漢
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- 勘違いしている人が多いので言っておくが、漢字は実は支那の漢ではなく胡漢倉というベトナム人が開発した言葉である。
- この頃、西洋ではイエス・キリストが生誕。
- ゲスおやじとぶちきれ兄ちゃんの壮絶な争いの結果、とりあえず国ができた。
- ゲスおやじの軍師として、女性にしかみえない男の子が大活躍する。
- 左の股にホクロが72個あるチンピラが漢王朝を建てた。龍に似ているらしいが、見たんか。
- チンピラの死後、家内が愛人に嫉妬して拷問を加え便所にぶち込む。
- 司馬遼太郎の先祖の司馬遷が歴史書を書いた。
- 司馬遷は、宮刑に処された。
- 紙が発明された。
- でも便所にぶち込んだりはしなかった。
- 「かみ」に対する冒涜になるため。
- 便所で使われるようになるのはヨーロッパの哲学者に「紙は芯だ」と宣言されてから。
- 「かみ」に対する冒涜になるため。
- でも便所にぶち込んだりはしなかった。
- 股くぐり、と呼ばれた将軍が一世を風靡した。
- 兎が食い尽くされたためかわりに犬が煮られた。
- 休戦和睦の盟の直後、気を緩めて帰投する敵軍を背後から急襲するという、古今稀なるスケールのデカイ卑怯な騙し討ちをやっちゃったオジサンが漢(おとこ)帝国を建てたのはどうかと思う。
- しかも部下たちが揃ってこの案を支持。軍として以前に人としていかがなものか。
- そんな部下達は建国後に皆粛正、オジサンは一枚上手だったようだ。
- オジサンは実のところ「人間としてどうかと思う」と躊躇していたが、張良くんが「やっちゃえやっちゃえ」とけしかけてくるので仕方なくやっちゃったのが真相のようだ。
- ↑皇帝となったオジサンの名誉を守るため、張良が汚名を被った、というのも考えられるがな。
- この手の作戦は、成功すれば余り問題視されないが、失敗すると卑怯の代名詞のように呼ばれる。
- 実は、アメリカが米英戦争(1812年から14年)に勝利したときとほぼ同じ展開である(アンドリュー・ジャクソン将軍が講和後に英軍を攻撃して勝利した)。
- しかも部下たちが揃ってこの案を支持。軍として以前に人としていかがなものか。
- 「短気で暴力的で考え無し」の総大将と「ビビリの割に偉そうで、部下の意見にすぐ流される」総大将の戦い。
- 漢(おとこ)の時代。
- 北斗神拳創始さる。創始者シュケン。
- 教養もなく、柄も悪く、特に人格者でもなく、戦争にも弱く、なんで天下をとれたのかいまだによくわからない人。
- 「自分よりすぐれた人間」に対する素直な敬意を持てる人だったんでしょうね。
- 中国では今でも、このタイプのトップが理想とされる。「三国志演義」の劉備も、「水滸伝」の宋江もこういうタイプに造形されている。しかし、現実には滅多に出現しない。
- 教養も軍才も無いが「こいつの為に出来るだけの事をしよう」と他人に思わせる才能に恵まれていた。
- しかし臣下の陳平にはそのカリスマ性すらボロ糞に言われる。本当に何が彼を勝たせたのか…。
- そんな陳平だってなんだかんだ言っても付いていったのだからねぇ・・・ツンデレ?
- 部下から見るといいように利用でき、しかし意外と頑固で傀儡にできるほどゆるくもないという絶妙の距離感。張良を筆頭に能力はあるが人が付いてこない連中が多い中、こりゃ使えると抱き込んだらいつの間にか劉邦のペースになってしまう。
- しかし臣下の陳平にはそのカリスマ性すらボロ糞に言われる。本当に何が彼を勝たせたのか…。
- ライバルの項羽があまりにも人使いが下手だったので、周りは劉邦を選ばざるをえなかった。劉邦も意識的に項羽と反対のことをして人材を集めた。
- 漢の光武帝のあにぃ。後趙の石勒。明の太祖・洪武帝。が、このオッサンに萌え萌え。成り上がり者の超カリスマになった。
- よく項羽、三傑、更に場合によっては時代の違う曹操らにすら解説本などで踏み台にされるから軍才を疑われるが、実は楚軍参加時点での軍事評価は英布らより高く、張良を味方につけたのも彼策定の軍事行動によるもの。
- 実際晩年に英布が反乱した時の言葉が「劉邦は老いたし、韓信・彭越もいなくなった。」だから反乱したなんて言っているし。つまり英布自身も劉邦の軍事力は恐れていた。
- 教養がないため、戦例を知る術がないにも関わらず兵站を最重要視する点を見れば、戦場で活躍する華やかさこそないが軍才は高かったとみるべきかと。
- でも彼の本丸は政略だろうね。封建後の各王切り崩しをしつつも、体制を揺るがすことなく後の集権化に繋げたことは賞賛されていい。
- 正確には戦争は「弱い」のではなく、「天下を狙うには物足りない」というべきだろう。「漢中王で終わるなら韓信は要らない。でも天下を取るには国士無双のあいつが必要」と言われたように、地方領主レベルでいいなら別に能力の不足はなかった。でも敵は天才項羽であり、数十万の戦いに勝つ力があるかといったら少々手にあまるわけだ。
- 天下統一前後でキャラが違う。統一後はどうも疑心暗鬼の塊に見える。
- 晩年に40万人の兵力を伴い匈奴討伐に乗り出した。匈奴の計算上の敗北でどんどん突き進んでいった結果、なんととある山にその兵力ごと匈奴に包囲されてしまいにっちもさっちもも行かなくなってしまった。
- どうしようもなくなった高祖は単于の奥さんに「もし漢が滅ぼされたら、中華から美人がどんどん単于のもとに送り込まれあんたの事なんぞ忘れ去られるぞ」という女の嫉妬心にたきつけさせる言葉を送り、奥さんのとりなしの元、なんとか高祖は和睦 (不平等条約?) してもらった。
- 以降武帝の代まで前漢は匈奴に贈り物を送ったりと膝折外交を行うようになった。
- どうしようもなくなった高祖は単于の奥さんに「もし漢が滅ぼされたら、中華から美人がどんどん単于のもとに送り込まれあんたの事なんぞ忘れ去られるぞ」という女の嫉妬心にたきつけさせる言葉を送り、奥さんのとりなしの元、なんとか高祖は和睦 (不平等条約?) してもらった。
- 亭長とかそれより以前の時代、実家に居たら兄貴の嫁さんに嫌がらせされた。皇帝になった後親族を王などに任命する中、その兄嫁の子は無視したという逸話がある。
- 高祖と呂后の息子にしてはえらく柔弱だった人。
- あんまり頼りないので、皇太子から外されかかったが、張良の入れ知恵でなんとかセーフ。
- ママの呂后がパパの愛妾・戚夫人になした仕打ちを見てショックを受け、食欲を失って衰弱死。
- 死ぬ前には異母兄弟を身を挺して庇うなど、少々心優しすぎたのが悲劇といっていいだろう。
- 両親のえげつなさからすると、橋の下から拾ってきたんだろうか。あるいは夏侯嬰が取り違えたか。
- 焚書坑儒を辞めさせた人でもある。
- 皇后 (正妻) は姪っ子。姉の娘だった。
- 法を守って何もしないニート相国にむかって「わかった、休め」と言った。
- 柔弱だなんだ言われるが、高祖が跡継ぎを劉如意に変えようとしていた時、重臣たちは誰も同意しなかった。それなりに人心は得ていたようだ。
- 高祖の奥さんで恵帝のママ。
- 高祖が盗賊になった時は逮捕されたり、項羽と戦っている最中には捕虜になったり、ダメな夫のおかげでさんざんな辛苦をなめた女性。
- それなのに夫はいろんな女に手を出しまくっている。キレるのも無理はなく、ただ「嫉妬深く権勢好きな女」と評してしまっては気の毒かも。
- 高祖がいろんな女に手を出すのはともかく、妾の分際で「私の息子を跡取りにして!!」と言うのは、正妻として間違いなくキレる。ましてや嫡男はちゃんといたわけで。
- この人が所謂"功臣"を粛清して人事のリストラを図り、経済的には新興の勢いを味方につけて為すに任せよとして下手な手をつけなかったお蔭で国は安定したってのに。
- 皇帝になったわけではないが、司馬遷が「史記」の本紀(皇帝列伝)に採用。事実上の皇帝だったと見たんでしょうね。
- 息子の恵帝の死後、小さい子供をふたりほど帝位に就けるが、本紀には無視されている。
- 若い頃は、よくできた嫁だったらしい。
- 高祖死後、匈奴の単于からプロポーズされた。
- 内容は「俺もお前も配偶者に先立たれた独り身。おれにあるモノをおまえのアソコに入れて仲良くしようぜ」といったもの。
- 最初はブチ切れ討伐軍起こそうとするも、季布 (元項羽の武将) に言われ取りやめ。送った返書が「私は老いているからあんたの相手なんぞできん」
- 単于も流石に悪ノリが過ぎたと思ったのか謝罪してきた。
- 最初はブチ切れ討伐軍起こそうとするも、季布 (元項羽の武将) に言われ取りやめ。送った返書が「私は老いているからあんたの相手なんぞできん」
- 内容は「俺もお前も配偶者に先立たれた独り身。おれにあるモノをおまえのアソコに入れて仲良くしようぜ」といったもの。
- 呂后の専横にこりた重臣たちにより、外戚(母の一族・妻の一族)が微力だという理由だけで、高祖の息子たちの中から選ばれた。
- 前漢5代目の皇帝だが、高祖が死んでから15年で帝位についた。
- どうも呂后からしても無視しても良い存在だったらしい。母の薄姫は高祖の寝所に呼ばれた回数も少なく、また文帝を産んでも戚夫人のように自身の子を跡継ぎにしてほしいとも懇願しなかったため。
- 前漢5代目の皇帝だが、高祖が死んでから15年で帝位についた。
- が、宮城谷昌光氏によれば「中国史上最高の名君」となった。
- 中国の理想社会(「鼓腹撃壌」「帝力なんぞ我にあらんや」)に限りなく近い世の中を実現したと評価できるため。人々はほとんど皇帝権力の存在を感じずに生活できた。
- 彼の作った制度の一つ、賢良・方正は科挙の嚆矢である。
- 有能な人材を適正に評価し、重職に付けた。戦争を控え、融和外交を展開。民生と地力(特に食料生産)を重視。豪華な宮殿・王墓なんかイラネと建設中止し自分も倹約。これらのため国は富みまくり、国庫には金が貯まり過ぎてしまい、倉庫に入りきれない穀物が野ざらしになったほど。
- しかし、それゆえになんとなく印象が薄い。本当の名君というのはそういうものかもしれない。
- 家臣たちから、天下に真の泰平をもたらした天子だけがおこなえる儀式「封禅」を奨められたが、「自分はまだその資格がない」と遠慮。慎み深い人でした。
- 没後は遠慮しようがなかったため、国内を安定させ繁栄を齎した、最高の君主という「文」をおくられた。
- その後の皇帝たちが、文帝を見習ってくれていれば、中国史はもう少し平和なものになっていたであろう。よりによって武帝なんぞを見習ったため、戦乱の絶えない歴史になってしまった。
- 中国の理想社会(「鼓腹撃壌」「帝力なんぞ我にあらんや」)に限りなく近い世の中を実現したと評価できるため。人々はほとんど皇帝権力の存在を感じずに生活できた。
- 皇太子時代に、ゲームのローカルルールで言い争いになって、従弟を殴り殺したことがある。
- その従弟の親父(呉王)が、怒って同志をつのり、叛乱を起こす。世に言う「呉楚七国の乱」。
- 漢の初期は辺境に皇族を配置してそれぞれ国を運営させていたが、平和が続いて中央の眼が行き届くようになったので、それらの分国の整理を始めた。諸分国の王様たちはお取り潰しの危機を感じており、呉王の誘いに乗った。
- 叛乱軍が意気盛んなので、景帝は分国整理の実行にあたっていた御史大夫・晁錯を斬ってなだめようとする。要はトカゲの尻尾切りであるが、効果無し。
- 周亜夫将軍の丹念な切り崩しにより、ようやく収束。
- 結果的にはこの反乱のおかげで中央集権化が一気に進んだ。
- これでも一応、名君ということになっている。
- まだ宮廷の生活が質素で、年貢が安かったかららしい。
- 祖父の文帝、父の景帝が質素な生活をして蓄えた莫大な財産を一挙に傾けて、さまざまな大事業を意欲的に進めた。
- そういう皇帝が53年間も在位していたものだから、治世の後半は財政大赤字。
- 人口もこの治世で半減。庶民にとっては大迷惑だった皇帝。
- 高祖以来鬼門となっていた匈奴を大いに破った。
- なんの気なしに寵愛した衛氏(のち皇后)の弟(衛青)と甥(霍去病)が、思いの外の逸材で、匈奴事情に詳しく軍才もあったおかげ。
- それと共に、この時代になって鉄器が大いに普及しはじめたことも大きい。匈奴はまだ青銅の武器を使っていた。
- ↑匈奴も鉄を使っているはずだぞ
- 匈奴を打ち破り国境を安定させた代わりに財政は悪化した。
- 西方に張騫を派遣。西アジア方面の様子がはじめて伝えられる。
- 武帝はローマと交易したがっていたらしい。
- 司馬遷のイチモツをちょん切った。
- その後反省したのか、司馬遷の待遇を良くしてしまう。そのため、その後宦官が跳梁跋扈するきっかけになったという説もある。
- 佞臣・江充を寵愛し、その陰謀により息子(戻太子)と大喧嘩。息子を誅殺してから真相が判明し、大いに後悔したが後の祭り。
- その後、死の直前まで皇太子を決めずに周囲をやきもきさせた。ようやく末の息子を皇太子に指名するが、その生母の一族が外戚としてのさばるのではないかと邪推し、生母(趙夫人)を殺害。
- わからんでもないがね。実際武帝が即位したころとか竇太皇太后 (文帝の奥さん、武帝の祖母さん) が政治牛耳っていたし。
- 8歳で即位、21歳で病死。
- 霍光(霍去病の弟)が次第に権勢を得てゆく。
- 昭帝の皇后は上官皇后で、武帝より後事を託された霍光と上官桀の孫娘。6歳で皇后になり、15歳で昭帝に先立たれ、その後は52歳で亡くなるまで太皇太后などとして寡婦で生涯を終えたそうな。
- 18歳まで民間で育てられていた戻太子の孫が、霍光の引き立てによって帝位に就く。中国史上最大のシンデレラボーイ。
- 霍光の死後は、霍一族の専横に逆襲し、すっかり退治してしまう。霍光に押しつけられていた皇后も廃位。
- 民間に居た頃にめとっていた愛妻を霍皇后に毒殺され、腹に据えかねていたらしい。
- 下情に通じていたので、民衆のためになる現実的な施策を次々に打ち出し、名君と称えられた。
- 霍光の死後は、霍一族の専横に逆襲し、すっかり退治してしまう。霍光に押しつけられていた皇后も廃位。
- 未央宮麒麟閣十一功臣という、のちの皇帝戦隊の走りを始める。メンツは霍光、張安世、韓増、趙充国、魏相、丙吉、杜延年、劉徳、梁丘賀、蕭望之、蘇武
- 中興の祖の代表格。
- 父の宣帝が現実主義者だったのに反撥してか、儒教的理想主義を信奉。
- そのおかげで漢王朝の財政はますます悪化。
- 宣帝は元帝を皇太子から何回か外そうとしたらしい。しかし愛する元妻 (許平君、霍光の娘ではない) の子ということもあってかついに外すことはなかったようだ。
- そのおかげで漢王朝の財政はますます悪化。
- 皇后は王氏。元帝在世中はおとなしかったが、その後権勢をふるい、前漢王朝に引導を渡す役回りとなった。
- 漢を簒奪し新王朝を開いた王莽は彼女の甥。
- 優柔不断な人。
- 母・王皇太后一族の専横を指をくわえて見ていることしかできなかった上、自分の皇后(趙氏)にも頭が上がらなかった。
- ホモの皇帝で、菫賢という美少年を熱愛。
- 董賢と愛し合ったのち、起きようとしたら、自分の服の袖の上で董賢が寝入っていた。哀帝は董賢を起こすに忍びず、袖を切り取って起きた。これにより、ホモを意味する「断袖」という優美な隠語が生まれた。
- といって、軟弱な皇帝ではなく、王一族の専横に果敢に立ち向かったが、力及ばず暗殺されてしまう。
- 実は制度としての世襲を取りやめたのは彼の改革による。
- 9歳で即位、13歳で毒殺される。
- 母の衛氏の一族が力を持つことを恐れた王莽が衛氏を殺害。それを知った平帝が王莽を敵視し始めたため、後難を恐れて毒殺されてしまった。
- 劉邦のライバル
- 戦いはやたら強いがそれ以外はアッパラパーのガキ大将
- 項羽自身もそうだがもしかしたら范増やその他側近も秦討伐後の治世とかあまり考えてなかったんじゃなかろうか。
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