もし豊臣秀勝が存命だったら

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  • 豊臣秀吉の実子といえば、秀頼しか残りませんでしたが、実は初期の側室「南殿」とのあいだに「秀勝」という子が生まれています。
  • 残念ながら幼くして死んでしまいましたが、秀吉はこの子を大変かわいがっていたようで、その後貰った養子にも秀勝の名を与えています。ところがこの名前の縁起が良くなかったのか、秀勝の名を貰った養子も次々と夭折します。
  • もしそれらの「秀勝」が生きていたら、歴史はどう変わったでしょうか。

初代秀勝(石松丸)[編集 | ソースを編集]

  • 初期の側室・南殿が産んだ子。
    • ねねは最初のうちだいぶ荒れて、信長に訴えて諭されたりしているが(有名なハゲネズミ書簡はこの時のもの)、その後貴重な世継ぎとしてかわいがるようになった模様。
    • 1570年の生まれ。実史では6歳で死んでいるが、生きていれば本能寺の変の時は12歳、秀吉が死んだ時には28歳。
  1. 誰も文句のつけようのない正真正銘の嫡子なので、すんなりと後継者になる。
    • 秀次などは一門衆として重んじられることになる。
  2. おそらく歴史の流れは、上記の「ねねとの間に……」の場合と同じように進むことになるだろう。
  3. 宇喜多秀家、結城秀康などが秀吉の猶子となることはない。
    • ただし、早い時期から秀勝の側近として育てられたかも。
      • それはあるだろうな。世代交代を見越して秀勝の周囲を固める人材は必要だろうから彼自身がよほど無能でもない限りは年齢の近い彼らの取り込みはしただろうし。
  4. 朝鮮出兵に反対して親子喧嘩になる。
  5. 朝鮮出兵に内心反対で石田三成らと組んで和平工作に関与。
  6. 父の死後も朝鮮出兵の指揮を執り続け、結局は明が戦費を使い果たして力尽きる形で勝利をもぎ取るかも。
    • 史実の小吉秀勝や宇喜多秀家のような立場で大陸に出撃していたかもしれない。

二代目秀勝(於次丸)[編集 | ソースを編集]

  • 織田信長の四男で、秀吉に乞われて養子になっていた。
    • 明智光秀を討つ時の大義名分の源泉になった。秀吉は「秀勝による実父の仇討ち」を標榜して味方を募った。
    • 1568年の生まれ。実史では18歳で死んでいる。生きていれば秀吉が死んだ時に30歳。
  1. 秀吉の後継者になれたかどうかは微妙。秀吉が織田遺臣同士の争いを制してしまうと、もうあまり利用価値が無かったので。
    • 本人の器量のほどが実際にはどのくらいだったのか推測するすべがない。暗愚では後継者になれなかったろうが、有能すぎたとしてもかえって遠ざけられた可能性がある。
    • 一応後継者に据えられたとしても、秀頼が生まれていたら、実史の秀次と似たような立場になってしまうかもしれない。
      • ただしその場合、血縁が無いだけに、秀次とは違ってすぐに政権を返上していたと思われる。
    • 後継者にはなれなくとも、織田信雄追放後の美濃・尾張は彼に与えられ、一門衆に準じる扱いになっていたはず。五大老にも宇喜多秀家の代わりに入っていたかも。

三代目秀勝(小吉)[編集 | ソースを編集]

  • 秀次の弟。朝鮮の役でなかなか活躍したが、前線で病没。
  1. 秀吉の後継者候補になっていた可能性は低いが、生きていれば堂々たる戦歴を誇る一門衆のひとりとして重きをなし、秀頼を支えただろう。
    • 関ヶ原の戦いでは、西軍の形式的な中核(31歳なので、実質的な総大将としてはやや力不足と思われる)として担がれることになったかもしれない。そうなると福島正則なども表立って東軍にはつきにくかったかも。
      • 逆に家康に取り込まれる可能性も。心情的には武断派大名たちに近いものがあったろうから。
        • 小早川秀秋よりも秀吉との縁は深い。しかし実兄を秀吉に無惨に亡ぼされたトラウマもある。両方から誘いがかかれば、相当に苦慮したと思われる。あげくに豊臣本家同様中立を標榜することになったかもしれない。
          • 秀次粛清はなかったと思われる。
          • 秀頼が生まれていなければ粛清はなかったと思うし、生まれていれば秀次の実弟の秀勝が無事にやり過ごせるわけがない。
  2. お江の方が徳川秀忠と結婚することは無い。
    • 保科正之の扱いが違っていたかも。というか秀忠の跡は正之が継いでたりして。
  3. 五大老に加えて秀勝も秀頼の後見人になっていた。