実は存在したモノ/野球

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プロ野球[編集 | ソースを編集]

全般[編集 | ソースを編集]

  1. 投手記録としての「引き分け」
    • 引き分け試合に最後に投げた投手に記録される。
  2. MLBで年間263安打以上を記録した選手
    • 一般にイチローが2004年に記録した年間262安打がMLBにおける年間最多安打記録とされているが、実は1887年にピート・ブラウニングとティップ・オニールが年間275安打を記録している。
      • このシーズンだけ四球も安打と記録していたため(正確には当時のルールでは四球ならぬ「五球」で出塁だった。四球で出塁となったのは1889年以後)。
        • 現在では1887年の四球は安打に算入しない場合が多い。その場合この年の年間最多安打はティップ・オニールの225安打となる。
  3. 最優秀防御率のタイトルを同率で複数の選手が獲得
    • 2003年のパ・リーグで斉藤和巳と松坂大輔がともに自責点61・投球回数194回の防御率2.83で同率でタイトルを分け合っている。
    • ちなみに首位打者の同率1位は1969年パと1987年セの2回発生している。どちらも打数・安打が異なっていても率を合わせやすい「.333」だった。
  4. キャッチャーライナー(捕直)
    • 通常、打球がそのままキャッチャーミットに収まった場合はファウルチップとなるため、キャッチャーライナーは起こりえないと思いきや、他の野手が処理できなかったライナーを捕手が処理した場合はキャッチャーライナーが記録される。
      • 実際に1965年5月11日の巨人対広島戦にて、打者・瀧安治の放った打球が安仁屋宗八投手の膝を直撃し、跳ね返った打球を久保祥次捕手が捕球したため、瀧にキャッチャーライナーが記録された。
  5. デーゲーム開催の日本シリーズ
    • ナイトゲームでの初開催は1964年の南海対阪神で、当時の東京オリンピックの妨げにならないように配慮された。
      • しかし、シリーズでの平均観客動員数は過去最低をマークしてしまった。この影響から1965年以降は再びデーゲーム開催に戻される。
    • しかし平日開催ともなると会社や学校を休まない限り観戦ができなくなり、さらに視聴率にも影響することから、1994年 (巨人対西武) で、西武球場開催分の第~5試合において試験的にナイトゲーム開催となった。
    • この評判が高かったことから、1995年 (オリックス対ヤクルト) から全試合に拡大された。
    • 2011年 (ソフトバンク対中日) の第一戦では、放映権を握っていたフジテレビの編成の兼ね合い (ゴールデンタイムにバレーボール中継を放送) でデーゲーム開催となった。
    • 結論、1963年以前と1965~1993年の全日程、1994年と2011年の一部でデーゲーム開催だった。
      • 「1993年以前のナイトゲーム開催の日本シリーズ」も「実は存在したモノ」に含まれることになる。
  6. プロ野球の前後期制
    • 1973年から1982年までパ・リーグで行われていた。
  7. 1983年から1985年まで実施されたパ・リーグのプレーオフ。
    • 1位と2位のゲーム差が5ゲーム差位内の場合、最大5試合のプレーオフを行い勝率はシーズンとプレーオフの試合数の合計で計算というルールだったが、この3シーズンすべて優勝球団が2位に5ゲーム差以上つけての独走だったため1度も開催されず。
  8. 2006年まで実施されたセ・リーグのプレーオフ。
    • 1位の勝率が2チーム以上並んだ場合、2001年から2006年までは勝率の1位と勝利数の1位が異なる場合にプレーオフを行うことになっていたが、1度も開催されず。
  9. セ・リーグ本拠地開催分で指名打者制度が採用された日本シリーズ
    • 1985年のみ、全試合で指名打者制度が採用された。
  10. AクラスとBクラスが前年と総入れ替え
    • 現時点で2014年のパ・リーグの1度のみ。
      • 順位の内訳は、ソフトバンク(前年4位→1位)、オリックス(前年5位→2位)、日本ハム(前年6位→3位)、ロッテ(前年3位→4位)、西武(前年2位→5位)、楽天(前年1位→6位)。
  11. 一塁ランナーが生還した犠牲フライ
    • 1977年4月29日の大洋対阪神戦(川崎球場)で発生。
      • 阪神が7-6と1点リードした9回裏1死1塁、大洋の清水透が打った大きな当たりを阪神のレフト・佐野仙好はフェンスに激突しながらもボールをキャッチしたが、コンクリートが剥き出しだった当時の川崎球場のフェンスで頭部を強打。
      • 佐野はボールを捕球したまま気を失い、左翼線審の田中俊幸は佐野の捕球を確認してアウトを宣告。
      • 阪神の選手・コーチが佐野に駆け寄っている間に、内野に残った一塁ランナーの野口善男がベンチの指示を受けタッチアップ、球場内が騒然とする中をほぼ全力で駆け抜けて本塁に生還。
    • 当初は佐野が清水の打球を捕球した後に他の野手への返球を怠ったと判断され、佐野には捕球による刺殺と送球をしなかったとして失策が記録されていたが、後に記録員の藤森清志の進言により訂正がされ、記録上は1死1塁から清水のレフトへの野選を伴った犠牲フライとなり、清水に打点、野口に得点が記録された。
  12. 左投げの二塁手
    • NPBでは鬼頭数雄(1936年2試合)、山田伝(1939年3試合、1940年2試合、1942年1試合)、西本幸雄(1951年1試合)の3人だけが記録している。
  13. 予告ホームランをして実際にホームランを打った選手
    • 1989年9月16日のオリックス対近鉄戦でブーマー・ウェルズが予告ホームランをし、見事宣言通りホームランを打った。

球団関連[編集 | ソースを編集]

  1. 近鉄が親会社の球団の「日本一」
    • 1リーグ時代の1946年に近畿グレートリング(南海電鉄が近畿日本鉄道から分離する前)が優勝しているが、当時は日本シリーズがなかったので実質日本一ということに。
      • ただしNPBの公式記録としてはホークス(南海・ダイエー・ソフトバンク)の優勝回数にカウントされている。
        • 運営会社としては1938年設立の「南海野球」の流れを汲んでいる。
        • バファローズの運営会社は近鉄から南海が分離された後の1949年設立。
  2. 北海道日本ハムファイターズVS大阪近鉄バファローズ・福岡ダイエーホークス・オリックスブルーウェーブ
    • 球界再編でよくあやふやになりがちだが、日本ハムの札幌移転は球界再編の1年前なので、2004年シーズンはこれらのカードが存在した。
      • ちなみに2004年9月17日にプロ野球ストライキが決定したとき、近鉄の対戦相手は北海道日本ハムだった。
  3. 東京ドームでの日本ハムファイターズvs阪急ブレーブス・南海ホークス
    • 東京ドームの開業は1988年なので、これらのカードが存在した。東京ドーム前にある記念碑には阪急・南海のロゴが刻まれている。
  4. 福岡が本拠地のセ・リーグ球団
    • 1950年に「西日本パイレーツ」という球団が設立されたがシーズン後に西鉄クリッパーズと合併し消滅。
  5. ロッテオリオンズvsオリックス・ブルーウェーブ
    • ロッテオリオンズ最後の年となる1991年に、既にオリックスは球団名がブルーウェーブに変わっていたため、このカードが1年間限定で存在した。
  6. 巨人の最下位
    • 現時点で1975年のみ。この年は前年に現役を退いた長嶋茂雄監督の就任初年度だった。
  7. 関西球団同士の日本シリーズ
    • 現時点で1964年のみ。この年の日本シリーズは「阪神タイガースvs南海ホークス」の関西決戦だった。
      • 当時ホークスは大阪に本拠地を持っていた。しかし、ホークスは数年後にダイエーに身売りされたのち福岡へ移転している。
      • 関西球団同士で盛り上がると思いきや、東京オリンピック開会式と日程がかぶったため最終戦はガラガラだった。
      • 2023年に「阪神タイガースvsオリックス・バファローズ」の関西対決となりました。7戦目までもつれ込み、4勝3敗で阪神タイガースが優勝、38年ぶりの日本一となりました。
  8. 福岡ソフトバンクホークスの最下位
    • 2008年に最終戦で楽天に敗れて最下位になっている。この年限りで王貞治監督は辞任し会長に。
  9. 西武の最下位
    • 前身となる球団を除けば現時点で1979年と2021年の2度。前者は本拠地が所沢に移転後最初のシーズンだった。
      • ただし、「西武ライオンズ」としての最下位は1979年のみである。
  10. 京都を本拠地とするNPBの球団
    • 1949年に大陽ロビンスが京都市の衣笠球場(現存せず)を本拠地としていた。
    • 松竹ロビンスになった翌シーズンからも名目上は京都が本拠地だったが実際は大阪球場で主催試合を行うほうがずっと多かった。
  11. 中日ドラゴンズのリーグ1位からの出場で日本一
    • 現時点で1954年のみ。ちなみに中日が次に日本一になるのは53年後の2007年となるが2位からの出場で、1位からの出場で日本一(いわゆる完全制覇)はこの年が唯一である。
  12. 1990年代における阪神のAクラス
    • 1992年に一度だけAクラスになった事がある。この年は亀山努と新庄剛志の「亀新コンビ」などの活躍で終盤までヤクルト・巨人との優勝争いを演じた。
  13. 阪神タイガースの阪神甲子園球場での開幕戦
    • 例年、阪神タイガースが本拠地主催権を得た場合、春の選抜高校野球の影響で大阪ドームをはじめとした他球場で開幕戦を開くのが通例だが、1952年を始めとし過去何度か甲子園で開幕主催ゲームを行ったことがある。
  14. 優勝チームが最下位チームに負け越し
    • 1994年の巨人が該当(横浜に11勝15敗)。
    • 2022年のヤクルトも該当(中日に10勝14敗1分け)
  15. 全球団に勝ち越しながらも優勝逃す
    • 1961年・1964年東映や1967年中日などの例があり。最近の例だと2000年西武が該当する。
    • 2021年の阪神も広島は5分で他のチームは全て勝ち越した。
  16. オリックス・ブレーブス
    • 1989年と90年の2シーズンのみこの球団名だった。91年からブルーウェーブに球団名変更。
    • 阪急から球団譲渡を受ける際本拠地の西宮球場と「ブレーブス」の名称を引き継ぐことが条件となったため。
  17. 全球団に負け越しながらも最下位を逃れる
    • 現時点では1998年広島(60勝75敗)のみ。この年は最下位だった阪神(52勝83敗)に13勝14敗。
  18. リーグ戦・交流戦・クライマックスシリーズ・日本シリーズで全て優勝
    • 2011年・2015年・2017年ソフトバンクや2012年巨人が該当。
    • 2011年ソフトバンクに至ってはセパ11球団に全て勝ち越し。

選手[編集 | ソースを編集]

NPB所属選手の国籍・出身国
  1. ドイツ出身の選手
    • 元巨人のデーブ・パブラスと元阪神のマイク・ブロワーズが該当。ただしどちらも国籍はアメリカである。
  2. イタリア人の選手
    • 元オリックスのアレッサンドロ・マエストリが該当。元阪神のレノ・ベルトイアも該当するが、こちらはカナダとの二重国籍である。
  3. スペイン人の選手
    • 元ヤクルトのダニエル・リオスが該当。
  4. インドネシア出身の選手
    • 元横浜のトム・マストニーが該当。国籍はアメリカである。
      • ちなみにMLBに所属経験のある唯一のインドネシア出身の選手でもある。
  5. 日本生まれのアメリカ人選手
    • 元横浜のスティーブン・ランドルフが該当。沖縄生まれ。
NPB所属選手のWBC代表歴
  • 本大会に出場した選手のみとする。
  1. アメリカ代表選手
    • 元阪神のライアン・ボーグルソンが2013年WBCにアメリカ代表として出場したのが初めてのケース。
ドラフト指名
  1. 巨人からドラフト1位指名を受け入団拒否した選手
    • 1973年のドラフト会議で巨人のドラフト1位指名を受けた小林秀一(愛知学院大学)は、それを拒否し熊谷組に就職した。
      • アマチュアの指導者を目指していた小林はすでに熊谷組への就職が内定していたが、指名を受けて気持ちが揺らいでいた。しかし川上哲治監督の「仕事の傍らで野球をするよりもうちで野球に専念してほしい」といった内容の言葉を受け、野球を仕事にするつもりではなかった小林は迷い無く入団を拒否した。
      • その後、熊谷組で選手として活躍したのち母校である愛知学院大学の監督に就任、現在は同学の准教授を務めている。
  2. プロ引退後にドラフト指名を受けた選手
    • 1959年に大毎オリオンズを退団した松井猛はその後日本軽金属、電電北海道で活躍し1965年に中日からドラフト10位で指名されたが入団を拒否している。
    • なお現在ではプロから社会人野球に進んだとしてもプロ復帰時にドラフトにかける必要はない。
その他
  1. 西鉄ライオンズの榎本喜八
    • 1972年にロッテから西鉄へ移籍した榎本喜八だが、この年限りで榎本は現役を引退したため、1972年は西鉄ライオンズの榎本喜八が見られた。
  2. ロッテオリオンズの野村克也
    • 1978年に南海からロッテに移籍した野村克也だが、この年のオフにロッテの重光オーナーから監督就任を要請されるも固辞し、自由契約に。
    • 翌1979年は西武ライオンズでプレーしたため、1978年はロッテオリオンズの野村克也が見られた。
    • 江夏豊も最晩年は西武で引退している。
  3. 福岡ソフトバンクホークスの城島健司
    • 2005年に福岡ダイエーホークスがソフトバンクに買収され「福岡ソフトバンクホークス」に改称されたが、その年のオフに城島健司はFAを行使し、シアトル・マリナーズへ移籍。
    • そのため、2005年は福岡ソフトバンクホークスの城島健司が見られた。
  4. 大阪ドーム本拠地時代の近鉄・大石大二郎
    • 1997年に近鉄バファローズが大阪ドームに移転したが、その年のオフに大石大二郎が現役を引退したため、1997年は大阪ドームと大石大二郎の組み合わせが見られた。
  5. 西本幸雄の日本一
    • 20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一の栄冠を獲得できず「悲運の名将」と言われた西本幸雄だが、選手としては1950年の毎日オリオンズで日本一を経験している。
  6. 巨人と西武の両方で最下位を経験した選手
    • 玉井信博(投手。1973~75年まで巨人でプレー、1976年に太平洋クラブ(西武の前身)にトレード、1980年引退)
      • ただし西武時代(1979~80年)は一軍出場はなし。
  7. 千葉ロッテマリーンズ、シアトル・マリナーズ、マイアミ・マーリンズの3球団全てでプレーしたことのある選手
    • 似たような名前で紛らわしいとよく言われるこの3球団だが、エドガー・オルモス投手はこの3球団全てで一軍(メジャー)登板を経験している。
  8. 2007年以前にプロ野球入りした1988年度生まれ(1989年)の選手
    • ハンカチ王子こと斎藤佑樹や、マー君こと田中将大らで知られる1988年度生まれが高卒で入団したのは2007年(2006年度ドラフト)だが、その2年前(2004年ドラフト、2005年入団)に辻本賢人が中卒で阪神タイガースに入団している。
      • 辻本は米国の高校で9年生課程を修了した段階で中退。その後に阪神に指名された。
    • 但し、彼は一軍に出場することなく引退しているため、1989年生まれ初(と同時に平成生まれ初になる)の初登板・初勝利は千葉ロッテの唐川侑己である。
    • なお、辻本は2020年現在NPB唯一の昭和64年生まれ(1989年1月6日生まれ)であり、ドラフト制以後唯一の中卒で入団した選手である。
  9. 福岡ダイエーホークスの香川伸行
    • 1989年に南海ホークスがダイエーに買収され「福岡ダイエーホークス」に改称され、本拠地も大阪から福岡に移動したが、その年のオフに香川伸行が戦力外通告を受けて現役を引退したため、1989年はダイエーホークスと香川伸行の組み合わせが見られた。
  10. 西武ライオンズの江夏豊
    • 1983年オフに日本ハムから西武に1対2のトレードで移籍した江夏豊だが、広岡達朗監督と対立したこともあり1年で退団したため、1984年は西武ライオンズの江夏豊が見られた。
  11. 横浜ベイスターズの石井浩郎
    • 2001年にロッテを自由契約になり横浜へ移籍した石井浩郎だが、34試合に出場しただけでこの年のオフに現役を引退したため、2002年は横浜ベイスターズの石井浩郎が見られた。

監督[編集 | ソースを編集]

  1. 東京ドーム本拠地時代の日本ハム・ヒルマン監督
    • 2004年に日本ハムが北海道に移転したが、その前年となる2003年にトレイ・ヒルマン監督が就任したため、2003年は東京ドームとヒルマン監督の組み合わせが見られた。
  2. 平和台野球場本拠地時代のダイエー・杉浦監督
    • 1989年に南海ホークスがダイエーに買収・福岡へ移転したが、南海最後の監督だった杉浦忠は留任したため、1989年は平和台野球場と杉浦監督の組み合わせが見られた。
  3. 藤井寺球場本拠地時代の近鉄・佐々木監督
    • 1997年に近鉄バファローズが大阪ドームに移転したが、その前年となる1996年に佐々木恭介監督が就任したため、1996年は藤井寺球場と佐々木監督の組み合わせが見られた。
  4. クラウン・根本監督
    • ライオンズは1979年に球団を移転し西武ライオンズとなったが、その前年となる1978年に根本陸夫監督が就任したため、1978年は平和台野球場と根本監督の組み合わせが見られた。
  5. MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島本拠地時代の広島・ブラウン監督
    • 2009年に広島東洋カープがMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島に移転したが、マーティ・ブラウン監督は留任したため、2009年はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島とブラウン監督の組み合わせが見られた。
  6. オールスターに同一リーグの監督が4人出場、もう一方のリーグは監督が1人だけ
    • 2014年のオールスターで、セ・リーグは前年優勝の巨人・原辰徳監督、前年2位の阪神・和田豊監督、前年3位の広島・野村謙二郎監督のほか、中日・谷繁元信選手兼任監督が選手としてオールスターに出場。
    • また、パ・リーグは前年優勝の楽天・星野仙一監督が病気で出場を辞退、前年2位の西武・伊原春樹監督がチームの不振の為シーズン途中で辞任、代行の大久保博元と田辺徳雄は当時はまだ正式に監督に就任しておらず(両名ともシーズン終了後に就任)、正規の監督は前年3位のロッテ・伊東勤監督ただ一人となり全パの指揮を執ることとなった。
  7. 日本シリーズとワールドシリーズの両方で指揮を執った監督
    • ボビー・バレンタインは2000年にメッツでワールドシリーズ、2005年に千葉ロッテマリーンズで日本シリーズで指揮を執った。
  8. 東京ドーム本拠地時代の巨人・王監督
    • 1988年に読売ジャイアンツが東京ドームに移転したが、王貞治監督は留任したため、1988年は東京ドームと(巨人としての)王監督の組み合わせが見られた。
      • 東京ドーム本拠地時代の日本ハム・高田監督もこれまた然り。
  9. ナゴヤ球場時代の中日・星野監督(2回目)
    • 1997年に中日ドラゴンズがナゴヤドームに移転したが、その前年となる1996年に星野仙一監督が再就任したため、1996年はナゴヤ球場と第2次星野監督の組み合わせが見られた。
  10. オリックス・伊原監督
    • 西武の監督を退任し2004年にオリックスの新監督に就任した伊原春樹だったが、この年のオフにオリックスは近鉄と合併。
    • 合併後の監督には仰木彬が就任したため、伊原監督は一年限りの采配となった。
  11. オリックス・中村監督
    • 2005年オフに仰木監督の退任に伴いオリックスの新監督に就任した中村勝広だったが、26年ぶりの5位に終わった責任を取ってオフに監督を辞任。
    • そのため、2006年はオリックスの中村監督という組み合わせが見られた。

試合展開[編集 | ソースを編集]

  1. 両チームノーヒットの試合
    • 1994年4月26日、イースタン・リーグの西武対ヤクルト戦(大宮市営球場)で発生。
      • ヤクルト先発の山部太、西武先発の竹下潤が共に無安打で完投。試合は5回、ヤクルトが失策で出塁した走者を幸田正広がスクイズで還し1点を挙げ、これが決勝点となり1-0でヤクルトが勝利した。
  2. プロ入り初登板の投手がノーヒットノーランを達成
    • 1987年8月9日、近藤真一(中日)が対読売ジャイアンツ戦で達成。

高校野球[編集 | ソースを編集]

地域成績[編集 | ソースを編集]

  1. 2015年以前の北信越地区の甲子園優勝。
    • 東北とともに優勝未経験地区だったと思ってる人も多いが、長野が1928年夏に松本商(現松商学園)、1954年春に飯田長姫(現飯田OIDE長姫)が優勝したことがある。
    • 2015年春の敦賀気比は「北陸勢」初優勝。
  2. 2013年以前の埼玉県の甲子園優勝。
    • 春は1968年に大宮工が優勝している。
  3. 熊本県の甲子園優勝。
    • 県内最多出場・勝利の古豪熊本工が3度の準優勝がありながら優勝ゼロだが、1958年春に済々黌が優勝している。
      • ちなみにその大会で熊本工もベスト4に進出し、準決勝で済々黌が熊本工に勝利していた。
  4. 鳥取県の甲子園決勝進出。
    • 1960年春に米子東が準優勝。山陰勢唯一の決勝進出である。
  5. 東北地区の高校野球全国大会優勝
    • 甲子園では春夏共に優勝がないのは有名だが、明治神宮野球大会高校の部では東北高校が歴代最多の4回優勝を記録するほか、仙台育英と光星学院も優勝歴を有する。
    • 2022年夏、仙台育英が甲子園初優勝。ついに甲子園の優勝旗が東北地方に達した。
  6. 中国に所在した学校の甲子園出場
    • 戦前に「満洲代表」の枠で青島中・天津商が出場したことがある。
      • どちらの学校も日本租借地の関東州や満州国ではなく中華民国に所在していた。

チーム記録[編集 | ソースを編集]

  1. 2015年夏以前の霞ヶ浦高校の甲子園出場。
    • あと一歩のとこで甲子園に出れない学校として知られているが、センバツは1990年に出場経験がある。
  2. 2011年春以前の明徳義塾の甲子園初戦敗退。
    • それまで初戦に強かった明徳義塾が1987年春のセンバツで関東一に負けて唯一の初戦敗退を喫していた。
      • 夏の甲子園は2015年夏まで初戦無敗を継続。
  3. 大阪桐蔭の甲子園初戦敗退。
    • 2002年夏に東邦に負けたのが現時点で唯一の初戦敗退。これがなければ今ごろ初戦無敗の学校として知られていただろう。
      • ちなみに春は2021年に初の初戦敗退。
  4. 境高校の甲子園勝利。
    • 2007年夏など甲子園で大敗が多い学校だが、1974年春に長良、1990年夏に八戸工大一に2度勝利している。
  5. 日大東北の甲子園勝利。
    • 聖光学院が常連になるまで出ると負けの学校として知られていたが、1990年夏に長崎の海星に1度だけ勝利している。
  6. 選手権14年連続出場
    • 2016年に聖光学院が戦後初の10年連続出場を達成したが、黎明期には1915年第1回大会から1928年第14回大会まで和歌山中学(現桐蔭高校)が14年連続出場していた。
    • 聖光学院の連続出場がこのまま継続すれば2020年に和歌山中の14年連続に並び、2021年に歴代最長記録となる。
  7. 夏の甲子園で1大会7試合を経験
    • 2006年夏の早稲田実と2007年夏の佐賀北の2校。ともに延長引き分け再試合(前者は決勝戦、後者は2回戦)を戦ったことで通常より1試合増えた。
    • 惜しかった例は1958年夏の徳島商。準々決勝で引き分け再試合を制して決勝進出したが、2回戦からの登場だったため6試合止まり。
      • 早稲田実と決勝戦引き分け再試合を戦った駒大苫小牧も2回戦からの登場だったため6試合止まり。
      • 1969年夏は出場校が30校のみだった時代のため1回戦から登場しても決勝まで通常5試合で、松山商と三沢は6試合。
    • 2018年のタイブレーク導入により、降雨引き分けか決勝戦が引き分け再試合にならない限り1大会7試合になる可能性はなくなった。

学校の分類にまつわる記録[編集 | ソースを編集]

  1. 工業高校の甲子園優勝。
    • だが1965年夏の三池工と1968年春の大宮工の2回(春夏1回ずつ)のみ。商業高校と比べてかなり少ない。
    • 工業高校で甲子園最多出場・最多勝利数を誇る熊本工は準優勝が3回あるが優勝経験がない。
  2. 2018年以前の農業高校の決勝進出。
    • ただし台湾の代表校、1931年夏の嘉義農林。
      • 戦前は朝鮮・満州・台湾(外地)の学校が日本の高校野球全国大会に出場していた。
      • 農林高校と農業高校は厳密には別物だが、農業高校に分類されることが多い。
    • 2018年夏の金足農は国内の農業高校及び◯◯農業では初の決勝進出となった。
      • 嘉義農林が外地の学校であるため2017年までは1984年夏の金足農のベスト4が農業高校の最高成績だと思ってた人が多い。
  3. 金足農・嘉義農林以外の農業高校の甲子園2勝。
    • 1981年夏の新発田農。
      • 甲子園1大会2勝以上したことある農業高校はこの3校のみ。
  4. 日大系列校同士の決勝戦。
    • 1972年春の日大桜丘VS日大三(5-0で日大桜丘の勝利)。東京対決で日大対決の決勝戦だった。
    • 同じ大学の付属校同士の決勝戦はこれが史上唯一。

試合[編集 | ソースを編集]

  1. 甲子園で市立船橋VS鹿児島実の対戦。
    • どう見ても高校サッカーにしか見えないカードだが、高校野球でも1996年夏の2回戦で対戦していた(5-3で鹿児島実の勝利)。
      • ネットが流通した時代に実現していればかなり話題になっただろう。
  2. 箕島VS明徳義塾(当時は明徳)の対戦
    • 箕島VS星稜は1979年夏、明徳義塾VS星稜は1992年夏の対戦が超有名だが、箕島VS明徳(当時)も1982年春に対戦していてしかも延長14回の熱戦だった。
      • 13回表に明徳が2点を勝ち越すが裏に同点、箕島が14回サヨナラ勝ちという3年前の星稜戦に匹敵する劇的勝利。
      • ちなみに明徳はこの年が春夏通じて甲子園初出場。
  3. 敗者復活戦
    • 1916~1917年の第2回大会と第3回大会に存在した
      • 第3回大会で愛知一中が敗者復活戦から優勝してしまい、疑問視する声が多く出て廃止に。
    • トリビアの泉で取り上げられたことがある
  4. 高校野球都道府県大会の6回戦(5回戦と準々決勝の間のラウンド)
    • 現在高校野球の都道府県大会は最大でも全8ラウンド(1~5回戦と準々決勝・準決勝・決勝)だが、東西に分割される直前の1970~1973年の東京大会は全9ラウンドで、5回戦と準々決勝の間の「6回戦」が存在した。
      • といっても1回戦から登場した学校は数校だけ
      • 当時は32校が4回戦からの登場となるスーパーシードがあった
      • 参加チーム数が256チーム(28)を超えると必然的に全9ラウンドとなり6回戦が出現するが、分割前の東京大会の参加校数が257校以上になったことはなかった。
      • 参考

試合展開[編集 | ソースを編集]

  1. 甲子園全国大会で、ノーヒットでの勝利
    • 1953年夏の慶應義塾-北海で発生。この試合がなかったらもし高校野球全国大会でこんな有り得ない試合展開があったらに「ノーヒットで勝利」が追加されていただろう。
      • 決勝戦限定として記載されている。
      • 9回までノーヒットに抑えられるが、延長戦で初ヒットを打って勝利は近年でも何度か発生したので知られている。
  2. 高校野球地方大会で、9回裏2アウトから10得点で9点差を逆転サヨナラ。
    • 2014年の石川大会決勝の星稜-小松大谷で9回裏に9得点で8点差を逆転サヨナラ勝ちした試合が全国的に話題になったが、2002年の大分大会1回戦の中津北-緒方工ではそれを超える9点差の逆転サヨナラ勝ちがあった。
      • 8回までは7-5の2点差だったが、9回表に緒方工が7点を追加し14-5とするも、9回裏に中津北が2アウトから10点を取って逆転サヨナラ勝ち。
        • しかも2アウトからというのもいい。ランナーなしじゃないのが惜しいが(2アウト1・2塁からだった)。
      • 雨の影響があったらしい。
      • 9点と10点ではインパクトが違うが、残念ながら県予選の1回戦だったせいで星稜-小松大谷と比べてあまり知られていない。
        • 当時ツイッターはなく、2ちゃんねるは存在したが高校野球板がまだなかったためネット上でも話題にならず。今だったら1回戦の試合でも大騒ぎだろうが。
        • 一応wikipediaのサヨナラゲームの記事に載っている。
    • ちなみに地方大会準決勝までは7回・8回終了時点で7点差がついていたらコールドゲームになってしまう。上記の星稜-小松大谷は決勝だったからコールドがなかった。
  3. 高校野球全国大会で36得点&31点差の試合
    • 甲子園では1937年春の滝川中27-0浦和が最多得点差、1985年夏のPL学園29-7東海大山形が最多得点だが、2003年の明治神宮大会でその両方を上回る大阪桐蔭36-5鵡川という試合があった。
      • ちなみにこのころの大阪桐蔭は今のような超強豪ではない。
      • 鵡川はこの前の試合で翌年の選抜優勝・選手権準優勝する済美にサヨナラ勝ちした。選抜でも1勝して2回戦でこの大会ベスト4の社(兵庫)に延長14回の末惜敗。さらに言うと北海道大会決勝で翌年夏の選手権優勝校駒大苫小牧に勝ってる。これを見る限り決して弱いチームではなかったのだが…。
      • 済美は大阪桐蔭に31点差で記録的大敗した鵡川に5-6で延長サヨナラ負けし、東北はその済美に0-7のコールド負け。だが春の選抜では東北が3-2で大阪桐蔭に勝利した。
  4. 高校野球全国大会で両チーム合計41得点の試合&16得点して負け。
    • 甲子園では1985年夏のPL学園29-7東海大山形の36得点が両軍最多得点、1975年春の倉敷工16-15中京の中京が敗戦チームの最多得点だが、2004年の国体でその両方を上回る中京大中京25-16修徳という試合があった。
      • 甲子園での敗戦チームの最多得点記録を持ってる中京大中京(旧中京)が今度は国体で勝利チームの最多失点を記録するという因縁。

大会関連[編集 | ソースを編集]

  1. 甲子園出場経験はないが明治神宮大会出場経験がある学校
    • 1999年以降は明治神宮大会は各地区の秋季地区大会優勝校(=翌年の選抜出場は当確)が出場するようになっているが、かつては秋季地区大会に出場できなかった県大会上位校(翌年の選抜は絶望)が出場する地区があったため、現在でも甲子園未出場だが明治神宮大会出場経験がある学校は存在する。
      • 1990年の木本、1993年の富士学苑、1994年の波崎柳川など。
    • このトークページで少し話題になった。
    • 昔の明治神宮大会の出場条件の詳細はこのページにある。
    • 全ての地区で現在のように秋季地区大会優勝校が明治神宮大会に出場するようになったのは1996年から(1997年は近畿だけ地区大会1回戦敗退の学校が出場で基準不明)。ただし1982年から1998年までは出場校を8校にするために北海道・東北、中国・四国は交互に1年おきにしか出られなかったため、秋季地区大会優勝校10校が揃うようになったのは1999年から。
  2. 春の甲子園優勝校と夏の甲子園優勝校による年間日本一決定戦
    • 昭和初期の1927年から1931年まで行われていた。1929年のみ春の優勝校、それ以外の4大会は夏の優勝校が勝利した。
  3. 明治神宮大会出場決定戦
    • 上記にあるように、明治神宮大会は一部の地区では秋季地区大会に出場できなかった県大会最上位校が出場していたが、そのうち東海(3位までは東海大会に出場できる)では1979年から1993年まで各県の4位校で明治神宮大会出場権をかけた4校のトーナメント大会を行っていた。
      • 1980年と1981年のみ中国でも同様の大会を行っていた。
      • このような出場決定戦を行わない地区では、各県の持ち回り、または秋季大会の開催県の学校が明治神宮大会に出場していた。

事件[編集 | ソースを編集]

  1. 勝利後の校歌斉唱で、間違って敗戦校の校歌が流れる事件。

その他[編集 | ソースを編集]

  1. 1大会で(初戦の2回攻撃前を含めて)校歌が8回流れる
    • 通常は1回戦から登場して優勝した場合6勝+初戦の2回攻撃前の校歌で7回が最大である。
    • 2007年の佐賀北と2008年の大阪桐蔭。
      • 佐賀北は2回戦の相手が1戦目(49番くじ)だったため2回戦でも2回攻撃前の校歌が流れたため。
        • この節にあるように2回戦は延長15回引き分け再試合となったのだが、再試合では2回攻撃前の校歌はなかった。
      • 大阪桐蔭は初戦が降雨ノーゲームになったため、ノーゲームになった試合と再試合で2回攻撃前の校歌が2度流れた。
  2. 初戦敗退なのに校歌が3回流れる
    • 2009年の如水館。史上初の2試合連続ノーゲームにより、最初の試合、再試合、再々試合で2回攻撃前の校歌が3度流れた。

その他の日本野球[編集 | ソースを編集]

社会人野球[編集 | ソースを編集]

  1. 都市対抗野球大会における青森県勢の出場
    • 1939年(第13回大会)に青森林友(青森市)が出場したのが、現状では唯一の青森県勢の出場になっている。
  2. 都市対抗野球大会における鳥取県勢の出場
    • 戦前の1934年から1936年にかけて米子鉄道管理局が3回出場している。
  3. 都市対抗野球大会における宮崎県勢の出場
    • 2019年(第90回大会)に宮崎梅田学園が初出場を果たした。
  4. 都市対抗野球大会における佐賀県勢の出場
    • 1952年と1953年に杵島炭鉱(大町町)が出場したのが、現状では唯一の佐賀県勢の出場になっている。
  5. 日本選手権に毎年異なるチーム名で3年連続出場したチーム
    • NTT九州は1998年の日本選手権に5年ぶりの出場を果たしたが、会社再編に伴い翌1999年にクラブチーム化、NTT西日本九州硬式野球倶楽部の名で日本選手権に出場。さらにその翌年の2000年にはNTTグループ九州野球クラブと名を改めて日本選手権に3年連続出場。ベスト8に進出したがこれが最後の出場となった。
  6. 日本選手権に出場した地方公共団体のチーム
    • 1978年(第5回大会)に八戸市水道部が出場している。

大学野球[編集 | ソースを編集]

  1. 天皇杯
    • ただし授与対象は東京六大学野球の優勝大学である。
  2. 東京六大学リーグ戦における東京大学の優勝
    • 硬式と準硬式ではないが軟式では優勝している。
  3. 八大学野球
    • 正確には八大学のOBだが、鳥取県東西8大学OB野球大会という大会がある。
    • ただし雨の場合ボウリングになったりするため、野球大会というよりはスポーツを通じた同窓会が近いのかもしれない。
  4. 全試合1点差の全国大会
    • 2005年の第36回明治神宮野球大会・大学の部は1回戦から決勝までの全9試合すべて1点差だった。

野球場[編集 | ソースを編集]

  1. 神戸球場
    • グリーンスタジアム神戸の正式名称は神戸総合運動公園野球場だが、2004年に一度神戸球場に改名している(その後スカイマークスタジアムに改名。)

国際大会[編集 | ソースを編集]

ワールドベースボールクラシック
  1. ヨーロッパ勢のワールドベースボールクラシック2大会連続ベスト4進出。
    • 2013年と2017年にオランダが達成している。
  2. 日本が韓国にコールド勝ち
    • 2009年大会の第1ラウンド2回戦で14-2の7回コールド。
  3. アメリカのコールド負け
    • 同じく2009年大会にて第2ラウンドでプエルトリコに1-11の7回コールド。
その他
  1. 現役メジャーリーガーのアジア大会出場
    • オリンピックに現役メジャーリーガーが出場したことはないが、アジア大会であれば1998年バンコク大会に当時ロサンゼルス・ドジャースの朴賛浩が韓国代表として出場し金メダルを獲得している。

関連項目[編集 | ソースを編集]