もしあの鉄道車両が○○だったら/関西私鉄

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京阪電気鉄道[編集 | ソースを編集]

500形 (初代)[編集 | ソースを編集]

車体更新時に大型化されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 1700系と同様の車体となっていたが、当初から片開き3ドア仕様だった。
  2. 主電動機の絶縁強化は図られた。
  3. 全電動車構成となっていた。
  4. 廃車については史実通りだった。

600系 (2代)[編集 | ソースを編集]

53両全車が昇圧後も残留することになったら[編集 | ソースを編集]

  • 1800系化から外れた39両も昇圧後に残留する場合について考える。
  1. 京阪1000系と同じ部品で高性能化されたが、非冷房のままだった。
    • 形式上は1000系10・20番台となっていた。
    • 690と691は例外として1000系の0番台を名乗った。
  2. 1983年まで残ったのは1800系改造用の14両だった。
    • この14両は史実通りの道を辿った。
  3. 4連6本、3連5本にまとめられた。
  4. 1985年に8両運転が開始された際、旧690と691は冷房化され1000系に組み込まれていた。
    • 以降、4連4本、3連7本の体制となったが、これを7連1本、6連3本、4連3本として運用した。
  5. 史実より6000系の投入数は少なくなったが、代わりに1987年から本系列が界磁添加励磁制御化されるとともに6000系と同一の車体に載せ替えられ、6000系の20番台あたりに形式変更されていた。
    • 一部新造を含め、1988年までに全車の更新が完了し1800系組より先に全滅していた。

700系 (2代)・1000系 (3代)[編集 | ソースを編集]

一部4両固定編成で落成していたら[編集 | ソースを編集]

史実上では7連6本、中間車2両の44両体制でした。

  • 更新後の1000系は7連6本の42両体制になっています。
  1. 5M2Tの7連、3M1Tの4連各4本の陣容となった。
    • 4連は2600系0番台と同じく前面に幌が付いていた。
      • 史実上では1000系への改造後に7連の前面幌は撤去されている。
  2. 44両全車が1000系に改造され、600系への編入・昇圧時の廃車は皆無だった。
    • ブレーキ方式がHRDのため4連は5000系とのみ併結が可能だった。
      • 1980年に置石事故で5554Fが被災した時には本系列との併結運転も見られた。逆に5000系の宇治線運用は現在に至るまでなかった。
      • 他に7連の不足時はサハ1両を抜いて4+3で運用することもできた。
      • 昇圧後に8両運転が開始された際にようやく1000系のみの4連+4連の運用を見るようになった。
  3. 車体更新時にも4連は4連のまま更新された。
    • この際に4連の貫通幌が撤去された。
  4. 10000系、13000系の製造数が少なかった。
    • 代わりに本系列がワンマン化された。
      • その場合、2600系30番台もワンマン化されていたかもしれない。
  5. 逆に新造時から7両編成の10000系が出ていた。

1800系 (2代)[編集 | ソースを編集]

別の車両が改造対象だったら[編集 | ソースを編集]

史実上では631 - 636, 656 - 661, 684, 685が改造されましたが、他の車両が改造されていたら?

690と691
  • 旧2代目700系の、1000系化対象外になった2両。
  1. 684と685が対象外となり昇圧で廃車されていた。
  2. それ以外は史実通りで、1989年に車齢20年弱で2両とも廃車解体となっていた。
  3. あるいはこの2両のみ1800系全廃時に冷房化・付随車化・台車を空気ばね化され、1000系に編入されていた。
旧600型
  • 631 - 636より強度が弱く、史実上では改造対象から外れた旧600型の601 - 622のいずれか。
  1. 前面形状がそのままだった。
  2. 史実より早く1800系自体が全廃されていた。
旧1881・1882
  • この2両は元1810系のため18m車でした。
  1. この2両だけ旧1800系では廃車にならず、新1800系に組み込まれていた。
    • 代わりに684・685が廃車になっていた。
    • 車番もそのまま使われていた。
  2. 外観は1900系の旧1810系車両と同じだった。従って片開き扉で両開き扉を有する他車とは異なっていた。
    • 但し車内は他車と同じグリーン系に変更されていた。
  3. 他の新1800系と同じく、1989年までに廃車されていた。

2600系[編集 | ソースを編集]

30番台がワンマン化改造されていたら[編集 | ソースを編集]

  • 交野線ワンマン運転化の際本系列をワンマン化する構想があったようです。
  1. 同時に車体改修工事も行われていた。
    • ワンマン運転のため運転台部分は1000系と同様に新造されていた。
    • 制御装置などの走行機器はそのまま。
  2. 7連×4編成が4連×7編成に組み換えられていた。
    • 不足する先頭車は0番台の廃車発生品を流用して先頭車化改造が行われていた。
    • あるいは、極端な車種変更を嫌って、4連、3連各4編成となっていた。
  3. 10000系は当初から7両固定編成で登場していた。
    • 10000系増備までの間、0番台の中間に30番台の中間車を組み込んだ7両編成が見られた。
  4. 宇治線のワンマン化が行われた後はそちらでも運用されるようになっていた。
  5. 後に同様の改造を行った阪神5500系の武庫川線用車両と比較されるようになっていた。

3000系(初代)[編集 | ソースを編集]

全て7両編成で製造されていたら[編集 | ソースを編集]

史実では、6両編成5本、7両編成4本で投入されました。

  1. 8500形が3000系電車に編入されることはなかった。
  2. 1989年の鴨東線開業時点では8000系は現実以上にレアな存在だった。
    • 1編成しかない8000系を待つ人は現実よりも多く、その列車は大混雑となっていた。

3000系(2代)[編集 | ソースを編集]

プレミアムカー連結がなかったら[編集 | ソースを編集]

  1. 2021年の緊急事態宣言に伴う休日減便ダイヤにおいて休まされることはなく特急として運用されていた。
    • 同年9月のダイヤ改正では昼間に快速急行が設定されることはなく、15分サイクルに特急・準急・普通が各1本というシンプルなダイヤになっていた。
  2. 急行以下の格下げ運用が2021年以降も存在した。
  3. 13000系の6連が登場することはなかった。
  4. 2022年に3000系が2度目のローレル賞を受賞することもなかった。

5000系[編集 | ソースを編集]

4両編成に短縮されていたら[編集 | ソースを編集]

  • 現実には京橋駅への可動式ホーム柵設置に伴い本線運用ができなくなり2021年に廃車されました。
  1. 5000系の引退は現実より遅れていた。
  2. ワンマン化が行われ、交野・宇治線で運用されていた。
    • 3扉車として運用されていた。
  3. それでも余った中間車は廃車されていた。
  4. 5000系投入により余った13000系は中間車を増備して6連あるいは7連化が行われ、本線に転用されていた。

阪急電鉄[編集 | ソースを編集]

2000系・2100系[編集 | ソースを編集]

複巻電動機を維持していたら[編集 | ソースを編集]

昇圧の際に回生制動が廃止され、更に電動機も直巻化されましたが、複巻電動機のままだったらどうなっていたか考えてみる。

  1. 主電動機出力は188kWと125kWに改められている。
  2. ユニット方式となり、回生制動は一旦廃止されたが、制御器交換で界磁チョッパ制御に改造され回生制動が復活した。
  3. それでも能勢電鉄には譲渡されたが、後の7200系の編成構成に影響を与えていた。

2021系[編集 | ソースを編集]

電装解除されなかったら[編集 | ソースを編集]

電動機に問題だらけで電装解除されましたが、これがなかったらどうなっていたか考えてみる。

  1. 2両ユニットとなり、3個永久直列×2ユニット(端子電圧500V)の構成とされた。
  2. 2200系の実績を踏まえ、電機子チョッパ制御に改造されていた。
    • あるいは京都線の2300系と同じく界磁チョッパ制御に改造され、方向幕取り付け改造なども行われていた。
  3. 3000系や5000系の中間車が現実よりも多く製造されていた。
    • 当初から冷房車の車両も存在した。

2200系[編集 | ソースを編集]

量産化されていたら[編集 | ソースを編集]

電機子チョッパ制御の実用試験車として1975年に1編成だけ導入され,その後様々な経緯があって1995年に形式消滅した2200系ですが,もし量産化されていたら

  1. 神宝線では電機子チョッパ車が普及することとなる。
    1. 京都線用(2400系?)も導入されたかもしれない。
    2. むしろ京都線では2300系・5300系が電機子チョッパ制御に改造され、7300系が電機子チョッパ制御で導入された。
      • 2300系の電機子チョッパ制御改造車は史実でも1両(2311号車)が存在していた。
  2. 神宝線に界磁チョッパ車の導入はなかった。
  3. 史実の8000系は7000系として登場していた。
    • むしろ量産化に伴いこちらが6000系か7000系を名乗っていた。
  4. 南海8000系(初代)や近鉄3000系も量産化されていたかもしれない。
  5. 2000系、3000系、5000系や5100系も電機子チョッパ制御に改造され、2000系については回生ブレーキが復活していた。

阪神・淡路大震災で被災廃車が出なかったら[編集 | ソースを編集]

形式消滅の最大の原因はこの被災による2721の廃車と思われますが、ここで被災廃車が出なかったら?

  1. ルートはいくらかあるのですべて記載する。
能勢電鉄譲渡ルート
  1. 異端車のため4両とも1997年に廃車となり、そのまま能勢電鉄に譲渡、2200系となっていた。
    • 代わりに3100系の譲渡はなかった。
  2. そして7200系導入前後に機器更新を伴う大幅なリニューアルを受けた。
7000系編入ルート
  1. 2007年頃に7000系7090F(7090-7040-7140-7190)に形式変更、2015年頃に機器更新された。
  2. 2024年には史実通り伊丹線ワンマン化改造を受けた。

当初の先頭車が電動車だったら[編集 | ソースを編集]

  • 後の6000系の製造時のように2200系も先頭車が電動車だった場合を考えてみる。
  1. 編成構成は2200-2701-2750-2751-2752-2753-2700-2201とされた。
  2. 1985年のVVVF試作車としての増備分はアルミ車体の先頭車2両(2210と2211)で、2両固定編成が組まれた。
    • 当初は7000系7030Fと4両固定編成を組んだが、後に増結用に転用された。
  3. 1992年にはチョッパ編成がVVVF化され、電装解除は免れた。
  4. 1995年の阪神・淡路大震災で被災廃車となったのは6000系のうちの1両だった。
  5. 2008年には8連がリニューアルを受け、7000系7007Fと同様の前面になり、同時に7000系7040F(7040-7640-7790-7791-7792-7793-7540-7140)に編入された。
  6. 2024年に2210Fの2連は7000系鋼製車と編成を組み能勢電鉄に譲渡され、形式消滅していた。

2800系[編集 | ソースを編集]

当初から3扉車だったら[編集 | ソースを編集]

2ドアから3ドアに改造した結果老朽化を早め2300系よりずっと早く全廃になりました。

  1. 晩年は2300系と共通化されていた。
  2. それでも高速走行により数年ほど早く2300系より全廃されていた。
  3. 6300系は3ドアとなっていた他、9300系で置き換えられたのが2800系だった。
  4. 117系も3ドアで、近鉄2600系は転換クロスシートだった。
    • 場合によっては京阪旧3000系も3扉車になっていた。
      • その場合8000系も3扉車になり、8000系登場に伴いこちらはロングシート化が行われていた。
    • 近鉄5200系電車も4扉転換クロスシートになっていた。
  5. 地鉄への譲渡は検討されなかったかもしれない。(地鉄が2扉にこだわったため。)

5000系[編集 | ソースを編集]

宝塚線での運用が継続していたら[編集 | ソースを編集]

5000系は神戸線に集中配置されいたので、1編成を宝塚線に転属しましたが、運転上、扱いにくいということで宝塚線での運用は中止となりました。もし運用が継続していたら、

  1. 5000系は史実より多く増備されていた。
  2. 5100系は史実より少なかったかもしれない。
  3. 3000系と同様に9000系、1000系の増備により、今津線、伊丹線、箕面線に転属された。
    • 6000系の転属は史実より遅れた。

T車がもっと製造されていたら[編集 | ソースを編集]

5000-5040に将来T車2両が組み込まれることが考慮されておりました。その際に新造された場合、5580、5590になる予定でした。もし、製造されたら…

  1. 2000・2021系の付随車が組み込まれることはなかったかもしれない。
    • ひょっとしたら、5040形と5550形と同様に製造数は少なかった可能性もある。
    • 2000・2021系は5200系に組み込まれていた可能性が高い。
  2. 5200系電車は製造されなかったかもしれない。
  3. 2001年~2007年に行われたリニューアル工事の際に、車番が変更されていた。

6300系[編集 | ソースを編集]

10両編成での運行が実現したら[編集 | ソースを編集]

実際に、計画されていました。

  1. 早くても、1980年代に増備され、1985年11月18日頃に運用され始めた。
  2. 10両固定編成の場合、9300系も10両編成で登場していた。
    • この場合、京阪プレミアムカーに続く形で指定席車を導入していたかもしれない。
  3. 2連による増結の場合、車番は6320番台となり、3扉ロングシートになっていた。
    • むしろ7300系になっていただろう。
      • 7300系の10連増結車と共通運用されていた。
  4. (2連による増結の場合)9300系の登場後も、2両編成の6300系は、増結用として利用された。
  5. (2連による増結の場合)通勤ラッシュ時だけではなく、行楽シーズンの時でも増結されていた。

「京とれいん 雅洛」が6300系の改造による導入だったら[編集 | ソースを編集]

  1. 6356Fか6330Fが改造された。
    • 6330Fは他車と仕様が異なるので6356Fあたりじゃない?
  2. 2011年5月頃に運行され始めた。
    • 2008年5月に「京とれいん」が運行され始めて、2010年3月に「京とれいん 雅洛」が運行され始めた。
  3. 十三駅に停車していた。
    • 2019年3月にホームドアが導入された時には、通過となっていた。

6330Fが機器流用されていたら[編集 | ソースを編集]

  • 車齢25年程度で車体・機器ともに解体廃棄されましたが、機器流用・車体新製しないと勿体なかったようにも感じるので考えてみる。
  1. 新製車体は9300系と全く同じになっていた。
    • ただし、車内はロングシートとなり、形式は7300系に区分された。
  2. 運用開始から数年後、1300系と同様の機器に更新された。

8000系[編集 | ソースを編集]

40番台性能の8連が存在したら[編集 | ソースを編集]

  1. 3M5Tとなり、10番台(8010F以降)に区分されていた。
    • 編成構成は8010-8590-8560-8760-8580-8660-8510-8110とされた。
  2. 8300系8連にも3M5Tの40番台性能が存在し、20番台に区分された。
    • こちらは東洋3レベルIGBTの1C2M×2を採用し、更に主電動機は京阪7200系で実績のあるTDK6151-Aを採用した。
  3. それでも流石に8200系の8連版は登場していない。
  4. 機器更新で4M4Tに変更された。

8200系[編集 | ソースを編集]

京都線でも運用されたら[編集 | ソースを編集]

  1. 車両番号は、8230、8280になっていた。
    • 京都線用なので8340・8490かも。
  2. 早くても、1996年3月頃に登場していた。
  3. やがて、2008年頃にロングシートに変更されていた。
  4. 電機品は京都線用のため東洋電機製で、車体寸法も8300系と同じだった。
    • それでも堺筋線への乗り入れは行わない。
    • 京阪800系と同じ、東洋3レベルIGBTが採用される。
  5. 嵐山線でも運用されていた可能性もあり得る。

宝塚線でも運用されたら[編集 | ソースを編集]

  1. 8000系40番台は登場しなかった。
  2. 恐らく日生エクスプレスの増結用として運用されていた。
  3. やはり神戸線用と同時期に普通のロングシートに改造されている。
  4. 今頃は2+2で箕面線でも運用されている。

L/C車両に改造されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 神戸線特急は今でも10両運用だが、神戸寄りに設置されて座席指定列車になっていた。
    • 宝塚方面でも今津線経由で運行されていた。

8300系[編集 | ソースを編集]

増結用車両が製造されたら[編集 | ソースを編集]

8300系も8000系の8040Fのような増結車が導入されていたら

  1. 10両運転による快速急行が増発していた。
    • 特急の10両運転が実現していたかもしれない。
  2. 新大阪線(十三~新大阪~淡路)が開業していたらあり得た。
  3. 車両番号は、8340、8460になっていた。
    • 史実通り30番台で登場しそれが増結用も兼ねた可能性も。
    • あるいは8340、8490を採用。
  4. 主電動機は京阪7200系で実績のあるTDK-6151-A、制御方式は東洋3レベルIGBTの1C1M×3とされた。
    • 8315Fに次いで機器更新の対象となった。
  5. 10両廃止で真っ先に嵐山線転用となる。

9300系[編集 | ソースを編集]

ロングシート車が製造されたら[編集 | ソースを編集]

  1. 側面や車内は神宝線の9000系と同じような感じになっていた。
    • 但し寸法は異なる。
  2. 恐らく堺筋線直通仕様になっていた。
  3. 車番は9311F~になっていた。
    • 9319Fの中間車に「9999」というナンバーが現れて有名になる。
      • そして、9320Fの登場時に中間車の車番の付け方のことで途方に暮れる。
  4. 2300系の引退が早まっていた。
  5. 1300系の製造はなかったか遅れていた可能性も。
    • もしくは3300系の引退も前倒しになっていた。
  6. 6300系6330Fも同様の車体に更新され、7300系に編入された。

近畿日本鉄道[編集 | ソースを編集]

もしあの鉄道車両が○○だったら/近畿日本鉄道

南海電気鉄道[編集 | ソースを編集]

1000系[編集 | ソースを編集]

9000系との併結運転が行われていたら[編集 | ソースを編集]

  • 1000系は9000系との連結も考慮して設計されましたが、クーラーが異なるためか実際に連結は行われませんでした。
    • リニューアル後も9000系との併結は行われていません。
  1. 9000系と連結されたのは2両編成と4両の1051Fだけだっただろう。
    • 9000系4両及び6両+1000系2両という編成が見られた。
  2. 9000系の4連を持て余すこともなかった。
  3. 間違いなく編成美を乱していただろう。
  4. 9000系がリニューアル前でも8000系、8300系とも併結が行われていた。

1051Fが本線系統に再転属したら[編集 | ソースを編集]

  • 2018年以降1051Fは高野線で活躍しています。
  1. 8300系4連1本と車両ごと交換される。
  2. 特急サザンプレミアムへの充当が常態化することになる。
    • 車端部のボックスシートが賛否両論になる。
  3. あるいは8000系との共通運用が組まれることになる。
  4. 2024年春、本当に転属。

2000系[編集 | ソースを編集]

一部車両の制御装置が異なっていたら[編集 | ソースを編集]

  • 制御装置に1C8M方式の日立GTOインバータを採用しているため、2連単独運用ができないなどの制約が残っており、2300系の製造に繋がりました。
  1. 1995年製の5次車以降が東洋3レベルIGBT、1C2M×4になっていた。
  2. 2031 - 34Fのいずれかは東洋3レベルIGBTの試験に供され、最終的に2045・46Fの製造時に日立GTOをすべて転用し、東洋IGBT化された。
  3. 2300系は存在せず、代わりに本系列が早々とワンマン化された。
    • もとい2連全部がワンマン化され、2200系列は早期に全滅している。
  4. 天空は当初より本系列4連からの改造になっている。

2200系[編集 | ソースを編集]

高野線山岳区間直通運用が史実よりも長く残っていたら[編集 | ソースを編集]

  • 当初は一部を高野線用に残す予定でしたが、最終的には全て2000系に置き換えられました。
  1. 2000系の製造両数が減っていた。
    • 余剰となった車両が本線に転用されることもなかった。
      • その分8000系の製造両数が増え、泉北3000系の本線転用も多かったかもしれない。
    • 熊本電鉄に譲渡されることもなかった。
  2. 橋本までの複線化完成後に17m車の運用が減少すると史実通り支線に転用される。
    • その代わり1521系が21世紀に入ってもしぶとく残っていた。
  3. 2300系の登場や観光列車「天空」への改造は史実通りだろう。
  4. 貴志川線には21000系が転用されていた。
    • 和歌山電鐵に引き継がれるのも史実通りだが、老朽化のため2010年代に東急1000系か東京メトロ03系あたりに置き換えられていただろう。

6000系[編集 | ソースを編集]

車体更新時に6両固定編成が登場したら[編集 | ソースを編集]

  • 車体更新の際、クハ6901がサハ6610に改造されて4両半固定編成が完全固定編成化されましたが、この改造が電動車になされて6100系や6300系のように6両固定編成が誕生していたら?
  1. クハ6901は運転台を撤去されず、6010Fは2両固定編成となった。
  2. モハ6001形の運転台撤去車であるモハ6041形、モハ6091形や6両固定編成向けのサハ6651形が登場し、これらが6両固定編成の中間に組み込まれた。
  3. すべての編成が6両固定編成に改造されたわけでなく、6両固定編成の登場は3本のみにとどまった。
    • 上記モハ6041は6009→6047と6013→6043の2両、モハ6091は6014→6097の1両、サハ6651は6805→6657と、6807→6673、6808→6668の3両のみの存在で、6041-6657は6007F、6043-6673は6023F、6668-6097は6017Fに組み込まれた。
  4. 南海1000系0番台に4両固定編成が存在した。
  5. 後の置き換えの際、8300系にも6両固定編成が登場していた。

廃車ではなくリニューアルしていたら[編集 | ソースを編集]

  • 置き換えのプレスリリースでは南海6000系を「更新」としか書かれておらず、内装を新しくして使い続けるという噂がありました
  1. 一体何年使い続けるのか…。
    • なお養老鉄道に同時期に製造された東急7700系が譲渡されましたが、製造から50年たつがあと30年使えるとのこと。
    • 下手をしたら100年は持つ。
  2. 8300系は存在せず。
  3. リニューアル工事は9000系に準じる。
    • 1編成がオレンジ系のマイトレイン塗装になっていた。
  4. さすがに戸閉装置は新品に交換されていた。
  5. まさかの車齢60年でVVVF化されるという珍事も起きていた可能性がある。
    • ブレーキ方式は電磁直通ブレーキのまま残されていたと思われる。

南海本線にも投入していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 7000系はない。
  2. 8000系(2代)投入が遅れていた。
  3. 6100系も本線に投入されていた。
  4. 南海の鋼製車は特急車を除き1960年以降投入されなくなっていた。
  5. 南海における緑色の電車のイメージは現実よりも薄くなっていた。
    • 銀色の電車のイメージが強くなっていた。
    • 下手をすると本系列や6100系辺りにも早々と緑帯が巻かれていた可能性もある。
  6. 22000系もステンレス車体になっていたかもしれない。

6100系・6300系[編集 | ソースを編集]

台車交換後も6100系のままで形式変更されなかったら[編集 | ソースを編集]

  1. 史実上の6521Fや6200系50番台あたりが6300系を名乗っていた。
  2. 逆に運用上かなり不便だった。

7100系[編集 | ソースを編集]

1次車の更新が行われていたら[編集 | ソースを編集]

  • 7100系の更新は当初非冷房で登場した1次車には行われませんでした。
  1. 1000系の製造両数が少なくなっていた。
    • あるいは7000系が史実より早く廃車になっていた。
  2. 31000系の主電動機は新造で、初代8000系の6200系編入はGTO-VVVF化された上で行われた。
    • 8000系の6200系編入は2001年頃だろうから、流石にIGBT-VVVFだと思われるが、南海では唯一の三菱IGBT-VVVFになっていた可能性も。
  3. 末期は6両固定編成で運用されていたことから、6300系と同じく一部車両の運転台が撤去されていた。
  4. それでも8300系の導入に伴い2010年代に入ると廃車が始まっていた。
  5. 6300系の台車交換は新品で行われていた車両が多かった(泉北100系発生分は流用されるが)。
    • 高野線特急車31000系のモーターは泉北100系から流用されていた。

8300系[編集 | ソースを編集]

6両編成が登場していたら[編集 | ソースを編集]

  1. サザンと併結した10両固定編成が現れていた。
  2. 6両編成は本線系統に配属されていた。
  3. 高野線にも配属された場合、6200系を淘汰している。
  4. 泉北高速鉄道9300系にも6両編成が存在した。

10000系[編集 | ソースを編集]

最初から4両固定編成で製造されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 1985年11月のダイヤ改正で特急「サザン」は8両編成で運行されていた。
    • 急行も8両編成で運行されていた。
  2. 1989年11月のダイヤ改正で南海本線の特急は「サザン」で統一された。
  3. トイレも最初から完備していた。

全ての2両編成に中間車が製造されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 当然ながら、10001F - 10003Fの中間車化改造はなかった。
    • リニューアル化されて、2019年現在でも廃車されずに運行されていたかもしれない。
      • ただ、併結相手である7000・7100系の車齢を考えると12000系への置き換えもおかしくはない。
  2. 場合によっては、中間車は1989年頃に登場していた可能性もある。
    • その場合、10006F~10010Fの登場が史実よりも早まっていた可能性もあり得る。
    • 9000系電車の投入も史実よりも早まり、特急「サザン」・急行の8両化が1988年10月頃に早まっていた可能性もある。
  3. 1992年7月の改正で南海本線の特急は「サザン」で統一された。
    • 全列車が8両化されたのと同時に統一されていた。
  4. 12000系電車は近鉄21020系電車と同様に、リニューアル化に伴う不足を補うために導入されていた可能性が高い。
      • リニューアルが完了したら車両が余るので、一部が高野線に転属し「泉北ライナー」に運用されていた。
      • もしくは、10000系電車の一部が泉北高速鉄道に譲渡していた可能性もある。その場合、泉北高速鉄道所有の12000系電車が製造されることはなかったかもしれない。
      • 最初から「泉北ライナー」向けに12000系電車が投入されていた可能性もあり得る。
  5. 全車座席指定の列車が今でも存続していたかもしれない。

中間車が史実よりも製造されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 中間車に改造される先頭車が史実よりも少なくなっていた。
    • 2013年6月以降は新造された中間車が挿入されている編成のみが運行されていた。

21201系[編集 | ソースを編集]

新性能化されたら[編集 | ソースを編集]

  • 最後まで旧性能車のままだったため、昇圧時に一旦休車となり、1986年までにすべて廃車されています。
  1. 22000系の製造数が史実より4両少なかった。
  2. 21000系に形式変更された。
  3. 先頭車は地方私鉄行になっていた可能性がある。

モハ21202も貴志川線に転用されたら[編集 | ソースを編集]

  • 史実上では一度も本線に戻らず散々放置された挙げ句クレーン試験に供され、1983年に廃車となっています。
  1. クハ21201と2両固定編成を組んでいた。
    • むしろ電装解除されなかった。
  2. 貴志川線の3両運用は早期になくなっていた。
  3. 1986年時点では廃車されず、1995年の2270系転入で引退していた。

阪神電気鉄道[編集 | ソースを編集]

5001形[編集 | ソースを編集]

製造当初から4両固定編成として登場していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 方向幕は3901形3905Fと同様、製造当初から取り付けられていた。
  2. 前面の貫通幌は当初から存在せず、8201Fのような顔面となっていた。
  3. 運転台撤去改造も当然ながら行われず、簡易運転台も製造当初からついていた。
  4. 車番構成が現実と異なっていたかもしれない。
  5. 5131・5331形も同様のスタイルで登場していた。
  6. 史実より普通系車両の終日4連化が早まっていた。
  7. 1996〜2002年頃に5131・5331形共々5500系に準じたリニューアルが行われ、アレグロブルーの塗装に塗り替えられ、バケットシート・車内LEDを装備していたかも。
    • 抵抗制御では消費電力が大きいため、2000系のように界磁添加励磁制御に改造されていた可能性もある。
    • それでも引退は史実と同時期だっただろう。
  8. バリアフリー問題が発生することはなかった。
  9. 中間車の全長が10cm短かった。

1000系[編集 | ソースを編集]

4両編成が登場していたら[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神電車に8両編成と10両編成の運用が増えいた。
    • 少なくても山陽区間を含めて輸送力では阪急神戸線と同水準になる。
  2. なんば線内は10両編成の車両が増えていた他、4+4両の8両運用や4+2の6両運用など運用の柔軟さが増えていた。
  3. 近鉄側にも4両編成の阪神乗り入れ対応車両が存在していた。
    • 9820系に4両編成が登場し、1020系4連も阪神乗り入れ対応になっていた。
    • 8810系や1026系VL35編成も改造対象となった。
      • それなら9208Fも。
      • 8810系や9200系は非VVVF車なので阪神乗り入れからは外されていただろう。むしろ大阪線に転属して1620系とトレードされていた。

近鉄車両規格に合わせて20m化されたら[編集 | ソースを編集]

  1. 4扉車化は避けられない。
    • 場合によっては山陽電車と直通できなくなる恐れも。
      • 山陽電車が20m化6両しなければ阪急に直通先変えていたかも。
  2. 9000系が近鉄乗り入れ仕様に改造されることはなかった。
    • その分1000系が多く製造され、2000系の廃車が早まっていた。
  3. 本線の大阪梅田~尼崎間も20m4扉車に対応していた。
    • 大阪梅田駅の改良に際しては昇降ロープ式の可動式ホーム柵が設置されていた。
    • ダイヤが乱れた時には近鉄車の乗り入れも行われていた。

2両編成がワンマン対応になっていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 武庫川線の赤胴車はこれで置き換えられていた。
  2. 5500系の2両ワンマン仕様車は存在せず、リニューアル後も全て本線の普通で運用されていた。
  3. 武庫川線の他なんば線の増結用とも共通運用になっていた。
    • 既存の2両編成にもワンマン対応の改造が行われていた。
  4. 現実の5500系2連と同様タイガースラッピングが行われていた場合、近鉄線でもその姿を見ることができるようになっていた。
  5. 1000系は阪神全線で走行できる車両となっていた。

8000系[編集 | ソースを編集]

なんば線対応改造をされていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 2000系が引退を免れ、1000系の製造数が少なくなった。
  2. 9300系も直通対応改造をなされていた。
  3. 近鉄側でも8400系や8810系が阪神直通対応となっている。

9300系[編集 | ソースを編集]

ステンレス鋼で投入されたら[編集 | ソースを編集]

  1. 忠実より多くなる一方、この形式も難波線送りされそう。
    • その場合、近鉄乗り入れ改造と同時にロングシート化されていた。
  2. 巨人色電車に対する批判はなかった。
  3. 製造は武庫川車両ではなかった。
    • 恐らく川重か近車が担当していた。
    • 武庫川車両の廃業が早まっていた。
  4. 車体はE231系ベースだった。(9000系が209系ベースなので)

オールロングシートだったら[編集 | ソースを編集]

  1. 阪神にクロスシート車は登場しなかった。
    • 8000系のリニューアルもオールロングシートで行われていた。
  2. 2009年になんば線が開業すると、これも近鉄乗り入れ対応に改造されていた。
    • なんば線・近鉄対応では唯一の武庫川車両製の鋼製車となっていた。
  3. 山陽5000系の一部ロングシート化が現実よりも早まり、該当車両も増えていた。
    • 場合によっては5030系もロングシート化される車両が出ていた。

大阪市高速電気軌道[編集 | ソースを編集]

10系[編集 | ソースを編集]

10連化にあたり新造車を組み込んでいたら[編集 | ソースを編集]

  1. 当初計画通り1989年頃に10連化が行われていたらそうなっていた。
    • 1700形は全車両10系後期タイプの車体を持つ車両となっていた。
    • 増結が1990年代初頭に行われた場合でもデザインは10系に合わされていた。
  2. 1101F~1104Fもリニューアルが行われていた。
    • 2010年代に入って30000系に置き換えられていた。
    • あるいは、試作車の組み込まれた1101Fのみリニューアルの対象から外れた。
  3. 21系の新造両数が減っていた。

30系[編集 | ソースを編集]

近鉄東大阪線(現けいはんな線)開業に伴い谷町線所属車を中央線の50系とトレードしていたら[編集 | ソースを編集]

  • 1986年10月に近鉄東大阪線がの長田~生駒が開業し、50系も生駒まで乗り入れましたが、パワー不足が問題になりました。
  1. 中央線の50系初期車は6両化の上全て谷町線に転用されていた。
    • 中央線で50系6両編成は見られなかった。
    • 代わりに谷町線の30系が抑速ブレーキ取付などの改造を行い、中央線に転属していた。
  2. それでも20系や24系の増備に伴い谷町線に出戻りしていた。
    • 中央線に30系冷房改造車が登場することはなかった。
  3. 後の谷町線20系⇔中央線24系のトレードと比較されていた。

史実よりも多くの車両が冷房改造されていたら[編集 | ソースを編集]

  • 史実では1973年以降に製造された新30系のみ冷房改造されました。
  1. 1969年以降に製造された車両が対象になっていた。
    • それでも1967年製造の旧7000・8000形や1968年製造の先頭車は改造対象から外れていたが、元北急車は改造の対象になっていた。
  2. 車内は史実の冷房改造車と同様のリニューアルが行われ、評判の悪かった小窓の側扉も新品に交換されていた。
  3. 谷町・四つ橋線は史実より多くの車両が改造されたほか、中央・千日前線にも冷房改造車が入っていた。
    • 但し御堂筋線はさすがに新車投入になっていた。
  4. 新20系の投入両数が現実よりも少なかった。
    • 逆に30000系の登場は数年早まり、投入数も多かった。
      • 御堂筋・谷町・中央線の他四つ橋・千日前線への投入もあった。中央線は30000A系以前の市営時代に投入されている。

100形(2代)[編集 | ソースを編集]

50系のT車に改造されていたら[編集 | ソースを編集]

  1. 恐らく近鉄東大阪線開業を機に千日前線から中央線に転属し、T車化改造が行われていた。
    • 車番は50系に編入され、5100形か5600形になっていた。
  2. 中央線所属の50系に関しては抑速ブレーキ設置のほか、谷町線用と同様モーター出力アップも行われていた。
  3. 1編成の中で両開きと片開き扉の車両が混在していた。
  4. 本系列は奈良県への乗り入れを果たしていた。

1000形(初代)[編集 | ソースを編集]

50系への組み込みが実現していたら[編集 | ソースを編集]

  • 1970年代に四つ橋線50系のT車として組み込む構想がありましたが、実現しませんでした。
  1. 製造後20年足らずで廃車されることはなかった。
  2. 四つ橋線における50系の活躍が現実よりも長かった。
    • 四つ橋線からの撤退は1980年頃だった。
      • その後はモーター出力アップの上谷町線に転用されていた。
  3. 1編成の中で両開きと片開き扉の車両が混在していた。

紀州鉄道[編集 | ソースを編集]

キテツ1形[編集 | ソースを編集]

形式名に「キハ」を踏襲していたら[編集 | ソースを編集]

  • 「キハ」以外の称号は本形式が初めてとなりました。
  1. キハ700となっていた。
  2. 史実上のKR200とKR300もキハ710やキハ720あたりとなっていた。