秦
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王朝の噂[編集 | ソースを編集]
- 万里の長城が完成。しかし建設中に死亡した人は数知れず。このころ苦役を逃れて隠れた人民がいまだに生き延びておりたまに出没するが、「長城を建てろ~」と言うと退散する。
- 実は大正時代と同じ年数。
- 実は隋とも同じ年数。
- 実はchinaの語源。
- 更に支那の語源。
- 更に支那の語源
- Chinaといっても批判はされず、支那(←変換候補ででてこない)というと批判される。よ~わからん。
- しかも字を当てたのは彼の国の人本人。
- 渡来人秦氏の語源とも言われる。源平に比べて余り流行らなかったが日本の戦国時代四国の土佐に本拠を置いた大名は当主が蝙蝠であったため権威付けのために秦氏を名乗った。
- 日本各地に「秦」のつく地名があるがこれは秦氏に由来している。例えば京都の「太秦」とか。
- 寝屋川市にはその名もズバリ「秦」という地名がある。近くには「太秦」もある。
- 「秦」「羽田」「波田」「波多野」など「はた」という読みが入る苗字は大体これに由来する。
- 日本各地に「秦」のつく地名があるがこれは秦氏に由来している。例えば京都の「太秦」とか。
- 不倫の子始皇帝、疑惑隠しのため実の父親をぶっ殺す。
- 皇帝が「不老不死の薬を探してこい!」と無茶言うので、東方にあるという蓬莱(≠551)に探しに行った人がいた。
- 和歌山県新宮市に到着?
- 探索という口実の元、国外逃亡だったと言う説も。
- 三重の熊野に徐福が辿り着いたといわれる場所に神社が建てられてる。
- 本に火をつけられ生き埋めにされた人が続出。
- ある意味文化大革命である。
- 兄は崇雷、弟は崇秀。
- 始皇帝は子供の頃、大人の事情で色々といじめられ、人間不信になっていたらしい。
- 滅びたきっかけは「洪水」。招集された兵士たちが期日に間に合わなくなり、法律で死刑になることが決まったために反乱を起こしたことがきっかけで滅びた(陳勝・呉広の乱)。
秦の皇帝[編集 | ソースを編集]
始皇帝[編集 | ソースを編集]
- 秦王国の国王であった「政」が、戦国時代にすっかり価値が下落してしまった「王」の称号を嫌い、新しい上御一人の称号として「皇帝」と名乗る。
- 自分の功績は、上古の「三皇五帝」をひっくるめたものに匹敵すると考えたため。
- ちなみに「皇」も「帝」も、もともとは古代の神の名前らしい。殷末期の数人の王が「帝」を併称したことはあったが、その後ほとんど使われていない。
- 戦国時代の後期、秦の王と斉の王がごく短期間、「西帝」と「東帝」を称したことはある。
- ちなみに「皇」も「帝」も、もともとは古代の神の名前らしい。殷末期の数人の王が「帝」を併称したことはあったが、その後ほとんど使われていない。
- 最初、博士に新称号を諮問したところ、「上古には天皇・地皇・泰皇の三人の帝王がおり、中でも泰皇がいちばん尊かったので、泰皇と名乗られては?」と答申があったが、「前に誰かが名乗っていたことのある称号など要らん!」と、自分で「皇帝」という言葉を考え出してしまった。
- 「文王」「武王」というような諡号も否定。
- 自分の功績は、上古の「三皇五帝」をひっくるめたものに匹敵すると考えたため。
- 空前の大土木狂。
- 他の国を亡ぼすたびに、その国の王宮と同じものを首都の咸陽に再現した。
- 長さ数百キロに及ぶ軍用の直線道路を造った。ローマと並ぶ世界最古の高速道路。
- 万里の長城を造った。
- ただしこれは始皇帝が全部やったわけではない。趙や燕などが作っていた長城を改築・連結したもの。
- 自分用の巨大な陵墓を造った。
- ところが、自分は不老不死になるつもりだったので、矛盾している。
- 現在の西安郊外に残る兵馬俑がこの陵墓。数千体の素焼きの兵士像が発掘されて話題となった。
- あれだけの人形を作るために、どれほどの燃料が必要だったか空恐ろしくなるが、当時としては、人間を殉死させないための善政だったという話も。
- 阿房宮を造った。
- あまりに規模が大きすぎて、生前には完成しなかった。
- その建設計画の誇大な馬鹿馬鹿しさから、「アホウ」の語源とされているが、真偽のほどは定かでない。
- 「阿房」は本来は地名。
- 韓非の法家思想にかぶれる。
- 韓非の著作(韓非子)のプロローグだけ読み、「この著者と話ができるなら死んでもいい!」と叫んだとか。
- 実際に会見して教えを受け、大いに感激したが、他の君主に取られることを恐れて、この恩師をあっさり殺してしまった。
- 宰相の李斯が讒言したせいだとも言われているが、怪しい。
- 何度も生命の危機にさらされている。みずから戦陣に立ったわけでもないのに、こんなに何度も死にかけた人も珍しい。
- 幼少期、人質として趙に居たが、本国の秦は容赦なく趙を侵略したため、殺されそうになった。
- 生母と密通した長信侯・嫪毐が、自分の子を王位につけようとして陰謀をめぐらせ、殺されそうになった。
- 幼馴染みだった燕の太子に、大人になってから再会したが、冷たい扱いをしたので逆恨みされ、刺客の荊軻を差し向けられて、殺されそうになった。
- その後に荊軻の親友である高漸離からも、敵を討つべく命を狙われる羽目になる。
- 韓を亡ぼした後、遺臣の子である張良に行幸中狙撃され、殺されそうになった。
- 「皇帝だけは別格だが、あとは全国民が法の前に平等」という一君万民思想は、ある意味近代的だったが、中国にはその後もまったく根付かなかった。秦の滅亡は、法治そのものの滅亡でもあった。
- 残虐・暴君というイメージがあるが焚書坑儒の際に殺害した知識人はたった460人のみだったりする
- 近年の評価はうなぎ登り。紂王や煬帝とかもそうだけど貶められすぎた部分を除くと結構普通だったりする。
- いや、当時の知識人口で460人はめっちゃ多いのでは。いいかげんな儒者がアレなだけやんというのはともかく。
- 白起は数十万人穴埋めにしてるけどな。
- 実は世界最初の中央集権国家を作り上げた人物とされる
二世皇帝[編集 | ソースを編集]
- 名前は「胡亥」。
- ある方士が始皇帝に「秦を亡ぼす者は胡なり」と書かれた予言書を奉った。始皇帝は「胡」を匈奴のことだと思い、万里の長城の建造を命じたが、実はこれは胡亥のことだった……という話が、まことしやかに信じられている。
- 始皇帝の最後の旅行に付き従っていたことから、二世皇帝になってしまう。
- 本来の後継者は長兄の「扶蘇」だったのに、胡亥の家庭教師をしていた宦官・趙高の陰謀で始皇帝の遺言が書き換えられ、扶蘇には自殺を命じて胡亥を後継者とした……という話が、まことしやかに信じられている。
- 本当はどうだったのか、誰も知らない。
- 扶蘇はなかなか人気のある皇子だったので、秦が亡びた後、嘆く遺民たちが、「始皇帝は本当は扶蘇を後継者に指名していたんじゃないのか?」と噂しあい、それが趙高の陰謀物語に仕立て上げられて行った可能性もある。
- いずれにしろ、当時としても不自然な即位と思われていたようで、二世皇帝は即位後、文句をつけそうな兄弟たちを片っ端から殺してしまった。
- 宦官・趙高の言うなりだった。
- 上記の即位秘話が生まれたのはそのせいでもあったろう。
- 趙高に鹿を献上され、「どうぞこの馬をお納めください」と言われた。
- 「鹿ではないか」と答えると、「いいえ、馬です」と言い張られた。
- 他の臣下にも訊いてみると、「馬」説と「鹿」説が両論あって、わけがわからなくなった。
- 「鹿」説の臣下は、その後趙高に皆殺しにされてしまった。趙高が、自分に従う役人と従わない役人とを見分けるために仕掛けた罠だった。
- これが「馬鹿」の語源とされるが、中国で「バカ」のことを「馬鹿」と表記した例は見当たらないので、やや疑わしい。
- 最後は趙高に殺されてしまった。
- 劉邦・項羽の関中侵入により、もはや支えきれないと見た趙高が、全責任を皇帝におっかぶせるために殺害してしまった。
- 危機が迫って二世皇帝が覚醒し、それまでの悪事を咎められて処刑されるのではないかと恐れたため、とも言われる。
秦王嬰[編集 | ソースを編集]
- 趙高に擁立された三世皇帝だが、各地で軍閥が起ち上がって国を作っており、もはや天下の主とは呼べないので、皇帝の名を下ろし、秦王となった。
- 本当はどういう立場の人であったのか、よくわからない。
- 扶蘇の子、としてある本が多いが、特に根拠は無い。
- 「二世皇帝の兄の子」と史書には記されている。扶蘇が長兄で胡亥が末弟であったので、成人している始皇帝の孫としては、扶蘇の子であるのが妥当と思われたのだろう。しかし、扶蘇を自殺させた二世皇帝が、その子を見逃したとは思えない。
- 即位した時、すでに成人した息子が居たようでもある。50歳で死んだ始皇帝に、3年後に成人に達している曾孫が居たというのも無理がありそう。
- 二世皇帝の兄の子ではなく、兄自身であったのかもしれない。二世皇帝にあんまり文句をつけそうになかったので殺されなかったとか。
- 扶蘇の子、としてある本が多いが、特に根拠は無い。
- 擁立されてもなかなか宮廷に訪れず、しびれをきらして呼びに来た趙高を手ずから誅殺。
- この時「息子と共に」みずから剣を振るった、という記述があるので、上記のように年齢がよくわからなくなってしまう。
- 咸陽に迫った劉邦に降伏。王位にあったのは僅かな期間だった。
- 劉邦は秦王嬰を鄭重に扱ったが、あとから来た項羽にあえなく殺されてしまう。
- この時項羽は、形式的とはいえ主君であった楚王の許可を得ずに、勝手に秦王嬰を殺してしまった。この独断専行が、あとで劉邦からツッコまれる元となった。
- 劉邦は秦王嬰を鄭重に扱ったが、あとから来た項羽にあえなく殺されてしまう。
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