元首伝
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分割ページ[編集 | ソースを編集]
- ローマ帝国の皇帝 (ユリウス・カエサルも含む)
- 東ローマ帝国#主な皇帝ごとの噂
- カリフ(イスラム帝国)
- ロマノフ朝の皇帝
紀元前の元首[編集 | ソースを編集]
ハンムラビ[編集 | ソースを編集]
- バビロン第1王朝の王様。
- 世界初の成文法「ハンムラビ法典」を作った。
- 「目には目を、歯には歯を」で有名。
- 「やられたらやり返せ」という意味に誤解している人が多いが、本当は過剰報復および私刑の禁止を意味している。
- 「加害者には被害の程度に応じた刑罰を国家が与えるので、勝手に復讐してはいかん」ということ。
- しかも、身分の低い人から身分の高い人に危害を加えると重罪だが、その逆はかなり罪が軽い。
- 「やられたらやり返せ」という意味に誤解している人が多いが、本当は過剰報復および私刑の禁止を意味している。
- 「目には目を、歯には歯を」で有名。
- 都市国家に過ぎなかったバビロンの領土を拡張し、メソポタミア一帯をほぼ統一した偉大な王様である。
アメンホテプ4世[編集 | ソースを編集]
- 神官たちの権力を抑えようとした結果、なんと信じる神を変えてしまったファラオ。
- でも没後に神官たちの手で元に戻されてしまった可哀想なファラオでもある。
- この時擁立されたファラオがあのツタンカーメン。
- でも没後に神官たちの手で元に戻されてしまった可哀想なファラオでもある。
ツタンカーメン[編集 | ソースを編集]
- エジプト第18王朝のファラオ。
- 本当は「トゥト・アンク・アメン」という。早口で言ってみよう。
- 若死にして、ほとんどなんの業績も残していないが、その地味さが幸いして、墳墓が盗掘されていなかった。そのため20世紀になってから見事な副葬品が発掘され話題となった。
- 暗殺説が根強くあったが、ミイラ分析を行った近年は負傷致死説が有力。生まれつき片足が短かったことにより、ある日バランスを崩し重傷を負い、だそうな。
- 発掘に関わった考古学者とスポンサーが相次いで死んだので、呪いがかかっていたと言われた。
- 両方とも老齢で病死。よく考えれば別に不思議もないのだが。
ダビデ[編集 | ソースを編集]
- 古イスラエル王国の最盛期を作った王様。
- 「ダビデの星」で有名。ユダヤのシンボルマーク。
- ふたつの正三角形を組み合わせた形。六芒星とも言う。
- キリストが落ち延びた青森県新郷村にも伝わっている。まぁ、日本では籠目紋といって別に不思議ではないんだが。
- 部下の将軍の奥さんの美貌に目を留め、その将軍をわざと敗北必至な戦場へ赴かせて死なせ、奥さんを自分のものにしてしまったという極悪な人。
- その妻の名はヘドバ。
- お付きの預言者から「ある悪人のたとえ話」をされ、「ひどい奴だ、そいつ死刑にしてやれ」と答えると「それ、あなたのことですよ……」
- そのやり取りで自分の外道ぶりを思い知ったダビデが必死で神様に許しを求めたときの祈りが、旧約聖書の詩篇・第51篇である。
- しかし結果として神様から下された罰は家族が崩壊するような激烈なものであった。
- そのときの不義の子はすぐに死亡、長男は妹をレイプし、三男はその事件にキレて長男をブチ殺した上、謀反を起こす。
- 全裸姿の彫像。
- 嬉しさ大爆発のあまりに裸踊りをやった、というエピソードが旧約聖書に載っている。
- 2017年まで旧約聖書の公式日本語訳に「気が違っている」という表現が堂々と載っていたのは、この人のおかげ。
- 2017年の改訳以降は「頭がおかしくなったかのように」に変わった。
ソロモン[編集 | ソースを編集]
- ダビデの息子。親父に続いてイスラエル王国を繁栄させた。
- 今でも知恵の象徴のように見なされている頭の良い王様だったが、晩年は朝貢してきたシバの女王の色香に惑ってgdgdに。
- 72柱の悪魔を従えていたという。
- 遠い国から招いたお妾さんが故郷の宗教を持ち込むのを許容した。旧約聖書の立場では、それによって神の加護を失い、国が傾くきっかけになったものとしている。
- 親父と同様に、政治手腕はとても優れていながら女性問題でズッコケた。それによって親父は家庭を崩壊させ、息子は国家を崩壊させることになる。
アレクサンドロス3世[編集 | ソースを編集]
- 通称アレクサンダー大王。マケドニアの王様。
- 最近は、某ゲームのスピンオフの影響で「イスカンダル」の通称も一部で広まりつつある?
- 大学者アリストテレスの薫陶を受ける。
- 史上初の「世界征服」をやってのける。
- この場合の「世界」は、「その当時知られていた世界」という意味で、「地球上すべて」ということではありませぬ。
- ヨーロッパ、アフリカ地中海沿岸、オリエント地方、くらいなもの。
- 親父のフィリッポス2世も貪欲に他国を征服した男で、若き日のアレクサンドロスは「父上は俺に征服する土地を全く残さないつもりか!」と煩悶したとか。
- フィリッポスも「百人に一人」レベルの英雄なのだが、息子が「千人に一人」の英雄だったため、過小評価される可愛そうな人。
- フィリッポスが完璧な下準備、特に最先端の軍制と優秀な部下を残してくれたため、アレクサンドロスは思うがまま征服事業に専念できた。
- もし、アレクサンドロスとフィリッポスの生まれる順番が逆だったら、慎重なフィリッポスがペルシャを征服できないのはもちろん、一本気なアレクサンドロスでは、複雑で反復常ならぬギリシャを統一することは出来なかっただろう。
- もしかして「百年に一人」「千年に一人」では……? 百人に一人じゃ大したことないと思うぞ。
- orz。
- 軍事だったらアレクサンドロスに一歩及ばないかもしれないけど外交、内政、組織力なんかも加味した総合点だったらフィリッポスはいい線いってるんじゃね。アレクサンドロスは父みたいに相手によって巧みに外向と軍事を使い分けるというよりはむしろ武力一辺倒だし。
- フィリッポスも「百人に一人」レベルの英雄なのだが、息子が「千人に一人」の英雄だったため、過小評価される可愛そうな人。
- エジプトを制圧し、ペルシャを叩き潰し、ソグディアナを蹴散らし、インドまで到達したところでひとまず帰国。
- この場合の「世界」は、「その当時知られていた世界」という意味で、「地球上すべて」ということではありませぬ。
- わずか33歳で病死。長生きしていたらどうなっていたことか。
- 息子のアレクサンドロス4世はこの時まだ母の胎内におり、巨大な版図の後継者が居なかった。
- アレクサンドロスの遺言は「最も強い者が帝国を継承せよ」……たちまち血で血を洗う内戦が始まり、巨大帝国はあっけなく瓦解した。
- 長生きしていたらこうなっていたのかな。
- 征服地のあちこちに「アレクサンドリア」と名付けた都市を建設。
アショーカ[編集 | ソースを編集]
- インドをほぼ統一した王様。
- いつ頃の人だったのか、前後百年以上の差がある説がいろいろあって、よくわからなかった。
- 中国人に較べて、インド人の歴史的記録に対する無関心さを示す例としてよく挙げられた。始皇帝がいつ頃の人だかわからないようなものだからなあ。
- 最近になってようやく、紀元前4世紀末~前3世紀後半に生きていたことがほぼ確定したが、生没年には未だに「頃」がつけられる。
- 全国一律の法によって天下を治めようとした点、始皇帝に似ている。
- その死後王朝がたちまち傾いてしまった点も、始皇帝に似ている。
- 仏教の庇護をおこなった。仏教が普遍的宗教のひとつになったのはこの王様のおかげが大きい。
- 世界中に遺骨をばらまかれた。
クレオパトラ7世[編集 | ソースを編集]
- エジプト・プトレマイオス朝最後の女王様。
- 美女の代名詞。鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていただろう。
- 実際には高すぎて、ワシ鼻気味だったとか。美女じゃなかった説も根強い。
- 肖像彫刻の鼻は、日本人から見れば高めだけど、ギリシャ人からすれば平均かやや低いと思う。
- 十数ヶ国語を使いこなし、きわめて教養豊かな知性派女性だったあたりが、どっちかというと無教養なローマの将軍どもにはまぶしかったと思われます。
- 実際には高すぎて、ワシ鼻気味だったとか。美女じゃなかった説も根強い。
- 骨肉の争いに外国勢力を引き入れたばかりに亡んだという点ではバカな女ではある。その時その時で必死だったことは認めるにせよ。
- この人の名前が、エジプトの象形文字の解読に役立った。
- 絨毯の中に隠れてカエサルのところに忍んで行ったり、宴席で高価な真珠を酢に溶かして飲んで見せたり、船の帆に香水をかけて香りを振りまいたりと、機知と演出でローマの将軍たちを虜にした。
- その最期は、わが身を毒蛇に咬ませて自裁。これも演出的。
- つまりモテるのは顔だけじゃなく仕草もあるということか。
- (当時の慣習として正当とは言え)初婚の相手が実の弟である。
ペピ2世[編集 | ソースを編集]
- エジプト第6王朝のファラオ。94年間在位したとされる。
- 即位したときは6歳、崩御したときは100歳。
- 但し、この記録は64年の書き間違いとする説もある。
- 将軍と同性愛関係にあったという伝説がある。
1000年紀の元首[編集 | ソースを編集]
ティベリウス[編集 | ソースを編集]
- 後半生はひきこもりそのもの。
- 吝嗇家、加えてとても猜疑心が強く、人望は薄かった。
- 一応、政治家としては及第点の評価を歴史家各位(塩姐含む)から貰えている様だ。
- 死んだ時民衆から死体を川に流せと言われた。
アーサー[編集 | ソースを編集]
- 5~6世紀くらいに生きたらしいブリトゥンの王様。
- 伝説はやたらと多いが、実像はよくわからない。つーか実在さえ確かでない。
- 伝説の色合いはどう見ても11~14世紀くらいの、中世的な雰囲気。喩えて言えば雄略天皇や武内宿禰が鎌倉時代みたいな装束と美意識で行動しているようなもので、いい加減なことおびただしい。
- どこぞのゲームのせいで実は女性でしたっていう疑惑まで出ている。
- 円卓の騎士を率いて、聖杯を手に入れたり、サクソン人を撃退したりした。
- 嫁は騎士のひとりランスロットと浮気した。
- ちなみに嫁の名はグエネヴィアで、現代英語で読むとジェニファー。なので、ジェニファーという名前は英語圏では少々色っぽすぎる印象があるらしい。
- ランスロット共々最後は警察に逮捕されている。容疑は歴史学者の通り魔殺人。
カール1世[編集 | ソースを編集]
- 例の駄菓子「カール」が大好きでそれを自分の名前にしてしまった神聖ローマ皇帝。
- 飼い犬は、後に刑事犬となった。
- 昔、とあるテレビ番組ですごく速いランナーのロボットとして走ってた。
2000年紀の元首[編集 | ソースを編集]
リチャード1世[編集 | ソースを編集]
- イングランドの国王。ただし、英語は片言程度しか喋れなかった。
- ついでに言えば、在位は10年だがイングランドにいたのは半年だけ。
- 理由は、フランスの大貴族でもあったのと、戦争であちこち駆け回っていたため。
- ついでに言えば、在位は10年だがイングランドにいたのは半年だけ。
- 第3次十字軍で活躍していたのと、ロビン・フッドの逸話に登場するため格好いいイメージがあるが、実のところ戦争狂のDQNと言われても仕方のないところはある。
- 将としては一流な一方で王としては無茶苦茶だったが、政治家であるヒューバート・ウォルターが非常に有能だったおかげで国内はそれほど混乱はなかった。
- 十字軍のためにロンドンを売り飛ばそうとしたことがある。
ジョン[編集 | ソースを編集]
- 「失地王」とか「欠地王」と言われる。日本においてある意味有名な王。
- 勘違いされがちだが、この称号は戦争で領土を失いまくったからついたわけではない。(実際失いまくりはしたけれど)
- リチャード1世と直接喧嘩することを回避したかったフランスのフィリップに「奴の弟ならば…」と目をつけられ、翻弄された。
- とにかく失政ばかり取り上げられるため、無能の極みのような印象を持たれる。
フリードリヒ1世(神聖ローマ帝国)[編集 | ソースを編集]
- バルバロッサといえばこの人。
- ドイツでは不死伝説があるほどの人気者らしいが、実際に収めた成功は意外と少ない。
フリードリヒ2世(神聖ローマ帝国)[編集 | ソースを編集]
- 第6次十字軍時代の神聖ローマ皇帝。ただし、皇帝になる前はシチリア王で、本人もドイツ人というよりイタリア人。
- なので、イタリア語読みでフェデリーコ2世と呼ばれる事も多い。
- 当時のシチリアはイスラム・ギリシャ正教・カトリックの混ざり合った多宗教地域だったため、本人もアラビア語やギリシャ語がペラペラ。当然、十字軍に対して情熱なんて持ってなかった。
- あまりにもやる気が無かったので、ローマ教皇に破門されて渋々出陣。現地のイスラム勢力が内乱中だったので、外交交渉だけで戦果を上げてほぼ無血でエルサレムに入城した。
- 当然、ローマ教皇やバリバリの宗教騎士団あたりからは「なんで戦わないんだよ!」と非難囂々だったそうな。
- で、結局エルサレム王としての戴冠式には、ドイツ騎士団長1人しか来なかった。
- あまりにもやる気が無かったので、ローマ教皇に破門されて渋々出陣。現地のイスラム勢力が内乱中だったので、外交交渉だけで戦果を上げてほぼ無血でエルサレムに入城した。
- 複数の言葉を堪能だったため、ふと「人間は、何の教育も受けなかったら何語で喋るようになるんだろう?」と思い立ち、赤ん坊を集めて一切言葉を使わずに育てさせた。
- ……が、育てた子供達は程なく皆死んでしまい、結局この疑問に答えは出なかったという。さすが中世、やる事がエグイ。
- 歴代神聖ローマ皇帝はイタリアにかまけきりでドイツ本国をほったらかしにする傾向があったが、この人はイタリア育ちで居城もイタリアという典型例。おかげで神聖ローマは中央集権からどんどん遠ざかったゆくのだった……
- 当時の評価は散々であったが、後世では「300年先を行っていた文化人」と評価された。
ヘンリー8世[編集 | ソースを編集]
- イングランドの王様。メアリー1世、エリザベス1世のパパ。
- 不仲な王妃と離婚したいがためにカトリックをやめ、お手盛りで英国国教会を作ってしまったという自分勝手かつ痛快な王様。
- そのため英国国教会は離婚には寛容である。
- 離婚癖がついたのか、生涯に6人もの王妃をとっかえひっかえ。側室がたくさん居た君主は多いが、正室そのものをこれだけ取り替えたのは記録的かも。
- やってることは典型的な暴君なんだけど、結果的にカトリックの影響から抜け出せたので名君。
メアリー1世[編集 | ソースを編集]
- 英国の女王。エリザベス1世の異母姉。
- イケメンと結婚するために鬼となった。
- スペインのフェリペ2世との結婚話が持ち上がるが、カトリック国との婚姻に反対する人も多かった。
- しかしメアリーはフェリペ2世の絵姿を見て夢中になってしまい、愛する人との結婚を邪魔する新教徒どもを大弾圧。ブラッディ・メアリー(血塗られたメアリー)のあだ名をつけられる。
- そんなメアリーは稀代のブサージョ。肖像画を見てもひどいもので、お抱え画家ですら美化できないほどだったらしい。
- カクテルのブラッディマリーはもちろんこの人にちなむ。
- ともあれイケメンと結婚できて舞い上がり、彼との子供が欲しくて欲しくてたまらず、ようやく妊娠したかと思ったらなんと想像妊娠。
- フェリペ2世と結婚した時、メアリーはなんと38歳。今なら50歳近い感じだろう。
- 想像妊娠は卵巣腫瘍の症状をそう思ってしまったという説がある。その病気で没。
エリザベス1世[編集 | ソースを編集]
- 「処女王エリザベスElizabeth the virgin」と呼ばれたが、本当に生涯処女であったかどうかは定かでない。正式な結婚をしなかっただけ。
- 愛人とされた男の名前は何人か挙がっている。
- ともあれ、「私は国家と結婚した」とカッコいいことをのたもうた。
- 政治家としてのやり口はけっこうえげつない。
- 海賊どもを操ってスペインの海上権益を破壊、怒ったスペインの無敵艦隊を撃破。
- 従姉にあたるスコットランド女王メアリへの仕打ちはかなりひどい。
- 自分の肖像画の顔に影を描くな、と命令した。この人の顔がのっぺりしているのはこれが原因。
- 油絵で陰影を使えないのはかなり辛いが、自分の国に影が射さないように、という意味らしい。
フィリップ2世[編集 | ソースを編集]
- 尊厳王。
- という称号の割に、腹黒いこともけっこうやっている。
- 当時フランスより優勢だったイングランドの勢力を大陸から追い出し、形勢を完全にひっくり返した。
- 蒼き狼と白き牝鹿では能力がやたらと高く設定されている。(政治値と智謀値が主役であるチンギスハーンよりも上なのに加え、戦闘値もあまり変わらない)
ルイ14世[編集 | ソースを編集]
- またの名を太陽王。
- 「朕は国家なり」の名言を残す。
- 近衛軍の大砲の底には「朕の最後の意思」と刻まれていたとか。何かとスタンドプレイの目立った王様。
- 食事場面を公開し生涯続けるなど、やり方はともかく、その言葉通り自己を公的存在ならしめようと努力したことはすごいと思う。
- 絶対主義王政を確立。
- 勘違いしている人が多いが、絶対主義は単なる独裁や専制とは違う。それまでは王様に肉薄するくらいの権勢を持つ公爵やら大公やらが各地に割拠していたが、彼らを経済的軍事的に締め上げて骨抜きにし、王様の権力を絶対的にしたのが絶対主義。つまり封建制を経験した地域と時代にしか成立し得ない。
- ハイヒールがお好きだった。
- 「1643」年に生まれ、「1661」年に親政を始め、「1715」年に崩御。この3つの数字、どれも各位を足すと「14」になる。
- 72年の在位期間は君主としては世界史上最長らしい(2016年現在)。
- 古代だとこういう記録もある。
マリア・テレジア[編集 | ソースを編集]
- オーストリアの女帝。マリー・アントワネットのママン。
- 子供をたくさん産んでいるので、どっしりした肝っ玉母さんのイメージがあるが、前にハプスブルク秘宝展に陳列された着用のドレスを見たら、ウエストなんと39センチ。すげえ柳腰。
- マリア・テレジアの若い頃の肖像画はマジ美少女。世界史上最萌えと言っていいレベル。
- ただし、胸はない。チッ・・・
- 年をとった肖像ではあるって!? こやつめ、ハハハ
それじゃ意味無いじゃないか! - 美少女はむしろ胸がないほうがいいに決まっているじゃないか!
- 年をとった肖像ではあるって!? こやつめ、ハハハ
- 中世欧州貴族の間ではウェストが小さい女性が美人であった。故に幼少から専用のコルセットでウェストを絞めつけていた。まぁ中国の纏足みたいなものである。
- 初孫が生まれた時、昂奮して公演中の劇場の舞台に駆け上がり、
「みんな聞いて! うちの息子に子供が生まれたのよ!」と叫んだそうな。- 観客たちは一瞬あっけにとられたが、すぐに満場の大拍手。
フリードリヒ2世(プロイセン)[編集 | ソースを編集]
- マリア・テレジアの最大のライバル、プロイセンの大王。
- 王太子時代に『反マキャヴェリ論』なる著作を物し、「マキャヴェリみたいな権謀術数主義は良くないよな。君主は国家の第一の僕みたいなもんだし、戦争も正当な目的でやらないとだめだ」と主張した。
- とか言っておいて、マリア・テレジアが即位したとたん「シュレージエンって元はハプスブルクの領地じゃないし、プロテスタント多いからプロイセンが領有するのが正当だよな」とか難癖つけて占領した。本人には正当性があってのことかも知れないが、言行不一致にもほどがある。
- おかげさまで、後日オーストリア・ロシア・フランスのフルボッコに遭ってあわや国家滅亡まで追い込まれた。不幸中の幸い、連合側の意見不一致に助けられて奇跡的な引き分けを勝ち取った。
- この歴史に残る大逆転を都合良く受け取ったドイツの某指導者が、「諦めずに頑張れば逆転できるんだ!」という妄想を抱いて悪あがきを続けた結果、ドイツは悲惨な目に遭ったのだった。
- おかげさまで、後日オーストリア・ロシア・フランスのフルボッコに遭ってあわや国家滅亡まで追い込まれた。不幸中の幸い、連合側の意見不一致に助けられて奇跡的な引き分けを勝ち取った。
- とか言っておいて、マリア・テレジアが即位したとたん「シュレージエンって元はハプスブルクの領地じゃないし、プロテスタント多いからプロイセンが領有するのが正当だよな」とか難癖つけて占領した。本人には正当性があってのことかも知れないが、言行不一致にもほどがある。
- ライバルのテレジアと違って、男女関係は淡泊そのもの。子供もいなかった。
- 一応結婚はしていたが、七年戦争の後数年ぶりで妻と顔を合わせた時の言葉が「奥さん、少し太りましたか?」。
- 実はゲイだったんじゃないかとかイ○ポだったんじゃないかとか、後世で様々な憶測が流れている。
- 女性への蔑視とは裏腹に、あらゆる階級の将兵との交流を好んだ。時には士官の膝枕で仮眠をとったりもしたとか。やっぱりそっちの気が・・・
ルイ16世[編集 | ソースを編集]
- フランス革命でギロチンにかけられた気の毒な王様。
- 改革の必要性は知ってはいたが、ソフトランディングしようとして慎重すぎるあまり、フランス革命という究極のハードランディングを呼び込んでしまった。
- ちなみにギロチンは残酷な処刑道具というイメージが強いが、それまでの剣や斧による首切りは、うまく斬れずに受刑者を無駄に苦しめることが多かったため、確実に即死させる親切な装置として発明されたもの。
- 庶民側としても元々王様を処刑しようとまでは考えておらず、世の中が改革されればそれでよかった。しかし不穏な情勢に危機感を覚えて一時パリの脱出を図った(しかも失敗して連れ戻された)ことから、国民を見捨てた王の人気は地に落ち、国家に対する罪人はぶっ殺してしまえと投票で決定。特権にはノブレス・オブリージュが伴うという事をしくじったらこうなる見本である。
- 錠前を作るのが趣味。
- 浪費家の嫁を持ち、苦労した。
- 重度の包茎だったので嫁と×××することができず、欲求不満にかられた嫁が浪費に走ったという説があるが、どんなもんでっしゃろ。
- 包茎だってできることはできそうな気がするんだが。
- もともと包茎じゃなかった説が最近は有力。包茎が有名になってしまったのは革命期のゴシップまみれの誹謗中傷のせいでしょう。
- いわゆるカントン包茎だと、勃起時に痛いどころか血行が阻害されてナニが壊死することもある。ルイ16世がそうだったかは不明だが、×××どころじゃなかったのは確かだろう。
- ともかく、嫁の兄さんであるフランツ・ヨーゼフ王の薦めで手術を受けて完治、その後は普通に×××して数人の子供を作ったそうな。
- 単純に嫁が子供っぽすぎたのでその気になれなかったという話もある。
- 包茎だってできることはできそうな気がするんだが。
- 重度の包茎だったので嫁と×××することができず、欲求不満にかられた嫁が浪費に走ったという説があるが、どんなもんでっしゃろ。
ナポレオン1世[編集 | ソースを編集]
- コルシカ島出身の田舎者の伍長が、どう間違ったか成り上がって皇帝に。
- 間違えている人が多いが、「フランス皇帝」ではない。
- フランスの国民に対して演説する時、彼は「共和国市民諸君!」と呼びかけている。当時のフランスは帝国ではなく共和国だった。従って「フランス皇帝」が居るわけがない。
- 建前としては「世界皇帝」。だから革命の理念を世界中にひろめようとしてあちこち侵略しまくった。
- 「フランス人民の皇帝」という結構謎な称号だが皇帝なのは本当。そのため、帝政の共和国というどっちやねんな感じに。
- 睡眠は一日3時間だった。
- 実は、いつでもどこでも数分~数十分の短時間睡眠がとれる体質だったので、夜は3時間寝れば充分だったらしい。
- 匂いフェチだった。
- 戦地から帰還するとき、嫁宛に「これから帰るから、それまで体を洗わないでいてね」という手紙を送る。
- 嫁の体臭は乳製品系だったらしく、昼寝しているナポレオンの鼻先に召使がチーズを近づけたら、「ジョセフィーヌ許せ、今日は疲れているのだ」と寝言をもらした。
- ケルンで作られていた香水が気に入り、月に60本も消費していた。オーデコロンの始まりである。
- 戦地から帰還するとき、嫁宛に「これから帰るから、それまで体を洗わないでいてね」という手紙を送る。
ヴィクトリア[編集 | ソースを編集]
- 英国の黄金期を築いた女王。
- 本人の政治手腕がさほどあったとは思えないが、何しろ長期在位だったので世情が安定したことが大きいようだ。
- むしろ君臨しただけで統治せず、政治にあまり口出ししなかったのが良かったと思われる。
- 途中からインド皇帝を兼任。「大英帝国」という呼び名に実が伴ったのはこの時から。
- 当時、ナポレオン3世(仏)、ヴィルヘルム1世(独)、フランツ・ヨーゼフ1世(墺)と、本来皇帝はひとりしか居ないはずのヨーロッパに何人も出現していたので、ヴィクトリア女王も皇帝位を欲しがっていたらしい。たまたまムガール帝国が軍門に下ったので、インド皇帝の後継者となることができた。
- シャーロック・ホームズやドリトル先生が活躍したのは主にこの治世。
- 旦那のアルバートは若死にして地味だが超切れ者。ヴィクトリアが名君でいられたのもこの人のおかげといっていい。
ナポレオン3世[編集 | ソースを編集]
- ナポレオン1世の甥。第二共和政のgdgdぶりにうんざりした人々の支持を受けて皇帝に。
- 一旦大統領に選出されてから、国民投票で皇帝になった。民主的な手段で昇りつめた点、ヒットラーに似ている。
- 前言を平気で翻すことが多く、「銃でも突きつけて談判しない限りは信用できない男」と言われた。
- 普仏戦争にボロ負けしてあっさり退位。
- 幕末から明治初期にかけて、日本はフランスを手本にすることが多かったのだが、このボロ負けの惨状と、その後ナポレオン3世がひきずりおろされた様子を見て、これではとても参考にならぬとドイツに鞍替えしたらしい。
- 徳川慶喜に軍服を送ったのはこの人。
ヴィルヘルム1世[編集 | ソースを編集]
- プロイセン王からドイツ皇帝へ出世。
- ただし、本人は出世とは思わず、皇帝即位式の前夜、プロイセン王の称号を失うことを悲しんでさめざめと泣いたとか。
- 本人は大したことはしていない。皇帝に出世したのももっぱら宰相ビスマルクの権謀術数の結果。
フリードリヒ3世(ドイツ帝国)[編集 | ソースを編集]
- ヴィルヘルム1世の子。ヴィルヘルム2世の父。在位が100日ほどしかなかった皇帝。
- 父とは違って自由主義的だった模様。この人が長生きしていたらドイツももう少し変わっていたかも。
- 在位期間が短いためだろうか日本の世界史の授業では一切登場しない。
ヴィルヘルム2世[編集 | ソースを編集]
- 第一次世界大戦のラスボス扱いされているが、それほどの大人物ではない。
- ビスマルクがあまりに超人的な政治力を発揮していたせいなのか、国際政治学の中では彼に関してはかなりの無能として見られている。
- 英国のヴィクトリア女王の孫なので、若い頃はやたらと英国から口を出され、憤激して軍国主義に走る。
- 日本と開戦することに気乗り薄だったロシアのニコライ2世に、手紙を送って焚きつける。実は日露戦争の陰の推進者だったりする。
- これに限らず、さほど能力もないのに権謀に没頭し、ついに未曾有の大戦をひきおこして自分も退位するはめに。愚帝と呼んで差し支えないかと。
- 片手が不具だったらしい。ひた隠しにしていたが、フロイトに看破される。
- とっても無茶な軍事計画『シュリーフェンプラン』を実行して失敗した人。
マンサ・ムサ[編集 | ソースを編集]
- マリ王国の王。猫大好き。
モンテスマ二世[編集 | ソースを編集]
- アステカ皇帝。狂犬とも噂されるほどの戦争好き。
カジミェシュ3世[編集 | ソースを編集]
- 14世紀頃のポーランドの王。
- 国内の改革を大々的に進め、国力を飛躍的に向上させた。
- 後世の評価は上々。「木造の国に現れ、レンガの国を残して去って行った」と言われたりもした。
- が、日本の高校世界史における知名度はほぼ皆無。