ざんねんな落語家事典

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  • 五十音順で。

あか行[編集 | ソースを編集]

桂ざこば[編集 | ソースを編集]

  1. 他の落語家をライバル視することが多い。
    • 特に笑福亭鶴瓶に対しての対抗心は、ものすごいものがある。
      • ある結婚式で、鶴瓶の方が祝儀の金額が多かった事に激怒したざこばは、その場で1万円を叩きつけた事がある。
    • ライバル心から、一時期桂文珍と絶交状態になったことがある。
      • 現在はお互いに仲の悪いことをネタにするくらいまで関係は改善されている。
    • 落語家以外では、やしきたかじんとは、ABCテレビの番組で喧嘩して以来、一時期不仲となったことがある。
      • 後に、「たかじんのBar」で仲直り。以来、たかじんの番組では無くてはならないスーパーサブとして活躍。
  2. さらに、テレビ・ラジオでの暴言癖も。
    • ある年の毎日放送の選挙特番に出演した際、公明党の候補者が落選したことを受け「信心が足りん」と発言し、スタジオを凍りつかせた。
    • サイキック青年団打ち切り後、ABCラジオの番組で打ち切りの原因とされたことを匂わせる叫び声を上げ、スタジオを凍り付かせた。
  3. 朝丸と名乗っていたころの落語に、動物のいじめ方を紹介する落語があるが、当然の事ながらその演目が動物愛護団体の逆鱗に触れた事がある。

二代目桂春蝶[編集 | ソースを編集]

  1. 若い時から無類の酒好きで、健康診断でドクターストップを受けても酒を飲み続けた。
    • 51歳という早すぎる死も酒好きだったのが一因だったのかも知れない。
  2. 阪神タイガースの大ファンとしても知られているが、何故か彼が甲子園球場に応援に来ると必ず阪神が負けるというジンクスがあった。
    • 阪神が負けたある試合後にはライトスタンドのファンから「負けたのはお前のせいじゃ」と追い回され、上の朝丸(ざこば)共々とばっちりを受ける羽目になった。

四代目桂三木助[編集 | ソースを編集]

  1. 「落語界のシティーボーイ」のキャッチフレーズのもと、春風亭小朝と共に次世代のホープとして注目されたが…。
    • 奇行が目立つようになり、2001年に43歳の若さで自殺してしまった。
  2. 父である三代目桂三木助が同姓かつ親友であった五代目柳家小さんのようになって欲しいとの思いで小さんの本名と同じ名前を名付けられた。
    • その小さんに弟子入りしたため師弟で同姓同名になってしまった。

五代目古今亭志ん生[編集 | ソースを編集]

  1. 少年時代から「飲む、打つ、買う」に手を染め、遊ぶために他人の持ち物を勝手に質入れしてしまう。
  2. 高座名も何度も変わっている。
  3. 詳しいことは、大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」を見ればだいたいわかると思われる。

さ行[編集 | ソースを編集]

三笑亭夢之助[編集 | ソースを編集]

  1. 昭和52年に、当時20代かつ二つ目の身分ながら笑点のレギュラーに抜擢。登用直後の2年間で座布団10枚を3度達成するほどの腕前だったが……。
  2. 噺家らしく練り込んだ答えを出さず、一発ギャグや毒舌で場を沸かすことを重視したため、ネタにされた側を本気で怒らせることもあった。
    • 番組中の発言で市販薬の効能を全否定するようなことを言ってしまい、当時の番組スポンサーに製薬会社がいたことで大問題になった。
    • スポンサーのクレームが原因か、「このままだと破門になる」と言い残して降板することになった。
      • なお「二つ目の身分であるうちに降板した出演者」は彼が最後。
  3. 黒ひげ危機一髪ゲームの遊び方が当初のメーカー公式から離れ「人形を飛び出させたら負け」に変わってしまった原因を作った人でもある。
  4. 寄席への出演や国立演芸場の年2回の独演会など本業の落語に励むも、後年は肺気腫を患って寄席への出演回数が減っていき講演程度は続けるとしていたがそれもままならず、落語芸術協会へ名跡返上の手紙を出し完全に廃業という形になった。

六代目三遊亭圓生[編集 | ソースを編集]

  1. 天皇陛下の面前で落語を披露する「御前落語」までやり遂げたほどの名人だったが、同時にすさまじいまでの古典落語至上主義者だった。
  2. とにかく「古典落語こそが至高」という考えに凝り固まっており、爆笑派スターの初代林家三平や、主に新作落語を演じていた弟子の三遊亭さん生(現・川柳川柳)らに対して冷たい態度をとり続けた。
    • 戦争で負った手の負傷が故に古典落語では大成は難しい(敵機の機銃掃射で右手指を数本失ったため扇子の扱いが上手く出来なかった)として新作落語一本に絞っていた五代目春風亭柳昇に対しては表立った批判はなかったものの、柳昇が所属していた落語芸術協会を低く見ていたこともあって度々陰口を叩いていた。
      • 落語観の違いによる批判であっても内容次第では当時世間に数多くいた傷痍軍人や支援団体からの批判を招いて社会問題になる可能性があったため、事ある毎に周囲の人間が釘を刺していた。
      • 落語芸術協会に対する蔑視もまた、後述の落語三遊協会設立の際に味噌をつける結果となった。
        • 当時の芸協会長・桂米丸は「これまでも馬鹿にされてきたが、今度は死活問題だ。成田の学生(成田空港建設反対の過激派学生)を連れてきてでも闘う」と発言している。
  3. また「真打とは落語家にとって最後の到達点」=「一生真打になれない者がいても仕方ない」という考えを持ち、「真打はスタートライン」と考えていた当時の落語協会会長・五代目柳家小さんとも対立し、落語協会を飛び出して新団体・落語三遊協会を設立した。
    • しかし、後継派閥の領袖となった五代目圓楽でさえ「大卒で入門した弟子が30歳前後で独り立ち」するような育成計画を取ったことなどからして、圓生の真打基準は実は誰からも支持されていないに等しかったようである。
      • 当時は戦時中や終戦直後と比べて弟子の絶対数が多くなっており、圓生の基準を取っていてはそのうち一門が膨れ上がりすぎて運営に破綻を来すことが明白だった。
        • 小さんの提唱した方針は時代の流れに沿ったものとも言える。
      • 当時の圓生は落語協会において「前会長」であり、その立場の権威に物を言わせて小さんの判断を覆すことを狙っていた節がある。
        • だが小さんは不文律的に存在していた会長の専断権を放棄し、理事会の多数決に最終決定権を持たせることで圓生の圧力を回避した。
      • さらに残念なのは、圓生自身が実力というより師匠の権威を借りて真打になっていたという認識が当時の業界内では強く、完全にダブルスタンダードではないかと見る向きもあった。
  4. しかし、新団体は前述の圓生の性格からほぼ自らの一門(それどころか前述のさん生のように一門内でも不参加者を出した)のみで構成されることとなり、当の圓生自身が新団体設立後間もなくして逝去、新団体は弟子である五代目三遊亭圓楽が引き継ぎ、圓楽一門会として現在に至る。
    • 「古典以外は全て邪道」を前面に出し過ぎていたゆえに三平が話に乗らなかった。
      • 加えて、新団体設立構想の絵を描いた談志の地位的野心を真っ向から拒絶するような人事体制を敷いたことで談志にも離反された。
    • テレビ業界での受けが良い三平とその一門、及び独自の立場を確立していた談志の両方にそっぽを向かれたことは「寄席興行をまわすのに十分な人材が無い」という印象を与え、それが業界内からの新団体に対する支持を失う原因となった。
    • ちなみに歌丸・昇太司会時代の『笑点』メンバーの師匠・大師匠は(好楽・六代目円楽の師匠である五代目圓楽や大師匠である圓生を除き)ほとんどが落語三遊協会設立に反対するか、そのために不遇をかこった者を救っている。(歌丸の師匠・米丸:上記の通り。木久扇の師匠・彦六:圓生に逆らって落語協会に残留した好生とさん生を救い、好生を客分弟子とする。昇太の師匠・柳昇:好生に「春風亭」の亭号を名乗る許可を与える。たい平・二代目三平の大師匠・初代三平:上記の通り。)
      • 果ては歌丸さえ五代目圓楽から持ちかけられた新団体への誘いを断っている。
        • 五代目圓楽は新作メインの米丸一門で数少ない古典メインの歌丸なら圓生のお眼鏡に叶うのではないかと思っていた節があったらしいが、歌丸自身は自らが一旦落語家を辞めて再び復帰した際に弟子として迎え入れてくれたかつての兄弟子にして現在の師匠:米丸を裏切るつもりは毛頭なかったようである。
    • 一門の中でも付いてこない者が現れたのは、当初「圓生がフリーランス化するだけで他の者は五代目圓楽の弟子に直る」としながら3日後に「一門ごとそっくり離脱する」と方針変更するブレブレな対応により、疑心暗鬼に囚われた者が少なからずいたのも理由にある。
  5. 逝去した日が上野動物園の人気者だったジャイアントパンダ・ランラン死亡の翌日だったため、新聞に「パンダが死んだ、圓生も」と書かれる羽目になった。
  6. 八代目林家正蔵(のちの林家彦六)とはそりが合わず、六代目圓生襲名の際は「あの人に六代目が務まるわけがない」と罵倒されていた。
    • 『笑点』で林家木久扇が彦六の物真似で圓生を罵倒していたのはこの名残。
  7. 要は下の談志同様、「芸は最高、人間性は最悪」といえる人物だった。

五代目三遊亭圓楽[編集 | ソースを編集]

  1. 『笑点』で見せる「星の王子様」と呼ばれた柔和なイメージとは真逆で、あの「トンガリ」と渾名された林家彦六から「お前は短気だから気をつけなさい」と忠告されるほど気が短かった。
    • あるとき弟子の好楽を厳しく叱り、それがために好楽は『笑点』降板を決意するまでに至った。結局桂歌丸の取りなしで事はおさまったが。
    • 歌丸からは一度「爆発物」とさえ呼ばれた。五代目圓楽の付き人だった六代目円楽も「俺は大変だった」と同調していた。
  2. 説教も長く、師弟大喜利では弟子の洋楽に対し本番中にもかかわらず説教を始め、司会をしていた春風亭昇太をあわてさせた。
    • 六代目円楽曰く、「普段弟子を集めてやる小言と変わりない」。
  3. また甘党の大食いであり、「楽屋に届いた籠一杯のミカンを手が真っ黄色になるほど食べ続けた」(歌丸)、「イチゴの脇に置いてあった練乳を一缶飲み干し、おかわりを頼んだ」(林家木久扇)、「弟子に説教をしながら羊羹を一竿平らげ、さらに説教を続けながらもう一竿に手を出した」(六代目円楽)などといったエピソードもある。
  4. 私財をなげうって寄席「若竹」を建設するも、たった4年で潰れてしまった。
    • おかげで『笑点』では「俺はただ若竹の借金を取りに来ただけなんだ」、「若竹と聞くと涙ぐんできて」などと(主に歌丸や楽太郎時代の六代目円楽から)ネタにされることになった。
    • 六代目円楽が襲名披露の口上の時に兄弟子・鳳楽から「六代目円楽となったからにはもう一度若竹をこしらえて」とネタにされたほどである。
    • また、歌丸は十八番である『竹の水仙』の枕でも「自分で寄席を立てて自分で潰して名前を残した人」とネタにした。
    • 若竹閉館が決まった直後、大喜利で松茸を使った川柳を詠むというお題で、歌丸は「松茸が出るころ若竹倒産し」という句を詠んだ。
      • 大きい石(作り物)を使ったお題では、楽太郎が「若竹跡」と答えた。それを聞いた隣にいた歌丸が笑って手を叩いたため、本気で怒った五代目圓楽は席を立って歌丸の頭を扇子で引っ叩いた。

四代目三遊亭小圓遊[編集 | ソースを編集]

  1. 桂歌丸にとっては、罵倒合戦ネタの初代相方。番組でのキャラクターに反し、実は正統派の古典を得意にしていた。
  2. しかし、上記のような抗争劇を演じることや気障野郎なキャラクター設定と本来の自分との乖離にうまく折り合いを付けられなくなり、一人で悩んだ末に酒に逃避してしまったことがざんねん、と言うより極めて遺憾である。
    • 酒に溺れた結果、アラサーの時点で糖尿にかかり、のちには番組収録中でさえ酒くさいことも度々になった。
  3. 周囲の懸命なサポートも奏功せず、わずか43歳で死亡。
    • これにより、小圓遊を名乗った4名のうち3名が五十路に達せず巡業先で亡くなったことになり、非常に縁起が悪いとして以後は事実上誰も名乗れない名跡になってしまった。
    • 師匠である四代目圓遊にとってもショックがかなり強かったようで、以後は高座になかなか出なくなり、およそ3年半のちに後を追ってしまった。

春風亭一柳[編集 | ソースを編集]

  1. 旧名:三遊亭好生。上記の六代目三遊亭圓生の弟子であった。
  2. 圓生に心酔し、圓生の芸をひたすら模倣した結果、あらゆる点で未熟だった若い頃の圓生と似るようになり、「圓生の影法師」とさえ呼ばれるようになった。
    • 師匠である圓生は自分の下手だった頃を思い出させる好生を快く思っておらず、徹底的に冷遇した。
  3. その後の落語協会分裂騒動時には三遊亭さん生(後の川柳川柳)と共に落語協会に残留。圓生から破門と芸名の返却を言い渡される。
    • その際圓生と犬猿の仲であった八代目林家正蔵(後の林家彦六)の客分格弟子となり、春風亭柳昇の許可を得て「春風亭一柳」を名乗ることになる。
  4. 圓生死去後に出版した自叙伝『噺の咄の話のはなし』では圓生の死去を「嬉しかった」「これでおれは死なずに済む」と告白するなどしていたが、次第に落ち込むようになり、一時期は投薬治療で快方に向かっていたが、1981年7月9日、自宅の団地屋上から飛び降り自殺した。
    • その死について川柳川柳(旧名:三遊亭さん生)は「あいつにとって圓生は神だった」「神に殉じた」と語った。

二代目春風亭梅橋[編集 | ソースを編集]

  1. 柳亭小痴楽時代は「笑点」の初期メンバーの一員だった。
  2. 「笑点」では得意のなぞかけで人気を博した。
  3. しかし、番組の方針を巡って司会の立川談志とメンバーが衝突し、五代目三遊亭圓楽と桂歌丸らメンバー全員が番組を降板し、梅橋も行動を共にした。
    • 結果的には、自身の真打昇進と春風亭梅橋襲名披露口上が「笑点」での最後の出演となった。
  4. のちに談志が「笑点」を降板し、入れ替わるように初期メンバーが番組に復帰したが、梅橋だけが他局の番組にレギュラー出演していたため唯一復帰できなかった(梅橋の代わりにメンバーに入ったのが林家木久蔵)。
  5. その後は酒浸りとなり、酔ったまま高座に上がったり、テレビ出演するなどしたため、テレビ局を出入り禁止となった。ついに所属プロダクションからも解雇されるまでに至り、飲み屋を回って、酒をもらう日々を送った。
  6. 飲み過ぎて健康を害し、糖尿病や内臓疾患に陥り、49歳の若さで死亡した。

笑福亭鶴光[編集 | ソースを編集]

  1. 「オールナイトニッポン」などで知られるラジオの帝王。
  2. 名曲「うぐいすだにミュージックホール」の大ヒットでも有名。
    • しかし、これが原因で師匠に破門されそうになったことがある。
  3. 「オールナイトニッポン」と「オールナイトフジ」のドッキング放送で片岡鶴太郎と一緒に松本明子に向かって「四文字言うてみぃ」とそそのかし、それに従った松本はテレビカメラに向かって「×××××!!」と絶叫、自らのアイドル生命に終止符を打つ羽目に。
    • 本人はラジオでの人気が絶大だったこともあり、干されることは無かったが「松本明子を地獄に追いやった上方落語家」として関東のテレビ局やアイドルが所属する芸能事務所から警戒され、仕事量の割にはテレビの生放送や女性アイドルとの共演が少なくなるという事態が続いた。

笑福亭鶴瓶[編集 | ソースを編集]

  1. 東京12チャンネル(現・テレビ東京)の社長のペットだった錦鯉を殺害して、12チャンネルから出入り禁止を食らったのは、もはや伝説。
    • それどころか、露出したことも。
  2. 読売テレビの「PAPEPO」の生放送で、放送禁止用語を絶叫したことがある。
    • ただ、これは、相方の上岡龍太郎のムチャぶりによって発言したものである。
  3. フジテレビ「27時間テレビ夢列島」での下半身露出事件も有名。
  4. ラジオ番組では放送禁止用語を発したり、本番中に大をしたこともあった。
  5. 酒の席で若手の上方落語家に「おまえは東京の方が向いてる、何とかしたるから出てこい」とやたらと声を掛ける。
    • その言葉に乗って東京に引っ越したのが三代目春蝶と桂三四郎。引っ越し後に挨拶に行くと「何の話や?」「俺そんなこと言うたか?」と本人はすっかり忘れていた。
      • 本人曰く「酔っぱらってて覚えてない」らしい。
      • その話を聞いた春蝶の妻は「これからの生活は一体どうするのよ、何が『家族に乾杯』よ!!」とブチ切れた。

笑福亭松之助[編集 | ソースを編集]

  1. お笑い怪獣・明石家さんまを輩出したことで有名。
    • しかし、それ以降テレビ出演の際には「さんまさんの師匠」という枕言葉が付くようになる。
      • 『笑点』の東西大喜利では「ジャンケンでさんまに負けて弟子になった」「今年もさんまからお年玉をもらおう」などと回答していた。
  2. ただし当のさんま自身は松之助のことを尊敬しており、逆に松之助もさんまに対して好意的である。

笑福亭松葉(七代目笑福亭松鶴)[編集 | ソースを編集]

  1. 六代目笑福亭松鶴の弟子のひとりで、六代目の死後に紆余曲折を経て、七代目の襲名が決まっていた。
  2. しかし、襲名を間近に控えた頃に癌に侵され、六代目の死から10年経った1996年9月に44歳で他界。翌年、七代目を追贈された。
  3. 以降、松鶴の名跡は少なくとも六代目の直弟子がひとりでも健在である限り襲名されない止め名となっている。

た~わ行[編集 | ソースを編集]

7代目橘家圓蔵[編集 | ソースを編集]

  1. 職を転々とした後8代目桂文楽に弟子入りした。
    • しかし、破門と復帰を繰り返した。
    • 一時期7代目林家正蔵の門下にいたこともあるが、破門。
      • 7代目正蔵の死後、「弟子だったから」という理由で海老名家から当時二つ目だった初代三平を託されたが、かつて冷遇された恨みもあって前座扱いで入門させた。
        • 三平が人気者になると手のひらを返し、真打昇進時に自らの名跡「月の家圓鏡」の襲名をはたらきかけるが拒否。
  2. 落語協会分裂騒動では古今亭志ん朝一門と共に一門で落語三遊協会へ参加。
    • しかし、6代目三遊亭圓生の覚えが良くない三平一門は最初から参加する気はなかった。
    • 圓生死後に落語協会へ復帰したが、ほどなくして死去。
  3. 橘家圓蔵の名跡は死後2年という短期間で弟子の5代目月の家圓鏡が襲名。

立川志らく[編集 | ソースを編集]

  1. 師匠である談志の名前を持ち出して威圧する振る舞いが多い。
  2. コメンテーターとしては兎も角ワイドショーの司会に関してはあまり優秀といえない。
    • その証拠に、鳴り物入りで始まったTBSの朝の番組をわずか1年で潰してしまった。
  3. 東の志らく、西の春蝶である。何がとは言わない。
  4. 「自分が主宰する劇団の練習に来ない」という理由で、二つ目の弟子を前座に降格させたことがある。
    • なお、弟子が出演するわけではない。
      • 要は「自分の関与するイベントに弟子が顔を出してこない」という人望の無さがバレてしまう事態を前にして、「来なかったヤツは勉強する気が無い」と話をすり替えてしまった。まさに物は言いようである。

立川談志[編集 | ソースを編集]

  1. 1970年代に自民党の国会議員を務めていたことがあり、1975年12月には三木内閣の沖縄開発政務次官に就任するが…。
    • 就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言。
      • 政務次官としての初仕事である沖縄海洋博の視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元メディアの記者から「公務と酒とどちらが大切なんだ」と質問され、これに対して「酒に決まってんだろ」と返した。
        • 更に詰問をしようと記者に対し退席を命じ、会見を打ち切ろうとしたため批判を浴びた。
      • 弁明を行う筈の参議院の決算委員会を寄席を理由に欠席すると自民党の内部からも反発が起こり、僅か36日で政務次官を辞任。
  2. 「客は『噺』ではなく、『談志』を聴きにくる」と言われたほどの独自の落語を持ち、ファンも多かったがアンチも多かった。
    • 山藤章二曰く「落語の伝統の部分だけで生きていれば、間違いなく平成の名人として落語史に名を連ねただろう」。
  3. 2002年のM-1グランプリで審査員として出演。テツandトモに対し「お前らはここに出てくる奴じゃないよ。もういいよ。俺褒めてんだぜ。分かってるよな?」と生放送で評した。
    • 一見すると否定してるとしか思えない口調であったため、司会がフォローする一幕があった。
      • なお、彼自身テツandトモの芸を褒めており、結成10周年のイベントでは「なんでだろう」をノリノリで踊っていた。
  4. 笑点の産みの親として知られるが、五代目圓楽、歌丸ら初代大喜利メンバーと対立し、メンバー総入れ替えを経て降板となった。
    • 談志は到底お茶の間に流せないような下ネタ・毒舌・ブラックユーモア系の答え(当時の価値観においてさえもアウトになる程度)を好む傾向があり、他の出演者ばかりかスタッフとも度々揉めていた。
    • 長らく笑点と立川流は絶縁状態にあったが、晴の輔、志らく、生志が休演した六代目円楽の代理を務めるなど若干の雪解けの兆しは見える。
    • 談志の生前にも、前半の演芸に出たり、大喜利に乱入して5代目圓楽の隣に座ったこともあった。
    • 本当に残念なのは、初代座布団運びが降板経緯が残念で破門同然になり不安定になる。数年前にホームレス同然の格好で生活保護受給していたことがテレビ番組で明らかになった。
  5. 志らく、談四楼らの言動を見るに、弟子に対しての情操教育はまるで行わなかったようである。(情操教育を行った結果がアレという可能性もあるが)

立川談四楼[編集 | ソースを編集]

  1. 談志が落語立川流を創設するきっかけを作った張本人の一人。
    • 落語協会分裂騒動の反省を受けて真打昇進試験制度が作られたが、1983年の真打昇進試験で談志不在の中、談四楼と小談志(後に落語協会に復帰、四代目喜久亭寿楽)が不合格となり談志から見て力量が明らかに劣ると思われた林家源平(初代三平の弟子)が合格したことにキレて大半の弟子を引き連れ脱退、落語立川流を創設したという流れ。
  2. 熱狂的共産党支持者で、自著に「政府批判こそ立川流のお家芸」と記すほど政府批判が半ばライフワーク化している。
    • ただしその批判は「坊主憎けりゃ」系の的外れなものばかり。
    • 因みに師匠の談志が国会議員時代在籍していたのは自民党である。
  3. Twitterでの政府批判ツイートが高座に上がる数より圧倒的に多い。
    • このツイートを何故かYahoo!ニュースがしょっちゅう取り上げるのでコメント欄には「政府批判しかしない暇な五流落語家」「そんな暇あるなら落語の一席でも覚えろ」「小さんがコイツを落としたのが分かる気がする」という意見が必ず出てくる。
  4. 話題に上がるのが政府批判だけなので、上記で挙げられているように同じくざんねんな扱いをされているが弟弟子の志らくの方が「まだ落語に向き合っている分だけマシ」とも言われる。

月亭可朝[編集 | ソースを編集]

  1. 大の博打好きで有名。
    • あの立川談志をして「あいつの人生そのものが博奕だ」と評価させるほど。
  2. 1971年開催の第9回参院選に立候補。そのとき、可朝が掲げたマニフェストが…。
    • 「日本における一夫多妻制の確立と風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」。勿論、当選する訳がない。
  3. おそらく「日本で一番警察のお世話になった咄家」と思われる。
  4. 月亭八光が落語家を志した時、誰に弟子入りするかで父である八方と相談した際、父の師匠である可朝の名前を挙げたところ「連絡先知らん」と言われてしまった。
    • 他には仁鶴、米朝、きん枝(現:四代目小文枝)の名前を挙げるもことごとく却下され、結局「ほんなら俺に弟子入りせぇ」と父・八方に弟子入りすることとなった。
      • 米朝への弟子入りに関しては、相談を受けた母(八方の妻)から「3日で八方超す気か?」とさえ言われたという。

林家木久扇[編集 | ソースを編集]

  1. 『笑点』での与太郎キャラとは真逆で、「ライバルは先月の売り上げ」と語るほど金銭に細かく、本業の落語以外にも多数の商売に手を出していたのだが…。
  2. 「象を輸入しようとしたがワシントン条約に引っかかり断念」「怪しげな儲け話を持ち込むため楽屋では誰からも話しかけられない」「結婚式の司会をギャラありで引き受けたが、自分の結婚式とブッキングし、自分の結婚式にもかかわらず中途で抜け出し司会に出向いた」などのざんねんエピソードを持つ。
    • 極めつけが「木久蔵ラーメン」で、笑点メンバーや司会者から「不味い」、「畑の肥やしにもならない(枯れる)」、「豚の餌くらいにはなる」などと罵倒され、自分でも「保健所が立ち入り検査に来た」「ありえない 木久蔵ラーメン ミッシュラン」などとネタにする始末である。
      • フォローしておくと本当に不味いわけではない。上記の罵倒もあくまでネタの範囲である。立川談志も木久扇に対し「落語は下手だがラーメンは旨い」と発言している。
  3. 若手時代、師匠の彦六を殺しかけたことがある。
    • 怪談を得意とする彦六の高座の演出に、人魂を模した「焼酎火」を出す際に手元が狂って、火が彦六の頭部を直撃。頭部のポマードに引火してしまった。
  4. 大喜利の「新しい漢字」の出題でウケ狙いのためか、字でなく絵を描いた答えを出す。
    • そのため司会者から「木久ちゃん絵じゃなくて字書いてよー」(歌丸)「木久扇さん(または「木久扇師匠」)絵じゃなくて字を書いて下さい!」(昇太)と言われる。

4代目林家小染[編集 | ソースを編集]

  1. 3代目林家染丸に弟子入りしたが、わずか4年で師匠が死去。
    • 一般的には他の師匠につくことになるが、それを拒否。一門を背負う形となった。
  2. しかし、大酒のみで酒癖も悪かった。
    • 楽屋で休んでいる人生幸朗を「オッサン、何で寝てるんや!」足蹴にし、周りを凍り付かせたこともあった。
    • 最期も酔った勢いで「トラックと相撲とってやる!」と道路に飛び出し、あっけなく敗れたものだった。
      • 「若くして本格的な噺家」といわれ、林家染丸襲名も噂された中での早世だった。

2代目林家三平[編集 | ソースを編集]

  1. 父は初代林家三平、兄は8代目林家正蔵という落語家の家に生まれる。
  2. 『笑点』では2016年に「大喜利」メンバーとなった。
    • 大喜利メンバーの起用は若手大喜利からの起用が多いが、三平は若手大喜利メンバーではなかった。
  3. 「大喜利」では視聴者からのdボタンでの投票では他のメンバーは何万枚と出るが、三平は「面白くない」と座布団を取り上げられ、放送終了時刻には0枚となることも度々あった。
    • それを逆手にネットで苛められる可哀想なキャラに転向しようとしてさらに視聴者の反感を買った。
  4. 『笑点』出演中、座布団10枚を一度も記録しないまま2021年12月で『笑点』を降板した。
    • 新聞のテレビ欄などで「三平初の10枚達成か」などと書かれたが、達成はなかった。
    • ある時、好楽が座布団10枚達成したのを皮切りにメンバーが次々と10枚達成し、賞品をゲット。しかし、三平は座布団9枚のまま、司会の昇太の「どうやらお時間が来たようです」との宣言の後、「三平さんは今回も10枚達成できませんでした」と述べ、三平だけが10枚達成出来なかった。この3ヶ月後に三平は10枚達成しないまま『笑点』を去った。
  5. ダイエットに成功したが、周りから「痩せた」でなく「やつれた」とみられた。
    • 上記のこともあってか、先輩落語家から「体を鍛えるより芸を鍛えろ」と言われる始末だった。
  6. 『笑点』を出たことを「武者修行」と言っているが、あるタレントから「目標間違えちゃってんじゃないですか?」と言われてしまった。
  7. 6代目三遊亭円楽の後任に三平の名前が出たが、「有り得ない」「時期尚早」などと否定的な声が上がった。
    • 六代目円楽休演の代理で出演することはなかった。
  8. 2022年にTikTokを始めたが、「何が面白いんですか」と酷評されまくった。
  9. お笑い芸人に国語力の無さを叱られた。
    • 笑点降板後に他局のクイズ番組に出たが、「出初式」の「出初」を「出染」と書いた。共演者から「(出初式を)知らないんですか?」と聞かれて「(出初式に)招待されたことがない」と言い訳していた。ちなみにこの番組での三平の答えは外れが多かった。

林家彦六[編集 | ソースを編集]

  1. 「トンガリ」と呼ばれるくらいせっかちかつ短気な性格。
    • 弟子に対し気に障ることがあるたびに破門を言い渡すが、すぐに忘れてしまう。
      • 弟子の木久扇と好楽がよくネタにしているが、他の弟子も似たり寄ったりだったらしい。
    • 独演会等で電車に乗る際には1時間前に駅に到着。
    • 新幹線に乗り、「次は東京です」のアナウンスを聞いた途端、それが名古屋出発直後のアナウンスでも周りに降りる準備を急がせる。
  2. 日本共産党の熱烈な支持者だったが、理由が「判官びいきだから」
  3. 独演会や余興などの仕事のギャラはもらった半額をその場で主催者に返還。
    • 自分の分だけならともかく、一緒に来た共演者や弟子たちの分も一括返還する始末。
  4. 高座を映像化した際に、「演じた時にギャラもらってるから」と放映料の受け取りを拒否。
  5. 寄席通いのために定期券を持っていたが、私用では全く使用しなかった。
  6. 数々のざんねんエピソードを弟子の木久扇がネタにしたため、高座に出た途端に笑いが起こるようになった。
  7. 上記の清貧なエピソードから、弟子の木久扇に「「落語家=貧乏なもの」と言うイメージを植え付けた」と批判されることにもつながった。

関連項目[編集 | ソースを編集]