もし辛亥革命が○○だったら
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起こらなかったら[編集 | ソースを編集]
- 清朝の立憲君主制への移行は成功していた。
- 立憲君主制への移行が成功したころにグレゴリオ暦が導入される。
- 孫文はただの医者に終わる。
- 双十節も存在しないため、1964年の東京オリンピックの開会式の日は別の日になっていたかもしれない。
失敗していたら[編集 | ソースを編集]
- 中国への列強の進出はさらに進み、最悪の場合中国の植民地化をめぐって第1次世界大戦が勃発していたかもしれない。
- 「辛亥革命」ではなく「武昌事件」と呼ばれていた。
孫文が皇帝に即位していたら[編集 | ソースを編集]
- ちなみに史実では袁世凱が中華帝国皇帝に即位しました(但し1年で崩壊)。
- 勿論首都は南京。
- コードギアスの天子は孫文の玄孫ということになっている。
- あの世界ってジョージ・ワシントンが独立戦争に負けて戦死しているようなとこだから、孫文も袁世凱も死んでいたりするかもよ。
- 清朝は長春に逃れ、日本のバックアップで史実より20年早く満州国建国、自分の娘を溥儀に嫁がせた袁世凱が初代皇帝に即位。チベット・モンゴル・ウイグルも独立しようとする。
- 当初はそれらの諸勢力と対立していたものの和解し、複数の省を含む直轄領(漢地)と少数民族(満州・チベット・モンゴル・ウイグル等)が収める藩王国との連邦国家になる。
- むしろ、北京の清と南京政権で南北朝状態になってそう。
- 立憲君主制が確立し、蒋介石党首の国民党と毛沢東党首の共産党の2大政党制となる。
- 孫文の皇帝名はどうなっただろう?
- 年号は「洪民」かな?
- 当然「太祖」でしょう。
- たぶん、後の中国での評価は酷い事になる。
- 段階的民主化を主張してたので必ずしも主義に矛盾する行為ではないが、やはり民主主義の旗手が皇帝になっちゃまずいだろう。
- 孫文を支援していたこの人もおそらく失望している。
- 息子の代で蒋介石が王朝乗っ取りを企てる。
- それ以前に、「皇后」宋慶齢を擁する「外戚」宋一族が専横を振るいそう。そうなると蒋介石も「外戚」の一員(慶齢の妹・美齢と結婚している)と見なされるので、打倒される対象になるかも。
- 帝政だけど皇帝が血縁のない臣下に禅譲するという事実上の大統領制になっていたかもしれない。儒教的にもそれが一番正しいあり方だし。
- 孫文は「東洋のナポレオン」と呼ばれていた。
- 孫文の場合は周囲から皇帝即位を求められるような状態になったら(民主主義の旗手たる自分が帝位に就くという事態を避けるために)アメリカを模倣して"大統領"を名乗っていたのではなかろうか。
- あのう、そもそも史実での「大総統(ターツォントン)・総統(ツォントン)」という職名そのものが"president"の中国語訳である以上、これだと「史実通り」になっちゃうよ! (ちなみに「主席(チューシー)」も、国家主席ならばpresident、党主席ならばchairmanと英訳されている。)
- イランのレザー・ハーンと比較されていた。
中華帝国が崩壊しなかったら[編集 | ソースを編集]
もし中国で袁世凱が皇帝に即位して建てた王朝が未だに続いていたら?
- 結構親日なので満州事変や日中戦争は起こらなかったかも知れない。
- 太平洋戦争も回避できた。
- 溥儀を担いで戦争では。
- 孫文や蒋介石は最大野党の党首としてそれなりに活躍。
- いや、むしろ袁世凱王朝によって弾圧の対象になっていたかもしれない。
- こうなっていたら孫文は西郷隆盛のように反乱軍を作って西南戦争のような戦争を華南で起こしていたかも。
- 中国共産党は徹底的に弾圧され壊滅させられた。
- 毛沢東等は処刑された。
- チベットや東トルキスタンの惨状は史実と殆ど変わらない。
- 中華王国って名前になる。
- 中華帝国でしょう。中国人にとっての王国と帝国の差を甘く見てはいけない。
- 香港やマカオの返還が実現していないかもしれない。
- いずれにしろ現在は民主化している。
- 袁世凱は「東洋のナポレオン」と呼ばれる。
革命勢力が一枚岩だったら[編集 | ソースを編集]
- 南京に国民政府が設置されていた。そのため五色旗が国旗になることはなく、青天白日満地紅旗か十八星旗が国旗になっていたかもしれない。
- 北京はこの時点で北平に改名されていた。
- 孫文は終身大総統になっていた。孫文の没後、蒋介石が大総統になる。