もし弘前県が存続していたら
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1871年4月の廃藩置県で弘前県が誕生しましたが、約半年後に青森市に県庁所在地が移転し現在の青森県が誕生しました。もし、弘前県が存続していたらどうなっていたでしょうか?
全般[編集 | ソースを編集]
- 地理的環境から現実の八戸市に弘前県庁八戸支庁が設置された。
- 弘前県という名前が存続されたままでは、八戸県は併合されなかった(八戸側に拒否された)。なので、県の面積は津軽地方だけだった。
- 陸運事務所は、当然弘前市に設置され「弘前ナンバー」となっていた。
- 青森公立大学の設置も無かった。
- 逆に弘前に公立大学が設置されていたかも。
- それは無い。弘前大学が、(実史でも青森県唯一の)国立大学だから。
- 8月に開催される祭りでは、「弘前ねぷたまつり」の方が「青森ねぶたまつり」より多く報道されていた。
- 山車の大型化は「ねぷた」の方が顕著で、戦災後の復興で弘前ねぷた大通りが造られる。
- 青森市は、多分小規模市のままか、「善知鳥町」若しくは「善知鳥市」となっていた。
- 浅虫温泉は寂れた温泉街になった一方で、黒石温泉郷や平賀温泉郷、更に大鰐温泉郷が現実より賑わっていた。
- そうなれば、あいのり温泉の巨大レジャー施設や大鰐スキー場にあったレジャープール(実在する大鰐サーフプールではない)は閉鎖される事は無かった。
- その関係で、大鰐町が財政赤字になる事も無かった。
- あさむしキディランドは、ワンダーランドASAMUSHIとしての営業再開すらされなかった。
- 南部屋本館の海扇閣への統合も早まっていた。
- 大鰐温泉スキー場は『(県庁所在地である)弘前市に近い』という事で、赤字になる事も無かったか?代わりに、(実史上の)青森市郊外にある雲谷スキー場が赤字になっていたか?
- 第五十九銀行及び弘前相互銀行は合併せず、そのまま五十九銀行と弘前銀行になっている。
- みちのく銀行は青和銀行のまま。
- いや、青和銀行は、実史どおり合併されるか、存在していなかった。
- 実史の青和銀行は赤字が常態化していて、実質弘前相互銀行による救済合併だった。弘前相互銀行は合併時で預金量と行員数で青和銀行の倍以上の規模だった。さらに、相互銀行から普通銀行に転換するために青和銀行を存続会社にして普通銀行に転換した。
- 悪く言えば、青和銀行を踏み台にして普通銀行に転換した。みちのく銀行の会長や頭取は合併時から現在までほとんど旧弘前相互銀行出身者である。
- いや、青和銀行は、実史どおり合併されるか、存在していなかった。
- 第五十九銀行も合併してそのままの名前か、弘前銀行になって本店も弘前市に置かれたままだった。
- 実史の昭和18年の合併は、戦時統制の一環で国の指導によって全国の道府県庁所在地に銀行や報道機関などが集中化された。
- 同じ理由で、東京府と東京市が廃止の上統合され東京都になり、東京23区は都直轄管理になった。
- 国にとっては当事者の意向なんかそんなの関係ねえ!!
- 両行とも合併はほぼ実史通りで、本店営業部が弘前市か青森市という違いだっただろう。
- 第五十九銀行も弘前相互銀行も実史の通り合併後主導権を握ったことには変わりなかっただろう。
- 実史でも、みちのく銀行はすでに上で述べられた通りになった。一方の第五十九銀行も、合併後は青森市に本店営業部を移して青森銀行に行名を変えたが、第五十九銀行時代の青森支店(青森県立郷土館の建物)に本店営業部を置いた。
- みちのく銀行は青和銀行のまま。
- 昭和20年の「弘前大空襲」で弘前城が焼失していた。
- 弘前の街並みも、第二次大戦後には現実以上に違った様相になっていただろう。
- 仙台のように城下町の地割と無関係に計画的な大通りが縦横に走っていたかも。
- 青森が空襲を受けたのは県庁所在地だからではなく物流の拠点だったからなので、どこに県庁があろうがあの辺で空襲を受けたのは青森だったと思う。
- 弘前の街並みも、第二次大戦後には現実以上に違った様相になっていただろう。
- 「弘前県は『広さ危険』」というダジャレが生まれていた。
- 市制施行する津軽の自治体はもっと多かった。
- 鰺ヶ沢や浪岡あたりか?
交通[編集 | ソースを編集]
- JR奥羽本線・東北本線の起終点が弘前駅となっていた。
- 当然、五能線の起点も実史の川部駅ではなく、名実共に弘前駅起点となっていた。
- 津軽線は、実史の青森駅ではなく、津軽新城駅か浪岡駅起終点となっていた。
- あるいは史実の津軽鉄道を北に伸ばしたようなルートだった。
- 2002年12月1日から運行開始された弘前発着の特急「つがる」は、名実共に東北本線の列車となった。(実史では弘前~青森間は、奥羽本線の列車扱い。)
- 青函連絡船が北野辺地駅付近から発着になり、奥羽本線は北野辺地駅付近が終点になった。
- 以外に、盛岡までの在来線(=実史の奥羽本線と花輪線及びいわて銀河鉄道線)が複線電化で整備され、東北新幹線もそのルートで開通したかも。
- その場合の(盛岡以北の)新幹線停車駅は、新花輪駅(実史の鹿角花輪とは別の場所)、新大館駅(実史の大館駅とは別の場所)。
- 東北自動車道は、実史の青森IC終点ではなく大鰐弘前ICが終点となり、それ以北の区間は青森自動車道に相当する路線となった。
- 「大鰐弘前IC」じゃなくて、単に「弘前IC」という名称になっていた。
- 当然ICは名実ともに弘前市域内にある。
- 東北道青森IC~弘前ICは東北縦貫道八戸線の一部だった。
- 「大鰐弘前IC」じゃなくて、単に「弘前IC」という名称になっていた。
- 国道4号・国道7号の起終点も、弘前となっていた。
- 国道339号や国道101号の起終点も実史とは違っていたか。
- いずれにせよ、弘前を中心に交通インフラが整備されていた。
- 青森空港は当然弘前空港となり、鶴田町に開港していた。
- 実史では廃止された弘南バス十和田西線が運行し続けた。逆にJRバス東北十和田北線は減便又は廃止されたいた。
- 旧弘前電気鉄道(現弘南鉄道大鰐線)は、未成線区間が全線とは言わないまでもかなり完成していたかも。
- ちなみに、未成線区間および路線は大鰐線(中央弘前駅~高杉経由~国鉄五能線板柳駅)と目屋線(西弘前駅から大鰐線と分岐して、西目屋村の砂子瀬地区まで)である。
- 前述のように五能線が弘前~高杉~板柳以遠となれば、藤崎町への路線を計画。
- 目屋線は、山岳部は厳しいが、西目屋村中心部までは開業したかも。
- いずれも国から認可されていたが後に失効した。
- 逆に人口も多く自動車の台数も今より多いはずだから道路整備を優先されて、国鉄奥羽本線と並行して走る大鰐線は行政や市民から邪魔にされて廃線にされたかもしれない。
- 実際全国の並行路線は戦時中から戦後に多くが廃線になった。
- そうなれば、JR奥羽本線の弘前駅~石川駅間に1つか2つくらい駅が出来ていた。列車の本数も現在より多かっただろう。
- 実際に1935年から1940年までは和徳駅、大清水駅、門外駅があったらしい。
- 結論としては、大鰐線は整備が進むか廃線になるかどちらにしても極端な結果になっていただろう。
- 弘前電鉄は、史実と違い戦前に発足した。
- ちなみに、未成線区間および路線は大鰐線(中央弘前駅~高杉経由~国鉄五能線板柳駅)と目屋線(西弘前駅から大鰐線と分岐して、西目屋村の砂子瀬地区まで)である。
- 青函トンネルの東ルート案は検討すらされなかった。
- 弘前運輸区は現在も車両配置があり、名称が「弘前運転所」になっている。
メディア[編集 | ソースを編集]
- NHK弘前放送局は支局に降格されず、コールサインJORG・JORCは存続されていた。
- 実史のNHK青森放送局は置局されないか、NHK青森支局又はNHK青森報道室止まりとなった。
- この場合、NHK青森放送局に付与されているJOTG・JOTCは、別の放送局に付与されていた。
- 民放については、局名に青森が付されているが、その部分が弘前に変わっていた。
- エフエム青森は「エフエム弘前(略称:FMH)」となり、実史のエフエム青森より早く開局していた。
- NHKアナログテレビ・FM放送とRABアナログテレビの送信所は、鷹森山ではなく、当初から馬ノ神山に置かれて、甲州川山にNHK・RAB五所川原中継局が設置されることは無かった。
- そもそも「青森放送」ではなく「弘前放送」(RHB)と名乗っている。
- 弘前放送なら「HBS(Hirosaki Broadcasting System)」もありうる。(実史で略称にHBSを使用している放送局が無い為)。
- 青森テレビ・青森朝日放送も「弘前テレビ」「弘前朝日放送」と名乗っていた。
- フジテレビ系列局もあった場合、「陸奥放送」と名乗っていた。
- 寧ろ、「弘前りんごテレビ」になっていたかも。
- 「みちのくテレビ」かも。
- フジテレビ系列局もあった場合、「陸奥放送」と名乗っていた。
- そもそも「青森放送」ではなく「弘前放送」(RHB)と名乗っている。
- 県内各地にあった新聞社が戦時統制下における国による指導で東奥日報社に統合された際は、本社が弘前市に置かれただろう。
- 戦後、東奥日報社の編集姿勢に反発して辞めた社員が陸奥新報社を設立することもなかっただろう。