もしあの車両基地が○○だったら

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もしあの車両基地の場所や設備などが変わっていたらどうなっていただろうか…。

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国鉄・JR[編集 | ソースを編集]

追分機関区の扇形庫が火災で焼失しなかったら[編集 | ソースを編集]

追分機関区には国鉄最後(動態保存を除く)の蒸気機関車が配置されていたが1976年4月13日に扇形庫で火災が発生し、庫内の機関車(ディーゼル機関車含む)が2両のDD51を除いて焼失した。もしこの火災が起きなかったら機関車のその後などがどうなっていたか考える。

  1. もちろん保存予定で庫内に保管していたSLは無事保存されていた。
    • 最後(3月2日)の入換運用機79602が残り、同日予備の49468(火災当日は庫外にいた為焼失を免れ中頓別町の寿公園で保存)の価値が相対的に低下。
    • D51 241が追分の鉄道資料館に丸ごと現存し、国立科学博物館には603号機が保存される。
      • その代わり320号機と231号機は予定通り解体された。
      • 1086号機は真岡市井頭公園に保存されて「SLデコイチ館」が出来る。

719系・701系標準軌車の整備を新幹線総合車両センターで行っていたら[編集 | ソースを編集]

719系・701系標準軌車の全検・改造等の整備は新幹線総合車両センターで行う予定だったが、所属する車両基地で行うことになったため、見送られた。

  1. クモヤ793形は本来の目的を活かせる車両になっていた。
    • 持て余す存在になってしまうことはなかった。
    • 秋田にも配置されていた。
    • 今頃はクモヤE493形ベースの車両に置き換えられている。
  2. 新幹線特有の事情もあるので回送は日中に行われていた。
    • 新幹線上を回送する列車にファンの注目の標的にされていた。
    • 新幹線上を回送する時は、最高速度が低い故に営業列車に遅延が生じた。
    • むしろこれこそ深夜に運行していた。高速走行しなければそこまで問題にならないだろうし、何よりこんなのを日中に走らせたら営業列車にとっては明らかに邪魔でしかないし(320km/hになって以降は尚のこと)。
  3. 新幹線総合車両センターのイベントでは719系・701系・クモヤ793形も展示されていた。

埼京線の車両基地が浦和市内に建設されていたら[編集 | ソースを編集]

埼京線の車両基地には当初ロッテ浦和工場の用地が候補として挙がっていたが用地買収が難航したため、急遽川越線を電化して南古谷付近に川越電車区を建設するに至った。では工場の買収に成功し浦和市内に車両基地が設けられていたら?

大宮
おおみや
北与野   宮原
Kita-Yono Omiya Miyahara
  1. 埼京線は当初の予定通り高崎線に直通。
    • 高崎線の大宮-宮原間は複々線化されていた。
    • 湘南新宿ラインの構想が、出てこない乃至遅れていた。乗り入れても宇都宮線がメインに。
      • 湘南新宿ラインが宇都宮線、上野東京ラインが高崎線で住み分ける形になっていた。
  2. 武蔵浦和発着が現実より多く設定された。
    • 史実よりも早く2019年ダイヤに近い形になっていた。
  3. 名称は武蔵浦和電車区→武蔵浦和車両センター(北ムラ→東ムラ→宮ムラ)になっていた。
  4. 川越線の電化は大幅に遅れ、八高線高麗川以南と同時に行われた。
    • 大宮駅では現在も11・12番線を使用。
    • 全線を通して運転する電車が現存している。
    • 代わりに京浜東北線に直通していたかも。
  5. 大宮までの終電がもっと遅くなっている。(少なくとも北赤羽の終電=川越の終電とはなっていないはず)
  6. 千葉ロッテマリーンズの2軍は千葉移転時に千葉県内のどこかに置かれていた。
    • もしくは大宮か、史実のヤクルトより先に茨城にいたかもしれない。
  7. 武蔵浦和は史実よりも商店街などが現代的な発展をして地価も上がっていた。

下十条電車区の検修庫が10両対応だったら[編集 | ソースを編集]

かつて京浜東北線の電車配属基地だった下十条電車区(現:下十条運転区)は検修庫の有効長が7両分しかなかった。もし同電車区の検修庫が10両対応だったら。

  1. 京浜東北線の103系は全て10両貫通編成だった。
    • 常磐線も。
    • 72系及び103系時代初期は8両貫通編成だった。
  2. クモハ103は新製されず、国鉄民営化前後にモハ103からの改造で登場した。
    • 鶴見線は101系を使い続けていた。阪和線支線も101系が転用されていた。
    • 仙石線の105系は登場しなかった。

逗子駅電留線の有効長が長かったら[編集 | ソースを編集]

ちなみに現実では1編成あたり4両まで対応。

  1. 国鉄末期にスカ色の211系が横須賀・総武快速線に投入された。
    • 編成は東海道線と同じだがロングシート車の割合が高くなる。
    • 後に房総ローカル用に転属した3000番台もスカ色の帯になっていた。
  2. E217系は登場せず、2000年頃にスカ色のE231系が投入されて113系を置き換えていた。
    • いや、史実通り登場する。ただし10+5分割編成。
  3. 湘南新宿ラインで久里浜まで行く列車も存在した(逗子で5両切り離し)
  4. 10+5になって以降は、田浦のドアカットも廃止に

松本車両センターの検査線が10両対応だったら[編集 | ソースを編集]

現実では9両対応です。

  1. E257系やE353系の基本編成は10両になっていた。
    • 後者の場合、付属編成はそもそもつくられなかったかもしれない。

奈良電車区が関西本線電化時に開設されていたら[編集 | ソースを編集]

関西本線奈良〜湊町間は1973年に電化されましたが、奈良電車区(現:吹田総合車両所奈良支所)の開設は奈良線電化時の1984年、関西本線用電車の初配置は1985年で、それ以前は阪和線と同じ鳳電車区や日根野電車区に配置されていました。もし関西本線電化と同時に奈良電車区が開設されていたら?

  1. 平城山駅の開業が早まった。
  2. 「天ナラ」標記の101系が見られた。
    • 王寺で冠水する車両は現実より少なかった。
  3. 青帯の113系が関西本線を走ったり、赤帯の113系が阪和線を走ったりすることはなかった。あっても転属前後の一時的な現象だった。
  4. 阪和貨物線を電車が走る機会がさらに減っていた。
  5. 奈良線と関西本線(奈良~木津間)の電化が1980年3月に早まっていた。
    • そうなった場合、複線化も史実よりも早まっていた。
    • 片町線(長尾~木津)と関西本線(木津~加茂)も国鉄時代のうちに電化され、松井山手の開発も早まっていた可能性もある。

私鉄・地下鉄・公営[編集 | ソースを編集]

札幌市交通局が栄町駅付近に建設されていたら[編集 | ソースを編集]

この付近に札幌市営地下鉄東豊線の車両基地が作られる予定でした。

  1. 清田延伸計画が実現していたら確実にあり得た。
  2. 東豊線は6両編成で運行されていた。
  3. 「北車両基地」と名乗っていた。
  4. 西車両基地と同様に地下に建設されていた。

西武が安比奈駅跡付近に建設されていたら[編集 | ソースを編集]

この付近に車両基地が作られる予定だった。

  1. 安比奈線は復活していた。
  2. 上石神井車両基地は史実より早く廃止されていた。
  3. =もしバブルが崩壊していなかったら、である。
  4. 「つばさ」に西武安比奈線が活用されることはなかった。

東武の西新井工場または杉戸工場が10両固定編成の入線が可能だったら[編集 | ソースを編集]

  1. 東武30000系は10両固定編成の運用だった。
    • 東急田園都市線沿線民からクレームが来ることはなかった。
  2. いずれにしろ南栗橋に集約移転は史実通り。

東京メトロ王子検車区が赤羽兵器廠跡に建設されていたら[編集 | ソースを編集]

当時営団は南北線の車両基地を作る際に現在の国立西が丘競技場にあたる国有地(兵器廠跡)に建設することを計画していた。本線~車両基地間は、軍用線の跡地の地下を通って、途中に駅を設けて利便を図る予定だったが、住民などによる反対により、現在の王子検車区になった。参考

  1. 王子神谷行きは赤羽岩淵または車両基地最寄りの駅の行先になっていた。
  2. この区間は現在でも4両のままだった。
    • 支線の為だけに専用編成を用意する方が面倒なので6両になっていたのでは。線路使用料調整の為に東急や埼玉高速鉄道の車両も普通に入線していそう。
  3. 国立西が丘競技場は建設されなかったかも。
  4. 赤羽岩淵から先は都道445・455号の地下を通って車両基地に至っていた。
  5. 市ケ谷駅に留置線を建設する必要はなかった。
  6. オカルトマニアは縁切榎に行くためにりようしていた。
  7. 延伸してエイトライナー、メトロセブン的な路線の一部になっていたかも。
    • 本格的な環状線にするのは難しくても、どうせなら本蓮沼に接続しようとはなっていただろう。かなり近いので。三田線と南北線は都営とメトロで違っても兄弟みたいなもんだし…

名鉄が間内車庫を建設していたら[編集 | ソースを編集]

名鉄は間内駅付近に小牧線の車両基地を作る予定でした。

  1. 300系電車はここに配備されていた。
  2. 小牧線が大曽根まで延伸していたら、確実に建設されていた。
  3. 岐阜県可児市にある名鉄資料館及び名鉄教育センターがここにできていた可能性がある。

名鉄の喜多山検車区が瀬戸線昇圧と同時に4両対応になっていたら[編集 | ソースを編集]

史実では1990年代に喜多山検車区のピット線が4両分に伸ばされたが、これが1978年の瀬戸線1500V昇圧・栄町乗り入れと同時に行われていたら?

  1. 6600系は2+2で入れる必要がないので4両貫通編成で登場していた。
    • とはいえ製造数自体は史実の12両と変わらず、残りはやはり本線からHL車を回していた。
      • ただ後年一部のHL車で連結面の運転台撤去が行われたかもしれない。
    • 6600系の組成は尾張瀬戸方からク6600-モ6900-サ6800-モ6700となっていた。
  2. 後に登場する6750系1次車(6650系)も4両貫通編成になっていた他、2次車は中間運転台を持たない純粋な4両固定編成となっていた。
    • 更に6000系は全編成が最初から4両編成で転入していた。
  3. それでも老朽化や喜多山駅高架化に伴い検車区の尾張旭移転は史実通り行われる。

名鉄の尾張旭検車区に塗装設備が設けられていたら[編集 | ソースを編集]

周辺環境への配慮などの観点から尾張旭検車区(現尾張旭検車支区)では塗装設備が省略された。

  1. 鋼製車の塗装に水性塗料を使うことはなかった。
  2. 純粋なオールステンレス車を入れる必要がないので4000系は登場せず代わりに3300系が瀬戸線に本格投入されていた。
    • 急いで新車に置き換える必要性が薄れることから未だにボロの巣窟だった可能性も。
      • とはいえ前面非貫通な6500系や3500系の瀬戸線転用は不可能なのでいずれは新車が投入されただろう。

京阪の淀車庫が史実よりも早く開設されていたら[編集 | ソースを編集]

史実では、淀車庫は1980年3月に開設されましたが、昭和初期から京阪は淀車庫を建設する計画があり、戦後になって、そのための用地買収を進めていました。。史実よりも早く開設していたら

  1. 深草車庫は史実よりも早く廃止にされていた。
  2. 京阪線の電車線の架線電圧を1500Vへの昇圧が史実よりも早まっていたかもしれない。
  3. 第2期工事、第3期工事の完成が史実よりも早まっていた。
    • それでも、一部の用地が物流施設に転用されるのは史実通りであったであろう。
  4. 淀駅付近の高架化が史実よりも早まっていた。

近鉄が平城宮跡に車両基地を建設していたら[編集 | ソースを編集]

近鉄は以前、平城宮跡に車両基地を建設する計画がありましたが、遺跡保護などの観点から計画が変更され、最終的には大和西大寺駅の南側に建設されました。もし当初の予定通り平城宮跡に車両基地が建設されていたら・・・

  1. 平城宮跡は公園として整備されなかった。
    • 2010年に開催された「平城遷都1300年祭」のメイン会場にもなりえなかった。
  2. 大和西大寺駅が運行上の拠点駅となるのは現実と同じ。
  3. 大和西大寺駅の混雑を緩和するため、新大宮寄りにも出入庫線が設置されていた。
    • 近鉄奈良駅に到着した電車は大和西大寺駅に入ることなく入庫するようになっている。
  4. 大和西大寺~近鉄奈良間を大宮通り地下に移設する計画は生まれなかった。

阪神が尼崎車庫を2層構造にしていたら[編集 | ソースを編集]

阪神なんば線の開業に伴い、阪神は尼崎車庫を2層構造に改築する計画をしていたようですが実現しませんでした。

  1. 桜川駅西側の近鉄用引き上げ線はなかった。
  2. 近鉄車両の阪神乗り入れが現実よりも多くなっていた。
    • 奈良線所属車両は現実より多くの車両が阪神乗り入れ対応になっていた。
    • 近鉄特急の尼崎及び神戸三宮乗り入れも早期に実現していた。
      • USJへのアクセスとして西九条停車は行われていただろう。
      • 近鉄80000系「ひのとり」は前面貫通式になっていた。
  3. 現車庫の真上に高架式で車庫を増設していた可能性が高い。
  4. 尼崎側からだけでなく大物側からも入れるようになっていた。
    • 一部は大物あるいは西九条行きとなっていた。西九条行きは車庫まで回送になっていた。
  5. 阪神と近鉄の乗務員交代駅は大阪難波駅となっていた。

南海が紀伊清水駅付近に車両基地を建設していたら[編集 | ソースを編集]

南海は、高野線の複線化工事の一環として、当初は、紀伊清水駅付近に車両基地が設置される予定でした。しかし、諸事情により、小原田検車区ができました。

  1. 車両基地の名称が「紀伊清水検車区」あたりになっていた。
    • あるいは単に「清水検車区」だったかも。
  2. 橋本から車両基地まで複線化されていた。
    • 紀ノ川橋梁も複線化と同時に新橋梁に架け替えられ、補強されていた。そのため2011年の紀伊半島豪雨で被災し長期間不通になることもなかった。
  3. 林間田園都市行きの電車が史実より少なかったかもしくは、なかった。その代わり、橋本行きの電車が多くなる。
    • 橋本駅自体も島式2面3線に拡張されていた。
    • 紀伊清水行き電車も運行されていた。それ故紀伊清水駅の知名度が現実より上がっていた。
      • 20m大型車の乗り入れ区間も紀伊清水までになっていた。
      • 紀伊清水駅周辺が大阪への近郊住宅地として開発されていたかもしれない。
  4. 橋本駅を出てすぐの大カーブをどうやって20メートル車対応にするか、見物。