もしあのプロ野球選手があの球団に移籍していたら/あ・か行
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- 外国人選手はもしあのプロ野球選手があの球団に移籍していたら/外国人選手で。
分割済み[編集 | ソースを編集]
あ行[編集 | ソースを編集]
井川慶[編集 | ソースを編集]
- 阪神→ロッテ
- 史実より早くロッテが日本一になっていたかもしれないし、2005年もリーグ優勝していたかもしれない。
- 一方で阪神は2003年に優勝できたかわからない。
- 2005年が史実通り阪神-ロッテになった場合、色々な意味で史実以上に耳目を集める事になる。
- メジャー移籍は史実通りだろうが、バレンタイン退任と共にと言う形になるか。
石井一久[編集 | ソースを編集]
- ドジャース→ヤンキース
2004年オフ、ドジャース・ヤンキース・ダイヤモンドバックスの3球団で三角トレードを行いヤンキースに移籍する予定でしたが、ドジャースが撤退して破談となりました。
- ランディ・ジョンソンとのコンビで、2005年のヤンキースは史実より良い成績を残していた。
- Rソックスと同率にならず、3~4ゲーム差をつけていたかもしれない。
- 勿論、エンゼルスとのALDSでもホームアドバンテージを得ており、ALDSも制覇していたと思われる(ALCSで勝てたかどうかは別だが)。
- 松井秀との日本人コンビが実現していた。
今岡誠[編集 | ソースを編集]
- 阪神→ヤクルト
2000年に山部投手とのトレード計画がありましたがOB会からの反対により破断しました。
- ヤクルトの2001年の優勝はもう少し差が開いていただろうし、2002年以降も史実より良かったと思われる。
- 引退後はロッテでなくヤクルトで指導者をしていた?
- 阪神→オリックス
2001年に藪投手と共にトレード話が持ち上がっていましたが消えました。
- オリックスの成績がやや上昇していた。
- トレード相手にもよるが。
- いずれにせよ
- 阪神の2003年の優勝はなかったかあっても史実より僅差であり、2005年は中日が優勝していた。
- 野村克也監督(当時)との不仲説が現実以上に話題にされていた。
- 関本賢太郎や沖原佳典や上坂太一郎がセカンドorショートorサードで現実以上に活躍できていた。
岩隈久志[編集 | ソースを編集]
岩隈は2004年オフに所属球団・近鉄とオリックスの合併により誕生したオリックス・バファローズへ分配ドラフトで移籍することが決定していましたがこれを拒否。最終的には希望通り新規参入球団・東北楽天ゴールデンイーグルスへ金銭トレードされましたが、セ・リーグ球団(中日・巨人・阪神)への交換トレード話も出ていました。
- 共通事項
- 2005年の楽天は間違いなく100敗以上していた。その後の成績も史実よりずっと低かっただろうし、2013年にもリーグ優勝はできなかっただろう。
- 分配ドラフトでオリックス入りした選手のうち何人かが支配下選手枠の関係上無償or金銭トレードで楽天へ移籍していたかもしれない。
- オリックス→中日
中日は西川順之助球団社長・井手峻編成部長らが興味を示す発言をしており、西川社長は「落合監督も『岩隈を欲しい』と言っている」と発言していました。
- 交換要員は野口茂樹+平松一宏・遠藤政隆ら。
- タイロン・ウッズと並ぶ投打の大型補強が実現していた。
- 岩隈・川上憲伸・山本昌・マルティネス・中田賢一と強力先発ローテが形成され、2005年の中日はリーグ優勝を達成していた。
- パ・リーグを知り尽くした岩隈がいれば2005年の交流戦も「降竜戦」と揶揄されるほど悲惨な結果にはならなかった(史実より幾分かマシ程度だが)だろう。
- 2011年の中日のリーグ2連覇を置き土産にメジャーに移籍したことになっていた。
- オリックス→巨人
選手層の厚さ(=トレード相手の駒の質の良さ)、宮内義彦オーナーと巨人軍首脳の関係からサンケイスポーツは「巨人が移籍先大本命」と報道していました。
- 交換要員は高橋尚成・河原純一・江藤智などが取り沙汰されていた。
- 2005年の巨人の順位は史実ほど悲惨なことにはならなかっただろう。
- 巨人での応援歌は史実と異なっていたと思うが幻の応援歌になることもなかったと思われる。
- オリックス→阪神
- 2005年の日本シリーズで33-4されてしまうことはなかった…のか?
- 同年の阪神はシーズン90勝以上(ヘタしたら100勝)を達成していた?
岩瀬仁紀[編集 | ソースを編集]
- 中日→日本ハム
とあるスポーツ紙によると2017年オフ、大野奨太のFA移籍に伴う人的補償で岩瀬を指名するものの本人が「人的補償になるなら引退する」と言い、金銭補償になった噂があったそうです。
- 日ハムの投手陣に少しは良い影響を与えられたかもしれない。
- 大野奨太の心情に大きく響いていたに違いない。
- 福敬登の支配下登録が早まっていた。
- 本人の事だから、FA権行使で翌年中日へ戻る→その時点で引退となった可能性が高い。
- 功労者を人的補償で放出する前例が出来たので、長野久義・内海哲也の放出に関する批判が多少和らいでいた。
江夏豊[編集 | ソースを編集]
1983年オフに日本ハムを退団することが決定した際には、本人は「セ・リーグならヤクルト、パ・リーグなら近鉄」と希望していましたが、トレードで西武に移籍することになりました。もし本人の希望通りになっていたら…
- 共通事項
- 史実よりも長くプレーしていた。
- 最低でも、1985年までにプレーしていた。
- 登板機会が史実よりも多くなるので、通算200セーブ、通算3000奪三振を達成していたかもしれない。
- 引退試合が開催されていた。
- 多摩市の一本杉公園野球場ではなく、最後に所属した球団のホームスタジアムで開催していた。
- 大リーグに挑戦することはなかった。
- 引退後に覚醒剤に手を出すことはなかった。
- 日本ハム→ヤクルト
- 阪神キラーか広島キラーとして、活躍していたかもしれない。
- ヤクルトのCMに出演していた。
- 引退後はフジテレビジョン、ニッポン放送の解説者を務めていた。
- 日本ハム→近鉄
- 石本貴昭氏とともに、ストッパーとして、活躍していた。
- 鈴木康二朗氏は先発として、重用されていたかもしれない。
- 近鉄の観客動員数が史実よりも多くなっていたかもしれない。
- チームカラーに合っていたので、金村義明氏や村上隆行氏らと仲良くなっていた。
- 1つ上の鈴木啓示とは揉めるかもしれない(現役晩年だが、引退前年でも16勝していた)。
- 引退後にテレビ大阪の解説者になるのは史実通りだが、阪神戦だけではなく、近鉄戦の解説も担当していた。
王貞治[編集 | ソースを編集]
- 巨人→阪急
1961年に、阪急ブレーブスのエース米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められていたが、阪急が断ったため幻となりました。もしこのトレードが成立していたら…。
- 王はホームランバッターとしては大成しなかった。
- 年間55本、通算868本もホームランは打てなかった。
- 国民栄誉賞も受賞できなかった。
- ピンクレディーの「サウスポー」も出なかった。
- 中日ドラゴンズの同曲を原曲としたチャンステーマも別の曲になっていたかも。
- 「OH」が「Ô」になっていた。
- 引退後は朝日放送の解説者。
- 「おはよう朝日です」で宮根誠二に突っ込みまくられている。
- 巨人の背番号1は今でも普通に使われていた。
- トレード相手の米田が着用し、エースナンバーの一つになっていた。
- 山本功児は主力として一塁を守っていた。
- 「ヨネカジ時代」は訪れなかった。
- 梶本隆夫が「通算負け越しで200勝を達成した唯一の投手」になることはなかったかも。
- 投手に再転向した可能性もある。
- 巨人のV9はなかった。
- 1970年代には阪急が何度か日本一になっていた。
- 1975年~1977年は日本一になっておりますが…
- リーグ初優勝も史実(1967年)より早かった。
- 西本幸雄が悲運の名将呼ばりにされる事はなかった。
- とりあえず、王貞治の一本足打法はない。
- 素質はあるので、3割30本、つまり史実の加藤秀司くらいの打者にはなる。
- 指名打者制導入以降はほぼ指名打者のみで出場。
- 生涯のホームランの本数は史実より少なかったと思われるが、もう少し長く現役を続けていただろう。
- その場合、ポジション被る加藤は「干される」「外野手として起用」「高井保弘のような代打者」「阪急以外がドラフト指名」のいずれかの道を歩む。
- 素質はあるので、3割30本、つまり史実の加藤秀司くらいの打者にはなる。
- 監督をやるとしたらもちろん阪急でってことになるだろう。少なくともホークスの監督にはならなかった。
- 80年代の阪急・90年代のオリックスで優勝した監督は上田さんや仰木さんではなく彼(王さん)だった。
- 結婚相手は、おなじ阪急グループの宝塚歌劇団の生徒(劇団員、タカラジェンヌ)。そして娘が生まれたら、親子2代のタカラジェンヌになったかも?
- 一方米田哲也が2025年3月に万引きで逮捕されることはなかったかもしれない。
- 阪神の投手コーチを務めることもなく、1985年のリーグ優勝、日本一に貢献することもなかった。
大田泰示[編集 | ソースを編集]
- 巨人→広島
- 大竹寛の人的補償が大田であるという噂が一時期流れていました。
- 少なからず環境が変化することから日ハム移籍後並みの成績を14年シーズンの段階で残せていたかもしれない。
- 新井貴浩の復帰はなかったかもしれない。
- ポジション的に被る鈴木誠也にも影響を及ぼしていた可能性も。
- 一岡が巨人に残るので広島の成績は史実と同程度か少し良くなかったと見られる。
- 一岡本人もその後巨人でブレイク出来ていたかどうか?
- 史実の広島移籍後と同じような活躍が出来れば巨人の成績も上がっていた一方、くすぶっていたままなら日ハムあたりにトレードされそこでブレイク、という流れになっていたかも知れない。
- 一岡本人もその後巨人でブレイク出来ていたかどうか?
小笠原道大[編集 | ソースを編集]
- 日本ハム→中日
- ポジションが被ってしまうため、中村紀洋のテスト入団はなかった。
- しかし森野将彦の外野コンバートは史実通り。
- 中村紀洋は日本ハムか楽天が獲得していた。
- 日本ハムが人的補償で獲得した選手が「日本ハムの小笠原」になっていた。
- スコアボード表記が「小笠原道」になっていた。
- そのため、小笠原孝は「日本人にも関わらずフルネームで表記されている」という珍しい事が起きる。
- フルネームは珍しいけど、中日は山本昌や小林正が苗字被りなくても名乗りつづけた前例があるからそれほど違和感はない。
- あるいはショーゴーや英智の例にならって、登録名考にしていた可能性も。
- 小笠原道大が登録名ガッツにする可能性はある?
- その場合、話題性があったかも。一般人認知度が史実以上に高まっていた。
- 小笠原道大が登録名ガッツにする可能性はある?
- あるいはショーゴーや英智の例にならって、登録名考にしていた可能性も。
- フルネームは珍しいけど、中日は山本昌や小林正が苗字被りなくても名乗りつづけた前例があるからそれほど違和感はない。
- そのため、小笠原孝は「日本人にも関わらずフルネームで表記されている」という珍しい事が起きる。
- 2007年以降の巨人の成績は史実ほど良くなかった。
- 2008年は巨人ではなく阪神がリーグ優勝していた可能性がある。
- 少なくとも2007年・2009年はそれぞれ中日がリーグ優勝していただろう。うまく行けば2008年も優勝し、(2006年〜2011年まで)リーグ6連覇していた可能性もある。
- もしそうなった場合、落合監督は史実以上に支持され、追放されなかったかも。
- ただパークファクターを考えると史実のノリより劇的に高い成績を残すわけではなく、順位は変わらなかったかも。読売を弱体化させる効果はあるが。
- 史実通り2007年に日本一を果たした場合、この年の中日は完全制覇を果たしたということになっていた。
- もしそうなった場合、落合監督は史実以上に支持され、追放されなかったかも。
- 少なくとも2007年・2009年はそれぞれ中日がリーグ優勝していただろう。うまく行けば2008年も優勝し、(2006年〜2011年まで)リーグ6連覇していた可能性もある。
- 2008年は巨人ではなく阪神がリーグ優勝していた可能性がある。
- 髭を剃り落とすことはなかったかも。
- なんJで「巨人小笠原」ネタはそこまで流行らなかった。
- 小笠原と名前が似ているからといって「巨人笠原」が平凡キャラをつけられることもなかった。
- その後の野球賭博スキャンダルで、何がヘイボーンだよと言われることもなかった。
- むしろ笠原がカッスレの主役になっていたかもしれない。
- その後の野球賭博スキャンダルで、何がヘイボーンだよと言われることもなかった。
- 村田修一がカッスレのようなキャラ付けをされていた可能性もある。
- 小笠原と名前が似ているからといって「巨人笠原」が平凡キャラをつけられることもなかった。
- 2014年の燃えドラで歌われていた「嵐を呼び打つ小笠原」が7年早く歌われていた。
緒方孝市[編集 | ソースを編集]
1999年オフ、FA権行使の話が出ましたが結局行使せず残留しました。仮に行使となれば、興味を示していたダイエー、巨人が獲得に名乗りを上げたでしょう。
- 共通事項
- 本拠地が天然芝→人工芝の球場になることで慢性的な故障に悩まされ満足に活躍できず史実より早く引退、となっていた可能性もあり?
- 史実通り2009年まで現役を続けていた場合、2015年に広島の監督に就任しなかった可能性が高い。
- 広島→ダイエー
- とりあえず、一番・センター。
- 村松がトレードに出されていたかもしれない。
- 広島→巨人
- 此方でも一番・センター。
- 清水が他球団へ移籍していた可能性も(おそらくレフト松井・ライト高橋由伸になるので)
- トレード先候補は西武、日本ハムあたりか?
- FAでの選手獲得は1年に2人まで、というルールにより巨人は工藤と江藤のどちらかの獲得を断念していた。
- 結果獲得を断念された方は中日など他球団が獲る。
- 巨人としては2人目の「おがたこういち」選手となっていた。
- もし緒方耕一選手が1999年以降も現役を続けていた場合、同姓同名(但し下の名前の漢字表記が異なる)の選手として注目を集めていた。
- 球場内のアナウンスはどうなっていたことやら・・・。
- 紛らわしいので孝市のほうが登録名の読みを「こうじ」「たかし」あたりに変更していた。
- 耕一は「おがたこういち、『農耕』の『耕』と漢数字の『一』」に、孝市は「おがたこういち、『親孝行』の『孝』と『市場』の『市』」なんて風になってたりして…
- 普通に「緒方耕」「緒方市」でいいだろう。(参考:佐藤男)
- 「こう」の字も違うのだから緒方孝、緒方耕としておけば普通に区別できるだろう。
- もし緒方耕一選手が1999年以降も現役を続けていた場合、同姓同名(但し下の名前の漢字表記が異なる)の選手として注目を集めていた。
落合博満[編集 | ソースを編集]
- ロッテ→巨人
1986シーズン終了後、トレード先はほぼ巨人に決まりかけていましたが、当時の中日の星野新監督が主力選手の牛島や上川を放出して大逆転で中日移籍が決まりました。もし巨人に移籍していたらどうなっていただろか。
- 牛島和彦や上川誠二は引退まで中日でプレー。
- 牛島は2004年から中日監督に、大矢明彦は2005年から横浜監督に。
- 引退直後の牛島はTBSではなくCBCで解説者になっていた。
- 落合はコーチや監督を経験しないまま人生を終えている。
- 中日には牛島という絶対的なストッパーがいるため、郭源治がストッパーに回ることは無かった。
- 平沼定晴も残留するので清原和博のバット投げ・飛び膝蹴り事件もない。
- 当然、清原の出場停止もないので、1989年のパ・リーグは西武が優勝し、V10を成し遂げていた。
- 牛島は2004年から中日監督に、大矢明彦は2005年から横浜監督に。
- 1993年当時は既に巨人に在籍していたためFAは行使せず。
- 落合の背番号は5になっていた。
- 後に史実通り清原和博と入れ違いに移籍で5番を譲ったかも。
- トレード相手は駒田あたりか?
- ポジション的に被る中畑が出されていたかも。投手なら西本とか?
- 野手は中畑・篠塚・駒田、投手は西本・斎藤・角、このあたりから2対1or3対1のトレードになっていたかと。
- ポジション的に被る中畑が出されていたかも。投手なら西本とか?
- 中日では無く巨人の監督に就任していたかも知れない、或いは未だに解説者
- 巨人は生え抜きの人が監督になるという伝統があるから解説者の道が濃厚
- あるいはプロ野球選手として最初に所属していたロッテの監督に就任し、黄金時代を築いていた。
- 史実とは逆にボビー・バレンタインが中日の監督に就任していた!?
- 斎藤雅樹と交換されていた可能性も否定できない。
- 原辰徳と交換され史実以上の大ニュースに、そして原効果により翌年以降の川崎球場の観客動員が上がっていた。
- もし原と交換だったら、父親の東海大監督の貢氏が激怒して、東海大系列から巨人及びロッテへの選手の入団はしばらくなかったかも知れない。
- 原がトレードを嫌って引退した可能性が高いかと。
- 定岡正二の二の舞と揶揄されていた。
- 原がトレードを嫌って引退した可能性が高いかと。
- もし原と交換だったら、父親の東海大監督の貢氏が激怒して、東海大系列から巨人及びロッテへの選手の入団はしばらくなかったかも知れない。
- 1987年の巨人は日本一になり、88年も優勝出来ていた。
- 中日は優勝出来ないまま星野監督の退任が早まったかも。
- ロッテ→巨人(1980年頃)
これより前、1979,80年、二軍でプレーする落合選手の素質を当時の長嶋監督が見抜き、ロッテにトレードを申し込んだそうです。 もし、このタイミングで巨人入りしていれば?
- 内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤー
- 原、中畑、篠塚の控えとして使われた。
- 左キラーもしくは代打の切り札
- 従って南海から山本雅夫の獲得も無く、エンマ記者暴行事件も起きなかった?
- 愛甲猛が打者として大成しなかった。
- チームの成績次第で長嶋監督の退任が遅れていた。
- 巨人→ヤクルト(1997年)
ポジションが被る清原が移籍したため、出場機会を求めて日本ハムに移籍しましたが、この時、ヤクルトの野村監督からも入団の誘いを受けていました。この時、ヤクルトへ移籍していたら・・・
- 広島からの小早川の獲得は無かったと思われる。
- むしろ1997年開幕戦の小早川の3連発がなかったことでペナントレースの展開も変わっていたかも。
- 落合が巨人投手陣の攻略法を伝授し、別の形で巨人叩きに成功する展開か。
- 横浜は1960年以降のリーグ優勝がない状態が続いていた。
- 流石にあの年のマシンガン打線の強力さと落合の年齢、史実のヤクルトの成績(4位)を考慮すると、横浜ベイスターズの38年ぶりのリーグ優勝・日本一は史実通りだろう。
- 1997年~98年は信子夫人はサッチーのいじめに耐えていた?
- 福嗣くんもカツノリにいじられていたかも。
- 背番号は日ハムの場合と同じく3。
- ライル・ムートン(史実では1998年に背番号3を背負っていた)の背番号は別の番号になっていた。
- 同一リーグ内での移籍という意味で対戦する投手もある程度勝手を知っているので成績もそこまで衰えずもう2~3年長く現役を続けられていたかも。
- 後年ヤクルト監督に就任すれば黄金時代の再来も。
- 史実でもロッテや日本ハムで監督どころか指導者にもなっていないので、流石に2004年の中日監督への就任は史実通りだろう。
か行[編集 | ソースを編集]
掛布雅之[編集 | ソースを編集]
- 阪神→ヤクルト(1989年)
かつて阪神の監督を務めていた安藤統夫コーチから移籍の誘いを受けていましたが、実現することなく現役を引退しました。もしこのときヤクルトへ移籍していたら・・・
- 移籍一年目はレギュラーで活躍し、ヤクルトはAクラスに入っていた。
- 野村監督就任後は代打の切り札か、馬が合わず結局引退のどちらか。
- 上手くいけば1999年に阪神のコーチに就任していた。
門田博光[編集 | ソースを編集]
- 南海→巨人
1980年オフ、巨人・長嶋監督によって「ポスト王貞治」「定岡兄弟、河埜兄弟がそれぞれ同一チーム在籍という話題作り」を狙ってか門田・定岡智秋と新浦壽夫・河埜和正の各選手の交換トレードがまとまりかけましたが、巨人の監督交代で「(貴重な左腕投手である)新浦は出せない」として破談となりました(当事者である定岡智秋氏談)。もしこの時、門田選手が巨人へ移籍していたら…
- 松原誠の獲得はなかったかも。
- 1985年の「河埜落球事件」は発生せず、河埜和正はもう少し長く現役を続けられていた可能性もある。
- 門田本人はその後史実と同じ程度の成績は残すもののセ・リーグの場合守備に就かなくてはならないことによりそのあたりの影響が出た可能性も?
- 史実より早く現役引退、もしくは近鉄か阪急(オリックス)の在阪球団に移籍し現役生活を終えていたかも知れない。
- 加藤英司のようにセ・リーグの水が合わず、となっていた可能性もあり得る?
- 吉村禎章、駒田徳広のブレイクが遅れていた可能性も。
- 場合によっては、蓑田浩二氏を獲得するることはなかったか、彼とのトレードで阪急に移籍していたかもしれない。
- 新浦の韓国球界への移籍はなかったかも知れない。この場合、横浜大洋・ヤクルトに所属することもなかったか。
- 南海→近鉄
1988年オフの南海のダイエーへの身売り→福岡移転の際門田本人が子供の教育の都合上関西を離れられない、ということでトレードを志願し当初は近鉄入りが有力か?との噂がありましたが結局オリックスへと移籍しました。もし近鉄へ移籍していたら?
- 1989年は日本シリーズで近鉄が巨人を倒し日本一になっていた。
- ブライアント・門田・リベラの最強クリーンナップが実現していた。
- オリックスは1989年の優勝争いには加われなかった。
- ホームランを打った際ブーマーとハイタッチし肩を脱臼することもなかった。
- ホークスに復帰せず近鉄で現役生活を終えていたかも知れない。
- もしかしたら1991年か1992年にもリーグ優勝できていたかもしれない。
- 南海→阪神
1980年オフに掛布雅之氏とのトレードの話がスポーツ新聞でスクープされました。
- 掛布雅之氏は史実より長くプレーしていた。
- 門田博光氏は史実より早く引退していたかもしれない。
- 1985年の日本一は史実通り。バース・門田・岡田でバックスクリーン3連発を打っていたかも。
亀山努[編集 | ソースを編集]
- 阪神→近鉄(1998年)
1997年オフに佐々木恭介監督はフロントに亀山努氏の獲得を進言していました。
- 3~7年プレーしていた。
- 中村、ローズ、クラークとともにいてまえ打線の一角に入っていた。
- 2001年もプレーしていたら、2001年のリーグ優勝に貢献していた。
- 毎日放送解説者の就任は史実通り。
- 引退が遅れるので、枚方リトルの監督を務めることもなかった。
- 引退後あそこまで激太りしなかったかも。
- そもそも阪神時代に交錯による怪我がなければもう少し長く現役を続けていたので可能性があった。
- 礒部公一が捕手から外野手へコンバートしなかった。
工藤公康[編集 | ソースを編集]
1年早くFAでダイエーに入団していたら?
- (1993年オフ)
- パリーグ初の「前年最下位からの優勝」は2001年の近鉄より前に実現していた。
- 1996年の生卵事件はなかった。
愛知県出身ということで地元の中日が複数回獲得に名乗りを上げるも、いずれも実現しませんでした。もし中日入りしていたら?
- 共通する事
- 余程の事が無い限り中日で現役を全うするだろうから2006年オフに門倉健の人的補償での横浜移籍とその後の西武復帰はしていない。
- 西武→中日(1994年オフ)
- 中日とダイエーの運命が大きく変わっていた。
- ダイエーは低迷脱却が遅れ、中日はもっと早く2度目の日本一になれていた。
- 1996年の「メークドラマ」は中日が作っていた。
- 1999年の日本シリーズで両チームが対戦した場合、史実とは逆に中日が4勝1敗で日本一になっていたかも。
- 2015年にソフトバンクの監督に就任することもなかった。
- 2015年のソフトバンク監督は若田部あたりが就任していたかも。
- 引退後は中日で指導者or東海テレビ/ラジオ・CBCなどの解説者になっていた(1999年オフに加入した場合も同様)。
- ダイエーは低迷脱却が遅れ、中日はもっと早く2度目の日本一になれていた。
- ダイエーは1999年オフに獲得を目指していたかもしれない。
- いや、工藤が史実で1999年オフにFA宣言したのはダイエー球団のフロントと揉めたからだし、中日だったらその可能性は低いだろう(地元出身かつFAで来てくれた選手を無碍に扱うことはまずあるまい)。
- 工藤が西武時代と同じ背番号47を着用する場合、野口茂樹(史実では1995年から背番号47を着用)は史実とは別の背番号を着用していた。
- ダイエー→中日(1999年オフ)
- 本人・チームともに2000年の成績がもう少しまともになっていた可能性がある。
- 少なくとも、巨人の東京ドーム最終戦での「9回に4点差を逆転して優勝決定」は無かった。
- うまくいけば中日が優勝していた。
- 地元ファンは大歓迎か?
- 野口茂樹の背番号が変更になっていた可能性も。
- 変更するとすればおそらく宣銅烈の引退で欠番となった20番(星野監督の現役時代の背番号)か、武田一浩の背番号変更で欠番となった18番か。
- 前者の場合、川崎憲次郎が史実通り2001年に中日に加入したとしても史実とは異なる背番号になっていた。
- 工藤が47を着用しなかった場合、同じく20番か当時中継ぎの一人として活躍していた正津英志の21番(ダイエー移籍直後の背番号)あたりだろう。
- まあどちらにせよ(野口が背番号変更するにせよ工藤が47以外を着用する場合にせよ)、前年のMVP同士の共演は相手打線の脅威になっていたことは間違いない。
- 変更するとすればおそらく宣銅烈の引退で欠番となった20番(星野監督の現役時代の背番号)か、武田一浩の背番号変更で欠番となった18番か。
- 山本昌は200勝達成できずに引退、もしくは他球団に移籍して達成していた可能性も。
- 逆に「最強熟年コンビ」として末永く活躍を続けたかも。
小坂誠[編集 | ソースを編集]
- ロッテ→楽天
小坂誠は2005年オフに巨人の誘いを受けロッテから移籍するも、打撃不振などからレギュラーをつかむことができず、2008年オフに楽天入りしました。では2005年オフに小坂が楽天に入っていたら?
- 最悪でも、現実ほど悲惨な状況にはならなかった。
- 2008年も4位に上がれていたかもしれない。
- 巨人のメークレジェンドの状況も変わっていた。
- 地元出身選手という理由で更に人気が出ていた
小早川毅彦[編集 | ソースを編集]
- 広島→阪神
1996年に猪俣隆投手とのトレード話がありましたが破談しました。
- =97年の開幕3連発がないという事なので、ペナントレースの行方が大きく変わっていたかも。
- グリーンウェルが来日しなかったかも。
- 引退後は史実通りか。
関連項目[編集 | ソースを編集]
| もしあのプロ野球選手があの球団に移籍していたら |
|---|
| あ~こ/さ~の/は~わ |