もし芸能界であの事件がなかったら/1990年代以前
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- もしあの芸能人が不倫をしていなかったら
- もしあの芸能人の問題発言がなかったら
- もしあの芸能人の薬物所持事件がなかったら
- もしあの芸能人が性犯罪を犯していなかったら
- もしあの芸能人が未成年飲酒・喫煙をしていなかったら
1970年代以前[編集 | ソースを編集]
トニー谷長男誘拐事件(1955年)[編集 | ソースを編集]
- トニー谷はテレビに出ることはできず史実通りに人気が落ち、生涯舞台で食い繋ぐ日々だったかもしれない。
- テレビ番組での「♪あなたのお名前なんてえの」で人気が復活することはなかった。
- 何れにしてもいつも行っていた女性芸能人への×××××で×××××にまで至ったかもしれない。
- もしくは毒舌がエスカレートして裁判沙汰になったかもしれない。
- 芸人になる前の壮絶な過去は死ぬまで明かされなかったかもしれない。
- 古い知人がマスコミに暴露してもシラを切り通しただろう。
ジャニー喜多川の性的虐待疑惑(1950年代~2010年代。テレビで報道されたのは2023年)[編集 | ソースを編集]
- ジミー・サヴィルやハーヴェイ・ワインスタインと比較されることはなかった。
- 性犯罪に関連して、グルーミング(=子どもからの信頼を得て、その罪悪感や羞恥心を利用するなどにより、関係性を操る行為)という用語が知られることはなかった。
- 性犯罪関係の法改正はなかったかもしれない。
- ジャニーズ事務所が終焉を迎える事も無かった。
- 山下達郎の評判が地に落ちる事も無かった。
- 東山紀之にも性的虐待疑惑が浮上する事も無かった。
- 栗山英樹がネタにされる事も無かった。
- ソーセージが悪い意味で話題になることはなかった。
高島忠夫長男殺害事件(1964年)[編集 | ソースを編集]
- おそらく長男も政宏や政伸同様に芸能界デビューさせていただろう。
- メディアでの呼び方が「高島兄弟」ではなく「高島三兄弟」になっていた。
- もしくは高島夫妻が政宏や政伸を産まなかったか。
- 寿美花代が湯船につかることができないことを告白することはなかった。
- もしかしたら高島忠夫が糖尿病や鬱病を発症することはなかったかも。
ザ・タイガース奈良あやめ池公演事故(1967年)[編集 | ソースを編集]
- ザ・タイガースの不良イメージは史実ほど拡大しなかった。
- それでも、髪型や服装に眉をひそめる大人はいた。
- NHKが長髪系GSを締め出すことはなかったかもしれない。
- この年のNHK紅白歌合戦にザ・タイガース(とおそらくザ・スパイダースも)が出場できていた。
フランク・ザッパのコンサートでの火事(1971年)[編集 | ソースを編集]
- ディープ・パープルの『Machine Head』は当初の予定通りモントルーのカジノでレコーディングされた。
- 当然、「Smoke on the Water」も誕生しなかった。
津川雅彦長女誘拐事件(1974年)[編集 | ソースを編集]
- 津川雅彦が東京新聞に対して不信感を抱くことはなかった。
- 晩年の津川雅彦が右翼的な発言をすることも減っていた。
- 長女こと真由子が芸能界デビューすることはなかったかもしれない。
- システムエンジニアのすごさが世に知られることもなかった。
- 個人情報保護法の施行あたりまで芸能人の子供の顔が隠されることはなかった。
岡田奈々監禁事件(1977年)[編集 | ソースを編集]
- 短大は卒業していたと思う。
- アイドル歌手として史実より長く人気を得ていた。そのため女優専念も30前後まで遅れていた。
- 遅くても30代前半までには結婚していた。
- AKB48メンバーの名前が岡田奈々でなかった。
- もし活動休止していなければこのAKBの岡田奈々との共演も見られたかも。
- こちらの岡田奈々は本名であり、7日生まれが由来なので関係ないと思うが。
- もし存在を知っていたら命名しなかった可能性もあった(漢字表記を変えるとか)。
- 70年代後半以降に生まれた世代における知名度も史実より高かった。
1980年代[編集 | ソースを編集]
ザ・ドリフターズ競馬ノミ事件(1981年)[編集 | ソースを編集]
- 当然、当事者で仲本工事と志村けんの謹慎はなかった。
- 『8時だョ!全員集合』も史実よりは続いていたかもしれない。
- ドリフメンバー(特に志村といかりや、仲本と志村)の仲も史実のように悪くなることもなかった。
- 『ドリフ大爆笑』のオープニングを20年も使い回さず、長くても3年くらいで更新していた。
- オープニング曲のアレンジが変更されることもなかった。
- 志村もピンでの活動はそれほど多くなかった。
- 『バカ殿様』も『ドリフ大爆笑』のコントのまま継続され、スピンオフはなかった。
- いかりや亡き後も4人が集まる機会が最低でも年1回はあったような気がする。
- 『踊る大捜査線』『取調室』などいかりや出演ドラマでメンバーがゲスト出演も十分考えられた。
- 場合によってはいかりやの俳優への転向も遅れていたかもしれない。
- 『全員集合』の人気が低下することもなく、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』はなかったかもしれない。
- 『ドリフ大爆笑』のオープニングを20年も使い回さず、長くても3年くらいで更新していた。
- ドリフメンバーの誰かに(または5人揃って)公営競技関連の仕事が舞い込んだかもしれない。
高部知子ニャンニャン事件(1983年)[編集 | ソースを編集]
- 高部知子の人生が大幅に変わっていた。
- (高部がメンバーとして参加していた)わらべも1985年3月の解散まで3人組だった。
- あるいは解散せず、現在も活動していた。
- 阪神大震災や東日本大震災の復興支援コンサートを開いていた。
- 「欽ちゃんのどこまでやるの!?」も史実より長く放送されていた。
- 新幹線「のぞみ」がデビューした時出発式に招待されていた。
- あるいは解散せず、現在も活動していた。
- 第二の大竹しのぶとして、若くして本格派天才女優の道を邁進してたかも。
- 『水戸黄門』第14部・27話にも予定通りゲスト出演していた(史実では、ニャンニャン事件の影響で降板)。
- 欽ちゃんファミリーの一員として、21世紀に入っても大手を振ってTVに出れたことは確実である。
- 『噂の!東京マガジン』に、山口良一や風見しんご(両者とも欽ちゃんファミリーのメンバー)とともに出演していた。
- (高部がメンバーとして参加していた)わらべも1985年3月の解散まで3人組だった。
- 「夕やけニャンニャン」はなかったor別タイトルになっていた。
- おニャン子クラブはよりブレークしなかった可能性はあった。
- ニャンニャンを×××××を意味する用法で使われることはなかった。
- 『ニャンニャン倶楽部』などのエロ本のタイトルに使われることもなかった。
- 倉沢淳美がサイン会で襲われることもなかった。
- 中川勝彦の小学校の後輩だったので、中川勝彦は欽ちゃんファミリーと関わりを持てていた。
ダン池田『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』騒動(1985年)[編集 | ソースを編集]
- ニューブリードのバンドマスターを交代させられることは無かった。
- ダン池田はこれ以降も表舞台で活躍していた。
- 「あの人は今!?」に出演することも無かった。
たけし軍団フライデー襲撃事件(1986年)[編集 | ソースを編集]
1986年12月、ビートたけしが交際相手の女性に対する記者の常軌を逸した取材に激怒し、講談社の写真週刊誌「フライデー」編集部を襲撃する、という「フライデー事件」が起こりましたが、もし講談社側が謝罪するなり、たけしが襲撃をやめるなりして、フライデー事件を起こしていなかったらいったいどうなっていたでしょうか?
- 当然たけしの6ヶ月間の謹慎処分はなく、その時間を利用して受験問題集を読むこともなかったから「平成教育委員会」は生まれなかった。
- 当然、1992年と1993年の『FNSの日』は「平成教育テレビ」ではなく、「テレビ夢列島」のままだった。
- 後に景山民夫が「講談社フライデー全国被害者の会」への入会を勧めることもなかった。
- 「俺は被害者じゃない。加害者の会だ」という、たけしの名文句は生まれていない。
- この事件をきっかけに写真週刊誌の取材方法に対しても批判がおきることもなかったから、現在でも似たような問題が起きていた。
- そのため「Emma」「FOCUS」「Touch」の休刊も史実より遅れていたか、今も存在していた。
- たけしの謹慎中に長嶋茂雄が自分からゴルフに誘っておいてゴルフ場で「やあたけしさん、今日はゴルフですか?」と言った、というエピソードもなかった。
- 「オレたちひょうきん族」は実史よりも長く続いていた。
- 「ビートたけしのスポーツ大将」も。
- オフィス北野もなかったか、もっと後に創立されていた。
- たけしとAKBメンバーが同じ時期に太田プロに所属していることになっていたかも知れない。
- 「指原バカヤロ」というギャグが出来ていたかも知れない。
- ダチョウ倶楽部、土田晃之、有吉、インスタントジョンソン等はたけし軍団にいた可能性もあり。
- 爆笑問題もたけしがいるうちに太田プロ入りしていた(史実ではたけし独立前後に爆問が事務所入りした)。
- 「T.N.ゴン」の設立は、まあ、史実通りだったと思う。
- 「なべやかん」や「山本モナ」のようないわゆる「問題児」系は芸能活動を続けられなかった可能性が高い。
- たけしとAKBメンバーが同じ時期に太田プロに所属していることになっていたかも知れない。
- 「たけしの挑戦状」のCMが自粛されることも無く流れてたため、史実より売れ行きはよかった。
- 大橋巨泉と共演のアサヒビールのCMもお蔵入りにならなかった。
- 山田邦子が「女たけし」と呼ばれるほどの活躍を見せることもなかった。
- もしかすると江頭秀晴(江頭2:50)もたけし軍団入りしていたかもしれない(フライデー事件の直前位にたけしの弟子入りを志願して出待ちしていた)。
ラフィン・ノーズ日比谷野外音楽堂コンサート事故(1987年)[編集 | ソースを編集]
- チャーミーが狂気路線に行くことはなかった。
- 狂気路線についていけなくなったポンとナオキがラフィン・ノーズを脱退することはなかった。
角野秀行交通事故(1988年)[編集 | ソースを編集]
TUBEの角野秀行が起こした交通事故。同乗者である当時の彼女も事故死させる事故であり、その後のTUBEの活動にも影響を及ぼした。
- TUBEの解散が検討されることはなかった。
- 角野の彼女が事故死することもなかった。
- もしかしたら当時の彼女と結婚することができていたかも。
- 織田哲郎はTUBEのプロデュースから手を引くこともなかった。
- TUBE自身が完全に作詞・作曲する路線への変更が遅れていた。
- 渚のオールスターズの活動停止もなかった。
- 「Remenber Me」のジャケットがネタにされてしまうこともなかった。
- TUBEは夏を主体する活動に移行することはなかった。
- TUBEはサザンの仕事をいくつも奪っていた。
- その分サザンは夏以外でも通用するバンドにはなれなかった。
- 楽曲も夏をテーマにした曲に偏重することなくバラエティに富んでいた。
- TUBEはサザンの仕事をいくつも奪っていた。
- 栗林誠一郎が暫定的にベーシストを務めることはなかった。
- 前田亘輝と春畑道哉のソロ活動が増えることもなかった。
- 松本玲二のレーシングドライバーへの進出もなかったか?
- キリンレモンのCMを降板させられることはなかった。
- 懸賞であるTUBEと行くサマークルーズが中止されることもなかった。
中森明菜自殺未遂事件(1989年)[編集 | ソースを編集]
- 近藤真彦と同席しての謝罪会見(いわゆる「金屏風事件」)もなかった。
- 中森明菜の研音からの独立もなかったか遅れていた。
- 明菜の全盛期ももっと長く続いていた。
- 少なくとも松田聖子と並び称されていた。
- 明菜の全盛期ももっと長く続いていた。
- マッチも同様に人気が翳るのが遅れていた。
- 史実ほどモータースポーツに力を入れなかっただろう。
- もしかすると数年後に2人で結婚していたかもしれない。
- うつ病に陥ることもなかった。
1990年代前半[編集 | ソースを編集]
タモリヨット事故(1990年)[編集 | ソースを編集]
- タモリのサングラスと髪型が変わることはなかった。
- カツラ疑惑が囁かれることもなかった。
- 「ボキャブラ天国」でタモリの頭髪をいじるネタも生まれなかった。
- 小倉智昭、小林稔侍、加山雄三も同類とみなされることはなかった。
- 太田光が「ヅラ」発言をすることもなく、爆笑問題と小倉智昭の関係悪化も起きなかった。
なべやかん替え玉受験事件(1991年)[編集 | ソースを編集]
- たけし軍団入りすることはなかった。
- そもそも芸能人として活躍することはなく、芸能界入りを叩かれることはなかった。
- 当然、明治大学に入学しており、明大生になっていた。
- 当の本人は高校1年留年さらに2浪していたほど成績が悪かったので、Fラン大学の学生になっていた可能性が高い。
- もし進学を諦めた場合、父のコネも利用してどこかの芸能事務所の裏方になったかもしれない。
- もし成績が優秀だったら成城大学に内部進学していた。
- 当の本人は高校1年留年さらに2浪していたほど成績が悪かったので、Fラン大学の学生になっていた可能性が高い。
- 栗本慎一郎は明大教授を辞任することはなかった。
- 野球部元監督らの逮捕もなかった。
- 父親のなべおさみもまたレギュラー番組を降板するなどして表舞台から姿を消すこともなかった。
- 『ルックルックこんにちは』のコーナー『ドキュメント女ののど自慢』の司会は夏木ゆたかに交代することなく最終回まで完走した。
- 嘉門達夫が替え歌メドレーでネタにすることもなかった。
- なべやかん以外の替え玉受験は史実通りだった場合。
- やはり父親に対して息子の疑いが掛けられていて弁解を繰り返す日々を送っていただろう。
若人あきら失踪事件(1991年)[編集 | ソースを編集]
- 芸名を我修院達也に改名することはなかった。
- 郷ひろみの物まねを封印することはなかった。
加勢大周事務所移籍問題(1991年~1992年)[編集 | ソースを編集]
- 新加勢大周を送り出すことはなかった。
- その後の坂本一生への改名もなかった。
- 村上隆の「加瀬大周宇Zプロジェクト」も存在しなかった。
- 加勢大周の絶頂期は続いていた。
- その後も織田裕二・吉田栄作とともに御三家と言われ続けていた。場合によっては同世代の福山雅治と比較されていた。
- 薬物事件もなかったかもしれない。
- 『あの人は今』に登場することもなかった。
坂上忍飲酒運転事件(1995年)[編集 | ソースを編集]
- 山本未来と交際していたことも明らかになることはなかった。
- 「バイキング」で他の有名人が飲酒運転したことに対しては自分の事を棚に上げていると叩かれることもなかった。
- 傲慢な司会者ぶりを晒すこともなかった。
- 小説を書くこともなかった。
- 坂上忍にとっての黒歴史が減っていた。
- 「坂上忍 カーチェイス」という検索がタブー視されることもなかった。
- 「坂上どうぶつ王国」は放送されなかった。
- また、自身がYouTubeチャンネルを開設することはなかった。
田村英里子ファンホテル侵入事件(1995年~1996年)[編集 | ソースを編集]
- 愛知県で行われる予定だったイベントが中止されることはなかった。
- 一時的な活動休止もなかった。
- アメリカへ単身留学することはなかった。
- ハリウッド進出もなかった。
1990年代後半[編集 | ソースを編集]
高知東急芸名使用差し止め訴訟(1996年~1998年)[編集 | ソースを編集]
- 高知東生への芸名変更は当然なかった。
- グッチ裕三やオール阪神・巨人、サンプラザ中野くんなどと比べられることもなかった。
- この事件がきっかけでブレイクすることもなかった。
- 高島礼子と結婚することもなかった。
- 芸名が縁で東急電鉄のCMキャラクターに起用されるようになっていたかも。
岸部四郎自己破産事件(1998年)[編集 | ソースを編集]
- 『ルックルックこんにちは』を降板することはなかった。
- 「俺は誰やと思ってんねん!元金持ちだぞ」というネタは生まれなかった。
- 再婚の妻を早死にすることはなかった。
- 『クロサギ』のネタにされることはなかった。
- その後の体調不良も起きなかった。
- 松本竜介と自己破産した者同士でコンビ結成をオファーさせられることはなかった。
- 兄の岸部一徳もセミリタイアしていたかもしれない。
- 甥の岸部大輔がバンド組んでCDデビューしなかったかもしれない。
広末涼子早稲田大学裏口入学騒動(1998年)[編集 | ソースを編集]
- 不登校疑惑が出ることもなかった。
- 広末涼子のアンチが増えることもなかった。
- 「裏口入学阻止」と書かれた立て看板が出ることもなかった。
- 一時的に人気が落ちることはなく、一貫して人気女優として大活躍していた。
- NTTドコモ埼玉支店の私設掲示板が荒れることもなかった。
- 閉鎖に追い込まれることもなかった。
- 早稲田大学での盗撮騒動もなかった。
- 授業中に携帯を操作していることを晒されることもなかった。
- 一時的に早稲田大学のイメージが低下することもなかった。
- 未成年喫煙疑惑も出なかった。
- 100%自分の実力で早大に入っていた場合、吉永小百合と並び称されていた。
- 「第2の吉永小百合」「平成の吉永小百合」と呼ばれていた。
- 結婚相手や結婚の時期も現実とは違っていたかも。
- 離婚・再婚もなかったかもしれない。
- 史実と違い卒業できていたかも。
- その後は在籍している大学名を公表する芸能人が現実よりも多かっただろう。
Toshl(X JAPAN)洗脳騒動(1998年)[編集 | ソースを編集]
Toshlがロックオペラ「ハムレット」で共演した守谷香に勧められて入ったMASAYAのセミナーでMASAYAに洗脳されていたことが1998年に発覚し、Toshlがロックオペラ「ハムレット」で守谷香と共演しなければ起きなかった事件。
- ToshiがToshlに改名することはなかった。
- ToshlがX JAPANを脱退することはなかった。
- X JAPAN解散もなかった。
- Toshlが自己破産することはなかった。
- YOSHIKIとの不仲説が浮上する事も無かったかも知れない。
- YOSHIKIがhydeとコラボする事も無かったかも知れない。
松本恵(現・松本莉緒)事務所移籍問題(1999年)[編集 | ソースを編集]
- 松本恵は事実上の引退に追い込まれることはなかった。
- 復帰に際して松本莉緒名義で再出発することはなかった。
- 復帰後にモデルに進出したりヨガインストラクターとして活動したりするなど仕事の幅を広げることはなかった。
- 現在に至るまで正統派女優として活躍していた。
- 松本恵の絶頂期は続いていた。
- 吹石一恵の良きライバル女優として活躍していた。
- 「ポスト広末涼子」と呼ばれたとおり、広末涼子の仕事を奪っていた。
- 同世代の深田恭子や加藤あいが必要以上に働かされることもなかったはず。
千堂あきほストーカー被害(1999年〜2000年)[編集 | ソースを編集]
- 事務所独立はなかったかあるいは円満な形で独立していた。
- 結婚後も芸能活動を縮小することはなかった。
- よって、ここに書かれていることの幾つかは現実のものとなっていた。
- 活躍の場を関西、北海道に移すこともなかった。
- 北海道への移住もなかった。