3. キハ65形登場と同時期にモデルチェンジしていた。
    • 同時期に登場した12系と同様のスタイルとなっていた。
    • 本州向けは製造時から冷房車として製造され、北日本向けは依然として冷房は準備工事だった。
    • 車体はキハ65とほぼ同じだが、トイレは設置されていた。
  4. 遜色急行が減っていた。
    • 特に北海道のキハ22形急行列車は本系列によって置き換えられ、普通と急行で車種の専従化が徹底されていた。
  5. この車両は計画されなかった。

キハ65形500番台[編集 | ソースを編集]

キハ65形の寒地仕様ですが、史実では長野地区向けに18両が製造されたにとどまりました。

  1. 東北地区にも配置され同地区における気動車急行の冷房化率が向上していた。
    • おそらく板谷峠を越える「おが」「ざおう」「出羽」に連結される。
    • 盛岡地区に投入されていたら、キハ58形1500番台の大半が冷房準備車のまま現役を終えることはなかった。

キハ66・67形[編集 | ソースを編集]

史実では九州に30両が投入されただけで終わりました。

  1. 九州以外にも投入されていた。
    • 投入線区は恐らく関西本線とかだろうか?
      • 名古屋口に投入して近鉄特急に対抗していたか?
      • 急行「かすが」はこれになっていたかも?
        • かすがに限らず一部の気動車急行をこれにしてたかもしれない。
      • JR東海所属車は110km/h対応に改造されるが、史実のキハ58・65形と異なり座席のリクライニングシート化はなかった。
    • 関西でも福知山線山陰本線京都口・奈良線などに入っていた。
      • JR西日本所属車両は後に体質改善工事が行われていた。
  2. キハ40系の製造両数が現実よりも少なかった。
  3. 両運転台車も登場していた。形式名は「キハ68形」か?
    • 両運転台の気動車は一の位が0~4になるのが原則だから「キハ61形」では?
  4. おそらくキロも登場していた。
  5. 165系・475系の車体に側面はキハ66・67形といった電車も登場していた。
    • 前者は117系を名乗り(前面は貫通型となって1000番台あたりに区分されていた)、後者は511系となり北陸あたりに導入されていた。

客車[編集 | ソースを編集]

12系[編集 | ソースを編集]

1969(昭和44)年からデビューした12系客車ですが、諸事情により1972(昭和47)年より特急形14系客車の製造に変更となりました。もし、1972(昭和47)年以降も12系客車で製造されたら?

  • 1977年(昭和52年)に製造が再開されていますが、ここでは製造が中断されなかったらとします。
  1. 総製作両数は、2000両近くまで製造された。
  2. 50系客車は製造されなかった。
    • 夜行急行などでの需要があるから流石に投入されるだろう。
  3. 後年のローカル転用にあたり、115系・417系・715(711)系などの朝夕ラッシュ時間帯にて混雑緩和用として用いられた。
    • それにあたり、折戸ドア→引戸ドアの施行、3ドア化、デッキ撤去などの施行が行われていた。
      • これはむしろキハ58系気動車でやりそうな気がする。
  4. 北海道へは側引戸、2重窓装備のマイナーチェンジ車が投入されていた。
    • 14系500番代は登場しなかった。
    • 北海道向けの車両の冷房・電気暖房・ディーゼル発電機は準備工事のみで、暖房は機関車からの蒸気暖房を使用していた。国鉄最末期になってやっと冷房・電気暖房が設置され、津軽海峡線の快速「海峡」に使用された。
  5. 北斗星」用にこれを種車にした個室寝台車が製作されていた。
  6. 旧型客車の急行運用は1978年までに全廃され、以降の運用は普通列車のみであった。
    • 寝台車については新車は特急優先とするスタンスから10系が引き続き使用されていた。20系の転用も史実通り。
  7. 「雲仙」「西海」「阿蘇」「くにさき」に14系座席車が投入されることはなかった。
  8. 1973年以降の増備車は防火対策がされていた。
  9. 12系を種車にしたジョイフルトレインがさらに増えていたかもしれない。
    • 史実で14系座席車を種車にしたジョイフルトレインも12系から改造を行っていた。
  10. 14系は寝台車のみ製造されていた。

機関車[編集 | ソースを編集]

EF61形0番台[編集 | ソースを編集]

EF58に代わる旅客用直流機として登場したが、史実では18両しか新製されなかった。

  1. ブルトレ牽引が短期間で終わることはなかった。
    • EF60やEF65ではなくEF61に500番台が登場している。
      • 鉄道模型化されてもマイクロエースのイベント限定品にはならなかった。
  2. クイル式駆動の問題から、EF60同様後期の製造分は釣掛式駆動に変更される。
    • 前期型でも後年リンク式駆動に改造される車両が出ていた。
    • 前照灯も左右2灯式になっている。
  3. 東海道・山陽本線の旅客仕業をことごとく置き換えた場合、EF58の大多数は東北・高崎線系統に転出した。
    • 蒸気暖房から電気暖房に改造される車両が増えていた。
    • EF62が荷物列車牽引のため下関運転所に転入することもなかった。

ED75形300番台[編集 | ソースを編集]

ED75の交流60Hz版として九州地区に投入されたが、史実では11両の製造にとどまった。

  1. ED76の製造数が減っていた。
  2. 日豊本線に運用範囲を広げ、「富士」「彗星」を牽引した可能性もあった。
  3. 高速列車牽引用の1300番台も登場している。
  4. 国鉄時代に全廃されることはなく、いくらかの車両がJR貨物に継承された。
    • 更新工事により、電気暖房の撤去や貫通扉の埋込が行われる。

EF81形300番台[編集 | ソースを編集]

史実では関門トンネル増発用として4両が登場しましたが、製造両数がもっと多かったら?

  1. EF30はローズピンクに塗装され北陸本線米原〜田村間に転出していた。
    • 田村機関区はEF30が廃車される1986年まで存続した。
  2. 増備車は製造当初から重連総括機能を搭載していた。
  3. 国鉄末期に400番台が登場することはなかった。