もしプロ野球であの事件が起きなかったら/1980年代以前
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1970年代以前[編集 | ソースを編集]
平和台事件[編集 | ソースを編集]
事件の詳細については平和台事件
- 毎日の湯浅監督が日没ノーゲームを狙ってわざと試合を遅らせるような事をしなければ起きなかった。
- それ以前に2度の降雨で試合中断((2度目は1時間の中断だった)という事態なだけに、そこでノーゲームを宣言していれば事件は起きなかった。
- 2度の降雨中断でグランドコンディションが悪かったにもかかわらず、砂を撒いて試合を再開したらとんだ事態になってしまった。
- 件の湯浅監督が毎日の監督を辞任する事はなく晩年(1958年)まで務めていた。
- 現役時代の功績を評価され、野球殿堂入りも果たしている。
- もう少し長生きできていたかもしれない。
- 毎日新聞も史実より長く球団を所有していた。
- 大映との合併も無かったので、パ・リーグは60年代か遅くても70年代までは7球団で運営されていた。
- 大映は1970年に倒産するわけだから、それをきっかけに6球団になっていたかもしれない。
- 大映との合併も無かったので、パ・リーグは60年代か遅くても70年代までは7球団で運営されていた。
三原ポカリ事件[編集 | ソースを編集]
- 三原脩は巨人の監督を辞任はない。
- 西鉄の監督就任はない。
- 西鉄黄金時代もなく、「流線型打線」の存在はない。
- 筒井敬三ももっと長生きできた。
柳川事件[編集 | ソースを編集]
- プロ経験者がアマチュア野球の指導者になれていた。
- 高校生を指導するには、教員免許の取得と『2年間の実務経験』の制度もない。
- (県予選を含む)高校野球のテレビ・ラジオ中継でも、「元・プロ野球選手の解説者」が登場していた。
- 実際、県予選を含む高校サッカーのテレビ中継では、「元・Jリーガー」の解説者がたくさんいる。
- 柳川福三の選手人生も、大きく変わっていた。
- 1973年のドラフトで1位指名された小林秀一の入団拒否はない。
黒い霧事件[編集 | ソースを編集]
西鉄の球団経営撤退の契機、更にパリーグ再編騒動の原因ともなった1969年~1971年の「黒い霧事件」。もしこの事件が起こっていなかったら?
- パリーグの人気は実史ほどに低迷せず、セリーグの巨人・阪神に押されながらも多くのファンを獲得、現実よりも早くプロ野球の人気球団分散が進んでいた。
- 関西では阪神以外の球団も相変わらずそれなりの人気を集めており、特に南海の支持層は多かった。
- 野村克也が通算2500本安打を達成した試合後のインタビュー内での『王、長嶋が太陽の下で咲くヒマワリなら、オレはひっそりと日本海に咲く月見草』という代名詞はなかった。
- 全国的にも巨人一辺倒になることはなかった。
- 西鉄は球団運営から撤退せず、当然ながら南海が福岡に移転することはなかった。
- 西武は代わりに、別の関西電鉄球団(南海・近鉄・阪急)を買収していたかも。
- 大洋ホエールズを買収していたかもしれない。
- あるいは西鉄の経営難でやはり売却されるが、阪急などと同様に昭和60年代の話になった。
- 場合によってはダイエーが西鉄を買収していた。
- ダイエーは史実通りホークスを買収するが、本拠地は大阪のままなので「大阪ダイエーホークス」に改名。
- 南海は大阪球場を使えなくなったので球団売却したんだけどね。
- ダイエーは史実通りホークスを買収するが、本拠地は大阪のままなので「大阪ダイエーホークス」に改名。
- その後はソフトバンクが買収し、福岡ソフトバンクライオンズとなった。
- 90年代には西鉄は平和台球場から福岡ドームに移転。福岡ドームは「福岡西鉄ドーム」となっていた。
- 90年代には西鉄は「福岡西鉄ライオンズ」に改名されていた。
- 2000年代に入って西鉄が経営から撤退し、ソフトバンクが買収していた。
- 場合によってはダイエーが西鉄を買収していた。
- 西武は代わりに、別の関西電鉄球団(南海・近鉄・阪急)を買収していたかも。
- ロッテの東京球場は閉鎖されなかった。
- んでもって、老朽化と手狭を理由に現実どおり千葉に移転。
- その後はヤクルトあたりが本拠地or準本拠地として使用する?
- んでもって、老朽化と手狭を理由に現実どおり千葉に移転。
- 東映の売却はなかったか、実際より遅れていた。
- 西武はここを買収し、後楽園から所沢に移転したかもしれない。
- 地域分散は現実みたいに進んでいたかどうか…。
- 九州はあるとして、北海道や東北は未だ球団がないかも。
- あるとすれば、関西球団の分散移転か…。
- 日本ハムが近鉄を買収し、その後現実どおり2004年に札幌へ移転、北海道日本ハムバッファローズとなった。
- サッカーのプロ化が起きていた。
- 東尾修の一軍昇格は史実より遅れ、通算勝利数も少なかった。
- 野手に転向していたかもしれない。
- あるいは芽が出ないまま引退して実家のミカン農家を継いでいたかも。
- 娘の理子もプロゴルファーになることはなく、石田純一と結婚しなかった。
あの選手が処分されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 池永正明
- おそらく300勝はしていた。
- ただ、例の事件の頃は肩の故障を抱えていたためそんなに投手生活は長続きしなかっただろうという声もある。
- そこで打者に転向していたらどうなったか─と考えてみるのもいいかも。
- 野球殿堂入りしていた。
- 西鉄の永久欠番になっていた。
- 巨人・阪神あたりのセ球団に移籍していた可能性も。
- 東中洲のバー「ドーベル」は生まれなかった。
- いや、史実より遅い時期に開店してると思う。下にあるプロ野球監督・コーチ業等やめた後に。昼は少年野球指導者、夜はバーのマスターの生活で。
- 西鉄は太平洋クラブに身売りしなかった。
- 直接西武グループに買収されていたかも。
- ライオンズはずっと福岡のまま。よってホークスの福岡移転もなかった。
- 今頃、どこかの球団監督か、球団職員となっていた。
- 森監督退任後、東尾ではなく池永がライオンズの監督を務めた。
- 松坂の説得も池永が行っていた。
- むしろ、森の就任はなかった。
- 森監督退任後、東尾ではなく池永がライオンズの監督を務めた。
- 稲尾和久は西鉄・太平洋・クラウンライター・西武の監督をしていた。同様に東尾修は、野手転向していた。
- 落合博満がロッテで大打者として大成できなかった。
- 引退後マスターズリーグの福岡ドンタクズでのマウンド復帰が現実ほど話題にならなかった。
- 森安敏明
- 200勝達成できたかもしれない。
- 殿堂入りできたかも。
- 1998年7月29日に心不全で亡くなったときには多くの元チームメートが森安の葬儀に参列した。
- 小川健太郎
- 王貞治との対決での「背面投法」が現実以上に有名になっていた。
- 斉藤明雄以外にも背面投法を真似する投手が増えていた。
- もっと長生きしていたかも。(史実では1995年没)
- 「燃えよドラゴンズ!往年の名選手編」にも「小川」という歌詞で登場していた。
- 同じく、「ああうるわしの名古屋軍」にも歌詞に登場していただろう。
- 中日で現実以上に活躍できており、1974年には投手コーチとしてリーグ優勝に貢献していた。
荒川事件[編集 | ソースを編集]
- 大洋(現・横浜DeNA)が荒川尭氏を指名しなかったか、指名されても素直に入団していたら、事件は起きなかった。
- 当時のドラフト会議が、開始当初からメジャーリーグに倣って「完全ウエーバー方式」を採用していたら、1969年セ・リーグ最下位のヤクルトは指名順は2番目だったので、すんなりとヤクルトに入団できていたかもしれない。ただ、荒川氏のもう一つの希望球団だった巨人軍は、この年は日本一であり、指名順は一番最後になるので、入団は難しかっただろう。
- ちなみに、日本プロ野球界のドラフト会議で「ウエーバー方式」を採用するのは、事件から9年後の1978年からであるが、「完全ウエーバー方式」ではなく、偶数の指名順位は「日本一になったチームのリーグ」から順に指名する「変則ウエーバー方式」である。
- 事件が起きず、それが原因で負傷していなかったら、入団したヤクルトではルーキーから大活躍し、新人王を獲得していただろう(史実の新人王は、大学時代からの同級生で中日に入団した谷沢健一氏である)。
- 現役生活も、主力として活躍していたかもしれないので、もう少し長かったかもしれない。
- 上記にもあるように、同期で中日に入団した谷沢健一氏とともに「右の荒川、左の谷沢」と並び称され、前年に入団した田淵(阪神)、山本浩二(広島)、富田(当時は南海)の「法大三羽ガラス」にあやかって、「早大コンビ」と呼ばれていただろう。
- 現役引退後は、ヤクルトのコーチ、監督を長きに渡って務め、将来的にはゼネラルマネージャーに就任していただろう。
- 史実に反して荒川氏の現役生活が長かったら、昭和53年にテレビ朝日系で放送された石森(石ノ森)章太郎原作のスポ根ドラマ『レッドビッキーズシリーズ』の野球指導にはならず、甲子園か大学野球ではスター選手だったものの、プロ入り後はあまり大成せずに引退したOB選手が務めていたかもしれない。
ロッテオリオンズと太平洋クラブライオンズの遺恨騒動[編集 | ソースを編集]
事件の詳細についてはライオンズとオリオンズの遺恨
- ライオンズの西武への身売り、および埼玉への移転は無かったかもしれない(この騒動が移転の遠因となったと言われた)。
- ダイエーの福岡移転も無かったかも。
- もちろん事実上のダービーマッチとなる「千葉vs埼玉ライバルシリーズ」も無かった。
- ロッテの福岡移転が実現していたかも知れない。
- この場合ダイエーは大阪に残るか神戸を本拠地にしていた。
- オリックスの西宮撤退は無かったか千葉へ移転していた。
- この場合ダイエーは大阪に残るか神戸を本拠地にしていた。
金田正泰の「サルでもタバコを吸うのか」発言[編集 | ソースを編集]
- 権藤正利が実働20年の連盟表彰を棒に振ることはなかった。
- 現役生活も、もう少し長かった。
- 現役引退後は、テレビ神奈川orサンテレビあたりの独立U局で解説者を務めていただろう(権藤氏は阪神以前には、大洋にも在籍していたことから)。
- 現役生活も、もう少し長かった。
- 金田と(上の権藤を含む)選手との対立が表面化することはなかった。
- 1974年に阪神の成績が低迷することもなかった。
- それ以前に73年に阪神が優勝出来ていたかも。
- いや、ちょっと待て!1973年の阪神が残り試合2試合のうち、「優勝まであと1勝」というところで連敗したのは、球団社長の「これは(金田)監督も了承済みなんだけど、優勝すると金がかかるから、勝たんでもええ」という事で連敗したわけだから、史実通り巨人がV9を達成していた。
- それ以前に73年に阪神が優勝出来ていたかも。
- 1974年に阪神の成績が低迷することもなかった。
上田監督の日本シリーズでの1時間以上に渡る猛抗議[編集 | ソースを編集]
- 足立が中断時間に水が溜まって投げられなくなることはなかった。
- 大杉の打球がホームラン判定された場合
- この時点で3対0だったので、ヤクルトの勝利は変わらなかったと思われる。
- 大杉の打球がファール判定された場合
- 広岡監督が抗議するか?
- 足立が好投していれば阪急の日本一だったかも知れない。
- この場合、ヤクルトの日本一は1993年まで待たなければならなかった。
- 広岡監督の辞任が早まった。
- 日本一を逃した責任からヤクルトの監督を続けていたかもしれない。
- 上田監督は退任せず、1990年まで監督業を続けていた。
- 梶本隆夫が阪急の監督に就任することはなかった。
空白の一日事件[編集 | ソースを編集]
1980年代[編集 | ソースを編集]
宇野勝のヘディング事件[編集 | ソースを編集]
- 当時の巨人の連続試合得点記録は星野仙一がストップしていた。
- 『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』は生まれなかった。あるいは生まれても、史実ほどの人気を博すことはなかった。
- みのもんたは無名のままだった。
- 宇野が引退後も同番組に何度も呼ばれることもなかった。
- 宇野自身は強打者としての実力とキャラクターから相応の人気を得ただろうが、あれほどの名物選手とはならなかった。
- 宇野が米袋をヘディングするCMも存在しない。
- 「風雲!たけし城」で「君も宇野くん」という競技が誕生することもなかった。
- 山本功児が亡くなった時に、故人にとっては凡打であるあの打席が現役時代の代表的なシーンとして話題になることはなかった。
- 翌日の新聞で江本孟紀の「ベンチがアホ」発言がもっと大々的に取り上げられた。
江本孟紀の「ベンチがアホ」発言[編集 | ソースを編集]
- 1982年以降も現役を続けていた。
- 阪神優勝後に引退していた。
- 阪神優勝時で37歳なので主力としていけたかは微妙だが、少なくとも史実のような打高投低のチームであるならば7〜8勝はしたと思う。
- 解説者にはなっていたが、「プロ野球を10倍楽しむ方法」はベストセラーにならなかった。
- 参議院選挙への立候補もなかった。
- いずれは阪神の監督になっていた。
- 翌日の新聞で宇野ヘディング事件がもっと大々的に取り上げられた。
横浜スタジアムでの審判集団暴行事件[編集 | ソースを編集]
事件の詳細については横浜スタジアム審判集団暴行事件
- 事件の発端となったフライを捕球し損なった大洋の石橋貢選手が捕っていればこんな事件には至らなかった。
- その石橋の選手人生も大きく変わっていた。
- 上記のプレーがエラーとなっていた場合は石橋選手は一試合4失策のセ・リーグ新記録という不名誉な記録を残していた。
- ちなみに事件の起きた試合では石橋は3失策をしており、セ・リーグタイ記録でもあった。
- 審判に暴行を働いた阪神の島野・柴田両コーチが球界追放寸前になるくらいの汚名を残す事はなかった。
- 史実でも島野コーチは後の星野中日・阪神時代における名参謀として評される事になるが、史実以上の高評価を得ていた。
ウォーレン・クロマティの乱闘騒ぎ[編集 | ソースを編集]
- 宮下昌己の知名度は上がらなかった。
- 宮下は引退後家業の米屋を継いでも、名刺に野球選手時代の写真を使わなかった。
- 翌日の新聞で衣笠祥雄の連続試合出場世界新記録がもっと大々的に取り上げられた。
リチャード・デービスが大麻所持で逮捕、解雇[編集 | ソースを編集]
- 近鉄はラルフ・ブライアントを獲得しなかった。
- シーズン終盤に西武を追い上げることができず、10.19もなかった。
- 翌年も西武、オリックスとの優勝争いに加われたか怪しい。
- 西武の森監督は在任期間中優勝できなかった年はなかったかも。
- 当然、10.19でのロッテ有藤監督の抗議や 「巨人はロッテより弱い」騒動もなかった。
- 翌年も西武、オリックスとの優勝争いに加われたか怪しい。
- ブライアント自身も中日の外国人枠の関係で一軍に上がれず、史実のように大成はしなかったかもしれない。
- シーズン終盤に西武を追い上げることができず、10.19もなかった。
- 近鉄バファローズのOBトークショーに出席。
- 東尾と両軍OBによる真剣勝負が行われいた。
- 中日→オリックスのスティーブン・モヤがブライアントと比較されることもない。
掛布雅之の飲酒運転、スピード違反[編集 | ソースを編集]
- 当時の久万オーナーとの確執がないので、現場復帰・指導者就任がもっと早かっただろう。
- 負広GM時代の変な肩書きでの臨時コーチ就任もなくすんなりと現場復帰出来ていた。
- 日テレや毎日放送の解説者にはならなかった。
- なるとしてもコーチor監督退任後だろう。
- 同時期に腰痛にならなければ尚更もう少し長く活躍できていた。
- 萩原誠などの背番号31の後継者も現実以上に活躍できていたかもしれない。
10.19でのロッテ有藤監督の抗議[編集 | ソースを編集]
- 時間制限が残るので、遅延工作が常態化する。
- 試合終盤で逆転の恐怖があると、引き分けに持ち込むため、抗議だけでなくファールを乱発したり投球を遅くする。
- 規則で「故意の遅延は没収試合」となっているので、提訴試合が大量に起こり、コミッショナーが困惑する。
- 「本来なら近鉄はこの試合を提訴すべき」という意見があったかどうかはしらないが、「優勝決定戦で提訴試合があり」、試合のやり直しまたは1位と2位のプレーオフが臨時に行われていたかもしれない。
- ということで、クライマックスシリーズは史実より早い時期に検討されている。
- 「本来なら近鉄はこの試合を提訴すべき」という意見があったかどうかはしらないが、「優勝決定戦で提訴試合があり」、試合のやり直しまたは1位と2位のプレーオフが臨時に行われていたかもしれない。
- ロッテに対する悪意を持つ人はまずいなかった。
清原和博のバット投げ・飛び蹴り事件[編集 | ソースを編集]
- 平沼定晴の知名度は上がらなかった。
- ただ単に「落合博満との大型トレードで移籍した1人」というイメージのままだった。
- 清原の出場停止がないので、1989年のパ・リーグは西武が5連覇、94年までV10になっていた。
- 一方で近鉄がリーグ優勝・日本シリーズ進出を逃すので、下記の「巨人はロッテより弱い」騒動もなくなる。
- 清原は結局遅かれ早かれ別の試合で、乱闘のイメージが強くなっている。
- 「プロ野球珍プレー好プレー大賞」の瞬間視聴率ランキング1位が別のシーンになっていた。
- 可能性があるのは実際では2位だった「3連続ホームランでぬいぐるみを3個とも受け取る親子ファン」だったかも。
「巨人はロッテより弱い」騒動[編集 | ソースを編集]
加藤哲郎は1989年の日本シリーズでのインタビューで「シーズン中の方がしんどかった。相手も強いし」とコメントしたが、翌日のスポーツ紙の見出しで「巨人はロッテより弱い」という見出しで報じられ、騒動になった。
- 巨人の逆転日本一はなかった。
- 事実、加藤の発言に選手が発奮しての日本一だったから。
- 近鉄が日本一になれていただろう。仰木さんの監督勇退も遅れているかも。
- 近鉄が60年以上一度も日本一にならなかったなんてことはなかった。
- 2004年にオリックス・ブルーウェーブと合併して消滅することはなく、バファローズが身売りされていた。
- 楽天に身売りされて仙台に移転し、「東北楽天バファローズ」になっていただろう。
- 逆に巨人は近鉄に4タテされて日本シリーズに大敗していた。
- その後、加藤が選手として大成したかどうかは微妙なところ。
- 発言によって目立つことが無かったため、タレントにまではなってなかったかも。
- 後に始まった交流戦でこの発言がネタにされることもなかった。
- 史実通り第7戦まで行ったとしても、駒田の「バーカ」発言はなかった。
- 2024年日本シリーズにおけるソフトバンクの村上隆行打撃コーチの「(Dena東よりも)宮城の方が全然良い」発言が大きく注目されることはなかった。
- ちなみに、村上は1989年日本シリーズの第7戦の最終打者であった。