千葉工業大学

ナビゲーションに移動 検索に移動
津田沼キャンパス
  1. 千葉県習志野市に所在。
    • 工学部、情報科学部、社会システム学部の3つを擁す。
      • 大学の特徴は工業大学にもかかわらず、専門教育だけでなく、教養教育が充実しているところ。個人的には心理学や歴史、哲学、憲法などがオススメ。
    • 略称は千葉工大、工大と呼ばれることが多い。英表記ではCIT、ChibaTech、Chitechとも呼ばれる。
    • 最初は神奈川にあった。
  2. 大阪工業大学と同じく、国立でなく私立。
    • 多分、私立では荷が重すぎるほどの社会的使命を持ってると思う。
      • 日本の未来を拓くための鍵を握ってる気がするがよくわからない。
      • 東洋哲学、西洋哲学、日本伝統の哲学を参考にしながら新しいモノを創造しようとする姿勢が見られる
      • 国家及び日本民族存亡の危機にあたり作られた特別な使命を帯びた大学で、英霊たちの意志を引き継ぐ唯一の教育機関でもある
        • 500年、1000年後になるかわからないが日本民族の再興を託されている[1]
    • 元々は文部省主導で作られた官立大学だった。
      • 開校は1942年(昭和17年)5月だが、政府は1941年(昭和16年)12月8日に大学設置の許可を出した。しかも「興亜」なる名前で。
        • 興亜工業大学設立趣意書は日本人(アジア人)を代表して1941年(昭和16年)12月8日に提出された。もちろんアジア解放を望んだ日本国民自身の手で提出された。
        • なぜ国民自身に自発的に提出させたのか?それは大学での教育法から見て、日本民族と再起と戒めの契約を結ぶため、そして日本人の崇高なアジア解放の意志とその責任を記憶させるためであろう。
      • 創設目的は国家枢要の人材の養成とアジアを背負い世界文化へ貢献する人材の育成。
        • エコール・ポリティクのような総合エリートを養成するための拠点として作られたのかもしれないし、アジアにおけるノーベル賞の拠点(世界文化に貢献する拠点)を創生しようとしていたのかもしれない。
          • そんな単純な話ではないが...もしかしたら、この大学が世界の各方面で活躍すればするほど世界平和が近いづいていくのかもしれない。
        • 西田幾多郎の考えが反映されているならば、世界人類はもちろん、もっと大きな地球規模の単位での動植物をはじめ地球に生けるものすべてが共存共栄をはたすための拠点として作られた可能性がある(八紘為宇の精神)。
          • 一つ言える事は、あの時代(戦時中)にグローバルに活躍する人材の養成を目指していたのは正直凄いと思う。
  3. 現存する工業大学の中では最も古い歴史を持つ。
  4. 国粋系だと思われがちだが、リベラルな面もある。正直、特に偏った思想は無い。とても平和で自由な校風
    • 昔は右派が強く、寮は酷かったらしいが。
    • 共通の概念があるとすれば大和心みたいなものかもしれない。
    • もとは高等技術者や高官を育成することを任務としており専門教育だけでなく高い教養をもった人材を育成するための紳士教育も一貫して行われていた。
    • 不思議なことに大学の建学の精神及び教育方針は海軍反省会で指摘されている戦前の高等教育(大学及び軍学校)の反省点を改善したものとなっている。
      • ここの建学の精神の原点を辿るとその起源は吉田松陰の松下村塾や広瀬淡窓の咸宜園に行き当たるが、この大学の創立には様々な身分や立場の人が関わっているせいか、ある意味それは社会経験が豊富な人々が集まって形作られたわけで、大学史を学ぶだけで近代史や教育史を学べとても勉強になる。
        • 創設者達が明治から大正、昭和にかけて自ら学んだり、自ら体験したこと、江戸時代までの日本の教育について研究したり、実際に教育現場でその事例や海外での教育事例をとりいれてみたり、創意工夫して新しい教育形態を実践してみたりと色々な実験活動を通じて、真の教育とは何かを模索し、その集大成としてここが作られた事がよくわかる。
        • 忘れがちだが山本五十六の語録で有名な上杉鷹山が創設した興譲館教育(会津教育)の精神の影響もあるので忘れずに。
  5. 手作り大学
    • 学生の自律性を大切にするとこで、学校の校旗や校歌、校則づくりなども学生が行い、寮の運営やメンテなどの自治を学生がやっていた。
      • 興味深い話は君津の時の話で、当時は大学が一番苦しかった時で、学校運営のために資金が足らず、教師や学生らが木更津船で横浜まで渡り、アルバイトをして学校運営のための資金をカンパしあったとか。当時は終戦時で、大変な時期だったけど国民や県民も寄付をしてくれて、その資金を使って校舎を学生と教師が作ったりした。
        • 町民とのつながりも深く、街中で授業をしたり、町の人の手伝いをしたり、スポーツなどをしたりしてとても思い出深かったらしい。
  6. 習志野市で唯一の60m超えビルのあるところ。
    • 2棟あるが、駅から見て遠い方の2号館が近い方の1号館より先の竣工。現1号館竣工当時は前者が「新1号棟」、後者が「新2号棟」だったため。
  7. 世界初で、学生証をICカード化した大学である。
    • このICカードで、授業の出欠や成績確認などが行える。
      • ちなみに、端末名は「KISS」
      • 生体認証を使っていたが、2013年3月でやめてしまった。
  8. キャンパスは津田沼、千種、芝園、茜浜の4箇所にある。
    • 津田沼、芝園、東京スカイツリータウンの3箇所。茜浜に「茜浜運動施設」、千種町に男子寮である「千種寮」がある。
      • 芝園キャンパスは2013年4月から新習志野キャンパスに名称が変更されている。
        • ちなみに同キャンパスに新しく寮が作られる。学校関係者は寮教育に変な拘りがあるのか、新寮が完成した暁にはイギリスのカレッジ教育を導入するらしい。
  9. 創立には皇室関係者や政府関係者、学術界における要人が関与している。主な創立関係者は以下の通り。
    • 東久邇宮稔彦王(皇族、内閣総理大臣、防衛総司令官)、永野修身(海軍大臣、連合艦隊司令長官、軍令部総長)、小原國芳(玉川学園長)、小西重直(京都大学総長)、森矗昶・森曉(森コンツェルン代表)、東郷実(政治家)、本多光太郎(東北大学総長)、平賀譲(男爵、東京大学総長、戦艦大和設計者)、八木秀次(東京工業大学学長、内閣技術院総裁)、西田幾多郎(哲学者)、本間俊平(キリスト教伝道者)、武者小路実篤(作家)、徳富蘇峰(政治評論家)
      • 永野元帥が会議で述べている亡国発言に出てくる子孫とは同大学のことを指す。
        • 金を残すは下策、仕事を残すは中策、人を残すは上策、後藤新平ではないが偉大ちゃ偉大。
  10. 第1回入学式はミッドウェー海戦の翌日で、急な指令だったこともあり、当初はすべての建物がまだ完成してなく、英語や音楽、古典、道徳などの教養科目の授業を青空の下、芝生の上で生徒が教師を囲みながら行われたが、この授業方式は生徒と先生との関係において建学の精神である「師弟同行」に近いものとなり、好まれたという。
    • その授業風景を宮様や永野修身元帥らが、度々視察に訪れていたという。
    • 大学は世俗から切り離された自由な環境だったという。
    • 学生の制服は帝大のような学生服姿ではなく、背広にネクタイ(紳士服)だった。
  11. 上智大学と合併する噂があった。