もしあの建造物が現存していたら
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独立項目[編集 | ソースを編集]
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東京[編集 | ソースを編集]
鹿鳴館[編集 | ソースを編集]
- 帝国ホテル共々、博物館明治村への移築が行われていた。
- 大和生命の本社は別の場所になっていた可能性が高い。
- 史実通りここを本社にしていた場合、鹿鳴館の外壁だけ残して高層ビルを建てる計画をぶち上げ反対運動を食らう事になりそう。
- 現在は間違いなく重要文化財と史跡に指定されている。
- 明治村に移築された場合も。
- 時々往時を再現したダンスパーティが開催される。ときの人気女性芸能人があでやかなドレス姿でダンスを披露する。
- 社交ダンス競技の日本選手権会場として使われ、関係者にとっての聖地となる。
- テレビの社交ダンス企画(ウリナリや金スマ)は絶対『鹿鳴館への道』なんてキャッチコピーがついていた。
千住火力発電所[編集 | ソースを編集]
- おそらく発電設備は停止されている。
- 「お化け煙突」共々何かしらの記念館として残されていた。
- 電力館は渋谷区ではなくここに入居していたかも。
- 「お化け煙突」共々何かしらの記念館として残されていた。
- どこかのタイミングで全ての煙突に耐震補強工事が施されていた。
- 酒の細道の「北千住探訪」はなかった。
- 石橋正次「千住大橋」やあいみょん「ハルノヒ」の歌詞にも登場していた。
若竹[編集 | ソースを編集]
- 建物自体は現存してます(このパターンもここで桶?)
- 相変わらず赤字経営だった。
- 『笑点』の収録も史実以上に多く行われていた。
- どっかのタイミングで永谷商事(都内で寄席を運営する不動産業者)に経営が譲渡されていた。
- よってお江戸両国亭(史実の円楽一門会の寄席)は存在しない。
松竹蒲田撮影所[編集 | ソースを編集]
- 松竹大船撮影所は存在しなかった。
- 『男はつらいよ』シリーズはここで撮影されていた。
- 鎌倉シネマワールドは「東京シネマワールド」という名称で蒲田に建設されていた。
- 「羽田空港に一番近い遊園地」という強みが生まれるので、現在まで残存していたかも。
- 松竹大船ショッピングセンターも「松竹蒲田ショッピングセンター」として蒲田にできていた。
- 史実の松竹大船撮影所同様、2000年代に入ってから閉鎖されていたと思われる。
- ただし跡地が区民ホールだったかどうか怪しい。
- 映画「蒲田行進曲」は東映京都撮影所ではなくこの撮影所が舞台になっていた。
- 「蒲田=松竹」というイメージが強くなるため『シン・ゴジラ』(東宝)で序盤のゴジラ上陸地点が変更されていた。
- 「かまたくん」というニックネームも消滅。
同潤会青山アパート[編集 | ソースを編集]
- もちろん表参道ヒルズは存在しない。
- その代わりこのアパート全体が商業施設に改装され「近代建築の保存・活用の成功例」とされる。
- 中野ブロードウェイみたいに商業施設と居住棟が共存している可能性もある。但しこの場合だとアパート全体が現存しているか微妙なところ。
- その代わりこのアパート全体が商業施設に改装され「近代建築の保存・活用の成功例」とされる。
- 保存決定のものが出たため他の同潤会アパートがもう少し簡単に取り壊された危険あり。
- 文化財指定はなさそうな気がする。
初代新橋駅駅舎[編集 | ソースを編集]
- 関東大震災と戦災を乗り越えているのが大前提。
- 大正末~昭和初期からは史実の計画通り鉄道博物館として使われていた。
- 万世橋の博物館は当初やや小規模だった。
- 汐留貨物駅の拡張により明治村に移設されたかもしれない。
- この場合SLの駅として使われるのが有力。
- となると現在の旧新橋駅の場所はどうなっているんだろう。再開発後のビジネス需要を当て込んで、JR資本の高層ビルでも出来ていたんだろうか。
トキワ荘(初代)[編集 | ソースを編集]
- さすがに現在はアパートとしては使用されていない。
- 漫画の歴史に関する博物館として使われていた。
- 一部の部屋は当時の様子を人形などで再現している。
- 漫画の歴史に関する博物館として使われていた。
- バブル期の地上げはかつて入居していた漫画家たちの協力で乗り切った。
- 最近では海外の観光客も訪れるようになっている。
- 南長崎地区の全国的な知名度はもう少し上がっていたはず。
- 2020年、復活してしまいました。
東京国際見本市会場[編集 | ソースを編集]
- 現在でもコミックマーケットが開催されていた。
- 老朽化が進行しているので東京オリンピック開催の際に新国立競技場がここに建設される噂が出ていた。
- そのせいかオタク界隈では東京オリンピックを返上しろという声が聞こえていた。
- 移動通路に屋根がついていた。
- イベント開催時の大江戸線が臨時ダイヤを組んでいた。
近畿[編集 | ソースを編集]
羅城門[編集 | ソースを編集]
- 史実同様何度か壊れて再建…を繰り返し続けていた。
- 現存するのは豊臣秀吉あたりが再建させたもの。
- ソウルの東大門や南大門のように、周りを道路に囲まれていたかもしれない。
- あるいは市電を通す際の工事でやや動かされている。
旧丸物本店[編集 | ソースを編集]
- 大阪の綿業会館などとともに渡辺節を代表する建物となっていた。
- 近鉄百貨店閉店後はヨドバシカメラが居抜きで入居していた。
- 数あるヨドバシカメラでも異質の店舗となっていただろう。レトロな家電量販店として注目されていた。
- 三越新宿店→ビックロのように外装を大幅に変えて大顰蹙を買っていたかもしれない。
- オープンも史実より1年くらい早かった。
- 数あるヨドバシカメラでも異質の店舗となっていただろう。レトロな家電量販店として注目されていた。
- 登録有形文化財に指定されていたかも。
- 大船鉾の保存施設は全く別の場所に設けられている。
- 所有者が(旧京都)近鉄百貨店から近鉄本体(持株会社移行以前)に移っている。変な名称を付けられた危険が。
- その場合テナントビルとなり,メインテナントがヨドバシカメラになる
大阪放送会館(初代)[編集 | ソースを編集]
- 現在の名称は「NHK大阪放送局馬場町別館」か。
- 緊急時用のバックアップ設備の一部も置かれている。
- NHK大阪の複数の番組でシルエットなどが登場した。
- 『ごちそうさん』のラジオ局のシーンの撮影にも使われた。
- 下手をすると旧第四師団司令部のように未利用状態で放置されている恐れもある。
- ちなみに跡地は今も空き地のまま。
九州[編集 | ソースを編集]
浦上天主堂(初代)[編集 | ソースを編集]
- 長崎市にあった浦上天主堂は1945年8月9日の原爆投下により破壊され、残骸がしばらく残されていました。しかし1958年に 撤去されてしまいました。もし撤去されていなかったら?
- 長崎市を代表する観光名所になっていた。
- 長崎を扱った各種観光ガイドブックには廃墟のまま保存された天主堂の写真なりイラストなりが表紙を飾っていただろう。
- 平和祈念像の影が少し薄くなっていた。
- それ以上に影の薄くなる大浦天主堂。
- もしかすると浦上天主堂と紛らわしい天主堂として一種の似非的な存在扱いでそこそこ名が通った可能性もあるけど。
- でも大浦天主堂は国宝だし、世間一般的にはともかく長崎では(特にカトリック教会関係者の間では)大浦はいろんな意味で「別格」なんだけどなぁ。そんなに影薄くなるかな?(by長崎県民)
- そう言われてみると確かにとうなずけてしまう…… 大浦の存在意義って観光客的には国内では珍しい江戸末期のキリシタン建築であることにあるしねえ……(2つ上を書いたバカ)
- それ以上に影の薄くなる大浦天主堂。
- 原爆ドームとともに「広島・長崎の平和記念碑」として世界遺産になっていた。
- 瓦礫に雑草が生えているところまで同じだっただろう。
- 原爆ドームより風化が早そう・・・。
- 天主堂自体はもちろん移転していた。
- マジレスして申し訳ないが、そうならないために教会関係者が元の場所に再建すると決めたわけです・・・(by長崎県民)
- だから冒頭文の「市民の保存を求める運動や市議会の決議にも関わらず」というのは、じつは「あの場所に再建することに意味がある」という当事者の意向を無視した、ちょっと的外れな見方だったりする。近年になっても、いろんな陰謀論まで付け加えてそういうことを言いたがる人やマスメディアがいるのでそう思われてるだけで。
- 冒頭文の該当部分を削除しました。
- だから冒頭文の「市民の保存を求める運動や市議会の決議にも関わらず」というのは、じつは「あの場所に再建することに意味がある」という当事者の意向を無視した、ちょっと的外れな見方だったりする。近年になっても、いろんな陰謀論まで付け加えてそういうことを言いたがる人やマスメディアがいるのでそう思われてるだけで。
- マジレスして申し訳ないが、そうならないために教会関係者が元の場所に再建すると決めたわけです・・・(by長崎県民)
- 長崎に修学旅行に行く学校が現実よりも多かった。
- 被爆都市としてのイメージは広島と同じ位強いものとなっていた。
- 長崎に来た観光客が浦上にも寄って行くことが多くなったことは確実だろう。当然大浦天主堂下の辺りみたいに土産物屋街が長崎大の付近にできていただろう。
- 一方で浦上天主堂と平和祈念像がオランダ坂や大浦天主堂、グラバー園のあたりからは微妙に離れているという事実が観光客を悩ます問題として浮上していたことも想定される。
甲突川五石橋[編集 | ソースを編集]
- 「=8.6水害がなかった場合」。
- 石橋がある景観が観光スポットとして広く案内されていた。
- この石橋をモチーフにしたマンホールも設置されていた。
- 石橋を建設した岩永三五郎の像はもっと中心部に近い場所に作られている。
- 老朽化のため一部の橋が車両通行禁止になっていたかもしれない。