もしあの学校が○○だったら
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独立項目[編集 | ソースを編集]
学部[編集 | ソースを編集]
同志社大学医学部があったら[編集 | ソースを編集]
- 同志社大学は医学部もしくは医科大学を開設する計画がありましたが、実現に至りませんでした。もし、実現していたら…
- 医学部の新設なら、京田辺キャンパスに設立していた。
- 京都府外の場合、「同志社医科大学」になっていた。北海道函館市か宮城県仙台市に設置していた可能性が高い。
早稲田大学夜間学部が廃止されなかったら[編集 | ソースを編集]
- かつては文学部・法学部・商学部・政治経済学部に第二学部が存在しました。
- 文化構想学部は誕生しなかった。
- 社会科学部も誕生しなかったか夜学のままだったかもしれない。
- なりふり構わず早稲田に合格しようとする受験生のせいで倍率が少なからず上がっていた。
- 広末涼子は1部(昼間)ではなく夜学に入っていたかもしれない。
早稲田大学医学部があったら[編集 | ソースを編集]
- 日本医師会長が慶応大出身だったため邪魔されたと言われます
- 小保方晴子は医学部に入っていた。
- 人間科学部はなかった。
- 茨城にキャンパスはできないだろう。
流通経済大学に流通産業学部があったら[編集 | ソースを編集]
熊本学園大学に理工学部があったら[編集 | ソースを編集]
- おそらく現学名に変更された1994年以降に開設された。
- 「シリコンアイランド」の九州ゆえ半導体の研究に注力するかも。
大阪産業大学に交通学部があったら[編集 | ソースを編集]
- 1928年に設立された鉄道学校を源流とする。
- 実際に交通関係の学科は存在したことがある。
流通経済大学に流通技術学部があったら[編集 | ソースを編集]
- 貨物車両などの研究を行う理系学部に。
東北学院大学理工学部があったら[編集 | ソースを編集]
- 2000年代に工学部の改組なら教養学部の人間・情報学を取り込んでいたかも。
大阪学院大学に医学部があったら[編集 | ソースを編集]
- 実際に検討されたことはあるらしい。
- 恐らく附属高校の場所にキャンパスができていた。
- もちろん附属病院も併設されている。
- 高校は別の場所に建設されていた。
あの公立大学が国立大学へ移管されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 便宜上旧制医科大学も含みます。
全般[編集 | ソースを編集]
茨城県立農科大学(現:茨城大学農学部)[編集 | ソースを編集]
- 史実で県立医療大ができた頃に県立大へ改称された。
- 保健医療学部は農学部の隣に設置され東京医大の医療センターは別の場所にあった。
- '00年代につくばあたりへ移転していたかも。
- 保健医療学部は農学部の隣に設置され東京医大の医療センターは別の場所にあった。
学校名[編集 | ソースを編集]
筑波大学が現在でも東京教育大学を名乗っていたら[編集 | ソースを編集]
- 厳密には東京教育大学が筑波大学に直接改名した訳ではないようですが便宜上こうします。
- 少なくとも大塚キャンパスは一部学部の為に存続させていた。
- とは言え筑波の方が広大な為、専修大の神田キャンパスのようにごく僅かな学部しか使われなくなってしまう。
- 東京に一部の学部があるにもかかわらず、筑波の方が大きいせいで受験界隈でもChakuwikiでも非東京の代表格とされていた。
- とは言え筑波の方が広大な為、専修大の神田キャンパスのようにごく僅かな学部しか使われなくなってしまう。
- 現在でも東京学芸大と混同されることがしばしばある。
- 東京教育大には昔から教育学部以外の学部があったので、尚の事ややこしい事になっていた。
- 場合によっては両校の間で学部再編などがされていた。
- それでも図書館情報大学は史実通り統合されている。
- 間違っても茨城大学との合併はない。
- なぜか茨大が筑波キャンパスを開設したかも。
- 間違っても茨城大学との合併はない。
電気通信大学が大学名に地名を冠していたら[編集 | ソースを編集]
- 日本の国立大学の中で唯一地名を冠していない電通大ですが…。
- 少なくとも私大と間違えられることはなかったはず。
- 新制大学になった同年に東京電機大学が開校しているので、東京電気大学になっていたかは微妙な所。
- 前身の校名をそのまま引き継いで東京電信大学になっていたかもしれない。
- 大学名によっては大阪電気通信大学がそのまま電気通信大学を名乗っていた。
- 調布大学を名乗っていた可能性も。
合併[編集 | ソースを編集]
学習院大学と学習院女子短期大学が統合していたら[編集 | ソースを編集]
- 学習院女子短期大学は1998年に学習院女子大学として4年制大学化し、学習院大学とは別大学としてやっています。ではこの時、学習院女子短大を学習院大に統合する道を選んでいたら?
- 青山学院女子短大や立教女学院短大はもっと早く閉校し、青山学院大学や立教大学と統合していた。
- 「短大の4年制大学化の成功例」と言われることはなかった。
- 1998年時点で「国際社会科学部」にあたる学部を設立していた。
- 皇室離れによる人気低下は起こらなかった可能性がある。
- 眞子さまや佳子さまが国際基督教大学に(佳子さまは中退までして)行くことはなかった。
- 場合によっては悠仁さまもお茶の水女子大付属幼稚園ではなく学習院幼稚園に進んでいたかも。
奈良女子大学と奈良教育大学が統合していたら[編集 | ソースを編集]
- 計画自体はあったが事実上頓挫している為、現在奈良県に共学の国立総合大学は存在しません。
- 戦後すぐに統合していれば、こちらがストレートに「奈良大学」を名乗っていた。
- 史実の奈良大学はおそらく地名を冠さない大学名になっている。
- 恐らく「正強学園大学」になっていたと思われる(史実の奈良大学附属高校の旧称は「正強高校」だったので)。
- もしくは「南都大学」を名乗っていた。正強高校ものちに「南都大学附属高校」に校名を変更していた。
- もしくはこちらの方が「大和大学」を名乗っていたかもしれない。その場合、史実の大和大学は別の大学名を名乗っていただろう。
- 学校法人名から「西大和学園大学」になっていたかも。
- 奈良大学開学後に統合していた場合「奈良国立大学」となり「横浜国立大学」とともに「国立大学」とつく大学となっていた。
- 史実の奈良大学はおそらく地名を冠さない大学名になっている。
- 大阪からもそれほど遠くないので、偏差値のレベルは「和歌山大・滋賀大以上神戸大以下」辺りに落ち着いている。
- 同じく国立の女子大であるお茶の水女子大学は残ったんだろうか?
経営[編集 | ソースを編集]
多々良学園が引き継がれず消滅していたら[編集 | ソースを編集]
- 山口県から高校サッカー全国大会出場を続ける高川学園は、元々多々良学園と言う校名でした。しかし学校法人が破綻したため一時は存続の危機に見舞われたところでタカガワが手を差し伸べ、存続となり現在に至っています。もし、スポンサーが見つからず消滅していたら…
- 山口は一気に激戦区となっていた。
- 山口県鴻城、西京が全国選手権初出場を果たしていた。
- 西京は2008年に選手権初出場を決めました。
- 一方、山口県勢は全国大会で苦戦を強いられる。
- 白井監督は全国からたくさんのオファーを受けていた。
- 野球部OBの高木豊がメッセージを送った。
- 「防府市への移転は何だったのか」と言われる。
- 特に最寄り駅を改築したJR西日本から。
学習院大学が国立大学になっていたら[編集 | ソースを編集]
- 学習院大学は戦前まで旧宮内省の外局として設置された国立学校の一種でしたが、戦後国立大学になっていたら。
- エスカレーター入学ができないのでレベルが史実より高かったかもしれない。
- そのため高等科の推薦枠が多めに取られる。
- 他国立大への推薦枠も少なくないだろう。
- お茶の水・筑波・千葉並みだったかも。
- そのため高等科の推薦枠が多めに取られる。
- 学習院女子短期大学は統合された。
- もしかしたら皇族が創立者の皇學館大学も国立だったかもしれない。
鉄道学園が存続していたら[編集 | ソースを編集]
- 国鉄の分割民営化時に廃止され清算かJR各社の社員教育施設に転換されました。
全般[編集 | ソースを編集]
- 鉄道総研などのようにJR各社共同運営の学校法人になっていた。
- 「中央鉄道学園」は学園名で存続。
- もしくは「日本鉄道学園」という学校法人名だったかも。
- 「JR学園」と呼ばれる。
- 但し、史実でJR東海が設立に関わった海陽学園に対しては全くのノータッチ。
- ライトノベル「レールウォーズ」に出てくる国鉄系の学校がリアルなものとなる。
- 「中央鉄道学園」は学園名で存続。
- 大学課程の名残で「鉄道大学」になった。
- 岩倉高等学校や昭和鉄道高等学校あたりから進学者がいる。
- 岩倉高校は21世紀に入ってからJR学園系列になり「ジェイアール岩倉高等学校」という校名になっていた。
- 将来の鉄道経営者や鉄道技術者などを養成するための中高一貫コースも設置され、卒業後は鉄道大学への優先入学が行われていた。
- 大阪産業大学付属高校(元は鉄道高校だった)も関西における準系列校に指定され、鉄道コースが設置されて鉄道大学への優先推薦入学も行われていた。
- 岩倉高校は21世紀に入ってからJR学園系列になり「ジェイアール岩倉高等学校」という校名になっていた。
- 卒業後JRに入社する前提で学費無料に。
- そうならなくとも優秀な学生は返還不要の奨学金制度があったかも。
- あるいは「鉄道大学校」となり防衛大学校や気象大学校などと同じような扱いになっていた。
- 岩倉高等学校や昭和鉄道高等学校あたりから進学者がいる。
関東[編集 | ソースを編集]
- 新三郷の元操車場あたりに移転していたかも。
国公立大学の法人化が○○だったら[編集 | ソースを編集]
- なかった場合はもしあの事業が民営化していなかったら#国公立大学へ。
国立大学が単一法人だったら[編集 | ソースを編集]
- 史実で国立大学法人化した2004年を想定します。
- 文科省管轄の独行法人で「国立大学機構」だったかも。
付属校[編集 | ソースを編集]
聖和学園が小学校を運営していたら[編集 | ソースを編集]
- 宮城の聖和学園は現在、幼稚園、高校、短大を運営し、過去には中学校である吉田中学校も運営していましたが、小学校だけは運営したことがありません。もし、小学校も運営していたら?
- 戦後の学制改革とともに設立していた。
- 名前は聖和学園吉田小学校だった。
- 女子専門の小学校だった。
- 宮城県沖地震の余波で吉田中学校とともに運命を共にしていた。
上智大学が直属の付属高校を持っていたら[編集 | ソースを編集]
- 現在上智大学は、同じ宗派の4つの高校を学校法人上智学院の姉妹校として置いていますが、もし直属の付属高校を持っていたら?
- 校風から青山学院や慶應義塾みたいに「お坊ちゃま・お嬢様大学」のイメージがついていた。
- おそらく小学校や中学校も設立していた。
- 高校の場所によってはあおぞら銀行の四谷キャンパス移転はなかったかも。
- 戦前に専門部を7年制高校へ転換、学制改革で新制高校となったかも。
種智院大学が洛南中学校・高校を付属校化していたら[編集 | ソースを編集]
- 真言宗学園時代に洛南中学校・高校も運営しましたが付属校化していたら?
- 「大学名より高校名が有名」になっていた。
- ちょうど金沢経済大学と星稜高校の関係に似ていた。金沢経済大学→金沢星稜大学と同じくこちらも洛南大学になっていたかもしれない。
- 大阪産業大学と大阪桐蔭高校も同じく。
- ちょうど金沢経済大学と星稜高校の関係に似ていた。金沢経済大学→金沢星稜大学と同じくこちらも洛南大学になっていたかもしれない。
静岡大学が教育学部の付属高校を持っていたら[編集 | ソースを編集]
- 付属幼稚園・小・中学校・特別支援学校がありますがその付属高校はありません。
- 沼津市あたりに開校。
- 県内の上位校だった。
東京工業大学が附属中学校を持っていたら[編集 | ソースを編集]
- 国立大学に附属学校がある場合、多くが小中学校です。しかし東京工業大学の附属校は高等学校のみです。
- 名称は「東京工業大学附属中学校」。
- 中学校は専門課程を開講できないため、「科学技術」を抜いている。
- 他の多くの国立大学附属学校と同様、高校からの入学枠も残しておく。大体合計人数の半分位を外部生枠とするか。
- 入学者選抜も同様に、中学校は適性検査+面接+抽選、高等学校は外部生は学力試験、内部進学者は内申点によるものとする。
- 大学の教職課程が教養分野の一部分で教育学部となっていない以上、附属小学校や幼稚園などを併設することは難しい。
- 都立であったものの姿を消した中高一貫職業科学校が復活する。
- この点を活かし、中学校より総合的な学習の時間などで職業教育を重視したカリキュラムを組む。
- 内部生が高等学校1年次より学科分けされることはなく、外部生と同様1年次は「科学技術科」とし、2年次より学科分けを行う。
- 中高一貫校は内部生の進度が早くなりがち。そこで、高等学校では共通教科のみ別クラスとするか、余った時間で先行して総合的な職業教育を行う。高等学校の専門分野の教員が交代でその内容を講義する授業が組まれる。内部生は学科選択の参考にする。
- 学校設定教科の開講は問題ない。
- 中高一貫校は内部生が成績上位者を独占しやすい。このため希望の学科に行ける生徒や、大学への内部進学者も内部生が多くなりやすい。不公平に対応するため、外部生枠を設けるなど、ある程度外部生へも配慮する。
- 中学校校舎は校庭の一部分に新築するか、2号館(高等学校校舎)の増築で対応。
- 入学式は高等学校と合同で、大岡山キャンパス・記念講堂で開催する。
- 系列大学の教育実習は次のように行う。
- 各学校での実習期間のうち、前半は授業見学を中心に、後半は授業実習を中心に行う。
- 高等学校免許のみの取得希望者は従来通り高等学校で2週間の実習を行う。中学校免許の取得希望者は、2週間を中学校、残り2週間を高等学校での実習とする。なお、高等学校情報科・工業科での実習を行う者は、中学校では異なる教科での実習になる(中学校に存在しない教科のため)。基本的に技術科(工業化学科のみ理科)だが、配属の都合で情報科の実習生は数学、工業化学科の実習生は理科になる場合がある。
- イレギュラーだが、高等学校免許を希望しないものは相談の上4週間すべてを中学校での実習にすることも可能。
- 外部で3週間の実習を行う者に対する1週間実習も免許や外部実習先の校種・教科を勘案して決定する。一方のみ取得希望の場合は5日すべてをその校種で行う。両方取得希望であるが外部での実習が片方の校種のみの場合は5日すべてをもう一方の校種で行う。中高一貫校で両方での実習を行った場合は両方での実習を行う。
大阪工業大学高校が常翔学園高校に改名されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 啓光学園との連携開始で2008年に大阪工業大学の付属校を解消されました。
- 法人の方がその時点で常翔学園から大工大に改名された可能性も。
- それでも摂南大学の名前は変わらない。
千葉大学附属の工芸高校と電波工芸高校が東京工業大学へ移管されなかったら[編集 | ソースを編集]
- 1951年に両校の合併で東工大附属工業高校となりました。
- 史実で移管された時点で工学部附属高校となるが1966年に他(教育)学部附属の小中学校ともども西千葉へ移転。
- 入れ替わりに東大千葉キャンパスが品川に移ったかも。
- 2000年代に小中学校や幼稚園も本部附属に改組されたかも。
- それまでの難易度は千葉西高と千葉工高の間で推移
- 理科大ではなく日大理系学部や千葉工大への進学が多い。
- 成績上位者は設置元の千葉大や東工大、理科大もいるだろうが。
東京都立大学附属高校が首都大学東京の附属校へ移行していたら[編集 | ソースを編集]
- 設置元が大学法人へ移行した影響で附属高校は桜修館中等教育学校へ改組されました
- 「首都大学東京附属高校」へ校名変更され、中等部を追加で中高一貫化していた。
- 兵庫県大附属高校とよく比較される。
- 都立産技高専ともども上記の大学法人へ移管されていた。
- 推薦枠が上記の中等部から少なからずとられたかも。
- 日比谷、国立、西の都立御三家に次ぐ地位だったかも。
その他[編集 | ソースを編集]
皇學館が官立大学に昇格していなかったら[編集 | ソースを編集]
- 史実では1940年に官立専門学校の神宮皇學館が、官立学校の神宮皇學館大學に昇格しました。
- 戦後は同じく旧制専門学校だった皇典講究所→國學院大學と同じく、一旦運営母体に統合された上で、私立校になっていた。
- 史実での1946年に神宮皇學館大學が廃止されてから1962年に皇學館大学が開学するまでの16年のブランクがなかった。
- 元が伊勢神宮内の神職養成課程なので伊勢神宮に統合された。
- 再分離時に史実の附属図書館だけでなく神宮文庫・神宮徴古館や神宮農業館などの伊勢神宮の公益事業も大学付属施設になっていた。
- 1949年に「官設民営」の皇學館大学へ昇格していた。
- 内務省管轄のままだった。
- 史実では大学昇格に伴って管轄が文部省に移された。
- 戦後まで内務省管轄だったので実際よりも宗教色が強いまま。
- 神道学部がある。
- 実際の皇學館大学では文学部の下に神道学科がある。
「精華」と付く高校がすべて精華町に開校していたら[編集 | ソースを編集]
- 前身からそこに存在したと仮定します。
- 南京都→広学館高校は別の場所に開校したかも。
あの旧制中学校が高校に昇格していたら[編集 | ソースを編集]
全般[編集 | ソースを編集]
- 官立高校が設置されなかった道や県で中学から7年制高校へ昇格する例が多かった。
- 高校受験の倍率は史実より下がっていた一方帝国大学や東京商大(→一橋大学)など人気大学はそれが上がっていた。
- ナンバースクールとの差が大きくなり成蹊、甲南あたりからそれらへの進学は難しくなったかも。
東京府立第一中学校[編集 | ソースを編集]
- 従来の一中は尋常科に転換、高等科を追加の形をとった。
- 戦後高等科が都立大に昇格、尋常科は都立大附属高校に改組。
- 都立大の法人化で附属高校は中高一貫化をまぬがれる代わり校名変更されたかも。
- かつての一中ごとく都立一高になった可能性も。
- 中高一貫化しても校名変更と中等部の追加にとどめた可能性大。
- 史実の府立→都立高校でもほぼ同じであるが高校を守り抜いた(都立大附置学校を経ず都立大附属高校に直接変更)かも。
- 都立大の法人化で附属高校は中高一貫化をまぬがれる代わり校名変更されたかも。
- 都立大は学園紛争の影響で史実より早く郊外移転したかも。
- 紛争は附属高校出身者が中心だったかも。
鳥取県立鳥取第二中学校[編集 | ソースを編集]
- 鳥取二中は7年制高校に発展させる計画がありましたが県の財政事情で実現しませんでした
- 校名は「鳥取県立高校」だろう。
- 二中部分が尋常科、発展部分が高等科となった。
- 戦後に尋常科は県立新制高校に校名変更、高等科は県立大に昇格したかも。
- 県立新制高校は高等科の県立大昇格なら県立大附属高校に校名再変更。
- 鳥取環境大は開学しなかった。
群馬県立高崎中学校[編集 | ソースを編集]
- 新潟、松本、水戸、浦和のような周辺県への官立高校設置に触発され高校昇格させていた。
- 前橋と不毛の争いで高校立地を勝ち取ったとされる。
- 戦後に尋常科は新制高崎高校へ改組され高等科は県立大へ昇格していた。
- 新制高崎高校は県立大附属高校になった可能性も。
- 経済大は高崎に設置されなかった。
香川県立高松中学校[編集 | ソースを編集]
- 官立高校が松山や高知へ設置された報復で高校昇格させていた。
- おそらく「県立高松高校」を名乗っていた。
- 戦後に尋常科が新制高松高校に改組、高等科が県立農専ともども県立大に昇格していた。
- 新制高松高校は県立大附属高校になっていたかも。
- 県はそのやる気をなくさなかっただろうから保健医療大設置の頃、学部増設していた。
同志社中学[編集 | ソースを編集]
- 同志社は大学令による大学昇格とあわせ従来の予科と中学を7年制高校へ改組させる計画がありました
- 高校改組は成蹊、成城と同時期にずれ込んだ。
慶應義塾普通部[編集 | ソースを編集]
- 史実で大学予科が日吉へ移った頃にそれと合併させて発足。
- 「慶應義塾高校」をその頃から名乗っていたかも。
- 普通部は尋常科、大学予科は高等科相当の文理科となったかも。
- その場合尋常科は1948年に「慶應義塾新制高校」へ改組(のち校名から「新制」がとれる)、文理科は翌年に大学へ包括。
- 文理科は文科相当の文類、理科相当の理類と思われる。
- 神奈川県唯一の高校だった可能性大。
- 帝大や医大への外部進学より慶大への内部進学が多いはず。
大分県立大分中学校[編集 | ソースを編集]
- 福岡、佐賀、松山など官立高校の周辺県設置に触発され高校昇格させていた。
- 従来の大分中学は高等科を追加で尋常科となる。
- 官立化がなかったら尋常科は1948年に第一高校へ改組、高等科は翌年に県立大へ昇格。
- 大分高商→大分大学との定期戦が県内で注目されていた。
秋田県立秋田中学校[編集 | ソースを編集]
- 1920年に山形や弘前など官立高校の設置に触発されたのか同年の県議会で高校設置の意見書が出され秋田中学でも高校昇格へ取り組みました
- 「秋田県立高校」を名乗ったかも。
- 高等科を追加で従来の中学は尋常科となった。
- 官立化をまぬがれたら戦後に尋常科は(新制)秋田南高校へ改組、高等科は県立大へ昇格。