浅井長政

ナビゲーションに移動 検索に移動
  1. 昔は「あさい」と教わったが、いつの間にか「あざい」と呼ばれるようになっていた。
  2. 浅野長政とよく間違われる。
    • 戦国好きを自負するならここはおさえとかんと。「ハイ、ここ重要ですよ~、必ずテスト出ますよ~。」
    • 織田一門が浅井、羽柴一門が浅野。
      • ただし浅井は信長の妹の婿、浅野は秀吉の妻の養父。
  3. 嫁は織田信長の妹のお市
    • 六角氏と縁続きだった前妻を追い出してお市と結婚したらしい。
      • 六角氏の重臣の娘。この重臣が浅井家に来たとき、長政に「嫁の父に挨拶せい」と横柄な態度をとったため、長政がキレて六角と縁切りする契機になった。
    • 前妻との間に嫡男が居たが、お市との間には女の子が3人生まれた。
      • ちなみに、この前妻は六角氏の娘ではない。
      • 長女お茶々は秀吉の愛妾・淀殿になり、秀頼を産む。
      • 次女お初は京極高次の嫁になり、のち常高院と呼ばれる。
      • 三女お江は佐治ナニガシ、豊臣秀勝に嫁入りしたのち、徳川秀忠の正室となり家光や忠長などを産む。
      • つまり長政は、豊臣秀頼と徳川家光の外祖父ということになる。すげえ。
      • 「信×の×望・烈×伝」ではなぜか、真田十勇士のひとり根津甚八が、長政の息子「井織」と同一人物ということに。なんだそりゃ。
        • 一応そういう説も実際にある。
    • 政略結婚であったが仲睦まじい夫婦だったらしい。
  4. 容貌については、真っ向対立な二説がある。
    • 長身のイケメンで、嫁のお市の方と実にお似合いだったという説。
    • 短躯の胴長でご面相もぱっとせず、徳川家康とよく似ていたという説。
      • だから当初は信長にかわいがられたのではないかとも。
      • 確かに肖像画は似てるような・・・、少なくともイケメンには見えん。
    • とりあえず肖像画ではものすごいデブ。彼の血を引く豊臣秀頼が巨漢だったという説もうなずける。
      • ただしこの肖像画は死の17年後に描かれているので、どこまで似ているかは疑問が残る。
      • 太って描かれたのは、一種の理想化とも考えられる。今と違って、太れるというのは身分が高い人のステータス(肉体労働する庶民は太れない)で、中国皇帝の肖像画が軒並み小太りに描かれるのも同じ理由。
      • 有名じゃない方の、より古様で稚拙な肖像画でも肥えてる。やっぱり太ってたんじゃね?
  5. 信長は東の家康と西の長政の二人の「義弟」を両翼にして天下制覇を成し遂げようとしていたらしいが、長政に裏切られて頓挫。
    • 「朝倉とことを構える時は、事前に長政に連絡する」という申し合わせを忘れて、いきなり朝倉攻めを始めた信長が悪いのだが。
    • 「長政は信長を裏切ることを躊躇したが、父の久政が朝倉との旧誼を言い立てたので逆らえなかった」というのが通説。だが、事前の協議をすっぽかされた長政自身が腹を立てたとも考えられる。
    • 長政に裏切られた事は信長にとって一種のトラウマになり、以降根本的に人間(家臣)を信じなくなった。
  6. 朝倉氏が亡びてもしばらく持ちこたえるが、ついに敗れる。
    • 朝倉義景、父久政と共に頭蓋骨に金粉を塗られて、信長の戦勝記念品となる。
      • ただしこの行為は死者への敬意を示すもの、というのが現在の定説。あと杯にした、というのは後世の創作。
  7. 徳川秀忠の舅で家光の外祖父という立場上、徳川家の御用史家によって美化されてしまった節がある人。
    • 秀忠・お江の孫(長政の曾孫)に明正天皇が居る。
  8. 幼名は猿夜叉丸。強そうだけどちょっときついな。
    • 長政本人もそう思っていたのか、自分の嫡男は方向性を変えて万福丸という幼名を付けている。