ざんねんな野球事典/シーズン展開

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1リーグ制時代[編集 | ソースを編集]

1936年の大東京軍[編集 | ソースを編集]

  1. シーズン開幕前のオープン戦(vs東京瓦斯)で9回にエラーが重なり9点を取られて逆転負け。監督の永井武雄はその場で解任されてしまった。
  2. 後任の伊藤勝三が選手兼任監督として指揮を執った(11月に小西得郎に監督交代)が春季・夏季シーズンは1勝も出来ず、秋季シーズンも5勝しか出来なかった。

1944年の日本プロ野球[編集 | ソースを編集]

  1. 太平洋戦争の戦局悪化に伴い、日本野球連盟は名前を「日本野球報国会」に改称。
    • 選手達は平日は軍需工場で働き、試合は週末を中心に行われた。
    • 徴兵による出兵などで選手数も激減。4月の開幕時点で6球団合わせて僅かに74人という事態に…。
    • 「個を主張してはならない」との理由で、背番号も廃止されてしまった。
  2. 春季リーグ・夏季リーグはなんとか開催されたが、夏季リーグの終了時点で徴兵される選手が続出。
    • この時点で9人揃っているのは阪神だけとなり、秋季リーグは中止。
      • 2球団混成で3チームを作り「日本野球総進軍優勝大会」を秋季リーグの代替として開催した。
  3. 11月13日に日本野球報国会は活動の休止を表明。
    • 但しこの中に「在京球団の選手で希望するものは関西球団に委託」という文章があり、この時点で関西での試合はまだ可能と判断されていた。
      • 事実、関西の4球団(阪神・阪急・朝日・近畿日本)は甲子園や西宮で12月まで試合を行っていた模様。参考資料
    • 翌1945年も「正月大会」として数試合が開催され、全試合の終了後に「サヨナラ大会」を3月に行うと選手たちに通達されたが、直前の大阪大空襲で試合は中止となってしまった。
    • この時、かのスタルヒンも白人ということで軽井沢に軟禁される(本当はソ連の対日宣戦前な上に白系ロシア人のスタルヒンは敵国人ではない)

1950~60年代[編集 | ソースを編集]

1950年の松竹ロビンス[編集 | ソースを編集]

  1. 「水爆打線」と呼ばれた豪快な打線でセントラル・リーグの初代王者に輝いたが…。
  2. 日本シリーズ(当時は日本ワールドシリーズ)開幕から終了後の時期に、39勝を挙げたエースの真田重男と51本塁打を記録した主砲の小鶴誠の間で対立が発生。
    • オーナーが監督の頭越しに「MVPがもらえなかった方に賞金をやる」と発言し、MVPが小鶴に決まって真田が賞金をもらったが、そのことがチームに知れ渡ったあげく小西監督に「オーナーが勝手に賞金を渡した」と伝わってしまった。
  3. 内紛を抱えたまま挑んだ日本シリーズでは毎日オリオンズに2勝4敗で敗れてしまった。
    • シリーズ終了後に監督の小西得郎は「こんなチームの監督はやってられない」と監督を辞任。

1952年の松竹ロビンス[編集 | ソースを編集]

  1. 勝率低迷の切り取り決により大洋と合併する羽目になった。
    • この年は「リーグで勝率3割を切った球団に処罰を与える」という取り決めがあった。理由として当時のセリーグは7球団であり、日程が組みにくく下位球団を整理する必要があったというもの。

1955年の大洋ホエールズ[編集 | ソースを編集]

  1. 6月28日の中日戦で敗戦するとシーズン中は一度も中日に勝てず19連敗した。
    • 翌年も開幕から7連敗して26連敗で止まった。

1959年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. ペナントレースではリーグ5連覇を達成するも、日本シリーズでは杉浦忠を擁する南海ホークスに4連敗した。
    • 日本シリーズで引き分けを挟まず4連敗したのはこの時の巨人が最初。

1960年の大毎オリオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 「ミサイル打線」と渾名された強力打線を擁してリーグ優勝したが、日本シリーズでは魔術師:三原脩監督率いる大洋ホエールズに4連敗した。
    • シーズン中に大毎は引き分けを挟んでの18連勝を記録するなど絶好調だったたが終盤に失速、結局優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。
  2. この年の大毎オリオンズを率いたのは後に阪急や近鉄で黄金時代を築く西本幸雄だったが、日本シリーズで敗戦した際にオーナーからの電話で口論になりシリーズ終了後に1年で解任されてしまった。

1961年の大洋ホエールズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年日本シリーズ4連勝で日本一に輝いたが、この年はタイトルホルダーこそ出したものの最下位に沈んだ。
    • 日本プロ野球史上初めての「日本一のチームが翌年最下位」という事態に陥った。
    • さらに翌年と3年後の1962、64年はあと一歩のところで阪神に優勝をさらわれた。そして結局、1960年は「大洋ホエールズ」としての最初で最後の日本一(リーグ優勝)ということになってしまった。

1961年の近鉄バファローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕直後に4連敗、4月中旬に8連敗、5月中旬に6連敗、その後も6月から8月にかけて10連敗を3度も記録するなど大型連敗を繰り返した。
    • 最終的な成績は36勝103敗1分、勝率は.261。
      • 優勝した南海には51.5ゲーム差、5位の阪急にも18ゲーム差と大きく引き離されて4年連続の最下位となり、千葉監督は責任を取って辞任。
  2. 6月3日、西宮球場での阪急ブレーブス戦でジャック・ブルームが「ヤンキー・ゴー・ホーム!」とヤジを飛ばした観客に激怒し、スタンドに乗り込んでその観客を蹴り飛ばし、制裁金5万円・出場停止7日間という処分を受けてしまった。
  3. この年、後に近鉄の主力打者となる土井正博が入団したが、この年の一軍出場は無かった。

1965年のサンケイスワローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕戦を含めた対中日戦で13連敗。
    • シーズン中に同一球団から大型連敗をしたという記録はいろいろあるが、開幕からというのはサンケイの記録が始めてだった。

1965年の東京オリオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 4月18日から7月28日までの南海戦で一度も勝てず17連敗

1969年の南海ホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 前年のオフに23年間指揮を執った鶴岡一人監督が勇退。新監督には飯田徳治が就任したが…。
  2. 投手陣・打撃陣に怪我人が続出し、シーズン中盤には球団史上ワーストの15連敗を記録。
    • 8月以降は持ち直して西鉄と5位争いを繰り広げたが、最終的には戦後初の最下位でシーズンを終えることに。
  3. 結局、飯田監督は最下位の責任を取って僅か1年で辞任。後任には正捕手の野村克也が選手兼任監督として就任。
  4. この年ホーム用のユニフォームもリニューアルされたが、こちらも僅か1年で封印されてしまった。

1970~80年代[編集 | ソースを編集]

1973年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. 巨人と激しい優勝争いを展開し、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの、中日球場での対中日戦で敗戦、甲子園での巨人との最終戦に至っては1勝もできず(0対9)、巨人のV9を許した。
  2. 最終戦終了後、阪神のあまりの惨敗っぷりに怒ったファンがグラウンドに乱入し、巨人ベンチを襲撃するなど暴動を起こしたのは有名な話。
  3. シーズン終了後にはこの年に実働20年の連盟表彰を受けていた権藤正利が金田正泰監督を殴る事件が発生した。

1975年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. 長嶋茂雄が監督に就任して1年目の巨人だったが、チーム創設以来初めてリーグ最下位に終わった。
    • なお、巨人が最下位に終わったのはこの年が唯一である。

1977年の南海ホークス[編集 | ソースを編集]

  1. この年の南海の成績は2位とさほど悪い成績ではなかったが、残り2試合を残した9月28日に野村克也監督の電撃解任を発表。
    • 当時はまだ愛人関係にあった沙知代(当時伊東芳枝)の「チーム・選手への口出し、および度重なる公私混同」が理由で、野村を大事にしていた川勝傳オーナーの耳にも入り解任に至った。
  2. 野村と打撃コーチの高畠康真はロッテに、柏原純一は日本ハムに、江夏豊は広島にそれぞれ移籍。
  3. この年を最後に南海はAクラスに入ることなく、1988年にダイエーに身売りされた。

1978年の阪急ブレーブス[編集 | ソースを編集]

  1. 日本シリーズ第7戦でヤクルトの大杉勝男のHR判定を巡って上田利治監督が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。先発していた足立光宏が試合再開後に降板し、その後はヤクルトにボコボコにされ、シリーズ4連覇の夢は消えてしまった。
    • 上田は抗議の責任を取る形で、翌日監督を辞任。

1978年のロッテオリオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年は後期優勝を果たし、阪急とのプレーオフにこそ敗れたものの「今年こそは」と期待されていた。
  2. 4月は7連勝するなど阪急との首位争いを展開。しかし、5月下旬に4連敗するなど急落し、6月はなんと月間未勝利(0勝15敗4分)を記録。
    • 大型連敗の影響は大きく、前期は5位に沈んだ。
    • 仮に5月31日の阪急戦に敗れていれば、前人未到の20連敗を記録していた。
  3. 後期は9月に立ち直り3位。総合順位は4位で終わったが、責任を取って金田正一監督は辞任した。
  4. 打線は南海から移籍した野村克也はそこまでだったもののレロン・レオンのリー兄弟や有藤通世、山崎裕之といった主力は好調。
    • 問題は投手陣で、エース村田兆治は14勝、2年目の仁科時成は9勝したが、金田留広が6勝、水谷則博・八木沢荘六が5勝に終わるなど苦戦した。

1978年の南海ホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 野村克也兼任監督が解任の末退団、後釜には前年引退した広瀬叔功が就任。
  2. 選手としても監督としても野村の穴は大きすぎ、前期後期ともに最下位を走った。さらにシーズン勝率の球団ワースト記録も更新(.353)。

1979年のヤクルトスワローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年阪急との死闘の末悲願だった日本一に輝いたが、この年は最下位に沈んだ。
    • 皮肉なことに広岡達朗監督が「守れない選手はいらない」と放出したチャーリー・マニエルを獲得した近鉄バファローズがこの年球団史上初のリーグ優勝を決めている。

1979年の西武ライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年のオフに球団の経営母体が福岡野球から国土計画に譲渡し、本拠地も福岡から所沢に移転。
    • トレードで阪神から田淵幸一、ロッテから野村克也・山崎裕之を獲得。更にドラフトでは森繁和・松沼兄弟の獲得に成功し、チームの編成を一新。
  2. シーズンでは開幕から引き分けを挟んだ12連敗(NPBワースト)を喫し、前期は最下位。
    • 後期は若干盛り返して5位に入ったが、通年成績では6位と低迷。しかしこの年の観客動員136万5000人はパ・リーグトップの記録だった。

1981年の横浜大洋ホエールズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕から低迷が続き、シーズン終盤の9月24日の試合を最後に土井淳監督は休養。残りの試合は山根俊英投手コーチが指揮を執った。
  2. 最終成績は42勝80敗4分で最下位。優勝した巨人からは31.5ゲーム差・5位の中日からも15.5ゲーム差を付けられてしまった。
  3. 唯一の明るい話題は山下大輔がベストナインとダイヤモンドグラブ賞のタイトルを獲得したことぐらい。

1984年の横浜大洋ホエールズ[編集 | ソースを編集]

  1. 関根潤三監督就任後、5位(1982年)、3位(1983年)とステップアップしたため、この年は優勝するのではないかと言われていたが、蓋を開けてみれば・・・。
  2. まず前年打率3割を記録した主軸打者のジム・トレーシーが関根監督と起用法を巡って対立、退団するという騒動が勃発。
    • 主力打者を失った打線は迫力を欠き、チーム本塁打数は100本でリーグ最低を記録。高木豊、田代富雄、レオン・リー、屋鋪要は奮闘したものの、後は不振に終わった。
      • 明るい話題としては1961年以来のチーム100盗塁(110盗塁)を記録し、後のスーパーカートリオにつなげたことが挙げられる。
  3. 投手陣も深刻で、前年200勝を達成したベテラン平松政次が1勝10敗と大不振、リリーフエース斉藤明夫も防御率4.88を記録する有様。救いは金沢次男が10勝をマークし、エース遠藤一彦が17勝で最多勝を獲得したことくらい。(ただし遠藤は同時に17敗で最多敗)
  4. 4月は8勝11敗で開幕ダッシュに失敗し、5月にはBクラスに定着。6月にはヤクルトの監督交代で差が縮まると、8月23日からの10連敗で最下位に転落。10月4日の広島戦では逆転負けし、広島の優勝を見届けてしまう。最終的には首位広島に30.5ゲームの差をつけられて最下位に終わった。
  5. シーズン終了後関根監督が辞任、平松と辻恭彦が引退した。

1987年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. 掛布とバースが相次いで交通違反で検挙、更に仲田幸司への指導を巡って新山コーチと野村コーチが対立するなど開幕前から悪いニュースが続いた。
  2. チームも4月の後半に最下位転落。西武から獲得した田尾安志も5月に入るとスタメンから外れるようになり最下位を独走していく。
  3. 投手陣はキーオが11勝、打撃陣はバースが37本塁打を記録し孤軍奮闘したが、それ以外の選手が軒並み不振だった。
  4. 最終成績は41勝83敗6分、勝率は球団ワーストの.331で9年ぶりの最下位に転落。吉田義男監督は日本一から僅か2年で監督を解任された。

1988年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 4月終了時点で首位の広島に8ゲーム差の最下位、その後巻き返したが7月頭に巨人との北海道シリーズで3タテを喫してしまう。この時点での成績は29勝31敗2分で2つの借金。
  2. ここから怒涛の巻き返しを見せ、50勝15敗3分・勝率.769という驚異の成績で、10月7日のヤクルト戦を大勝し6年ぶり4度目の優勝。
    • しかし昭和天皇の体調悪化もあり、祝勝会(ビールかけ)は自粛となってしまう。
  3. 西武との日本シリーズではシーズンで18勝を挙げた小野和幸が第1戦・第5戦と打たれ、更に主砲の落合博満も本塁打・打点ともに0と西武に封じ込まれ、1勝4敗で無念の敗退。

1988年の近鉄バファローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 終盤に前年までリーグ3連覇中の西武と熾烈な優勝争いを繰り広げ、残り3戦を3勝が優勝の絶対条件となるも、伝説の10.19・VSロッテ戦(川崎球場)で第2試合で時間切れ引き分けとなり、西武の4連覇を許す羽目に。

1989年の近鉄バファローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 宿敵西武、オリックスを打ち破りリーグ優勝。日本シリーズでも巨人に序盤3連勝し、日本一まであと一歩だったのにその後4連敗。巨人に逆転優勝を許してしまった。
    • いわゆる「巨人はロッテより弱い」舌禍。加藤哲郎はそうは言ってなかったらしいが。

1989年の西武ライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. リーグ5連覇を目指したが、序盤は工藤公康やバークレオの不振などで4月22日には最下位に転落、6月25日には首位オリックスに11ゲーム差をつけられた。
  2. 6月にルーキー渡辺智男がローテ定着、新外国人デストラーデの加入もあって前半戦最終戦で勝率5割に戻すと、8月は16勝7敗と大きく勝ち越し、近鉄・オリックスとの首位攻防戦に参戦し、9月16日には首位に立った。
  3. しかし10月に入るとストッパー不在の投手陣に疲れが見え始め、5日のダイエー戦では8点リードを9回にひっくり返される大逆転負けを喫してしまう。
  4. それでも優勝目前というところまでこぎつけたが、10月10日からの対近鉄3連戦で3連敗を喫して自力優勝が消滅、そのまま近鉄に優勝をさらわれ3位に終わってしまった。
  5. この結果から、森祇晶監督は堤義明オーナーから「(監督を)やりたければ、どうぞ」と言われることに。
  6. また、5月12日には土井正博打撃コーチが麻雀賭博の現行犯で逮捕され、その責任を取って球団代表と常務が更迭された。さらに9月23日のロッテ戦で清原和博が平沼定晴からの死球に激怒しバットを投げつけるという騒動が発生、「厳重戒告・制裁金30万・2日間の出場停止」の処分が下された。

1990年代[編集 | ソースを編集]

1990年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. ペナントレースでは88勝、2位と22ゲーム差という大独走で優勝するも、日本シリーズでは西武ライオンズに4連敗した。

1992年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. 当時暗黒時代だった阪神はこの年、亀新コンビの活躍も相まって久々の快進撃を演じた。
  2. ヤクルトや巨人と熾烈な優勝争いを繰り広げるも、抑えの切り札であった田村勤の故障による離脱が響き、最終的に本拠地でヤクルトの優勝を許す羽目に。
    • ヤクルトの優勝決定後、そのヤクルトが阪神ファンに帰れコールを浴びせられたのは有名な話。

1994年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月に8連敗を喫し広島に逆転を許す。
  2. しかし、9月に入ると持ち直し、9月20日からの9連勝などで、10月7日時点で巨人と69勝60敗で同率首位となる。
  3. 巨人をあと一歩まで追い詰めたものの、例の10.8決戦で3-6で敗戦し、優勝を逃した。

1994年の横浜ベイスターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年の改称に伴い応援歌を一新するも駒田獲得による大胆なリストラで1年のみの使用のものも多く、リーグでも最下位となった。

1994年の日本ハムファイターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年は西武と熾烈な優勝争いを展開したが、この年は5球団全てに負け越し最下位。
    • 打率・得点・安打・打点・防御率・失点・盗塁もリーグ最下位。
  2. 本拠地最終戦終了後のセレモニーで大沢啓二監督は土下座。この年限りで監督を辞任している。

1995年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年は巨人と熾烈な優勝争いを展開したが、打撃陣の怪我続出・投手陣の崩壊で前半は最下位。
  2. 6月3日には高木守道監督が休養(その後解任)、徳武定祐ヘッドコーチが監督代行に就任したが流れは変わらずオールスター前の7月23日に解任。
    • 残りのシーズンは二軍監督の島野育夫が指揮を執った。
  3. 最後の阪神との4連戦には勝ち最下位は免れたが、優勝したヤクルトには32ゲーム差・4位の横浜にさえ16ゲーム差を付けられてしまった。

1995年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. 前年まで4年連続打率3割のトーマス・オマリーを解雇し、新たな4番候補としてMLBで6年連続20本塁打以上の実績を持つグレン・デービスなどを獲得するも、序盤から低迷が続いていた。
  2. そして中日との最下位争いの末、最終的には4年連続の最下位に終わる。ちなみにオフには最後の福岡ライオンズ戦士でもあった真弓明信が現役を引退いている。
  3. 一方、解雇されたオマリーは移籍先のヤクルトで活躍しており、チームは日本シリーズでも「がんばろうKOBE」を合言葉に首位を独走しパ・リーグ優勝を果たしたオリックスを下して日本一になっている。
    • ちなみにその時の監督は野村克也。まさか彼が後に阪神の監督に就任することになるとはいったい誰が想像していたのであろうか?

1996年の広島東洋カープ[編集 | ソースを編集]

  1. 前半戦はビッグレッドマシンと言う名のチーム打率.281の強力打線を擁し快調に首位を飛ばすも…
  2. 後半戦では前年同様、主力選手に怪我人・不調者が続出してしまい、最大11.5ゲーム差あった巨人の怒涛の追い上げを喰らい(いわゆるメークドラマ)まさかの失速。終わってみれば中日にも抜かれ、3位でシーズンを終えた。
    • 後に阪神やソフトバンクなどもこの年の広島と同じように怒涛の追い上げを喰らってV逸しましまうのだが、それはまた別の話である。

1996年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. プロ野球史上最大の逆転劇であるメークドラマを演じた巨人とは対照的に、こちらは低迷が続いていた。
  2. 助っ人外国人グレン・デービスとスコット・クルーボーが途中退団した上に、緊急補強したクレイグ・ワーシントンとケビン・マースも不振に終わってしまう。
  3. 後半戦はそこそこマシになったものの、結局は2年連続の最下位に終わった(首位巨人とは23ゲーム差)。そしてシーズン終了後に1985年の優勝バッテリーであった中西清起と木戸克彦が現役を引退し、1985年の優勝監督であった吉田義男が再び監督に就任した。

1996年の福岡ダイエーホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 王貞治監督を招聘、低迷脱却とはいかず王監督を中傷する横断幕、バス囲みも。
    • いわゆる生卵事件である。
  2. 結局、首位オリックスと22ゲーム差の最下位に終わった。
    • この年で南海時代から19年連続Bクラスとなり、それまで広島が記録した連続Bクラス日本記録である1950年から1967年までの18年連続を更新した。

1997年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. 清原獲得で話題をさらうも一塁手が飽和、Bクラスに終わる。
    • それも中盤まで最下位にいたほどだった。

1997年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. この年から本拠地が狭いナゴヤ球場から広いナゴヤドームに変わったが、前年最後まで優勝争いをしたこともあり開幕前は優勝候補の一角に挙げられていた。
  2. しかし開幕後は自慢の強竜打線が沈黙。8月の大きな負け越しが響き、最終成績は5年ぶりの最下位となってしまった。
  3. 投手陣は18勝7敗で最多勝のタイトルを獲得した山本昌、38セーブを挙げた宣銅烈、2年目の門倉健が10勝12敗と二桁勝利を挙げたこと以外は全体的に不振だった。
    • 特に前年チーム最多勝の14勝を挙げた今中慎二が2勝2敗、前年7勝4敗の前田幸長が2勝13敗だったのが痛かった。
  4. 打撃陣も前年の39本塁打でホームラン王を獲得した山崎武司が半減の19本、前年38本塁打の大豊泰昭が約3分の1の12本、前年.340で首位打者のパウエルが.253と全体的に不振だった。
    • 新外国人のゴメスは3割30本(.315 31本)をクリアしたのだが…。
  5. シーズン終了後、星野監督は不振だった大豊泰昭と2番手捕手の矢野輝弘を阪神にトレードで放出し、関川浩一・久慈照嘉を獲得。
  6. コーチ陣では小松辰雄投手コーチや柏原純一打撃コーチなどが成績不振の責任を取り辞任した。

1998年の福岡ダイエーホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 前年に発覚したプロ野球脱税事件に関与した小久保浩紀、ヒデカズ、斉藤貢、本間満、藤井将雄の主力5選手が3-8週間の出場停止処分を下され、開幕からしばらく出場出来なかった。
  2. また、シーズン中には地元・西日本新聞のスクープで、いわゆる「スパイ疑惑」が報道される。
  3. なお、その年は3位に入り、連続Bクラスの記録が20でストップした。

1998年の千葉ロッテマリーンズ[編集 | ソースを編集]

  1. ダブルストッパーの成本年秀、河本育之がそろって故障するなど投手陣が崩壊し、プロ野球新記録の18連敗を記録。エース黒木知宏は最多勝と最高勝率の2冠に輝いたが18連敗はあまりにも重くチームは最下位に低迷、責任を取って近藤昭仁監督は辞任した。
    • おまけに近藤監督は辞任会見の席上で「もっと強いチームで監督をやりたかった」と発言し、ロッテファンの非難を浴びた。
    • 本当に「18連敗さえなければ」大分まともな成績だった。

1999年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕11連勝もあり開幕ダッシュに成功。6月に一日だけ阪神に首位の座を譲ったが7月以降は再び独走態勢に。
  2. 終盤に巨人の猛追を喰らったが8連勝で振り切り、9月30日のヤクルト戦(神宮)で11年ぶりのリーグ優勝を決めた。
  3. しかし日本シリーズではレギュラーシーズンで活躍した山崎武司の負傷欠場や関川浩一・福留孝介・井上一樹の不調が響き、ダイエーに1勝4敗で敗退。

1999年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. ノムさんこと野村克也の監督就任1年目の阪神。6月に中日を抜いて一時首位に立った。
  2. しかし、勢いはすぐに無くなり、それどころか球団記録タイの12連敗を喫し、2年連続の最下位に終わった。
  3. 一方二軍はウエスタンリーグを2年連続で制覇し、さらにファーム日本選手権も制し初の日本一となった。

2000年代[編集 | ソースを編集]

2000年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 初の2連覇を目指すも五輪で来日して獲得したディンゴが不発、巨人に目の前で劇的優勝を見せられる。
  2. 投手陣は新外国人のメルビン・バンチが14勝8敗、山本昌が11勝9敗、宣銅烈の穴埋めで獲得したエディ・ギャラードがリーグ最多の35セーブと活躍したが、前年19勝の野口茂樹が9勝・前年9勝の武田一浩が3勝・前年8勝の川上憲伸が2勝と総じて不振。
    • パ・リーグからの移籍組だった小池秀郎・佐野重樹・鈴木平の成績不振も大きかった。
    • バンチはこの年ノーノーも達成した。
  3. 打撃陣は立浪和義・山崎武司・レオ・ゴメスこそ例年通りの活躍だったが…。
    • 関川浩一(打率は前年.330から.260に下がった)・福留孝介(前年.284・16本塁打が.253・13本塁打に数字を落とした)の不振が大きかった。
    • 山崎武司はこの年から、チャンスに弱いというレッテルをはられがちだった。
      • 現在でこそ得点圏打率は運、クラッチヒッターは幻想、打点はそれほど重要でない指標という価値観が浸透しているが、この時期は日本の野球ファンでOPSを知っているのさえ上位1パーセント未満という時期。
        • 大量点差がついたときだけ打つという意味で帳尻(あわせ)と呼ばれがちだった。
      • 山崎武司は邪魔崎→ジャーマンというあだ名がついてしまった。この時期2chで戦犯といわれていたのは山崎(ジャーマン)、関川(POP=ポップフライの意)、立浪(QDR=給料泥棒の意)、中村(ヴォケシ)、井上などだった。帳尻戦隊というあだ名がついてバッシングされていた。
        • こうした風潮もあってかこの時期の主力だった彼らのほとんどが数年で退団していった。
          • ただ派閥を作りがちな山崎武司と立浪を追放できたのは人間関係の円滑化の面ではよかったのかも。山崎はクラッチが不運だっただけなので移籍後復活したが。
          • 中村の退団は野口のモチベーションには悪影響だったかもしれないが…。谷繁をとれたのだから成功だろう。
        • とはいえ現代の価値観だとかなりひどいあだ名ばかりだ。
    • 投手は川上憲伸のように比較的打てる投手が多いのに、打線が貧打なことから、「9番からの上位打線」と呼ばれていた。
      • とはいえ、この程度でそこまで当時の中日ファンがネガっていたのも、当時の中日が本格的な暗黒時代を一度も経験していないそれなりの名門球団だったこともあるだろう。3年連続Bクラスさえ1970年が最後で、コンスタントに優勝を経験していた。
  4. がに股打法の種田はそれなりに活躍したが、これが翌年の失敗トレードに繋がってしまう。

2002年の横浜ベイスターズ[編集 | ソースを編集]

  1. この年から経営母体がマルハからTBSに譲渡されたが…。
  2. 谷繁元信・小宮山悟の移籍による戦力の低下、更に主力メンバーの不振が蔓延した結果、開幕から記録的な低迷を続け16年ぶりの13連敗を喫するなど最下位を独走。
    • 結局シーズン終盤の9月25日に森祇晶監督は契約を一年残して解任された。
      • 監督代行はヘッド兼打撃コーチだった黒江透修がシーズン最終戦まで務めた。
  3. チーム防御率・失点はリーグ5位、打率・得点・安打・本塁打はリーグ最下位、サヨナラ勝ちもなし、観客動員も大幅減少と、踏んだり蹴ったりのシーズンとなってしまった。
    • 明るい話題は2年目の吉見祐治が11勝を挙げて新人王を争ったことぐらい。
      • 一応古木、多村、内川もこのころスタメンに顔をだし始め期待されていた。古木は大成しなかったが。

2002年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. この年より星野仙一が監督に就任。当時5年連続リーグ最下位を喫し「ダメ虎」と言われた阪神の改革を任されたが…。
  2. 開幕戦の巨人戦で勝利し12年ぶりに開幕戦を勝利で飾る。勢いそのままに巨人を3タテし開幕7連勝でスタートし、序盤こそ巨人と首位争いを繰り広げる。
  3. しかし、夏に差し掛かるとレギュラー選手に相次いで故障離脱が続出。
    • 特に赤星・矢野の離脱は痛かった。
    • 日韓ワールドカップの開催による変則日程の影響も少なからずあると思う。
      • 因みにワールドカップ開催中の6月の阪神の成績は4勝13敗。
  4. 後半戦には、当時の阪神名物であった大型連敗8を喫し、星野監督の怒りは頂点に。
  5. 結局、最下位は脱出したものの、Aクラス進出に失敗し4位に終わる。
    • オフには「血の入れ替え」とも称される大改革を決行し大量20人が退団。さらには、巨人もびっくりの大型補強を実施。
      • これが翌年の18年ぶりの優勝につながったという見方もある。

2002年の西武ライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. ペナントレースでは90勝、近鉄やダイエーと16.5ゲーム差という1990年の巨人を彷彿とさせる大独走で優勝するも、この年の日本シリーズは1990年とは逆のパターンで巨人に4連敗した。

2002年のオリックス・ブルーウェーブ[編集 | ソースを編集]

  1. 8年間監督を務めた仰木彬が前年に退任、新監督に西武黄金時代のチームリーダー・石毛宏典が就任したが…。
  2. 他球団に移籍した田口壮・アリアス・加藤伸一の穴を埋められず、最終成績は50勝87敗3分で39年ぶり・オリックスになってからは初の最下位となってしまった。
  3. 投手陣は金田政彦(防御率1位)・具臺晟(防御率2位)・山口和男(ダイエー戦で158㌔を2回計測)などまずまず良かった(チーム防御率は3.58で前年より向上している)が、打撃陣チーム打率.235(前年は.263)と大不振。
    • こんな状況のため、金田は4勝、具臺晟は5勝しか挙げられなかった。
    • この年ストライクゾーン拡大があったし、打率がそこまで重要ではないとはいえ、飛ぶボールの打高投低時代にこのチーム打率はやばすぎた。ちなみにこの年優勝の西武のチーム打率は.278
  4. 唯一の明るい話題は打率.326・41盗塁を記録しベストナインを獲得した谷佳知ぐらい。

2003年のオリックス・ブルーウェーブ[編集 | ソースを編集]

  1. 負け数・勝率こそセ・リーグ最下位の横浜に及ばないものの、140試合で927失点、チーム防御率が史上最悪の5.95で最下位になった。
    • あまりの低迷に石毛宏典監督が解任されるも、後任のレオン・リー監督では投壊に拍車がかかった。
    • ただし、この時代はスーパーラビットと呼ばれる飛ぶボールの超打高投低時代だったことも考慮する必要がある。防御率3点台を維持するのも難しい時代で、中距離打者のライナー性の打球が簡単にホームランになっていた。
  2. 優勝したダイエー相手に20失点以上の敗戦が4回もあった。
    • しかも7月27日に7-26で負け、そのわずか5日後の8月1日にまた1-29で負けた。
    • なお上記以外の2試合ではオリックスも11点取っている。
  3. オリックスはこの時期契約金ゼロ円選手というシステムを行っており、ドラフト会議で他球団よりかなり多くの人数を指名して次々選手を使い捨ててしまった。まあ今の育成枠も似たようなもんかもしれないが…
    • そのほとんどがなかずとばずだった契約金ゼロ円軍団で唯一2002年に台頭の兆しをみせていた高見沢は故障でこの年1試合も出られずに首になってしまった。
      • もっともこの時期はスーパーラビットと呼ばれた時代で超打高だったのであの程度の打撃成績で台頭の兆しといえるかどうかも微妙であるが。まあ彼はリアタイ時ある程度印象には残った人だったから翌年いきなり一軍なしで戦力外は驚いた。
  4. 前年秋にマック鈴木という高校から直接メジャーに挑戦して帰国してきた選手を獲得していた。ヤクルトが獲得すると見られていたのを上位で強行指名した上、鳴り物入りの肩書きから「新人王の資格は辞退したいと思います」とビッグマウスな発言で話題になったが、このシーズンふたを開けてみれば毎度炎上し防御率7点台でオリックスの投壊に貢献してしまった。
  5. 前年度活躍した外国人ホームランバッターのセギノール、シェルドンのうち、首にしたセギノールはこの年3Aで大活躍、翌年以降日ハムに日本球界復帰してホームラン王の大活躍。残したシェルドンは絶不調と、結果論とはいえ完全な裏目をひいてしまった。

2004年の横浜ベイスターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 山下監督時代2年目となるシーズン。序盤は打撃陣が好調で4月終了時点で首位に立つなど好調だったものの、その後は投手陣の不振により徐々に失速し、シーズン終了間際には最下位の定位置を広島と争う羽目に。
  2. そしてヤクルトとの最終戦で敗れ、広島と僅差ながら3年連続の最下位でフィニッシュ。そして山下監督も退任し、シーズンオフにこの年本塁打王を獲得したタイロン・ウッズが中日に移籍した。

2004年の福岡ダイエーホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 「福岡ダイエーホークス」として最後のシーズン。2000年以来の2連覇を目指すも、同年より導入されたプレーオフで日本ハムを下した西武に優勝を許す羽目に。

2005年の東北楽天ゴールデンイーグルス[編集 | ソースを編集]

  1. 記念すべき球団創設1年目のシーズン。開幕戦のロッテ戦こそ岩隈久志の好投で3-1で勝利したが、その翌日の試合では0-26という歴史的大敗を喫してしまう。
  2. その後は戦力差や経験不足もあり2度の11連敗を記録するなど最下位を独走。
    • シーズン100敗こそなんとか回避したが、最終成績は38勝97敗1分という結果に終わった。
  3. 投手陣は岩隈久志が9勝15敗、福盛和男が49試合に登板して4勝3敗11セーブ、吉田豊彦が50試合に登板して2勝2敗1セーブ12ホールドと奮闘したが…。
    • 先発として期待されたケビン・ホッジスが2勝12敗、ゲーリー・ラスが3勝9敗、新人の一場靖弘は3勝10敗と散々な成績だった。
  4. 打撃陣は前年オフにオリックスを自由契約となった山崎武司が25本塁打・65打点をマーク。元近鉄勢の礒部公一・吉岡雄二・高須洋介も気を吐いたが…。
    • 4番として期待されていたルイス・ロペスが打率.223・12本塁打(但し得点圏打率は3割)、途中獲得のアンディ・トレーシーも打率.209・6本塁打と精彩を欠く結果に。
  5. シーズン終了後に田尾安志監督は辞任。後任には社会人野球・シダックス監督の野村克也が就任することとなった。

2005年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 球団がダイエーからソフトバンクに売却され、「福岡ソフトバンクホークス」となった最初のシーズン。シーズンこそ2年連続の勝率1位を達成するも…
  2. 不動の正捕手であった城島健司が終盤に自打球による骨折で離脱したのが響いたのか、プレーオフ2ndステージでロッテに優勝を許してしまい、「福岡ソフトバンクホークス」として初のリーグ優勝を逃してしまう。
    • それどころか2年連続でシーズン1位ながらもプレーオフで敗退という屈辱を味わってしまった。
  3. 前年度メジャーでシーズン30本塁打を達成していたバティスタに15億という当時としては信じられない高額の年俸を払い獲得に成功した。
    • しかし、そこそこは活躍したものの、3Aやロートルではなくバリバリ現役でメジャーで打ちまくる打者をつれてきたという下馬評と高額な年俸のわりには思ったほどでもない、期待はずれといわれてしまった。
      • 15億の扇風機と揶揄する人もいた。結局、2年契約だからもう一年は契約なのにこのシーズン終了後放出。もったいない金の使い方だった。

2006年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. 原監督復帰、李承燁獲得で快進撃も故障者続出で初の2年連続Bクラス。
    • 開幕直後は首位を独走するも、セ・パ交流戦で11連敗を喫する大失速。一時は最下位に沈む大転落ぷりとなった。
      • 特にロッテ相手には6戦全敗と、「巨人はロッテより弱い」を地で行く結果に。

2006年の横浜ベイスターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年Aクラス(3位)だったことから大きな補強をせずにシーズン開幕となったが…。
  2. 親会社のTBSから派遣されたフロントと牛島和彦監督が対立し、チームも4月・5月と大負けを繰り返し最下位に転落。
    • 6月に一瞬復調の兆しを見せたが、8月以降は黒星先行となり最終成績は58勝84敗4分で2年ぶりの最下位となってしまった。
  3. 投手陣は門倉健(10勝9敗)・三浦大輔(8勝12敗)・クアトロK(木塚敦志・川村丈夫・加藤武治・クルーン)が奮闘したが…。
    • 吉見祐治が2勝9敗、那須野巧が3勝8敗、土肥義弘が3勝7敗と負け越したのが痛くチーム防御率は4.25でリーグ最下位。
    • まだこの時期打高投低気味だったとはいえ、クルーンも守護神の割にはやや不安定な投球が目立った。この時期の基準では豪速球投手だったのだが。
  4. 一方で打撃陣は村田修一が34本塁打・114打点を記録しチームの4番に成長、吉村裕基がチーム2位の26本塁打を記録するなど若手の成長が目立つ一年となった。
  5. 結局、牛島監督は最下位の責任を取って辞任しTBSの野球解説者に復帰。後任には1998年の日本一の土台を作った大矢明彦が就任した。

2007年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. 第2次原監督時代として初のリーグ優勝を果たすも、この年より導入したクライマックスシリーズで中日に3連敗を喫する。
    • そのため、リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できなかったチームはこの巨人が初となった。

2008年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. 2位と最大13ゲーム差からのまさかのV逸。
  2. そして2位で迎えたCSも中日に破れ、日本一への道も閉ざされる。
  3. 某掲示板では「Vやねん!」が未だにネタにされるほど。
  4. このV逸の責任をとり岡田彰布監督が辞任した。
  5. 矢野輝弘、新井貴浩、 藤川球児が北京オリンピックに出てよかったことなんて無かった。
    • そのオリンピックの野球もメダルを逃したし。
    • 同年の五輪と言えば大阪も立候補していたが最下位で落選…。もし大阪で開催が実現していたらどうなっていただろうか?

2008年の横浜ベイスターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年の成績は借金1の4位と健闘したこともあり、大矢監督は開幕前に「優勝は難しいが今年こそCSを目指す」と宣言。
  2. しかし4月に7勝18敗と躓き、その後もズルズルと負けを重ね最下位を独走。
    • シーズン終盤には球団タイ記録の14連敗を喫し、最終的には5位のヤクルトにも19ゲーム差を付けられ2年ぶりの最下位となってしまった。
  3. 投手陣はチームで唯一規定到達の三浦大輔が7勝10敗・防御率3.56、クルーンの巨人移籍で抑え抜擢となった寺原隼人が22セーブを挙げるなど奮闘したが、チーム防御率はリーグ最下位の4.74を記録。
  4. 一方で主砲の村田修一がキャリアハイの46本塁打で2年連続のホームラン王獲得、内川聖一が.378の高打率で首位打者獲得と打撃陣は良かったのだが…。
  5. 因みにこの年の横浜の勝率は.338(48勝94敗2分)で内川の打率(.378)を下回っている。
    • この「首位打者の打率が所属チームの勝率を上回った」のは、1944年・近畿日本軍の岡村俊昭選手以来64年ぶりの珍記録だった。

2008年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕戦でサヨナラ勝ち・交流戦では初優勝を達成。
    • 8月終了時点で2位だったが、9月に入ると10連敗・7連敗と大失速。
      • 8月末の西武との首位攻防戦での3連続引き分けが流れを変えたとも言われている。
  2. 楽天とのシーズン最終戦は延長12回表に松中信彦が痛恨のゲッツー。
    • その裏に馬原孝浩が山崎武司にサヨナラタイムリーを喰らい、12年ぶりの最下位が決まってしまった。

2010年代[編集 | ソースを編集]

2010年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. ソフトバンク時代としては初となるリーグ優勝を果たすも、CSでロッテに日本シリーズ出場を献上した。
    • そのため、日本シリーズ出場&日本一は翌年まで待つ事になった。

2011年の東京ヤクルトスワローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕直後から首位を独走していたが、10月に入ってから中日に逆転され、最終的にその中日にリーグ優勝を献上した。

2011年の千葉ロッテマリーンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年3位から日本一という「下克上」を達成するも、この年はチーム総本塁打数が西武の主砲・中村剛也一人に負けるという貧打(ロッテ46本、中村48本)で最下位に沈んだ。
    • ロッテはこれで1975年前期とあわせて「日本一の翌年最下位」を2度味わった唯一のチームとなった。

2013年の北海道日本ハムファイターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 前年優勝も大型トレードをして最下位、トレード相手のオリックスもブービー。

2014年の東北楽天ゴールデンイーグルス[編集 | ソースを編集]

  1. 前年は田中将大らの活躍により球団初のリーグ優勝・日本一に輝いた楽天だったが、星野監督の休養や田中のメジャー移籍などが響いたのかこの年は最下位に沈んだ。

2014年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. ペナントレースは7ゲーム差つけてリーグ優勝を果たすも、CSでは阪神にまさかの4連敗。
    • なお、巨人は2007年もCSで中日に敗れたため、リーグ優勝した巨人が日本シリーズに出られなかったのはこれで2回目となった(西武が2年連続でCSでソフトバンクに敗れるまで、2回も日本シリーズに出られなかった唯一のチームだった)。

2015年の横浜DeNAベイスターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕10試合消化時点で、首位に立つ。
  2. しかし、交流戦で10連敗を食らって、堂々の最下位。
  3. そこから脅威の巻き返しで、巨人や阪神とのマッチレースを交わして、前半戦を首位でターン。
  4. しかし、オールスター明けに大失速。広島・ヤクルトに抜かされ、終盤は、中日との最下位争いを演じる羽目に。
  5. クライマックスの進出も消滅。終いには最終戦に敗戦し、最下位が確定。
    • 前半戦首位で折り返しながら、シーズンを最下位で終えるプロ野球史上初(2期制時のパは除く)の赤っ恥となる。
  6. この責任を取って、中畑清監督(当時)が、辞任した。
    • でも、キヨシのおかげで選手がやる気を出したのは大きい。

2016年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 前半戦は快調に首位を飛ばすも、途中から最大11.5ゲーム差あった日本ハムの怒涛の追い上げを喰らい失速。終わってみればまさかのV逸。
  2. そして2位で迎えたCSもロッテには勝利したもののファイナルでまたしても日本ハムに破れ、日本一への道も閉ざされた。
  3. 近年のホークスとしては珍しくリーグ優勝または日本一になれずに終わった数少ないシーズンである。

2016年のオリックス・バファローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕から1軍・2軍共に低迷した結果、なんとオープン戦、パ・リーグレギュラーシーズン、セ・パ交流戦、ウエスタン・リーグ全てで最下位に終わり、史上初の完全最下位という結果に。
    • オフもFAで糸井嘉男が阪神に移籍したり、逆に陽岱鋼(当時日本ハム)を獲得し損ねるなど低迷は止まらなかった。
    • シーズン中捕逸ゼロという記録がある。

2017年の広島東洋カープ[編集 | ソースを編集]

  1. 1980年以来となる2年連続のリーグ優勝を果たすも、CSではDeNAに敗れた。

2017年の東京ヤクルトスワローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 打撃陣が故障者続出、投手陣も二桁勝利無し(小川泰弘の8勝が最多)、球団ワーストの96敗を記録し真中監督は辞任。

2017年の千葉ロッテマリーンズ[編集 | ソースを編集]

  1. オープン戦こそ首位で終えるもいざシーズンが開幕すると打者陣が沈黙するなどすぐに低迷。
  2. 5月中旬にロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅すると、シーズン終了まで最下位に低迷。
    • そればかりか、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わり、球団ワーストの87敗という結果に。この責任を取って伊東勤監督は辞任。

2018年の埼玉西武ライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 開幕から首位のまま10年ぶりのリーグ優勝を果たすも、CSではソフトバンクに敗れた。

2018年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. 本拠地の甲子園で勝てず、主に横浜スタジアムで勝ち星を拾い、17年ぶり最下位。
    • 同年の関西は野球だけでなく6月の大阪北部地震と9月の台風21号災害も加わり最悪の年となった。
  2. 一方二軍の方はウエスタンリーグを制覇したのち、ファーム日本選手権も制して日本一に。その時の二軍監督は翌年より一軍監督に就任することになる矢野輝弘である。

2019年の東京ヤクルトスワローズ[編集 | ソースを編集]

  1. 序盤は快進撃も大型連勝も記録せず49年ぶりの球団ワーストタイ16連敗を喫して最下位。
  2. この年の収穫は村上宗隆が高卒2年目で36本塁打・96打点を挙げ新人王に輝いたぐらいか。
  3. 暗黒時代の横浜やオリックスですら達成した事のない、対戦したセ・パ11球団全てに負け越しという史上初の不名誉な記録まで達成してしまった。

2020年代[編集 | ソースを編集]

2021年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. 前半戦は快調に首位を飛ばすも、途中から主力選手の不振が重なり、終わってみればまさかのV逸。
  2. そして2位で迎えたCSも巨人の軍門に降り、日本一への道も閉ざされる。
  3. SNSなどでは「あかん阪神優勝してまう」が未だにネタにされるほど。

2021年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. 前半戦は阪神やヤクルトと優勝争いを演じるも、後半戦はまさかの失速。
    • 後半戦突入の際に日本ハムから中田翔を無償トレードで獲得している。
  2. その後は10連敗を喫してしまい、阪神やヤクルトとはどんどんゲーム差が開いていき、セ・リーグ3連覇を逃すばかりか4位の広島とCS出場枠争いをするところまで転落。
  3. 最終的になんとか3位をキープしBクラス転落という最悪の事態は回避されたものの、最終成績は61勝62敗20分と借金1でシーズンを終えることとなった。
  4. その後のCSも2位の阪神には勝ったものの、ヤクルトには1勝もできずに敗退している。
  5. シーズン後半から「わっしょいベースボール」というキャッチコピーを出し勝利したら神輿を出す演出を企画したものの…

2022年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 9月30日の試合を終えた時点で2試合を残してマジックナンバーを1にまで減らしていた。
    • 「ソフトバンクが残りの試合を連敗して、なおかつマジック対象のオリックスが楽天との最終戦に勝利」以外なら優勝という圧倒的に有利な状況であったが…。
  2. 10月1日の西武との試合では、土壇場の9回表に同点に追いつくも、11回裏に藤井皓哉が山川穂高にサヨナラ2ランを打たれて敗戦、優勝決定はシーズン最終日である10月2日に持ち越しとなった。
  3. そして迎えた10月2日のシーズン最終戦、ソフトバンクはロッテ相手に三森大貴の先頭打者本塁打などで2点を先取するも、6回裏に泉圭輔が山口航輝に逆転3ランを浴び、その後も追加点を取られるなどして5対3で敗戦。
    • 一方のオリックスは楽天相手に4回裏に2点を先取されるも、すぐさま5回表に3点を取って逆転、その後も追加点を取り5対2で勝利。
  4. この結果ソフトバンクとオリックスの最終成績が76勝65敗2分で並び、パリーグの規定で当該球団間の対戦成績で順位が決定することになった。
    • その対戦成績はオリックスがソフトバンクに15勝10敗と勝ち越していたため、オリックスの逆転優勝が決定した。
  5. これによってソフトバンクは史上初のレギュラーシーズン最終日に首位陥落してのV逸を味わうこととなった。
    • その後のCSも、3位の西武には勝ったものの、オリックスにはまたしても敗れている。

2022、2023年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 日ハムとのトレードで郡司裕也他を放出したり、アリエル・マルティネスとの契約を解除して日ハムが獲得した結果…
    • 「打つ方はなんとかします」ではなく「打つ方は、なんと貸します」と揶揄される。
    • その後の郡司とアリマルの活躍は言うまでもない
  2. ゲーム「天穂のサクナヒメ」のヒットでパッケージ版が入手困難になったために生まれたフレーズ「令和の米騒動」だったが、立浪和義の指示で試合前に選手に白米を提供しないという意味に塗り替えられた。
    • これが始まった日はバンテリンドームで飛騨市のキャンペーンが始まった日でもあり、観客に飛騨市産コシヒカリが提供されたり長打を打つと愛知県産の米が提供されていた。なおDeNAは10人分提供され中日は2人分という結果になった。
  3. 常にネタを提供してくれるので中日反応集系YouTuberが増えたり、なんGを中心にチュニドラと馬鹿にされたり、タッチのOPを立浪と中日を揶揄する言葉で替え歌にした「タッツ」が約300万再生されたりとみんなのおもちゃとなった。
  4. ジャリエル・ロドリゲスとペドロ・レビーラが来日せずキューバから亡命するということもあった。

2023年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 2022年の劇的V逸を受け、日本ハムからFA宣言した近藤健介、ロッテからロベルト・オスナ、MLBからNPBに復帰した有原航平を獲得するなど大型補強を行った。
    • その過程で、「シルエット」や「有原式FA」などのワードが誕生している。
  2. シーズンが開幕してからは7月の初めまでオリックスやロッテとの首位争いを繰り広げていたが…。
  3. 7月7日から球団54年ぶりとなる12連敗を喫してしまい、首位争いから脱落。
    • 特に12連敗目は連敗脱出まであとアウト1つから、オスナがロッテの角中勝也に代打逆転サヨナラ2ランを被弾という悲劇だった。
  4. その後は一度も3連勝以上が出来ず、勝率5割を超えるのがやっとの状況だったが、なんとかCS進出を決めた。
    • しかし、勝てば2位が確定するチーム最終戦に敗れ、パリーグ最終戦の楽天対ロッテ戦でロッテが勝った結果、ロッテが2位となり、ソフトバンクは3位転落
  5. 迎えたロッテとのCSでは1勝1敗で迎えた第3戦の延長10回表に3点を先制するも、その裏に藤岡裕大に同点3ランを被弾
    • 最後は安田尚憲のサヨナラタイムリーで試合終了となり、逆転サヨナラ負けで敗退となった。

2024年の埼玉西武ライオンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 昨シーズンから続く延長連敗記録を15まで伸ばす。球団史上最速の39試合目での自力優勝が消滅。
  2. 8月2日時点の対ロッテ戦の勝率は0%で14連敗。1965年のサンケイ(ヤクルト)の13連敗を更新。
    • ロッテが2位に入っているのは大体西武のおかげと言われる。
    • 8月29日にやっと勝って16連敗でストップ
    • 対ロッテ戦最終成績は4勝21敗。
  3. 松井稼頭央監督は途中休養という形で辞任、かつて監督を務めていた渡辺久信が代行を務める事になった。
    • 渡辺が指揮を取ると勝率が上がるどころか下がることに。シーズン100敗は逃れたが91敗は西鉄時代から数えてもワースト。
    • ホークスはシーズン91勝だったので1位の勝ち数と6位の負け数が同じという珍事が発生する。

2024年の東北楽天ゴールデンイーグルス[編集 | ソースを編集]

  1. 5月21,22日のソフトバンク戦の戦績が21-0,12-0、累計33-0を叩き出し、たった2試合で例のフレーズを過去にする。
    • 21日に投手として出場したうちの櫻井とポンセは戦力外と自由契約になった。
    • なお今江敏晃は楽天創設1年目の2005年はロッテに所属しており楽天球団ワースト0-26の試合にスタメンで出場していた。
  2. 終盤は失速したロッテと3位争いを繰り広げたが躓いて4位で2024年シーズンを終え、今江は1年で監督を降ろされる。田尾安志から相変わらずだと批判される。

2024年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. 阿部監督時代として初のリーグ優勝を果たすも、CSではリーグ3位であったDeNAの軍門に降った。
    • なお、巨人は2007年は中日に、2014年は阪神にそれぞれ敗れたため、リーグ優勝した巨人が日本シリーズに出られなかったのはこれで3回目となり、12球団の中でも最多となった。ちなみに巨人がリーグ2位以下で日本シリーズに出場した例は2024年現在は一度もない。

2024年の広島東洋カープ[編集 | ソースを編集]

  1. 5月ころより首位に立つと、巨人や阪神、DeNAとマッチレースとなるも、8月末ころまでは比較的優位に進めていた。
  2. しかし、9月に状況は一変。
    • 球団月間ワースト及びセリーグワーストタイの19敗を喫し、一気に優勝戦線から脱落。
    • 巨人に首位の座を奪われると、阪神にも抜かされ、終盤にはそれまで4位だったDeNAとのAクラス争いとなる羽目に。
    • 挙げ句、DeNAに3位の座まで奪われ、優勝はおろかクライマックスシリーズにすら出場できなかった。
    • 失速したのは週刊ベースボール9月15日号が発売された後で、この号は特級呪物という扱いを受けている。
      • 広島特集のサブタイは「広島燃ゆ」。

2024年の中日ドラゴンズ[編集 | ソースを編集]

  1. シーズン開始から少しの間だけ首位を取っていた時が絶頂期だった。
  2. その後ズルズルと下がっていってシーズン終了間際には定位置をヤクルトと争うことになった。
  3. 最終戦となる対DeNA戦で2022年に「お前、変わらんかったな」と言って放出した京田陽太に決勝打を打たれて3年連続の最下位でフィニッシュ。
    • なおDeNAはCS出場が決まっていた。
      • そして日本一にもなった
  4. 最下位ではありながら最優秀防御率、最多セーブ、最優秀中継ぎの3タイトルを同時獲得という珍事が起きている

2024年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 2023年の有原式FAを含めた80億をかけた補強でも盛大にやらかしたため2023シーズンオフでは戒めFAで山川穂高を手に入れたことで91勝という圧倒的な暴力でパリーグを文字通り蹂躙、CSは唯一勝ち越しできなかったハムも叩き潰して日本シリーズまで駒を進める。
  2. 日本シリーズもこのまま蹂躙して日本一になると思われていた。横浜スタジアムの二戦目が終わった後までは。
  3. 二戦目の後に村上隆行打撃コーチがDeNAを嘲り笑うようなコメントをしたことで連勝記録が14ストップ。三戦目の後には小久保裕紀も指笛による守備妨害を大爆笑と言ったことでズルズル負けが重なりついには4連敗で日本一を逃してしまった。
    • ちなみに村上隆行は元近鉄で1989年の日本シリーズ第7戦の最後のバッターだった。
    • また、小久保裕紀は侍ジャパン監督時代のプレミア12、WBCでも優勝を逃している。
    • 南海およびダイエー時代を含め、日本シリーズで初めて巨人以外の球団に目の前で日本一を掻っ攫われることになった。
      • 更に言うとソフトバンクになってから日本一を逃すのは初のこと。
    • 今でも馬鹿にされている5番近藤健介を小久保に提言したのはこいつ
    • 当然ながら、7年前のリベンジを許す形となってしまった(その年の対戦カードは2024年と同様にDeNA×ソフトバンクだったが、この時は4勝2敗でソフトバンクが勝利した)。
  4. 山川が加入したこととかつてのマシンガン打線を彷彿とするハマればヒットが連発する打線をガシンマン打線と呼んでいる。ガシマンとマシンガンの造語。なおガシマンが放送禁止用語のためTVなど公共の場では呼ばれることはなかった。

2024年の阪神タイガース[編集 | ソースを編集]

  1. シーズン最終成績は2位で、CS1stステージは本拠地開催ができたものの、3位DeNAに1勝もできずに敗退した。
    • 昨年アレしただけに余計に残念に感じた。
    • CS開始前に岡田監督が辞任を発表したのも痛かった。
  2. シーズン中は、広島や巨人・DeNAとのマッチレースで粘り強い戦いを見せた。
    • 9月に広島が失速して以降は、巨人との優勝争いにもつれ込むも、最後の直接対決で力尽き、優勝を逃したのも残念ポイント。
      • 直接対決次第では、逆転優勝も狙えただけに余計ざんねん。

2025年の福岡ソフトバンクホークス[編集 | ソースを編集]

  1. 前年の日本シリーズでDeNAに負けた腹いせでマイナーリーガーだった上沢直之を有原式FAを利用して獲得するが、有原航平の時よりも悪質だったため11球団ファンから顰蹙と軽蔑等色んなものを買った。
  2. 守りの要だった甲斐拓也は巨人、勝ちを計算できる石川修汰はロッテにFAで移籍。
  3. いざ開幕したら南海・ダイエー時代でも起きなかった本拠地開幕三連戦全敗、しかも全試合逆転負けという珍事が発生
  4. スペランカー体質の近藤と柳田に加えて周東も故障離脱、小久保の野球が昭和から進歩していない…
    • この後周東と近藤は戻ってきたが試合しながら治すってやっぱり小久保は昭和脳…
  5. とはいえ、監督や采配が昭和でも戦力や資金があるのでなんだかんだ強い。
  6. 某なんJ反応集のせいで柳町達がネットのおもちゃにされてしまった
  7. 8月22~24日の日ハムとの天王山三連戦に一つでも勝てばマジック点灯となるところだったが、全敗。2022年のオリックスとの天王山三連戦全敗の悪夢再び。
    • 3戦目は延長10回に二遊間を抜けるサヨナラタイムリーを打たれて負けるというところまで全く同じ。
    • マジック点灯どころか、2位のファイターズと3.5あったゲーム差が一気に0.5に迫られる始末。
      • 次の楽天戦でもボロ負けするが、日ハムが西武と引き分けたのでゲーム差0の勝率2厘差でギリギリ留まる
        • 日ハムも日ハムでこの3連戦の代償からか翌週は1勝1分3敗でゲーム差1に少しだけ広げられた
  8. ソフトバンクに限らずバットが折れるのはよくあることではあるが、1週間もせずにバットが折れて何度も命の危機に晒したのはこのチームくらいか
    • 9月9日、近藤健介のバットが折れて日ハム八木裕コーチの頭部にに直撃
    • 9月14日、海野隆司のバットが折れてオリックス曽谷龍平の胸部に直撃
  9. …と以上ほぼ一人のIPによってウダウダと書かれているが、結局は最下位からの逆転優勝・日本シリーズ制覇で、ざんねんとは程遠い素晴らしいシーズンで終わりましたとさ。

2025年の千葉ロッテマリーンズ[編集 | ソースを編集]

  1. 去年はお得意様だった西武に勝てない、そのうえ勝敗ペースが去年の西武とほぼ同じ。VISION 2025とはなんだったのか
  2. 5月の最初の試合と最後の試合で1-3でロッテが勝っている状態でセーブシチュエーションに失敗して4-3で逆転サヨナラ負けになる
    • 前者の試合はロッテが最下位に定着しソフトバンクが猛追を始めるきっかけになってしまった。

2025年の読売ジャイアンツ[編集 | ソースを編集]

  1. ソフトバンク産の選手をFAやトレードで手にいれたのに思った以上に使えない
    • 巨人投手陣と甲斐拓也との相性が悪いのかなんなのか思った以上に甲斐が使えない。特に交流戦で甲斐が捕手で出た日の失点数…
      • 「14年分のデータはあります」と意気込んでたものの逆にパリーグ側が攻略するオチでありましたとさ…(古巣には五分五分だったがそれ以外のビジター戦が悲惨)
        • 結局岸田行倫がメインとなった。
    • 秋広優人と大江竜聖を生贄にリチャードを手にいれたがリチャードはリチャードなのでリチャードだった
    • 放出した秋広はソフトバンクで3日連続ヒーローインタビューという栄誉を与えられ結果的にソフトバンクの一人勝ちに
      • その後リチャードはガチャでSSRを引くような確率にはなるがとんでもない活躍を見せるようになった。
  2. 父の機嫌は巨人が決めているという一枚絵を父の日に出したために、野球中継のせいで当時見たかったアニメやその他番組が見れなかったトラウマを呼び起こされて炎上する
    • ミーム化して改変イラストも登場した。
  3. 岡本和真や戸郷翔征と言った主力が故障したのも痛かった。同様にヤクルトも山田哲人や村上宗隆が故障し下位に低迷、これらのことが重なって阪神の独走を許した。
    • 戸郷は2軍落ちも経験し、勝ち星は戻ってきたが立ち上がりが悪い。ちなみに村上様は復帰してからホームランを打ちまくっている。
  4. 先発がイニング稼げないケースが多く中継ぎに負担がかかっている状態が続いている。

2025年のオリックス・バファローズ[編集 | ソースを編集]

  1. ソフトバンクに無抵抗で負け続けるため忠犬オリ公と馬鹿にされる。
    • 実は去年からソフトバンクに無抵抗で負けていたた。西武のロッテとの対戦成績とさほど変わらなかったりする
      • みずほPayPayドームに名前が変わってから最後に勝利した期間が500日以上経過した(ホークス主催で勝ったのは鹿児島の試合で苦手な上沢から大量得点した事)
        • 9月20日にようやくみずほPayPayドームで517日ぶりに勝利した。
      • 3連覇して向こうが研究した結果相性の悪い有原と上沢を手玉に取ったのがまた。
  2. 前半戦手前までは首位だったが怪我人続出(京セラでのオールスターは出場辞退選手が複数出た)や助っ人野手が機能してない点、また親会社がIR事業に参画しているせいか山岡泰輔がオンカジで出場自粛してた事も…

2025年の北海道日本ハムファイターズ[編集 | ソースを編集]

  1. 5月中旬から首位をひた走るも、夏場からは伸びあぐねホークスの猛追に屈して大逆転を許してしまう。
  2. 上沢に出す金をケチってホークスに掻っ攫われた挙句、一方でバーヘイゲンに大金を支払うも全く活躍せず…と補強がチグハグ。上沢の差がゲーム差に繋がる始末。
  3. ホークスに首位を譲った後も逆転のチャンスはあったが、肝心な試合での勝負弱さが目立ち再逆転ができなかった。
  4. 新庄監督が他球団の選手や球場を煽るなどして、ヘイトを買うことも。
    • 自分のチームの選手は見て見ぬ振りして、ロッテ選手のロジンに文句つけたり。
    • ベルーナドームの環境に文句をつけるのはともかく、移転しろと放言したり…。
    • ホークスを追ってた時期の本拠地最終戦のセレモニースピーチで、チームが負けたのを棚に上げて「ホークスも負けました!」と嬉々として発言。それに奮起したのかは知らないがSBはこの後4連勝して優勝を決めた。
      • 自ら発した「明日も勝つ!」から何故学ばないのか…
  5. 自分たちがホークス相手にゲームを落としまくっていたのを置いておいて、上記のように他球団を犬呼ばわりするなどファンの痛さも目立った。
    • 色々あってホークスに移籍した上沢直之に対して度を超えた誹謗中傷を行い、選手会が声明を出す事態になった。
      • 酷い誹謗中傷をした某SNSユーザーが開示される事態に発展した。
  6. 結局CSも敗退。最後までSBの大逆転優勝の引き立て役で終わってしまった。

関連項目[編集 | ソースを編集]