もしあの駅が廃止されなかったら/関東
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群馬[編集 | ソースを編集]
1960年代に廃止された両毛線の駅[編集 | ソースを編集]
- 電化後も、今より両毛線は遅かった。
- そのため、早い段階から快速運転も実施していた。
- 国鉄時代は特に「快速」とは名乗っていなかったが、JRになってから「快速」と名乗るようになった。
- 概ね史実の停車駅と同じだが、犬伏・三重に関しては後々停車駅に昇格してそう。
- 下記の駅のように後々需要が増えた駅も多かったが、多くの駅は普通列車も通過するような駅だった。
- 国鉄時代は朝夕の通学時間帯のみ停車していたが、JRになってから普通列車は全列車停車するようになった。
- 前橋大橋駅はなく、東前橋駅のまま。
- 並走する上毛電鉄と似たような沿線風景になっていたかも。
- 廃駅(当時は休止中)を潰して用地に充てたことを考えると岩舟駅~佐野駅の複線化は実現しなかった。
- 電化が1983年以降ならあり得たかも。
栃木[編集 | ソースを編集]
犬伏駅(両毛線)[編集 | ソースを編集]
- 佐野工業団地の関係者に重宝された。
- 現在跡地付近にあるデイサービスセンターや児童館と組み合わされた駅舎ができていたかもしれない。
- 電化前のような普通列車の通過は発生していない。
三重駅(両毛線)[編集 | ソースを編集]
- 1969年から90年代前半にかけて足利競馬場の観客でにぎわった。
- ちなみに史実での駅休止は足利競馬場が移転してくる前年の1968年。
- 競馬場が閉鎖された現在は単なるローカル駅。
- 臨時改札の跡など競馬ファンでにぎわった時代の名残はある。
- 競馬場跡地に日赤病院が移転した頃に、ユニバーサルデザイン対応の橋上駅舎に建て替え(かつての賑わいの名残がほぼ消滅)。
- Chakuwikiの「両毛線の噂」で「三重県に行けるわけではない」などと書かれる。
- 三重県内に「三重」駅は存在しないことからそういう意味で香川駅(神奈川県)・石川駅(青森県)・福岡駅(富山県)とともにネタになっていた。
古田駅・長久保駅(宇都宮線)[編集 | ソースを編集]
- 宇都宮駅~片岡駅間が遠回りになる事は無かった。
- しかし、鬼怒川の氾濫で不通になってしまう。
- 古田駅に烏山線がくる。
- あるいは古田駅~宇都宮駅間。(駅名は豊郷駅。)
茨城[編集 | ソースを編集]
万博中央駅(常磐線)[編集 | ソースを編集]
- ひたち野うしく駅は存在しなかった。
- 万博終了後もつくばエクスプレス開業までつくば方面の乗り換え客で賑わっていた。
- 西側のバスターミナルは大幅に縮小されて存続。
- 間違いなく科学博終了後に駅名改称が行われていた。
- 所在地の地名から「御幸が丘」と名乗っていた。
- むしろ「ひたち野うしく」に改称されていたかもしれない。
- フレッシュひたちが停車するようになっていたかは微妙なところ。
- その前の「おはようライナー」「ホームライナー」からこの駅に停車していると思われるため朝の上り・夕方~夜の下りが停車すると思う。
- 「HOSHIMARUアッ!」・「一万光年の愛」が発車メロディーに採用される。
中田仮駅(宇都宮線)[編集 | ソースを編集]
- 利根川橋が出来るまでは駅があったが、その後信号場に降格へ。最終的には廃止になってしまった。
- 流石に現在は中田駅に改名されていただろう。
- その代わりに史実で名乗る中田駅が旧国名が付いていた。多分ブルーラインの駅が「相模中田駅」と名乗っていたか。
- 違う県なのでそのままでは。
- その代わりに史実で名乗る中田駅が旧国名が付いていた。多分ブルーラインの駅が「相模中田駅」と名乗っていたか。
- 現在も茨城県内の宇都宮線の駅は2駅あった。
- 南古河駅は構想自体無かった。
- 旧新郷村は中田町に町制化されるもののその後史実通り古河市に編入されていた。
埼玉[編集 | ソースを編集]
加倉駅(東武野田線)[編集 | ソースを編集]
- 岩槻ICのアクセスになるだろう。
- 岩槻ICの近くにはホテルがたくさんあるので、こっちもセットしていたはず。
- むしろ工業団地か何かができている。
- 大宮卸町流通団地が岩槻寄り宮ケ谷塔方向へ間延びする。
- 東北道沿いの不便のように見える大規模マンションが普通に駅前至近立地のマンションに。
天覧山駅(西武池袋線)[編集 | ソースを編集]
- 現在の主な利用客は近くの飯能高校の生徒。
- 比較的最近になって北口もできた。
- ハイキングシーズンには駅名の由来になった山への利用客もそれなりにいる。
- 年始には東急からの直通列車がここまで運行していた。
- S-trainや一部特急が停車していた。
- 年始には東急からの直通列車がここまで運行していた。
- 飯能高校に近付けるため南寄りに移転した可能性もある。
- アニメ「ヤマノススメ」に登場していた。
- ファンによる聖地巡礼の対象になっていた。
東所沢駅(西武池袋線)[編集 | ソースを編集]
- 武蔵野線の東所沢駅は違う駅名で開業していた。
- 南所沢といえるかは微妙、新所沢は使われている、当時の国鉄で町丁名をつける駅は少ない、ということで武蔵所沢になっていた。
- 北所沢じゃない?
- 西武新所沢が北所沢として開業していたならともかく、史実の武蔵野線東所沢はどうみても北ではないような。
- 南所沢といえるかは微妙、新所沢は使われている、当時の国鉄で町丁名をつける駅は少ない、ということで武蔵所沢になっていた。
- 松井駅に改称されていた可能性もある。
- ちなみに当初は「松井村」という駅名だった。
- この場合、国鉄武蔵野線の東所沢駅は史実の駅名だった。
- 「松井」への改名は地元からの要望かも知れない。
- 秋津と併せて急行が停車していたかも。
- この場合、秋津には快速急行も停車していた。
- 池袋線と新宿線の急行停車駅に整合性が取れていた。
武州川辺駅(東武野田線)[編集 | ソースを編集]
- 現南桜井駅は東に二回移転して現在の場所に来る事はなかった。
- そのまま「永沼」駅になっていただろう。
東京[編集 | ソースを編集]
万世橋駅(中央本線・東京メトロ銀座線)[編集 | ソースを編集]
万世橋 | ||||
まんせいばし | ||||
御茶ノ水 | 神田 | |||
Ochanomizu | Manseibashi | Kanda |
- 重要文化財になっている。
- 秋葉原・神田駅はない。
- 戦前は3駅ともありましたが。消えたら総武緩行線の意義がかなり低下します。全部御茶ノ水乗換?
- 少なくとも後者のホームはないだろう。
- つくばエクスプレスは万世橋駅が起点になっている。
- オタクの町の玄関口になっていた。
- 通称(
蔑称?)「マンセー橋」。 - 地下鉄の駅は仮駅なのでいずれにせよ消えていた。中央線駅は「南秋葉原」と改称された可能性も否定はできない。岩本町を考慮すると可能性は低いが。
- 例え一度廃止されても万世橋が要衝として栄えるのであれば復活の可能性は高いだろう。あるいは廃止されない可能性も。
- 交通博物館から大宮の鉄道博物館への移転は、もう少し早く行われた。
- 移転後駅舎は改築されていた。
- おそらく神田万世橋ビルとecuteの開業は史実通り。
- 弁天町駅と比較される事が史実よりも多かったかもしれない。
- 移転後駅舎は改築されていた。
- 肉の万世のビルと地下で直結して、駅構内でもかつサンドが買えるようになったかも。
- 銀座線の(仮)駅も無くならなかったか、改めて『(神田)須田町駅』か何かで復活。
- 上野寄り出口は秋葉原への出入り口になって、銀座方面はJRへの乗換口。
- ちなみに駅は神田川の真下。
- 近年になって日比谷線秋葉原駅と新宿線岩本町駅と連絡運輸を開始する。
- 万世橋駅の備品をそのまま使用していた新子安駅の開業が遅れていた。
- 開業しても、駅名は「北子安」になっていた。
- 付近の私鉄駅に社名が冠されることはない。
- 存続するとしても地下鉄銀座線だけであり、国鉄の方は廃止されていたでしょう。
呉服橋駅(東海道本線)[編集 | ソースを編集]
- 京葉線ホームのような扱いで東京駅に吸収されている。
- 中央線が高架化した際にはここにホームが置かれていた。
- 丸ノ内線開業の時点で地下鉄大手町駅への連絡通路が設置されていた。
東浅川駅(中央本線)[編集 | ソースを編集]
- 占領期に一般の利用も可能になっていた。
- 所在地の町名由来の駅名なので隣の浅川駅が「高尾」に改名してもこちらは改名しない。
- 「浅川駅がないのに東浅川駅」とネタにされる。
- ちなみに「浅川駅」自体は四国にある。
- 所在地の町名由来の浅川駅が変わっていることを考えるとこちらも「東高尾」に改称され、町名自体も変更されてしまう可能性もある。
- 「浅川駅がないのに東浅川駅」とネタにされる。
- 社殿造りの駅舎は橋上駅に建て替えられ姿を消している。
- 建て替えまでは「利用者の割に南口が貧弱」と言われていた。
- 高尾駅舎はどこに移動したのやら。(現実では橋上化に伴いこの近辺に移設予定)
天神駅(東武亀戸線)[編集 | ソースを編集]
- 小村井駅は廃止されていた。
- よくわからない人は亀戸天神の近く?と思ってしまう。
- やはり亀戸水神駅同様「亀戸天神の最寄り駅は亀戸駅です」の看板が設置してある。
並木橋駅(東急東横線)[編集 | ソースを編集]
- 地下化後に明治通り側に移設されていた。
- 渋谷駅からの距離を考えるとホームは8両のみ対応だと思われる。
- この駅も10両対応になっていたのではないか。
- 渋谷駅からの距離を考えるとホームは8両のみ対応だと思われる。
- 國學院大学が駅名改称を要望していたかも。
- 副駅名として「國學院大學口」がついた「並木橋(國學院大學口)」になったかも。
- 最寄駅を渋谷駅新南口としている施設の一部が並木橋駅になっていた。
- 検討されている渋谷駅新南口廃止よるダメージも最小限になっていた。
- 山手線の内側は全て2キロ以内に駅が存在することになっていた。(現実では渋谷区東4丁目の國學院大学裏手辺りが最寄り駅まで2キロ以上ある)
博物館動物園駅(京成本線)[編集 | ソースを編集]
- 最初からもっと長い編成に対応できるように作ってあったのが前提。
- 史実では4両編成もホームからはみ出すほどホームが短く使い勝手が悪かった。
- もしくは1981年にホームが延伸されて6両編成対応なっていたのが前提。
- 駅の雰囲気がレトロ調に統一されている。
- 映画の撮影などで重宝される。
- さすがに自動券売機や自動改札くらいは設置されていた。
- 自動券売機は開業当時の切符売場跡に設置された。
- バリアフリーに対応するため、エレベーターとエスカレーターが設置された。ただし、エレベーターの外壁(ドア部分以外)はレトロ調のものとなっている。
- 近年トイレが改修され、トイレ入り口の高さが高くなっていた。
道灌山通駅(京成本線)[編集 | ソースを編集]
- 西日暮里駅はなかったかも。
- 史実通りあったらこっちを京成西日暮里駅に改称しろという声が出る。
- 普通しか停まらない。
上り屋敷駅(西武池袋線)[編集 | ソースを編集]
- 後に駅名が「西池袋」か「北目白」に変更されたかもしれない。
- 改名されなければ地名関連の書籍でよく取り上げられていた。
- 各停のみ停車。
- 最近になってJR目白駅との接続案内が行われるようになった。
- 立教大学の教員や学生などに重宝されていた。
隅田公園駅(東武伊勢崎線)[編集 | ソースを編集]
- スカイツリーとセットしていた。
- 隣が「とうきょうスカイツリー」駅なのでそれはない。
- はたしていつ頃に営業再開だろうが?
- 60年代ぐらい…。いやもっと早いか?
- 講和発効前には再開できていたと思う。
- イベントがない時は閑散としている。
- 一方で隅田川花火大会の日には物凄い混雑に・・・。
- そこまで大規模に投資されないはずなので今なお昭和の雰囲気を色濃く留める。
- 昭和レトロファンにとっての聖地となっていた。
- しかし東京ミズマチ開業で大幅にリニューアル。
- 墨田区役所最寄り駅は本所吾妻橋ではなくこちらに。
- 副駅名で「(墨田区役所前)」と入っていたかもしれない。
西参道駅(京王線)[編集 | ソースを編集]
- 初台と同様に現在この駅があるのは京王新線だけ。
- 一応京王線の旧ホームは残存している。
- 地下で新宿パークタワーとつながっている。
- 年始には京王線沿線の明治神宮参拝客が多く利用する。
- 東京都庁の最寄り駅としても案内される。
幡代駅(京王線)[編集 | ソースを編集]
- スポーツセンターのアクセスに繋がる。
- この場合だと史実と異なり初台・幡ヶ谷が廃止されていた可能性が高い。
- 京王新線の駅は新宿-西参道-幡代-笹塚になっていた。
- 西参道・幡代が京王新線で初台・幡ヶ谷が京王線ですみ分けていたのでは。
北馬場・南馬場駅(京急本線)[編集 | ソースを編集]
- 新馬場駅は誕生しなかった。
- 2駅を統合しない代わりにそれぞれのホームを上り・下りの片方だけにして同一駅扱いにする措置が取られていたかもしれない。
- 上りが北馬場、下りが南馬場になっていた。
- 史実通りの形で残っているとすれば、天王洲に近い北馬場の方がほんの僅かながら利用客が多いはず。
- 品川区立図書館の最寄り駅は、南馬場駅?(現実の図書館最寄り駅は、新馬場駅。)
鈴ヶ森駅(京急本線)[編集 | ソースを編集]
- 戦時中には機密漏洩防止のため駅が塀や壁で覆われた。
- 当時を知る人々の間で語り草になっている。
- 利用者数は隣の大森海岸駅や立会川駅より少ない。
- 「「鈴ヶ森」という地名には刑場のイメージがある」という理由で住居表示実施の頃に「南大井」と改名される。
- 首都高の出入口が鈴ヶ森だしそのままの気がしなくもない。
- 代わりに海岸駅(現大森海岸駅)が廃止されていたかもしれない。
- 京急の駅の紹介ページでも「ここに刑場があった」と書かれていた。
多摩御陵前駅(京王線)[編集 | ソースを編集]
- 京王八王子~当駅までの区間列車が出ている。
- 単線。
山谷駅(小田急小田原線)[編集 | ソースを編集]
- 山谷と間違えて降りる安宿目当ての訪日外国人観光客が絶えなかったかも。
神奈川[編集 | ソースを編集]
本山駅(鶴見線)[編集 | ソースを編集]
- 隣の国道駅よりは近代化されている。
- 「総持寺」への駅名変更が一回は検討されている。
- 人名由来の「もとやま」駅と誤解されることもある。
神奈川駅(東海道本線)[編集 | ソースを編集]
- 横浜駅は今でも桜木町駅辺り。
- 2代目横浜駅(現在の高島町駅付近)と共存していたことがあるのでそれはない。
- 京急本線の神奈川駅は「京急神奈川駅」と名乗っていた。
- かつては「青木橋駅」だったので、そのままだったのでは?
- でも2020年には京急東神奈川に改称される。
- みなとみらいは別の所で建設していたか?
- 「横浜駅付近と関内・伊勢佐木町付近という2つの繁華街をつなぐ」という目的を考えると別の場所では意味がないのでは。
- 東海道線・根岸線・京急・東急が乗り入れる一大ターミナル。相鉄も多分乗り入れていた。
- 乗り入れ路線が多いわりに利用客が少ないので「関東の八田駅」と言われていたかもしれない。
- 相鉄は保土ケ谷駅へ乗り入れていた筈(資金面・利便性においてもそうなった可能性が大)。そこから桜木町駅方面へ延伸したかも。
- 2代目横浜駅が現存していた場合、「県庁所在地と同じ名前なのに(ry」と言われていたのは神奈川ではなく横浜。
作ノ口駅(相模線)[編集 | ソースを編集]
- 国有化と同時に駅名が変わっていたかもしれない。
- 「作ノ口駅」「作の口駅」→「下九沢駅」か?
- 観光客を増やすために再開発があったかも。
- 通勤通学路線という相模線の性質を踏まえると「観光客誘致」という発想は浮かんできそうもない。
平沼駅(京急本線)[編集 | ソースを編集]
- 改修の時期によっては横浜大空襲で被害を受けた鉄骨が保存されていた。
- 地元の商店街はもう少しはにぎわっていたはず。
- 「一本の鉛筆」(美空ひばり)が接近メロディとして採用されていた。
- なお現実でも平沼駅跡地で京急が横浜大空襲のあった5月29日に慰霊祭を行っている。
キリン駅(京急本線)[編集 | ソースを編集]
- キリンビールのCMソングが接近メロディに使われるのは史実の生麦駅ではなくここ。
- 現在の駅名は付近にあった横浜市電の電停と同じ「滝坂」か。
新小田原駅(大雄山鉄道大雄山線)[編集 | ソースを編集]
- 緑町駅は建設してない。
- 小田原駅乗入れも当然無かった。
- 大雄山線内にも大規模な検査のできる整備工場があった。
- 利用者数は確実に史実より少ない。
- 小田原市当局や川島令三氏が大雄山線の小田原駅乗り入れを主張している。
海老名国分駅(小田急小田原線)[編集 | ソースを編集]
- 海老名国分駅の名残に行く人は増えていたはず…。
- 後に、海老名駅に改名するだろう。
- 国道246号との交点付近への移設が要望されている。
- 小田急線の現海老名駅が存在せず、相鉄線の本厚木乗り入れがそのまま持続されていただろう(本厚木駅までが相鉄本線になった可能性もある)。
- 現在でも海老名より(本)厚木のほうが栄えていた。
- 3路線の中心部分に駅を設置する「海老名総合駅」構想が存在していた。
古河電線駅(相鉄本線)[編集 | ソースを編集]
- 1961年の電気工業解体と同時に「平沼駅」に改名されている。
- 今ごろ「横浜イングリッシュガーデン」になってそう。
相模国分駅(相鉄本線)[編集 | ソースを編集]
- 国分寺・国分尼寺跡の観光用の駅として、機能した可能性もある。
新川島駅(相鉄本線)[編集 | ソースを編集]
- 神奈川東部方面線で混雑するであろう西谷駅を補完できたかもしれない。
- 神奈川中央交通バスとも連絡でき、国道16号線渋滞解消にも役立ったかも(あそこから西側で、16号は二車線になる)。
千葉[編集 | ソースを編集]
北柏駅(東武野田線)[編集 | ソースを編集]
- 常磐線の北柏駅は別の駅名になっている。
鹿島川専用乗継場(京成本線)[編集 | ソースを編集]
- 史実だと改軌のためにやむを得ず作ったので、恒久化するとすればもっと本格的な設備になっていた。
- 最初から鹿島川駅を名乗っていただろう。
- 京成佐倉から1.5kmしか離れていないので、現在でもそれほど栄えてはいない。
- 江原台地区に新駅を作る構想(史実では頓挫)は無かったかもしれない。