武将伝/日本
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征夷大将軍[編集 | ソースを編集]
平安時代の武将[編集 | ソースを編集]
阿弖流為[編集 | ソースを編集]
- 坂上田村麻呂を手こずらせた、蝦夷の族長。
- 田村麻呂も一目置く存在だったらしい。
- 平定後は親しくなったというが、どうやってコミュニケーションをとっていたのだろうか?当時は言葉の違いも大きかったと思うけど。
- 田村麻呂の勧めもあり京に上ったものも、貴族達にけだもの扱いされた揚句処刑されてしまった。
- 彼らは蝦夷が入ってくることで京が穢れると思ったとか。
- 蝦夷人抹殺という非道から立ち上がった東北の勇者。それがアテルイ。
- 悪路王=アテルイ説多し。
- 殺されたのちに「鬼」扱いにされた実在の人物。
- 現代日本にようやく復権。JR東日本の車両には「快速アテルイ」が走っている.
平将門[編集 | ソースを編集]
- 西国の植民地みたいなものだった関東地方に、はじめて独立運動を展開した人。
- 若い頃比叡山に登って天下制覇の野望を抱いたと言われているが、疑わしい。
- 頼ってくる者、救いを求めてきた者を、義侠心と正義感で助けているうちに、いつの間にか巨大勢力になってしまった感じ。野望を抱いたとしたら最終段階だろう。
- 言ってみれば、とびきり気っぷのいい任侠の親分というところではなかったか。
- 東京の守護神になっているという噂。
- 大手町あたりに首塚があり、開発のため撤去や移築をしようとすると必ず事故が起こるそうな。
- 首塚近くにオフィスのある某有名企業では首塚の方の壁にお札を張っているらしい。
- 身体は全身鉄でできているけど、こめかみの部分だけ生身だとか。そこを藤原秀郷に射られて討ち取られた。
- だが、サイボーグ化した際に用意しておいた非常プログラムで、首だけになった状態で関東まで逃げ去った。
- ブ×ッ×ン伯爵か!
- だが、サイボーグ化した際に用意しておいた非常プログラムで、首だけになった状態で関東まで逃げ去った。
- 先祖は皇族。
- 有名なカード。たいらのまさカード。
- 従兄の平貞盛に敗れて死ぬ。
藤原純友[編集 | ソースを編集]
- 海賊退治を命じられて瀬戸内海に行ったが、海賊稼業のうまみを知って自分が海賊の首領になってしまった。
- というより、瀬戸内海を制する者が天下を制するとか聞いて、その気になってしまったからでは?
- 平将門と示し合わせて乱を起こしたと言われているが、疑わしい。
- 将門が敗死するまでは大した動きを見せていないので。
- のちの住友財閥の祖先。
- んなワケねぇだろw 但し、真面目に答えておくと肥前大村氏に系譜がつながることを証明する史料はある。
小野好古[編集 | ソースを編集]
- 藤原純友の乱を平定した老将。
- 妹子ちゃんの子孫。
- 小野小町のいとこだかはとこだか。
- 元祖・好古なのに知名度は秋山好古にボロ負け。
- 「よしこ」ではない。
源護[編集 | ソースを編集]
- 「みなもとのまもる」と読むらしい。無理だw
- どう考えても「げんご」だろw
- 源順が、読めたら読めそうだがなぁ。
- 平将門に喧嘩売ってフルボッコにされる。
源満仲[編集 | ソースを編集]
- 三ツ矢サイダーの語源になった人。
- 居城を決める際、ダーツの旅のように地図に矢を放った。そうして決めた場所にあった湧水が三ツ矢サイダーの原型。
源頼義[編集 | ソースを編集]
- 前九年の役を平定する。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
- 頼義が執拗に朝廷に働きかけ、陸奥守とか鎮守府将軍とかの官位を貰っているので、彼の野望は大体見当がつく。
- 当初、安倍貞任と藤原経清の連合軍の前に手も足も出ず敗退を重ねる。
- 特に黄海(きのみ)の合戦では惨敗。
- 出羽の清原氏に三拝九拝し、側面攻撃をかけて貰ってようやく安倍氏を亡ぼす。
- 正直言って、勝つには勝ったが、かなりみっともない勝ち方。
- そのため子孫たちは、頼義ではなく子の義家を称揚した。
- 実は、関東地方のフロンティアがだいぶ少なくなってきたので、東北地方に目をつけた頼義が、難癖をつけて有力者の安倍氏を圧迫したのが前九年の役の発端。
安倍貞任[編集 | ソースを編集]
- 身長190cmを越す巨漢。おまけに胸囲は230cmもあったらしい。どう見てもハート様です。本当にありがとうございました。
- 源頼義、源義家と死闘を繰り広げ、最期は義家に秘孔を突かれて「ひでぶ!」という断末魔の叫びと共に爆散して果てた。
- どっちかというと清原武則に秘孔を突かれた(不意打ち食らった)んではないかと。源氏の父子には連戦連勝してました。
- 断末魔は「あべし!」ではなかったかな。安倍氏だけに。
藤原経清[編集 | ソースを編集]
- 奥州藤原氏の祖。
- ただの地方豪族と思われていたが、そこそこの官位を持つれっきとした官人であったと近年判明。
- 父である頼遠の実父の有行は坂上田村麻呂の子の広野の系譜で、母は藤原秀郷の孫の藤原千清の孫であり、頼遠は千清の子となり藤原姓を称したという。
- 安倍貞任の妹を嫁にしていた。
- 経清が貞任と共に敗死すると、その嫁は子供ごと清原軍に捕まり、清原武貞の嫁にされる。のち、武貞の先妻の子(真衡)、嫁の連れ子(清衡)、武貞と嫁の子(家衡)の間がややこしいことになり、後三年の役へともつれこむ。
- 後三年の役が終わってみると清衡のひとり勝ちになっていた。つまり経清の息子が奥州を制した。
- 経清が貞任と共に敗死すると、その嫁は子供ごと清原軍に捕まり、清原武貞の嫁にされる。のち、武貞の先妻の子(真衡)、嫁の連れ子(清衡)、武貞と嫁の子(家衡)の間がややこしいことになり、後三年の役へともつれこむ。
- 源頼義の不条理な安倍氏圧迫に義憤を覚えて安倍側に加担。
- 頼時・貞任の軍師としてしばしば源氏軍を打ち破った。
- 頼義にとっては怒り心頭だったようで、処刑する時、わざとナマクラ刀で首を切らせるという嫌がらせをした。
- この辺のネクラさが、頼義の人気の無さの原因と思われる。対照的にその子・義家のさわやかぶりが目立って、源氏の象徴といえば義家になった。
源義家[編集 | ソースを編集]
- 頼義の息子。八幡太郎。武家源氏の象徴みたいな人。
- 後三年の役を平定すべく出陣したが、清原(藤原)清衡には翻弄され、朝廷からは私戦として恩賞を貰えず、あんまりいいところ無し。
- 仕方なく自分の所領の中から配下に恩賞を分け与えたところ、「これは頼もしい大将だ」と思いがけず人気沸騰。源氏興隆の礎を築く。
- 雁の飛び方の乱れから伏兵を見抜いたとして、その眼力を賞賛される。
- 大江匡房から教わった兵法。でもこれって、野戦の将として、人に教わらなければわからないようなことか?
- 子孫から頼朝や足利、新田が出たことで持ち上げられてる感はある。
- 頼義と同じことを企んだが、結果的に失敗する。(清衡にいいとこどりをされてしまう)
- 徳川家康の家はこの人由来。
源義光[編集 | ソースを編集]
- 義家の弟。甲斐源氏(武田氏)の祖。
- 信濃源氏(小笠原氏)や常陸の佐竹氏などの祖でもある。
- 通称、新羅三郎。
- この名前のため、「源氏は新羅出身の韓国人ニダ。その証拠に新羅三郎というのが居るニダ。ホルホルホル」と勘違いする連中が湧いて、うざいことこの上ない。
- 大津の新羅明神で元服式を挙げただけのことなんだが……
- 「新羅明神で元服式を挙げたのは新羅出身だったからに違いないニダ。ホルホルホル」と勘違いする懲りない連中も居そうだ。
- ちなみに、この男の最大の事績は長兄(義家)の嫡男(義忠)を暗殺してその罪を次兄(義綱)になすりつけ長兄の孫(為義)に誅殺させる、というド汚い内ゲバ。
- 新羅三郎だなんて通称のせいでこんな性格になった……わけではあるまいが、清和源氏の暗黒面を体現してしまっている人物。
平清盛[編集 | ソースを編集]
- 保元の乱、平治の乱と順調に勝ち組に乗り、ついには藤原氏を押しのけて天皇の外戚の座を仕留めた幸運児。
- 武家では初めて太政大臣に任ぜられた。
- ちなみに「平氏にあらざれば人にして人にあらず」とゴーマンかましたのは清盛ではなく、嫁・時子の弟だった平時忠。武家ではなく、公家平氏の人。
- 本当は白河法皇の子だという噂。
- 少年時代からおそろしく官位の昇進が早かったのがその傍証とされる。
- 防衛規制における合理化の一種。貴族たちの嫉妬や武力への畏怖が、こんな噂を生んだ気もする。
- 福原(現在の神戸あたり)に遷都しようとした。
- 清盛の死後の平氏の瓦解は早かった。
- わずか数年で滅亡。平氏の繁栄が清盛の個人的な才覚と立ち位置によるものだったことが窺える。
- それよりも平氏の政治が当時の武士だちの要求に応えたものではなかった事が大きい。
- そして、平氏を倒した源氏も頼朝の死後わずか3代で滅亡。武家の当主のカリスマに頼りきっていたという点では、平氏も源氏も実は似たような物だったのかもしれない。
- 「自分が死んでも塔を建てたり法事をしたりしなくていいから、頼朝の首を墓に供えろ。」と遺言した。やはり自分の死後の平家のことを案じていたのだろう。
- わずか数年で滅亡。平氏の繁栄が清盛の個人的な才覚と立ち位置によるものだったことが窺える。
- 最期は熱病に倒れ、人間瞬間湯沸器と化す。
- 傲慢チキなイメージがあるが、むしろ慈悲深い人間だったという話がある。
- 面白いと思わなくても冗談を言われたら笑い、よっぽどのヘマをした人間であってもボロクソ言って声を荒げることは一度もなかったらしい。(十訓抄)
平家盛[編集 | ソースを編集]
- 忠盛の二子で清盛の弟。
- 祇園乱闘事件以後清盛の代わりに彼が重んじられるようになるが、早死してしまった。
- 頼朝は彼に似ていたため、池禅尼が助命を申し出たと平治物語に記されている。
- 大河ドラマ「平清盛」では藤原頼長に掘られてしまった。
平忠度[編集 | ソースを編集]
- 読みは「ただのり」、官位は薩摩守。そんなわけで、無賃乗車のことを「薩摩守」と言うことがある。
- 歌人としても有名だったらしいが、平家滅亡後存在自体が黒歴史に。
- 千載和歌集に入れられた忠度の歌は「詠み人知らず」とされた。
- ここから転じて、水商売の俗語でツケで飲もうとする奴を「薩摩守」と言うそうな(詠み人知らず→飲み人知らず)。
平時忠[編集 | ソースを編集]
- 「平家にあらずんば人にあらず」と言った人。
- 清盛までが「言葉を慎め!」ってキレた。
- 人と言っても現代的な意味の人間一般とは違うという見方もある。貴族基準で言う人とは出世コースに乗れるキャリアのことで、平家以外はそれに乗れないノンキャリアという説。どっちにしろ酷いが。
- 壇ノ浦の戦いで捕虜になった後、都落ちした後手放さずに持っていた神鏡を返すから刑を軽くしてくれと義軽に命乞いをし、映画に出てくる小悪党みたいなことをやらかした。
- この人、武将じゃないぞ。清盛の奥さん時子さんの弟なので、平氏とは言ってもお公家さんだ。
源義朝[編集 | ソースを編集]
- 為義の息子。頼朝の父親。
- 保元の乱では勝ち組。平治の乱では負け組。
- 同じ立場だった藤原信西に密着しすぎていたか?
- むしろ父親の為義の処刑を強行した信西にムカついていた。
- 同じ立場だった藤原信西に密着しすぎていたか?
- かなりの艶福家。
- 都でいちばんの美女と評判の「常磐」を手に入れた。義経などの母になる。
- 最後は平氏方に寝返った配下に風呂で殺される。
- 場所は知多半島の先っぽ。
- 後世、同じ場所で切腹に追い込まれた織田信孝が、秀吉への恨みを込めて
「昔より主を内海(討つ身)の野間なれば報ひを待てや羽柴筑前」
という辞世を詠んだのはこの故事による。義朝を討った長田忠致はのちに頼朝に斬られた。- ちなみに、「内海」も「野間」も知多半島尖端の地名。
- 長田忠致は頼朝に、「そなたは父を殺した憎きヤツなれど、よく勤めれば美濃・尾張を与えよう」と言われ、懸命に働いて手柄を立て、得意満面で頼朝のもとに帰った。すると頼朝は「約束通り『身の終わり』を与えよう」と言って長田を斬ってしまった。ダジャレで斬られた長田の立場って。
- 長田忠致の最後の言葉は「誰がうまいことを言えとwww」であったとかなかったとか。
- 後世、同じ場所で切腹に追い込まれた織田信孝が、秀吉への恨みを込めて
- 場所は知多半島の先っぽ。
- 最後の言葉が「せめて木刀の一本もあれば…」という感じのセリフだったせいで墓が半分木刀の山に埋まっている。
- 「平治物語絵巻」に描かれている義朝はアナゴさんにそっくり。
源為朝[編集 | ソースを編集]
- 為義の息子、義朝の弟。
- 鎮西八郎とも呼ばれる。
- 剛力な上に、おそるべき弓の名手で、子供の頃から大変な暴れん坊。
- おまけに弓の引き過ぎのせいか、左右の腕の長さが12cmも違っていた。
- あんまり暴れん坊なので九州に追い出されたが、九州でも暴れ回ってそこらの豪族や武将をみんな配下にしてしまったらしい。それで「鎮西」のあだ名を奉られた。
- 剛力な上に、おそるべき弓の名手で、子供の頃から大変な暴れん坊。
- 保元の乱では父に従って崇徳上皇側に就く。
- 夜襲を進言するが、あっけなく却下される。
- 「正義の軍がそのような卑怯なことができるか」という理由。
- 一方後白河天皇側は容赦なく夜襲をかけてきて、上皇軍ボロ負け。
- しかし為朝の強弓は後白河側の多くの将兵を斃し、怖れられた。
- 夜襲を進言するが、あっけなく却下される。
- 保元の乱ののち捕縛され、もう弓が引けないように右腕の腱を断ち切られて、伊豆大島に流される。
- しかし一向にしょげもせず、大島を乗っ取ってしまう。
- 大島ばかりでなく、艦隊を組織して伊豆七島を完全征服。
- 大軍による討伐を受け、ついに自害して果てる。が……
- 大島に押し寄せた敵に向かって矢を放つと、船の底板をぶち抜いて沈めたという。ほとんど対艦ミサイル。
- 実は伊豆で敗れてからが為朝伝説の真骨頂。
- 自害はせず、弧舟で南西諸島へ逃れ、沖縄を征服し、尚氏王朝の祖となったとも言われる。
- なんと尚氏王朝の正史にちゃんと記されているので、伝説ではあるが必ずしもトンデモ説ではない。
- 滝沢馬琴の『椿説弓張月』はその辺を小説化してある。
- しかし沖縄程度の島におさまる器量ではなく、さらに大艦隊を仕立ててフィリピンやインドネシア方面への征旅に発ったという壮大な伝説もある。
- 自害はせず、弧舟で南西諸島へ逃れ、沖縄を征服し、尚氏王朝の祖となったとも言われる。
- アワビの殻にこの人の名前を書けば疫病を防げるという民間信仰があったらしい。
山本義経[編集 | ソースを編集]
- 源義経とであったことがある。ちなみに彼も源氏なので、彼が源義経と名乗っていたりすることもある。
- そのため「源義経と山本義経は同一人物だった」という説も…
源義経[編集 | ソースを編集]
- 義朝の九男。頼朝の弟。
- 幼名「牛若丸」が有名。
- 「九郎義経」の名前は自分でつけたらしい。
- 検非違使少尉に任ぜられたので、唐名の「判官」をつけて「九郎判官」とも呼ばれる。
- 敗将義朝の息子として鞍馬寺にやられるが、脱走して奥州藤原氏を頼る。
- のちの騎馬隊の発想は、奥州滞在中に得た可能性が強い。
- 頼朝の部将となって大活躍。
- 宇治川の合戦で木曽義仲を撃破。
- 一ノ谷、屋島、壇ノ浦で平氏軍と戦い、いずれも快勝。平氏を滅亡させる。
- 速度を活かした奇襲戦法が得意。一ノ谷では機動騎馬隊、屋島では荒天を衝いた渡海作戦による回り込み攻撃で勝利した。
- いずれも当時としては斬新な戦術だが、その頃の武士の美意識からすると「卑怯」な印象が強く、庶民や下級武士には人気があったが、上級武士たちからは嫌われた。
- 作戦立案能力には優れたものがあったのかもしれないが、ここでも周囲との調整が全くできていない。「あいつ作戦考えた自分が偉いと思ってるけど戦力出したのは誰だと思ってるんだ」「功を焦りすぎ」と鎌倉への報告では散々な書かれようである。
- 速度を活かした奇襲戦法が得意。一ノ谷では機動騎馬隊、屋島では荒天を衝いた渡海作戦による回り込み攻撃で勝利した。
- 壇ノ浦の戦勝のあと、頼朝と再会することなく、討伐されるはめに。
- 義経が「平氏征伐」だけを目標としていたのに対し、頼朝は「東国政権の確立」を狙っていたという、目的意識の差が反目の原因となった。頼朝の狙いからすれば、義経の行動がいちいち目障りだった。
- 勝手に後白河法皇から官位を貰ったり、勝手に平氏の重要人物の助命を確約したり。
- 義経もうかつだったが、頼朝もちゃんと言っとけよという気はする。
- 義経が「平氏征伐」だけを目標としていたのに対し、頼朝は「東国政権の確立」を狙っていたという、目的意識の差が反目の原因となった。頼朝の狙いからすれば、義経の行動がいちいち目障りだった。
- 若き日を過ごした奥州に逃げ込むが、頼朝の恫喝に屈した藤原泰衡に討たれる。
- 海を渡ってチンギス汗になった……という壮大な説もある。
- 機動騎馬隊の活用以外、あんまり共通点は無さそうだが。
- 超重要人物なのに前半生がぜんぜん分からない。誰かに武術と軍事を学んでいたことだけは間違いないと思うだが…
- 実はイケメンではなかったらしい。
- 「出っ歯のネズミ顔」とも言われている。
- ただしこれは平家物語の中で戦闘中相手を煽るシーンに出てくる話なので「お前のかーちゃんでべそ」と大差ない。
- 「出っ歯のネズミ顔」とも言われている。
那須与一[編集 | ソースを編集]
- 源平合戦のうち、屋島の戦いで海上から扇を射抜いた伝承で有名な人。
- 通称「与一」。本名・宗高(むねたか)。
- 本当は十一男だったので「余一」、つまり「余り者」だったらしい。義経に従ったのは、実家に居ても余り者扱いで、うだつが上がりそうになかったからだとか。
- だが他の兄弟はみんな平家についたり、やらかしたりしたため、那須家の家督は与一が継いだ。
- 本当は十一男だったので「余一」、つまり「余り者」だったらしい。義経に従ったのは、実家に居ても余り者扱いで、うだつが上がりそうになかったからだとか。
巴御前[編集 | ソースを編集]
→巴
武蔵坊弁慶[編集 | ソースを編集]
- 日本史上最も有名な僧兵。
- とりあえず実在した人物ではあるらしい。
- 母親の胎内にいた期間は軽く年単位。
- そこまで留め置けた母親もすごいと思う。
- アドリブ力がかなりあったと思われる。
- 安宅の関突破時の行動はまさに「ナイスアドリブ」。
- 牛若丸と決闘した場所は実は五条大橋ではなかったらしい。
- 有名な「立ち往生」については医学的に説明できるという見解もある。
- 全国各地にこの人が投げたり運んだりしたとされる岩がある。
- 弁慶がな、ぎなたをもってさ、・・・
- 没後700年くらいして蝦夷地に落ちのびて機関車になった。
鎌倉時代の武将[編集 | ソースを編集]
源範頼[編集 | ソースを編集]
- 義朝の六男。頼朝の弟で義経の兄。
- 義経と一緒に木曽義仲や平氏と戦うが、義経と較べられて損をしている人。
- 義経は遊撃隊を率いて奇襲することが多く、主力部隊は常に範頼が率いていたのだから、総大将としての力量は認めてあげるべき。
- 一ノ谷の奇襲も、範頼が東側から平氏の軍勢とがっぷり四つに組み、戦線を膠着させていたからこそ効果があったのだし。
- 義経は遊撃隊を率いて奇襲することが多く、主力部隊は常に範頼が率いていたのだから、総大将としての力量は認めてあげるべき。
- 義経没落の理由をよく知っていたらしい。決して出過ぎることなく、すべて頼朝の指示をあおいで警戒されることを避けた。
- 些細な難癖をつけられて殺される。
平景清[編集 | ソースを編集]
- 歴史としてよりもむしろ歌舞伎や能の主人公として有名。
- 近松門左衛門も「出世景清」とかで書いてる。
- ナムコ「源平討魔伝」のプレーヤー「景清」のモチーフでもある。
- 体がでかく、力持ちだったので、通称は悪七兵衛。
- ただ、この異名は景清が叔父を疑心暗鬼でぶっ殺したためついたとかいう嫌な説もある。
- 名前は平だが、元は平氏ではなかったっぽい。
- 藤原忠清の子で伊勢藤原氏。先祖は藤原秀郷(俵藤太)で、実は名門の出。
梶原景時[編集 | ソースを編集]
- 義経ファンからは蛇蝎のごとく嫌われている。
- 義経に軍監としてつけられた。義経が没落したのはコイツが頼朝にあること無いこと讒言したからだと思われている。
- 癖のある男ではあったようだが、やや気の毒。
- なお彼の主張自体は正論。「義経のやつ突っ込むことしか考えてねえ」というのは現場の大体の総意と思われ、景時一人が悪く言っていたわけではない。
- 義経に軍監としてつけられた。義経が没落したのはコイツが頼朝にあること無いこと讒言したからだと思われている。
- 義経を陥れたというのは濡れ衣だったかもしれないが、頼朝べったりでゴマをすりまくっていたのは事実だったようで、頼朝が死ぬと他の御家人たちから総スカンを食い、謀反の疑いをかけられて族滅された。
- 一代の権力者にやたらとすり寄るのは考えもの、という教訓を遺した。
- 北条氏にとってウザい存在だったから陥れられたというのが真相なんじゃないだろうか。
- 頼朝の政・戦略を最も理解していたのは実は景時だったと思われ。将軍と関東武士の利害が乖離し始めると、北条氏らにとって頼朝路線の後継者たる景時は一番目障りな存在だったのだろう。
- 同時代の人間からゲジゲジ呼ばわりされていた。
- 頼朝の飼い犬の中では最も忠実だったが、飼い主が死んで後ろ盾がなくなると他の犬に共食いされてしまった。
三浦義村[編集 | ソースを編集]
- 源実朝暗殺事件の黒幕という噂がある。
- 二代将軍頼家の遺児・公暁の傅人だった。
- 公暁をうまく焚きつけ、実朝と北條義時が揃って鶴岡八幡宮に参拝する時を狙って殺させる計画を立てたようだ。
- もちろんその目的は、公暁を四代将軍とし、北條氏に代わって幕府執権の座におさまるため。
- 実朝は首尾良く斃したが、義時はドタキャンしてその場に現れず健在。計画が破綻したので、帰ってきた公暁を殺して口をぬぐった……というのだが。
畠山重忠[編集 | ソースを編集]
- 馬を背負って急峻な崖を降りるという前代未聞の行為をやってのけた凄い人。
- 基本的に善玉として描かれることが多い。義経以上に「判官贔屓」されてる。
- 好漢で人望も厚かったようだが、一方で血の気が多く喧嘩っ早い。陥れられたとはいえ、最期粛清されたのもむべなるかな。
- 豪傑のイメージが強いが管弦や舞踊にも造詣が深いという優等生。
竹崎季長[編集 | ソースを編集]
- 元寇の時に活躍した肥後の御家人。
- 何代か前に所領争いで敗れてジリ貧になっていたので、一発逆転の恩賞をアテにして奮闘したらしい。
- 恩賞に洩れたので、鎌倉まで長旅をして幕府に直訴。
- 旅費を作るため、家財産の一切を処分したらしい。訴えが認められなかったらそのままホームレスになるところだった。
- 馬も売り払ったので、当然全部徒歩。
- 中世の裁判は、原告が動かないと全く進まないからしょうがない。
- 幸い安達泰盛に訴えが認められ、地頭に取り立てられる。
- 旅費を作るため、家財産の一切を処分したらしい。訴えが認められなかったらそのままホームレスになるところだった。
- 自分の活躍を劇画にする。
- 「蒙古襲来絵詞」という。この劇画のおかげで、元寇の実態がかなりわかる。
- ただし加筆や修正が多すぎる。科学調査をしても、どこまでが元のままか分からないレベル。
- 状況からすれば、モンゴル兵が悪鬼のように書かれていても不思議でないのに、のどかさを感じるシーンがあるほど自然に書かれている。単に絵師が描けなかっただけかもしれないが。
- 「蒙古襲来絵詞」という。この劇画のおかげで、元寇の実態がかなりわかる。
佐々木道誉[編集 | ソースを編集]
- 鎌倉末〜南北朝を代表する怪物。しかし裏方専業で年表に載らないタイプなので、相手が南北朝好きかどうかを見分けるためのリトマス試験紙になる。
- 佐々木高氏とか、京極高氏とも言うが、たぶんそっちの名前では誰も知らない。
- 東海道線の柏原駅の付近に墓がある。
楠木正成[編集 | ソースを編集]
- 領地を持った武士ではなかったので「悪党」扱いされる。河内地方の運送業のおっちゃん。
- 「悪党」と言っても当時の意味は「反骨精神溢れる無頼漢」くらいの扱い。
- 戦後はこの悪党という言葉のイメージと、戦前からの反発の影響か豊臣秀吉同様下げられる傾向にある。ある意味戦時史観・東京一極集中、そして関西の北摂一極集中の犠牲になったかのようにも見える。
- どころか、現在の評価はアホみたいに高い。ぶっちゃけ忠臣推しだった戦前よりさらに高いだろう。どこを切り取っても極めて合理的な判断力に分析能力、先進性などありとあらゆる要素を備えたスーパー武士ということで全く隙なしである。
- 「七生滅敵」の言葉と南朝方の忠臣だったことから戦時中のヒーロー。
- 皇居外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
- 銅像自体は高村光雲作の戦前日本を代表する名品。写真に撮りたくもなるだろ。
- 明治になってから正一位を追贈された。
- 後世の「太平記読み」で、途中で客がダレて減ってくると、「次回、大楠公登場!」と宣伝して客を取り戻していた。アニメやマンガのテコ入れと一緒。
- 皇居外苑に銅像がある。外国の方も写真撮ってたりするが、↑のことは、、、忘れておいてください。
- 籠城戦では熱湯かけたりウンコかけたり。
- 自称100万の敵に勝利
- ガセネタばらまいて空き城を大軍で攻めさせる手も使い、「騙される方が悪いんや!ざまみい!」と高笑い。
- 桂南光の先祖らしい。
- 講談の影響で天才戦術家のイメージが強いが、実際は戦略的読みに優れた張良タイプ。千早城に大軍を呼び寄せて鎌倉を自壊させたり、足利に勝利したタイミングで講和を進言したりと、同時代では傑出した高い視点の持ち主。ただいかんせん後醍醐天皇の方針が・・・
新田政義[編集 | ソースを編集]
- 新田の没落を決定的なものにしたネタ武将。
- 無許可任官に無許可の出家、あげく職場放棄で御家人役を剥奪された。↓の義貞が無位無官で苦労したのは大体こいつのせい。
- 新田義貞の高祖父(ひいひいじいさん)。
新田義貞[編集 | ソースを編集]
- 後醍醐天皇麾下の総大将だったのに、戦前は楠木正成の人気に隠れ、戦後は足利尊氏復権のあおりを食って二流武将扱いされ続けている不遇な人。
- よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
- 戦い以外は、積極的に行動しているとは言い難い。特に政治的な工作をほとんどやっていないのが致命的。そりゃ足利に負けるだろ。
- 良くも悪くも東国の田舎武士なので大局的なビジョンがない。頑張ってはいるけど頑張りどころが間違っているという意味で項羽みたいなもん。
- よく調べれば、すごく頑張ってるんだけどねえ……
- 足利氏とはもともと同族だが仲が悪かった。
- 鎌倉を落とし、幕府を覆した殊勲者。
- 六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
- まあ問題は義貞の軍に人が集まったのもだいたい千寿王(義詮)が合流したおかげだってことだが・・・。なので「いやいや義貞ってただの足利の下請けでしょ」というのがもっぱらの扱い。
- 刀を海に投げ入れると潮が引き海側から攻めたという逸話がある。これは伝説にすぎないといわれていたが、最近事実だということが判明。
- ただし、勝利後は戦後処理や戦勝宣伝、寺社対策を全くしておらず時間を空費している。功績を横取りされてもしょうがない。
- 六波羅探題を落とした足利尊氏より功績はどう考えても上。
- 京都に呼び出されてからは、あまり勝ち戦が無い。
- 常に公家が同格もしくは上位者として同行し、作戦に口を出すばかりか勝手な動きばかりしていたので、そのフォローのために戦機を失い続けた観がある。
- 足利軍が京都に攻め寄せた時は、朝廷を丸ごと避難させたのち、鮮やかに勝利し、尊氏を九州まで追い落とす。やっぱり口出しするヤツさえ居なければ、充分にできる子。
- だがこの時組んでいたのはあの楠木(ry
- 後醍醐天皇から勾当内侍という美女を賜ったそうな。
- この美女にうつつを抜かして戦機を失った愚将だと思われがちだが、詳細に日付を見てゆくと、女のために軍事行動をおろそかにしたと考えられる時期は全然存在しない。「太平記」の記述で悪いイメージが作られてしまった例。
- でも出陣が遅れた上に城攻めに手こずってまんまと時間を無駄にしたのは本当。恐らくその辺の無能じゃね?感を表現するために「女にうつつを抜かしてた」ということにされたのだろう。結局良いイメージにならないあたりが・・・orz
- この美女にうつつを抜かして戦機を失った愚将だと思われがちだが、詳細に日付を見てゆくと、女のために軍事行動をおろそかにしたと考えられる時期は全然存在しない。「太平記」の記述で悪いイメージが作られてしまった例。
- 最後の死に方はちょっと間抜けっぽい。これもまた愚将のイメージのもとになっている。
- 自称、新田流の黄門様により、討死にしたと伝わる地域から立派な兜が発見され、その地を新田義貞討死の地とし地名は新田塚と名付けられた。
- 明治になって正一位を授与されたため、 実は今は足利尊氏より偉い。
高師直[編集 | ソースを編集]
- 足利尊氏の肖像画である(と推測されていた)太刀を担いだ騎馬武者の絵は実はこの人だったという説が出た。でも、実はこの人でもないみたい。
- たけし軍団に所属するグレート義太夫であることが近年判明。
- 「太平記」には神仏恐れず、天皇家の権威をも恐れず。「院や王(天皇)は皆どこぞへ流刑にしてしまえ!その代わりに金か木で作ったのを置いとけば良かろう!」と豪語したと書かれている。
- しかし非常に逆説的ながら、金か木で作ってでも天皇は必要だったとも取れる。
- 南朝に対抗するためと取るのが手堅い解釈だろうが、ここらへんに天皇制の本質が隠れている気もする。
- 天皇機関説の元祖……なわきゃない。
- 南朝に対抗するためと取るのが手堅い解釈だろうが、ここらへんに天皇制の本質が隠れている気もする。
- しかし非常に逆説的ながら、金か木で作ってでも天皇は必要だったとも取れる。
- 後世で全く関係ない悪役を仮託され、見ず知らずの四十七人の侍に殺される。
- 「俺の時代には火事頭巾なんてないぞ」
- 徒然草で有名な兼好法師にラブレターの代筆を頼んでいたらしい。
土岐頼遠[編集 | ソースを編集]
- 今よりずっと皇族が神聖視されていた時代に皇族の人を「犬」呼ばわりした気概のある人。
- 悪く言えば、ただのDQN。
- 笠懸の帰りに光厳上皇の牛車に会う→ベロベロに酔っていた勢いに任せて「院と言ったか、犬と言ったか。犬ならば射てくれよう。」と言って、あろう事か上皇の牛車に対して矢を放つ(蹴飛ばしたという説もアリ)→これを聞いた足利直義、激怒→途中色々あったけど結局捕えられ、斬首。
- こりゃヤバイとなって美濃に逃げ帰ったりしてるので結構ヘタレな感じもする。ただの戦バカではなく文化面の能力も持つ文武両道型なので、酔っていなければさすがに下手は打たなかっただろう。
- どうも自分の武功を鼻にかけていたフシがあったらしい。
室町時代の武将[編集 | ソースを編集]
足利直冬[編集 | ソースを編集]
- 足利義詮の庶兄で、足利直義の養子になった。
- 尊氏の長男だが、母親の身分が低かったので家督が継げず、息子の居なかった叔父・直義に引きとられた。
- 正室の手前か、家督どころが認知すらされなかった。
- 尊氏の長男だが、母親の身分が低かったので家督が継げず、息子の居なかった叔父・直義に引きとられた。
- 実父と養父が仲違いしたり仲直りしたりするたびに、討伐令を受けたり官職を与えられたりと扱いがコロコロ変わり、振り回され続けた気の毒な人。
- ついにぶち切れて九州で自立。弟の義詮の天下支配を決して認めようとしなかった。
- れっきとした将軍家の一族でありながら、死んだ時もはっきりしない。
- 1387年説と1400年説がある。13年も差があるって……
- 母親については遊女説がある。弟の義詮から「Son of ○itch」と罵声を吐かれたことで、足利家と袂を分かつことを決意したらしい。
- 大河ドラマファンにとっては真田広之と宮沢りえの隠し子、というイメージしかない。
- 尊氏死後は気持ちが切れてしまったのか、めっきり動きが小さくなる。反抗の始まりが父親に認められなかったことから来ていると考えると、やっぱりファザコンだったのだろうか。
今川了俊[編集 | ソースを編集]
- 室町時代初期を飾る智将。
- 懐良親王や足利直冬の分立でわけがわからない状態になっていた九州を、丹念に平定。南朝勢力を駆逐する。
- 南朝がついに息切れして北朝の軍門に下るのは、了俊が九州を平定してしまったためと言っても良い。その意味では南北朝時代を終息させた殊勲者と言える。
- 足利義満に疑われて野に下る。
- 応永の乱を起こした大内義弘に加担したと疑われた。
- でも本当は、功績が大きすぎて扱いに困ったからではないかと思われる。
- 文人としても一流。
- 「難太平記」を書いた。「太平記」への反論本。
- 九州へ行く時の紀行エッセイや和歌集にも見るべきものがある。
足利持氏[編集 | ソースを編集]
- ダメ上司の典型のような人物。
- 気性の激しさは宿敵義教と同じだが、政略・軍略に関しては足元にも及ばないヘタレだった。
- 鶴岡八幡宮に奉納した血染めの感状の話とか…そこまであからさまにしなくても。
上杉憲実[編集 | ソースを編集]
- 中間管理職の悲哀をそのまま表したような人物。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
- 「お前は俺より社長の言う事を聞くんだな!」「そういうつもりはございません!」
- その他、義絶した息子が元上司の息子に殺されたり、後半生はこれでもかというほどに不幸続き。流浪の末最後は山口で一生を終えたそうな。
- 長門の大寧寺で、出家しいたらしい。
- 凄腕だがワンマン経営の独裁社長と、そいつと犬猿の仲で、出世欲だけ一流の支店長の狭間で悩まされ続けた。
山名宗全[編集 | ソースを編集]
- 山陰地方を中心に多くの所領を持ち、一時は日本全国の6分の1が彼の所領だったとさえ言われ、「六分一様」と呼ばれた武将。
- 応仁の乱の一方の総帥。
- もう一方の総帥の細川勝元は宗全の娘婿だった。
- 最初は日野富子に頼まれて、足利義尚の擁立のため総帥になったが、そのうちgdgdになってわけのわからないことに。
- 「赤入道」というあだ名もあった。
- 高血圧だったっぽい。応仁の乱の最中に頓死。
- 先例よりも「今この時」が大事だと喝破した逸話で知られる。
- 安土桃山時代の流行語の「当世」もほぼ同じ意味。宗全は正に未来を予言したと言える。
- しかし、彼の子孫はその時勢に飲み込まれて滅んでいったのは皮肉と言えなくもない。
- 本名は山名持豊。宗全は出家後の名前。
足利成氏[編集 | ソースを編集]
- 持氏の息子。親父と同じくらいお騒がせな男。
- 上杉憲実の息子の憲忠とそりが合わず誅殺するも、他の上杉一族から攻められて鎌倉から追い出され、下総古河に逼塞。
- ところがその後、上杉家が4つに分裂して派閥抗争を始めたので、息を吹き返す。
- 分裂した上杉のどれかに肩入れしながら要領よく立ち回って命脈を保った。
- 上杉のほうも、関東公方がついていると大義名分を得て、他の派閥に対し優位に立てるような気がして、なんとか成氏を味方にしようとゴマをすりまくり。
- お騒がせではあったが、父親と違い戦はそこそこ強かった。
太田道灌[編集 | ソースを編集]
- 江戸城を築いた人。徳川家康と答えた者は不正解。
- 江戸城だけでなく、川越城、岩槻城など、平地型の城をたくさん築いた。
- 築いたのは大工さんじゃない?
- ただし、徳川期に大幅改修されているので、江戸初期の時点でほぼ原型はないはず。
- 江戸城だけでなく、川越城、岩槻城など、平地型の城をたくさん築いた。
- 足軽戦法の創始者。
- それまで非正規戦闘者の扱いだった「足軽」に禄を与えて集団訓練を施し、歩兵軍団として活用。
- のち北条早雲に受け継がれて関東を席巻する。
- 上記の足軽訓練を怠けた者から罰金徴収。しかし、自分の懐に入れず訓練に耐えた者に「茶代にせい」と与えた。名目は茶代だが、実際は飲み代。
- 扇谷上杉定正の家老。
- 城作りも足軽戦法も、定正のためにやっていたのだが、力量がありすぎて警戒される。
- 対立する山内上杉顕定の反間の策が入り、定正によって殺される。
- 風呂場で殺される時、道灌が叫んだ言葉は「当方滅亡!」のひとことだったとか。
- 「俺を殺したらもう山内には勝てずに滅亡するしかないのに、バカな殿よ」というほどの意味だったろうか。
- 風呂場で殺される時、道灌が叫んだ言葉は「当方滅亡!」のひとことだったとか。
- 和歌が好き。でも和歌山は好きかな?
- 和歌好きになるきっかけのエピソードが、後世の落語ネタになった。
- 「おめぇは歌道に暗ぇなぁ!」
- 和歌好きになるきっかけのエピソードが、後世の落語ネタになった。
- 本名は太田資清。
伊達政宗[編集 | ソースを編集]
- 独眼竜ではありません。
- 幼少の頃に天然痘に感染したことなんてありません。
- 芦名家や相馬家を滅ぼしてはいません。
- 親と兄弟は殺していません。恐らく。
- こっちの政宗って、何か世に知られたエピソードはあるのか?
- 「伊達政宗の乱」なるものがあるらしいが……
- 置賜の長井氏を攻め取って支配下にしたり、↑の伊達政宗の乱は鎌倉公方が「お前の土地よこせ」と言ってきて、拒んだ結果戦いになったもので、それに勝利して領土を守ったもんで、伊達家中興の祖と言われている。
- 一揆の扇動や文化財の破壊なども行っておりません。たぶん。
- 「やっていません」ネタ、そろそろやめません?
- 没地は江戸桜田ではありません。こっちです。
- 初代仙台藩主と区別するため大膳太夫政宗と呼ばれるとか…。
- 「奥州伊達家中興の主」で、なかったか?
- だからこそ、仙台藩主政宗は、これにあやかって、その名前にしたわけで。今川範国
今川範国[編集 | ソースを編集]
- 誰も知らないけど、今川氏の初代。了俊の父親。
- 末っ子で、本当は家を継げるような立場じゃなかった。
- 4人兄貴がいて、3人が中先代の乱のとき相模川で戦死、1人は出家、ということで棚からぼたもち2か国貰った。
- 8代将軍吉宗よりすごい運の良さ。
- 長兄の頼国は戦死したとき、体に矢が20本も刺さった状態で見つかった。
- 4人兄貴がいて、3人が中先代の乱のとき相模川で戦死、1人は出家、ということで棚からぼたもち2か国貰った。
- むすこで跡継ぎの範氏は、父親より先に亡くなってしまった。
- その後を継いだ範氏の子の氏家も、相続してすぐに亡くなった。
- 死にまとわりつかれてるよ、このひと。