もしあのプロ野球選手があの記録を達成していたら
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あの打者が全球団からの本塁打記録を達成していたら[編集 | ソースを編集]
石井浩郎[編集 | ソースを編集]
- (引退試合で達成した場合)引退試合で記録達成という前代未聞の快挙となっていた。
- 石井自身も有終の美を飾ることができていただろう。
- 岡村孝子と離婚することもなかった。
- 2010年の参議院選挙に立候補することもなかったか?
- 指導者として成功できたか
- 石井自身も有終の美を飾ることができていただろう。
- 2004年シーズンオフ東北楽天のコーチに就任していた。
- 開幕からシーズン終了までずっと最下位、という事態にはならなかっただろう。
- ヘタしたら、プレーオフ→クライマックスシリーズに出場できてたかも。
- 開幕からシーズン終了までずっと最下位、という事態にはならなかっただろう。
落合博満[編集 | ソースを編集]
- 野球殿堂入りは間違いなく早まっていただろう(史実でも2011年に殿堂入りを果たしている)。
- 名球会入りしていた。
- だけど辞退していたかも。
- 引退試合のロッテ戦ではセレモニーが行われていた、試合後には両チームナインがマウンドに集まっての胴上げが行われていた。
井手正太郎[編集 | ソースを編集]
- 引退時点で15本、10球団であったためまず間違いなく全球団からの本塁打記録最少本数となっていた
山田久志が通算300勝を達成していたら[編集 | ソースを編集]
通算300勝を達成できずに現役を引退した、山田久志。仮に300勝を達成していたら?
- (300勝を)達成した翌日に、スポーツ紙の1面トップになっていた。
- 一般紙にも(スポーツ紙ほどではないものの)、彼の300勝達成の記事が載っていただろう。
- 関西だとそれでも翌日のスポ-ツ紙一面は「阪神また負ける」になってそうな気配。下手したら「○○故障」「阪神次期監督○○に」とか。
- 一般紙にも(スポーツ紙ほどではないものの)、彼の300勝達成の記事が載っていただろう。
- 現役引退後も、「阪急の300勝投手」という肩書きで親しまれていた。
- 「下手投げで300勝した投手」という肩書きもついてくる。
あの投手が通算200勝を達成していたら[編集 | ソースを編集]
杉浦忠[編集 | ソースを編集]
- 200勝どころか、250勝ぐらいはしていた。
- 現役後半5年ぐらいは急激な衰えでほとんど勝てなかった為。
松岡弘[編集 | ソースを編集]
- 200勝投手として現実よりも知名度が上がっていた。
- ノムさんの後任としてヤクルトの監督に就任していた。
- 彼が歌ったとびだせヤクルトスワローズが現在でも神宮球場で流れている。
長谷川良平[編集 | ソースを編集]
- 山本浩二並みに神格化されていた。
- もう1年くらい長く監督をしていたかも。
- カープの成績自体にはあまり影響がない。
- 「サンデーモーニング」で訃報が無視されることはなかった。
- 200敗した選手で200勝していない選手は存在しなかった。
石井一久[編集 | ソースを編集]
- あまり変わらなかった・・・かもしれない。
- 少なくとも、吉本興業に入社することはなかったかも。
斎藤雅樹[編集 | ソースを編集]
- ≒もし1997年の開幕戦で小早川に3打席連続本塁打を打たれなかったら…かもしれない。
- これまでと同じぐらいとまではいかずとも、肩の故障も無くフルシーズン稼働or10勝以上だったらあり得た。
- 史実以上に巨人の大エースとして名声を得ていた。
- 野球殿堂入りは間違いなく早まっていただろう(史実でも2016年に殿堂入りを果たしている)。
西口文也[編集 | ソースを編集]
- 史実以上に西武の大エースとして名声を得ていた。
- 「俺達」に勝利を消されたりしなかったら確実に達成できたはず。
- 逆に、その逆境もありながら200勝を達成できたのならそれはそれですごいのだが。
- 村山実以来の大卒日本球界200勝を達成していた。
- ノーヒットノーランを一度でも達成出来ていれば可能性が高かったかも。
三浦大輔[編集 | ソースを編集]
- それこそ横浜一筋で200勝を達成していれば史実以上に名声を得ていただろう。
- 「巨人なら10年早く達成できた」と言われるが、当人は否定する。
- 弱小球団(90年代はさほど弱小でもないが)一筋での200勝達成ということで村田兆治と比較される。
- むしろ前身球団で200勝を達成した平松政次と比較されていただろう。
- おそらく梶本隆夫以来の負け越し200勝になっていた可能性が高い。
- 史実よりあと4~5年は続けていた。
あの選手が2500本安打を達成していたら[編集 | ソースを編集]
長嶋茂雄[編集 | ソースを編集]
- 氏の性格からして、ネタになりそうな数字(2525安打)とかで現役を終えていた可能性が高い。
- あと1年続けていれば可能性はあったかもしれない。ただ、生涯打率3割は切っていたかもしれない。
立浪和義[編集 | ソースを編集]
- 2006年以降も同レベルの活躍ができれば…
- 立浪が現役のうちは、森野将彦や中村紀洋がサードを守ることはなかった。
- 世代が近い金本知憲と比較されることも多かった。
- 所属球団こそは違うが、「共に星野監督の下でプレーしたことがある」という共通点もある。
- 立浪が現役のうちは、森野将彦は外野を守っていたし、中村紀洋の獲得はなかった。
- 中村紀洋は巨人か阪神あたりが獲得していたか、オリックスに復帰していただろう。
- 中村紀洋がメジャーに行かずにオリックスに残留していた世界線なら有り得たかも。
- レギュラー選手として2006年の優勝、2007年の日本一に貢献できていた。
- もう2~3年ぐらい長く現役を続けることが出来ていた。
あの選手が2000本安打を達成していたら[編集 | ソースを編集]
松永浩美[編集 | ソースを編集]
- プロ野球での通算安打記録は1904安打だったが、かつて存在したマスターズリーグで99安打を放ち名球会の名誉会員となっていた。
- 阪神、ダイエー移籍後もそれなりに活躍していたらありえた。
- 阪神移籍後2試合目で故障しなければ…
- ダイエー退団後にアスレチックスの入団テストを受けることも無かったかも?
井端弘和[編集 | ソースを編集]
- 残り88本と迫りながら高橋由伸の引退を機に引退を決断した井端。高橋由伸が後1年現役を続けていれば…?
- うまくいけば元同僚の荒木と同時期に2000本行っていたかもしれない。
- 荒木は2歳年下であるが、史実の井端引退年でまあまあ僅差であること、その年でもまあまあ活躍していることを考えれば。
- 2015年のあの事件がなかったら高橋の引退もなかったので、2000本安打を達成できていた可能性が高い。
谷佳知[編集 | ソースを編集]
- ≒もしオリックスから巨人へ移籍しなければor巨人移籍後も現実以上に活躍していたら かもしれない。
- 2008年あるいは2014年にオリックスを優勝に導いていた。
小玉明利[編集 | ソースを編集]
- 1967年に選手兼任監督を務めていなければor阪神への移籍後も活躍していたら有り得た。
- 小玉の知名度も史実より上がっていた。
毒島章一[編集 | ソースを編集]
- 当時東映の監督だった田宮謙次郎に「2000安打は達成したも同然」と言われ、残り23本というところで引退。
- コーチ兼任だった1971年も試合に出ていれば達成していた。
- 史実では偵察メンバーとしてスタメンに4試合名を連ねただけ。
- 引退後の毒島は史実とあまり変わらないだろう。
タフィ・ローズ[編集 | ソースを編集]
- 巨人に移籍せず、近鉄・オリックスに残留していたら有り得た。
- 2005年のオリックスはAクラス入りし、翌2006年の成績も史実よりマシになっていた。
- 代わりに2004年の巨人はBクラスとなり、史実最強打線は誕生しなかった。
- オリックスでも史実以上に活躍し、何度かパ・リーグで本塁打王・打点王に輝いていた。
- 2009年オフに交渉で揉めず、退団・引退も少し遅れていた。
- その場合T-岡田のブレイクが遅れ、李承燁の移籍もなかったかも。
- 2005年の右肩痛がなければ巨人を退団することはなく、2006年以降も巨人に残留して2009年頃に達成できていた。
- その場合、外野でポジションが被るアレックス・ラミレスは2007年オフに巨人ではなくオリックスに移籍していた。
- 同年のオリックスは優勝できていたかも。
- 1度目の引退がないので史実よりも衰えを隠さず、2008年に40歳にして本塁打王と打点王の二冠に輝いてメークレジェンドに貢献し、現実以上に門田博光と比較されていた。
- その場合、外野でポジションが被るアレックス・ラミレスは2007年オフに巨人ではなくオリックスに移籍していた。
- アレックス・ラミレスより先に外国人選手で初めて名球会入りしていた。
- 2023年のラミレスとバースより先に、外国人選手で初めて野球殿堂入りしていた。
- 外国人選手初の500本塁打も達成していた。
- 4番打者としてオリックスに残留していた場合は2008年の優勝に、巨人に残留していた場合は2007年~2009年の3連覇に貢献していた。
- そして2008年のパ・リーグあるいは2007〜09年のいずれかのセ・リーグのMVPに輝いていたかも。
田尾安志が1982年度セ・リーグ首位打者になっていたら[編集 | ソースを編集]
中日でプレーしていた1982年にあと一歩というところで首位打者の座を逃した、田尾安志。仮に首位打者となっていたら。
- もう少し長く、現役を続けていた。
- 1992年の阪神タイガースリーグV逸も選手として見届けていた。
- 阪神でも現実以上に活躍できていたら、ベテランとして優勝に貢献していたりして。
- 右の真弓・左の田尾として代打の切り札になっていた。
- 阪神でも現実以上に活躍できていたら、ベテランとして優勝に貢献していたりして。
- 1992年の阪神タイガースリーグV逸も選手として見届けていた。
- トレードに出されることもなかった。
- それはさすがにない。ただし史実以上に中日フロントはファンからの猛バッシングを受けていた。
- 史実通り東北楽天ゴールデンイーグルスの監督になったとしても、解任されることはなかった。
- プレーオフ→クライマックスシリーズや日本シリーズにも出場できたかも。
- 逆に史実で首位打者となった、長崎慶一の人生も大きく変わっていた。
- 1982年のMVPに輝いていた。MVP経験者なら球団も放出しにくかったかもしれない。
- これが、優勝のかかった最終戦で大洋が「田尾と堂々と勝負し、ライバルだった長崎を出場させた」結果でのことなら、試合に大洋が勝利して中日がこの年優勝を逃していた可能性も(低いだろうが)ある。
- 少なくとも当時の大洋に対しての「(長崎を欠場させたうえでの田尾への敬遠は)敗退行為ではないか」というバッシングはなかった。
あの選手がシーズン本塁打記録を更新していたら[編集 | ソースを編集]
1964年に王貞治が打ち立てたシーズン55本塁打の記録は2013年にウラジミール・バレンティンによって破られましたが、もしこれ以前に記録が更新されていたら?
- 「55本」の呪縛がなくなり、2013年現在はさらに記録が更新されていた。
ランディ・バース(1985年)[編集 | ソースを編集]
- 大豊泰昭や松井秀喜が背番号55をつけなかった可能性も高い。
- この場合、『ゴジラ2000 ミレニアム』でゴジラの身長が(松井の背番号にちなんだ)55mにならなかった。
- 背番号55がスラッガーの代名詞になることもなく、大豊や松井だけでなく嶋重宣やT-岡田も背番号55を付けなかったかも。
- スラッガーの代名詞の背番号が56より大きい番号になっている。
- 90年代以降に「バースの再来」として阪神に入団した大物外国人がバースの本塁打数にちなんだ背番号を付けていたかもしれない。なお実際の本塁打数は…
- 史実で55番を着用した選手たちの背番号もまたしかり。
- その場合、当該背番号は他チームから「鬼門」呼ばわりされていそう。
- 史実でも巨人投手陣の中で江川だけは真っ向からバースと勝負した。その結果として56号まで打たれたのなら、王監督とは相当な確執になったかも。
- 当時の堀内投手コーチとも因縁が深まっていたかも。
タフィ・ローズ(2001年)[編集 | ソースを編集]
- 年俸高騰により巨人移籍が早まった。
- 56本目をダイエーの投手から打っていたらその投手の立場が心配になる。
- この年の近鉄は日本一になれていたかもしれない。
- 人種差別発言をした徳光和夫が現実以上に叩かれていた。
アレックス・カブレラ(2002年)[編集 | ソースを編集]
- 2002年5月6日、東京ドームで行われた日本ハム戦でレフトの天井に当たり、フェンス際に落ちてきて認定にならず、シングルヒットとなった。この打球が本塁打となっていれば、カブレラのシーズン56号本塁打を放っていたことになり、単独で日本記録を樹立していたはずだった。
- オリックスやソフトバンクに移籍することはなかった。
- 引退まで西武でプレー。
- 「カブレラ地蔵」の撤退もなかった。
- 2008年にブラゼルとボカチカのどちらかが来日しなかった。
- 引退まで西武でプレー。
- 薬物使用疑惑が早まった。
松井秀喜(2002年)[編集 | ソースを編集]
史実では50本でしたが、もし背番号と同じ55本打っていたら?
- 巨人では王以来シーズン本塁打55本達成とかなり話題になっていた。
- 当時ホークス監督だった王から、何かしらのコメントが出ていただろう。
- その年パではシーズン最高本塁打がカブレラの55本だったため、セ・パ同時シーズンタイ本塁打とニュースとなっていた。
- ヤンキース移籍時、年俸は史実より高かった。
- 背番号55は永久欠番となっていた。
- 大田のドラフト入団時の背番号は別の番号になっていた。
あの選手がトリプルスリーを達成していたら[編集 | ソースを編集]
- 「トリプルスリー」が2015年の流行語大賞になることはなかったかも。
川上哲治(1950年)[編集 | ソースを編集]
- 本塁打が1本届かず。
- この年は3人がトリプルスリーを達成していたことになる。
- トリプルスリーの記録はこの時から注目されていた。
- 左打ちのトリプルスリーはこの年で出ていた。
青田昇(1950年)[編集 | ソースを編集]
- 盗塁が1個届かず。
- 川上も達成していた場合、4人がトリプルスリーを達成していたことになる。
- 黎明期の神格化に一役買っていた。
長嶋茂雄(1958年)[編集 | ソースを編集]
- 一塁踏み忘れ事件さえなければ公式上もトリプルスリーでした。
- この場合もトリプルスリーはこの時から注目されていた。
- 踏み忘れが注目されることもなかったかも。
- 達成していれば2016年時点で唯一の「新人トリプルスリー」となっていた。
- 息子の一茂が打ったセ・リーグ通算3万本目のメモリアルアーチが3万1本目のホームランになっていた。
張本勲(1963年)[編集 | ソースを編集]
- 打率が2分(打数から計算すると10安打ほど)足りず。
- 喝のコーナーでは山田や柳田などの後年のトリプルスリー選手に喝を入れていた。
- トリプルスリーに加え生涯トリプルスリーを達成していていた。
イチロー(1995年)[編集 | ソースを編集]
- 本塁打は25本でしたが、この年の本塁打王が小久保の28本と打低の年でした。
- 本塁打王も獲得していた場合、史上初の六冠王になっていた。
- 打撃タイトル6つ全てを獲得した史上初の選手となり、年棒は史実以上に高騰していた。
- また、三冠王とトリプルスリーを同時に達成した史上初の選手となっていた。
- イチローは中距離ヒッターとして知られるようになり、内野安打しか打てないと言われることもなかった。
- 阪神淡路大震災もあって史実以上に大きく取り上げられる。もしかしたらこの年に「トリプルスリー」が流行語入りしていたかも。
- 同年のセ・リーグでは、広島の野村謙二郎選手もトリプルスリーを達成していたので有り得た。
- この年に広島がセ・リーグ優勝し、日本シリーズが広島VSオリックスになっていたら尚更。
- 同年のセ・リーグでは、広島の野村謙二郎選手もトリプルスリーを達成していたので有り得た。
- それでも打点が例年より大きく低いことから、アンチからは叩きのネタにされる
井口資仁(2001・2003年)[編集 | ソースを編集]
- 2001年に.261・30本・44盗塁、2003年に.340・27本・42盗塁を記録している。
- 「ダイハード打線」「100打点カルテット」の名声がさらに高まっていた。
- MLBでも1回は年間20本塁打に到達できていた。
- 山田が達成するまで文句なしに「NPB史上最強の二塁手」と称された。
- 両年で記録していたら2016年に山田へ祝福のメッセージを送っていた。
もし2004年のシーズンにペタジーニと仁志敏久が30号本塁打まで打っていたら[編集 | ソースを編集]
「史上最強打線」の異名をとった2004年シーズンのジャイアンツ打線。そのなかで史実では本塁打29本に終わったペタジーニ、28本の仁志があと1本、2本それぞれホームランを打っていたら?
- ローズ45本、小久保41本、阿部33本、高橋由伸30本に加え、「シーズン30本塁打以上6人」という空前の記録になっていた。
- もちろん、だからといってこのシーズンに巨人が優勝できたわけでは無い(2位にはなったかもしれないが)。「史上最強打線でのV逸」にいっそう箔を付けていた。
落合博満がセ・リーグでも三冠王を達成していたら[編集 | ソースを編集]
- 清原が巨人に移籍せず、西武時代の成績を維持。
- 清原は意地でも巨人に来たと思うが。
辻発彦がセ・パ両リーグでの首位打者になっていたら[編集 | ソースを編集]
1996年に自己最高の.333を記録するものの7厘差でアロンゾ・パウエルに及ばず、仮に首位打者となっていたら。
- 翌年、スタメン出場機会が減ることはなかった。
- 引退後、ヤクルトや西武の監督に就任していた。
- 2017年に西武の監督に就任するらしい。
大杉勝男がセ・パ両リーグ200本塁打を達成していたら[編集 | ソースを編集]
- 「最後にわがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これにすぐる喜びはございません」の名スピーチは無し。