征夷大将軍
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全般[編集 | ソースを編集]
- 「源氏でなければ征夷大将軍になれない」というのは俗説。下記に見る通り、いろんな氏出身の征夷大将軍が居る。
- 平安と江戸の征夷大将軍には「3代8代の法則」というものがあるらしい。
- 平安は関係ない。当てはまるのは鎌倉3代8代執権・室町3代8代将軍・江戸3代8代将軍。
- 平成時代にも「誠意大将軍」がいたらしい。
- 沖縄出身のハーフだったらしい。
- 将軍は字義的には軍事司令官に過ぎず対外的に使えないので江戸時代の外交文書では大君の称号を使った。
平安時代の征夷大将軍[編集 | ソースを編集]
大伴弟麻呂[編集 | ソースを編集]
- 初代征夷大将軍。
- 60過ぎてから任命され、蝦夷を討伐して来いと言われて大迷惑。
- ほとんど副官の坂上田村麻呂に任せっきりだった模様。
坂上田村麻呂[編集 | ソースを編集]
- 二代目征夷大将軍だが、初代だと思っている人が多い。
- 初代に比べて歴史でも多く出てくるからなあ。一部の書籍では『初代』と書かれてしまうこともあるし(もちろん著者や編集のミス)
- 「文」の菅原道真に対し、「武」の象徴的人物になっていた。
- 東北地方をほぼ平定。
- もっとも、具体的な戦争の話はあんまり伝わっていない。力攻めでなく、外交的に蝦夷を従わせて行ったケースが多かったらしい。
- 「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」(孫子)とあるように、策謀や外交を積極的に活用して勝ちを収めたのならば、かえって名将だと考えられると思うが。
- 田村麻呂の武勇は、むしろ薬子の変の時に目立っている。
- 敵将の助命を朝廷に願うなどかなり良い人。
- もっとも、具体的な戦争の話はあんまり伝わっていない。力攻めでなく、外交的に蝦夷を従わせて行ったケースが多かったらしい。
- 清水寺を建立した。
- れっきとした「麻呂」なのだが、あまり麻呂キャラというイメージではない。
- 坂の上の田村マロ。
- 現在も、地中深くで立ったまま京都を守っている。
- 青森のねぶた祭りで最優秀賞は「田村麿賞」だったが、「田村麻呂は青森に来た記録がない。それと、侵略者の名前を使うな!」となって「ねぶた大賞」に変更された(実話)。
文室綿麻呂[編集 | ソースを編集]
- 薬子の変で平城天皇側に居たので討伐されたが、坂上田村麻呂が助命嘆願して助かった。
- 以後、田村麻呂に付き従い、その死後征夷大将軍を継ぐ。
藤原忠文[編集 | ソースを編集]
- 正確には「征東大将軍」だったが、普通四代目の征夷大将軍と呼ばれている。
- 「征東大将軍」としては実はなんにもしていない。
- 平将門の乱を平定すべく関東に派遣されたが、将門は到着前に藤原秀郷に討たれてしまっていた。
- その代わりと言ってはなんだが、のちに「征西大将軍」にも任命され、今度は藤原純友を首尾良く退治。
源義仲[編集 | ソースを編集]
- 木曽義仲、朝日将軍とも呼ばれる。頼朝のイトコ。
- そうじゃなきゃ源って苗字じゃないよ・・・
- 父・義賢がイトコの悪源太義平(頼朝・範頼・義経の兄でもある)に殺された頃に木曾の豪族の庇護下に入った。木曾義仲と呼ばれる由縁。
- 源氏はたくさんいるから別に近親とは限らない。別系統で有名なのだと、近江佐々木源氏とか。
- 朝日は落ちることないと縁起をかついだそうだが、いつのまにか朝日が夕日に変わってしまった。
- そうじゃなきゃ源って苗字じゃないよ・・・
- 平氏を京都から追い払う大殊勲を立てたが、兵糧不足で立ち往生。
- 配下の狼藉も抑えられず、早々に評判を落としてしまった。
- 北陸・倶利伽羅峠の戦いで角に松明つけた牛の大群を前線に押し出し、平氏の大軍撃退。その勢いを駆って京都に入った。
- 食糧が豊富にあれば評判を落とさなかったかもしれないが、その場合平氏に勝てたかどうかも微妙。
- 配下の狼藉も抑えられず、早々に評判を落としてしまった。
- 義経と戦い、敗死。
- 奥さんの巴御前は日本史上屈指のスーパーヒロイン。
- 義仲が「女と一緒だと恥ずかしいから」と必死に説得して逃がした。
- 生き延びて尼さんになったと言われている。
- 正確には奥さんではない
- 猫間に住んでいる中納言を「猫殿」とよんだりして顰蹙を買った。
鎌倉時代の征夷大将軍[編集 | ソースを編集]
南北朝時代(南朝)の征夷大将軍[編集 | ソースを編集]
護良親王[編集 | ソースを編集]
- 鎌倉幕府討伐の立役者。
- 父・後醍醐天皇が隠岐に配流されている間に、丹念に同志を集めて倒幕勢力を結集させた。足利尊氏も新田義貞も、彼の工作が無ければ立ち上がらなかったと思われる。
- 足利尊氏の危険性にいち早く気づいていたようだが、誰にも本気に受け止めて貰えなかった。
- 結局敵ばかりとなり、鎌倉に送られて、中先代の乱の時に斬られる。
- 「もりよし」なんだか「もりなが」なんだか…。
- 神奈川・東京民なら「大塔宮」と言った方が解りやすい。
- チョコボールやココアなど、カカオマスを使用した食べ物が大好物。
成良親王[編集 | ソースを編集]
- 護良親王の異母弟。
- 征夷大将軍になっても、特に何をしたというでもなく、すぐにやめてしまう。
宗良親王[編集 | ソースを編集]
- 護良親王・成良親王の異母弟。
- 南朝によって征夷大将軍に任命された人。
- 一時期は鎌倉を占拠したが、保持できず各地に転戦。
- 「新葉和歌集」を編纂した文化人でもあった。
尹良親王[編集 | ソースを編集]
- 宗良親王の息子。
- やはり南朝によって征夷大将軍に任命された。
- 遠江の井伊谷で生まれたという説が有力。
- 徳川家康の重臣井伊直政や、幕末の大老井伊直弼の先祖が住んでいたところ。
- 母も井伊家の娘だったという話。徳川(松平)家より井伊家のほうがずっと格上だったようだ。
- そりゃまあ井伊(いい)家というぐらいだから。
- 地侍に襲われて落命という悲運な人。