戦国武将/な行

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直江兼続[編集 | ソースを編集]

  1. 当主・上杉景勝を終生支え続けた名家老。
    • 歴史通の間では元々有名な存在だったが、大河ドラマ「天地人」で更に多くの人に知られるようになった。
    • 一方で上杉大減封の責任者でもある。
  2. 何と言っても「愛」の文字をあしらった兜が有名。
    • 軍神として名高い愛染明王、もしくは愛宕権現にちなんだとされる。
  3. 黒田如水や山本勘助と同様に、名ナンバー2として語られることが多いが、兼続は軍師、参謀というよりは家宰、宿老タイプ。
  4. 伊達政宗が大嫌いで、2度ほど口撃を仕掛けている。
    • 江戸城ですれ違ったとき、挨拶しなかったことを政宗に咎められると「戦場でも後ろ姿しか見たことなかったから顔を知らなかったものでw」と。
    • 伏見城で政宗が大名たちに小判の自慢をした際、小判が兼続に回ってくると「60万石の大名ともあろう方が金なんて穢れたものを手で直接持って回すとかw」と言いながらそれを扇に乗せて鑑賞した。
  5. 家康相手に啖呵切ったことで有名だが、関ヶ原が終わった後は家康のところに「調子こいてすみませんでした」と主君ともども謝罪している。
  6. 戦国無双2では作中屈指のネタキャラだったが、大河ドラマ「天地人」の後に発売された戦国無双3では大人しい設定になった。

長野業正[編集 | ソースを編集]

  1. 上野の小領主だけど、武田信玄を6度も撃退した名将。
    • 跡を継いだ息子も、武田軍を相手に何年も持ちこたえたが、遂に攻め落とされてしまった。
      • 業正が一人いる限り、上野はワシのものにならん、とは信玄の言。
  2. 剣豪の上泉信綱を配下にしていたこともある。
  3. わかっていてもなりまさとは読めんなぁ…。在原業平(全然時代が違うし武将ですらないけど)にしてもそうだが。
    • 東京人には普通に読める。浅草の「業平橋」があるので。
      • そうかぁ~?業平橋と在原業平が繋がるヤツってそんなにいるかぁ~?そんなのピンとくるってぇのぁ(俺やアンタのような)ひねくれた歴史好きぐれぇだろ。ましてや業正は…。
        • どうでも良いが(自称)在原業平の子孫。十二人の娘が凄い美人だったとか。
  4. 武将風雲録」では随分と脳天気な顔をしている。
    • 俺は爽やか長野と覚えていた。後のシリーズで爺さんってのを知ってショック。
    • 業平の子孫も糞もないような顔だ。
  5. なぜか名のある武将が出ていない群馬にあって数少ない名将。(他に有名なのが新田義貞ぐらいというのでお察し)

夏目吉信[編集 | ソースを編集]

  1. 徳川家の家臣ながら三河一向一揆に参加。鎮圧された後、再び帰順。
  2. 三方ヶ原の戦いにおいて家康の兜と馬で敵陣に特攻。壮絶な最期を遂げた。
  3. 夏目漱石は末裔にあたる。

長束正家[編集 | ソースを編集]

  1. 五奉行のひとりで、役人としては有能だったが、武の面では全くいいところがない。
  2. 徳川家康の会津征伐の時、居城・水口城を宿舎に提供することになっていたが、「正家が暗殺を企んでいる」という風聞があって、家康は水口城を素通り。
    • 「徳川殿に疑われた。もう俺はダメだ」と絶望して石田三成と合流。家康はみすみす敵を増やしてしまった。

鍋島直茂[編集 | ソースを編集]

  1. クマーこと龍造寺隆信の腹心。クマーが頓死して竜造寺家が没落すると事実上家政を掌握するに至り、佐賀藩の礎石となる。
    • 隆信の嫡男政家が、病弱な上おつむが少々弱い人だったため、直茂がトップに立って差配しないと主従まとめて路頭に迷いかねない状況に。
    • 政家と対面して失望した秀吉にも、「後々までしっかり頼むぞ」と言われてしまう。
  2. 忠臣か逆臣か、諸説ささやかれているが本当の所は不明。有能な人物であったことは間違いない。
    • クマーは、未亡人だった自分の母親を直茂の父と結婚させるという荒業で、直茂を一族に加えた。
      • 竜造寺家が敵に囲まれてピンチの時に、鍋島親子が颯爽と助成に現れて逆転勝ちした。「この親子を一門に加えなければ!」とクマーの母親がやもめだった直茂の父に強引に迫った(後添い)。
  3. 奥さん(彦鶴姫)も聡明な賢婦であったらしく、今時の大河ドラマの主人公の題材におあつらえ向き…しかし朝鮮出兵のせいで大河化はまず不可能。
    • ちなみ彦鶴姫との馴れ初めは彦鶴姫がイワシを焼いており、その臭いにつられて直茂が寄っていったことに起因する。夜這いをしかけて姫の父石井常延にあわや狼藉者として殺されそうになったエピソードもある。
  4. 竜造寺家が大友家と合戦して、数倍の敵に周囲をぐるりと包囲された状態で、敵の本陣に夜襲を掛ける事を提案。これに義母(クマーの母)が大賛成してクマーその他に発破をかける。かくして直茂一行は翌未明に大友本陣に突入、見事主将の首を取り大逆転勝利を得た(今山合戦)。
  5. 敵将の立花道雪が、「こいつにはかなわん」と言ったとか。
    • 知仁勇を兼ね備えた大将とまで言っている。

南部信直[編集 | ソースを編集]

  1. 領地は北の果てにあるのに南部。
    • 先祖が甲斐武田の一族で、南部(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領していたから。
  2. 高橋克彦氏著の「天を衝く」では逃げ足だけが取り得の愚鈍な人物として描かれている。いくら敵役だからってあんまりだ。
  3. 敵対する同族を打ち滅ぼして、今の青森むつ~岩手中北部地域をゲット。
    • 信直は秀吉についたが、同族の九戸政実(くのへ・まさざね)はそれが不満で謀反を起こした。津軽氏や秀吉から派遣された武将らと共に戦って滅ぼした。北東北の結構広い範囲を領したのは、この功績による。
  4. 秀吉に臣従して上方に出てきたが、「上方の大名は我々を田舎者と馬鹿にするので、必要なとき以外屋敷から出ていません。国に帰りたい……」とホームシックにかかってしまった。
    • ↑は国元の家臣に宛てた手紙だが続きがあって、
      「上方は奥州とは違った決め事で動いている。上方では身分の低い者でも一生懸命に奉公すれば、すぐに取り立てられて侍になれる。まず身分や家柄を調べ、一族に組み込む奥州とはまったく違う」(中略)
    • 「今は新しい時代である。うまく対応しなければ、身分や財産はたちまちなくなってしまう。以前のような大名の心ではいけないのだ」
    • 伝統とか家柄といったこれまでの価値観が激変したのを、我が身で味わっていることが伺える。

南部晴政[編集 | ソースを編集]

  1. 伊達政宗のせいで影が薄くなりがちだが、当時の奥羽ではかなりの勢力。
  2. 甲斐武田氏の遠い親戚。
    • 武田の一族が、鎌倉時代に奥州に行って土着したのが南部氏の起こり。
      • 一族中のはぐれ者が海賊として沿岸を荒らしに行ったものの、帰れなくなって土着したという情けない話もある。
        • 千葉や若狭の武田もそんな感じだろうか。
        • 千葉(上総)・安芸・若狭の武田氏は総て守護として赴任し大名化したもの。ちなみに嫡系で言うと若狭武田家が甲斐源氏の正当後継になる
  3. 晴政の代に南部氏は最盛期を迎えるが、その晩年には早くも落ち目に。
    • 一族の大浦(津軽)為信が津軽地方を占拠してしまい、しかもさっさと秀吉に通じて所領を安堵して貰ったため、出遅れた晴政はみすみす大領を失う。
    • 今に至る青森県の津軽地方と南部地方の仲の悪さの発端となった。

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新納忠元[編集 | ソースを編集]

  1. 島津家の親指。残る人差し指から小指が誰だったのかは不明。
    • 人は指で物を数えるときにまず親指から使う。つまり彼が親指と呼ばれたのは島津家の名臣として最初に挙がる人だから。
  2. 戦上手。和歌も上手。そして長生き。
    • 肥後水俣城を攻めたとき、城兵の顔が見えるところまで近づいて「秋風に 水俣落つる木ノ葉哉」と即興で詠む。
    • 守将・犬童頼安も応えて「寄せては沈む 月の浦波」と返す。なんてロマンあふれる戦。
  3. ロバート・デ。
  4. 鬼武蔵とも呼ばれたが、別に森長可みたいなことをやらかしたわけではない。
  5. 主君義久が御所に参内するとき、御所の公家からの謎かけを、和歌の教養で即座に解いた。
  6. 足腰が弱っても戦場に出たがり、屈強な兵士が背負った籠(二人組で肩に担ぐアレではなく、背中に背負うやつ)に乗って戦ったという。

二階堂盛義[編集 | ソースを編集]

  1. 大して実績がないのに、なぜかネット上では有名な武将だ。
    • ネット上の肖像画が凄まじい形相だから。「目が異常に釣り上がり、口を大きく開け、まるで発狂しているかのごとし」だぞ。これじゃあ武将じゃねぇよ、危ねぇおっさんだよ。
      • 「敵に大筒が!ひょえー!」
      • 「信長の野望・覇王伝」ではキョトンとした顔だ。
  2. 子供を芦名盛氏の養子にして芦名家を継がせることに成功したが、その子は暗殺されてしまう。
    • どうやら男色のもつれから小姓に寝首を掻かれたそうな。
  3. 奥さんは伊達政宗の伯母。二階堂氏そのものは甥の政宗に攻略されて滅ぶが、戦さの前に「政宗に頭下げて養ってもらいたくない」と拒み、相馬氏に養ってもらった。

丹羽長秀[編集 | ソースを編集]

  1. 信長股肱の臣の一人。通称「米五郎左」。大河ドラマや時代劇によく出てくるが、大抵ハリボテ、空気。
    • 「米五郎左」とは、「かかれ柴田に退き佐久間、米五郎左に木綿藤吉」と織田家臣団をいう唄があり、地味なれどもいないと困る男という意味である。
      • しかし柴田は北陸方面司令官、佐久間は出奔するまでは最高位の信長の家臣にして対本願寺司令官、秀吉は中国方面司令官だったが、丹羽長秀はそのような軍事の司令官経験なし。信長は軍事に関しては期待していなかったのかも。
  2. 小説・漫画などでは地味な中年男性の姿で描かれる事が多いが、漫画「戦国ストレイズ」で美青年化して登場。ストーリー上でも登場頻度の多い枢要な役として活躍。
    • 戦国もののシミュレーションゲームでも相変わらず影が薄いものの、登場率はそこそこ高い。
  3. 定かではないが、絶望して腹を掻っ捌き、腸を自分の手で握りつぶして自殺したという説がある。
    • 胃ガン、もしくは結石の悪化という説もある。腹を掻っ捌いて病巣を抉り出し、「ほう、こいつが俺を長年苦しめていたのか」と眺めた後、憎き秀吉に送りつけるように遺言して死んだそうな。
  4. 一貫して秀吉びいき。小者の頃から、長秀が後ろ盾になってくれたことで秀吉が受けた恩恵は計り知れない。
    • 秀吉が普請奉行として清洲城の石垣修築にあたった時には、名目上の総奉行になってくれた。おかげで家中からの妨害や職人達の怠業が起きなかった。
    • 秀吉の苗字「羽柴」の「羽」は「丹羽」から貰った。また秀吉の弟・秀長の「長」は長秀の偏諱を貰ったもの。目上からの偏諱を前にするという通例により、秀長も最初は「長秀」を名乗ったが、紛らわしいので逆にした。
      • 丹羽の「羽」を先頭に持ってきて、柴田勝家の「柴」を二文字目に回した。
    • 清洲会議で秀吉が柴田勝家を手玉に取れたのも、長秀が味方してくれたため。ただし、この時長秀は、明智光秀を討つにあたっての遅参で、やや秀吉に対して後ろめたい気分があったらしい。
    • 賤ヶ岳合戦では、秀吉方の苦戦を聞き、なんとかかき集めたごく少数の兵を率いて琵琶湖を押し渡る。
      「このような人数で参陣しても、役に立たないのではありませんか」という家臣の疑問に、
      「なに、丹羽五郎左の旗が駆けつけたと見れば、敵は大軍が攻め寄せてきたと思い、浮き足立つものよ」と泰然と答え、結果もその通りになった。
    • が、最後の最後で失望。秀吉が信長の子供たちを思いっきり冷遇し始めたため。
  5. 家紋が×印。
  6. 織田家中では禄こそ低めだが、イベントや安土城築城など、肝心なところで重用されている。
    • 安土城の築城現場に視察に来た信長が「城できてないけど、今日から俺ここに住むわ」と言い出したが、「はい。仮の屋敷は準備出来ております」とあっさり返す。主君をよくわかってるなあ。
  7. 信長時代の重臣の中で唯一江戸時代に大名としてその血をつないだ。
    • より正確に言うと、丹羽長秀の子丹羽長重が関ヶ原で改易されたが大名復帰できた。

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沼田祐光[編集 | ソースを編集]

  1. 津輕氏の重臣だが、どこから沸いてきたかわからない人。
    • 若狭の武田氏に仕えていただとか、足利将軍家に仕えていただとかいろいろ言われる。
      • 近江にいたとか言う割には、その辺もよくわからない。
  2. ついでに言えば、その功績もよくわからない。
    • でも、信長の野望シリーズに登場するなどしてるので、一定の知名度はある模様。
  3. 確実なのは、津輕にその墓があると言うことだけかも知れない。


関連項目[編集 | ソースを編集]

戦国武将
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