もしあの競技場が○○だったら
- 新たに作る項目は東から順でお願いします。
仙台スタジアム[編集 | ソースを編集]
収容人数が2万5千人前後だったら[編集 | ソースを編集]
仙台スタジアムは当初2万5千人前後の収容人数で設計されていましたが、近隣住民の日照権などの問題から2万人未満に縮小の上で建設されました。もしこれらの問題がなかったら
- ベガルタ仙台の観客動員数が史実より多くなっていた。
- 拡張が可能であれば4万人規模まで拡張し、2002ワールドカップも宮城スタジアムの代わりに開催していた。
- この場合、宮城スタジアムは国体レベルまで縮小された。そのためイベント開催時の周辺道路の渋滞及び駐車場問題も少しは緩和されていた。
- ここでのイベント開催時に南北線が臨時ダイヤを組んだ。
埼玉スタジアム2002[編集 | ソースを編集]
収容人数が4万人前後だったら[編集 | ソースを編集]
埼玉スタジアムは当初4万人規模で建設される予定でしたが当時の埼玉県知事を勤めていた土屋義彦の提案で決勝戦も出来るよう6万人規模に計画が変更されます、では仮に4万人規模になっていたら
- 黄金期の観客動員数が常に満員で埼玉スタがパンクする
- そのため拡張の話が度々出てくるが通らず、2020年の東京オリンピック開催でようやく拡張にこぎつける
- 浦和チケットが闇に流れてチケット価格が高騰化して問題に成る
- 収容人数の関係でサッカー日本代表の試合は今でも横浜国際を中心に開催
さいたま市大宮公園サッカー場[編集 | ソースを編集]
大宮第二公園南側に移転していたら[編集 | ソースを編集]
大宮公園サッカー場は1990年代に老朽化が進んだこともあり、それに代わるスタジアムとして埼玉スタジアム2002が建設されましたが、実は大宮第二公園南側の用地に移転する案のありました。もしその案が採用されていたら?
- W杯を開催できたかどうか微妙。
- 大宮第三公園もなかった。
- 浦和は引き続き駒場をホームにしていた。
- 2010年代に入り浦和区内で新スタジアム構想が浮上する。
- 移転後の跡地には室内プールが建設されていたかもしれない。
有明コロシアム[編集 | ソースを編集]
開閉式屋根が設置されなかったら[編集 | ソースを編集]
有明コロシアムは1987年に屋根なしでオープンした後、1991年に開閉式屋根が設置されました。もしその屋根が設置されなかったら。
- 日本初の開閉式屋根付きスタジアムは福岡ドーム(現:福岡 ヤフオク!ドーム)だった。
- テニス大会の雨天中止も何度かあっただろう。
- その都度、屋根の設置が議論される。
- 格闘技の試合会場としては使われたものの、冬場の特に夜は使用頻度が減っていた。
- バスケットボールなどの球技には使われなかった。
- bjリーグに所属していた東京アパッチは最初から代々木第二をホームにしていた。ファイナル4も当初予定していた幕張メッセを使用していた。
江戸川区陸上競技場[編集 | ソースを編集]
スタンドを増設できていたら[編集 | ソースを編集]
江戸川区陸上競技場は三菱自動車工業サッカー部がJリーグ発足に当たり改修して本拠地にする計画がありましたが、Jリーグが設定する収容人員を確保するためのスタンド増設に十分なスペースが取れないため断念しました。もし、スペースが取れてスタンド増設できていたら?
- クラブ名「東京レッドダイヤモンズ」としてJリーグに参入。
- 東京ガスも練習場が近辺にあることから、J参入の際レッズとのダブルホームになっていた。ただ、クラブ名は「FC東京」じゃなかったかもしれない。
- 味の素スタジアムは建設されなかったか、東京ヴェルディが単独でホームにしていた。
- 国立競技場建て替え中に天皇杯や高校サッカーなどの決勝戦に使われた。
- 三菱の資本がある程度入るので、少なくとも区章がデカデカと描かれた看板は撤去されていた。
- 遅くとも2000年代にはネーミングライツが導入されている。
- 東京臨海病院が近くにあるので、駒沢程ではないがある程度騒音や照明への配慮が求められていた。
- 東西線快速の西葛西への臨時停車が真剣に検討されていた。
- 一方でメディアでは「サッカーとインド人の街」として取り上げられるようになる。
駒沢陸上競技場[編集 | ソースを編集]
照明設備が設置できていたら[編集 | ソースを編集]
駒沢陸上競技場は国立病院機構東京医療センターがすぐ近くに立地しており、照明設備を設置することができません。もしこの病院がなく照明設備が設置できていたら。
- もちろん駒沢は照明付き競技場となっていた。
- 後に屋根が増設されて2002年W杯の会場になった。
- ヴェルディのホームスタジアムは駒沢。正式名は当初より東京ヴェルディ。
- もしかしたらレッズも東京を本拠地にしていたかも。
- その場合はホンダが埼玉でプロ化。史実のレッズのような立場になっている。
- あるいはNTT関東が史実より早くJ入りしていたか。
- その場合はホンダが埼玉でプロ化。史実のレッズのような立場になっている。
- 東京を本拠地とするJリーグクラブがリーグ創設期から存在するため、FC東京は誕生しなかった。
- 誕生しても「東京」ではなく「調布」がチーム名に付けられる。
- 味の素スタジアムは建設されていなかった。
- 建設されていた場合、FC東京のみが本拠地としていた。
- 試合開催日に東急田園都市線の急行が駒澤大学駅に臨時停車していた。
- 駅名も「駒沢運動公園」とかになっていたかもしれない。
- 拡張可能なほど周辺の土地があれば、東京オリンピックへ向けて新国立競技場として改築されていた。
東京(味の素)スタジアム[編集 | ソースを編集]
最初から陸上競技場として使用されていたら[編集 | ソースを編集]
東京スタジアム(味の素スタジアム)は陸上競技場として設計されましたが、補助グラウンド整備のための用地買収が遅れサブトラックとして完成できなかったため当初はサッカー・ラグビーなどの球技場として使用し、2012年に陸上競技場として開業となりました。もし補助グラウンドの整備が予定通り進んでいたら?
- 陸上競技での稼働率も史実より高かった。
- 世界陸上の招致を目指したかもしれない。
- 使用頻度次第では国立競技場の解体が早まっていた。
- 場合によっては球技専用スタジアムとして建て替えられ、東京オリンピックもリオデジャネイロみたいに開閉会式と陸上競技を別会場にした可能性も。
- もちろんトラックが人工芝で覆われることもなかった。
- 史実のアミノバイタルフィールドがサブトラックになっていた。
- 正田醤油スタジアムの芝は別の場所から調達したか自前で植えていた。
- 逆に史実の味の素スタジアム西競技場は球技場として整備されていた。
- おそらくは最初から人工芝だっただろう。
- 開業当初から味の素スタジアムだったかもしれない。
両国メモリアルホール[編集 | ソースを編集]
大相撲が続けられていたら[編集 | ソースを編集]
初代両国国技館は戦後のGHQによる接収後、両国メモリアルホールに改称され、その際に大相撲興行を「土俵を広げる」という条件で許可されましたが、1946年の11月場所の1場所限りに終わり、以降は接収解除まで許可されることなく、やがて蔵前国技館が完成したこともあり当地で大相撲が行われることがありませんでした。もし、以降も使用許可が降りて使い続けていたら
- 接収解除まで土俵は16尺だった。
- 接収解除後、両国国技館に戻した。
- 日大講堂に変わることもなかった。
- 蔵前国技館は建設されなかった。
- しかし、80年代に老朽化のため現在の両国国技館が建設され、以降は史実通り。
横浜国際総合競技場[編集 | ソースを編集]
サッカー専用スタジアムだったら[編集 | ソースを編集]
オリンピック誘致のため陸上競技を開催出来る様、陸上競技場にしたのですが仮に、オリンピック誘致が無くサッカー専用スタジアムになっていたら
- マリノスの観客動員数が史実より増えている
- 平均観客動員数は3万人前後にはなっていた
- ココがサッカー専用になるため等々力陸上競技場の改修も史実より早くなっていた
- それでもラグビーワールドカップの会場には選ばれている
- サッカー日本代表の主催試合の多くは横浜国際競技場(と言うか横浜サッカースタジアム?)で開催されていた
- 2020年の東京オリンピック誘致の際、メインスタジアムは常設サブトラックを確保するため「旧国立競技場の建て替え」ではなく2016年の誘致計画同様「晴海に新規建設」となっていた。
- ネーミングライツは史実通りだろう。
静岡県草薙総合運動場[編集 | ソースを編集]
静岡鉄道の所有だったら[編集 | ソースを編集]
静岡電鉄(のち静岡鉄道、静鉄)が1930年に古庄から野球場を移転させたのが始まりでしたが1939年に県へ寄付されました。もしそのまま静鉄の所有だったら
- 職業野球が成功していた場合戦前に球界参入したかも
豊田スタジアム[編集 | ソースを編集]
建設されていなかったら[編集 | ソースを編集]
豊田スタジアムは2002年日韓ワールドカップ開催を前提に計画されたものでした。豊田市は開催地から落選したが、建設自体は反対派の署名運動などもあったものの規模を縮小して行われました。もし、落選が決まった後に建設を撤回していたら?
- グランパスの勝ち点は史実より積み上げていた。
- クラブワールドカップは瑞穂を使用していた。
- 瑞穂のネーミングライツもパロマではなくトヨタだったかもしれない。
- 2019ラグビーワールドカップは瑞穂ラグビー場を改修。
- コンサート関係ではナゴヤドームの稼働率が高いままだった。
御崎公園球技場[編集 | ソースを編集]
改築されていなかったら[編集 | ソースを編集]
御崎公園球技場は神戸市立中央球技場をワールドカップに向けて改築したものであるが、阪神・淡路大震災が発生した際に一度改築を断念しユニバー記念競技場を改修する代替案が提示されました。
- それでも神戸市立中央球技場は遅かれ早かれJリーグ規格を満たす程度の改修はされていただろう。ただし、ウイングスタジアムにはならなかった。
- ユニバーを復興のシンボルとしてワールドカップ以外にも国際大会の誘致を目指していた。
鳥栖スタジアム[編集 | ソースを編集]
収容人数が4万人になっていたら[編集 | ソースを編集]
鳥栖スタジアムは国際試合が出来るよう4万人規模にする計画もあったそうです。
- ここが4万人規模になるため2002年のワールドカップは大分で開催されず鳥栖で開催されていた
- 大分トリニータの結成が史実より大幅に遅れていた
- 大分が居ないので福岡や鳥栖がスポンサーの食い合いに晒されず、資金難も史実に比べればマシになる
- 鳥栖はスポンサーに苦労するのが少なくなりもう少し早い時期にJ1に昇格していたかも
- 溝畑宏は今でも自治省(現:総務省)に居る
- 大分が結成されないので史実で大分トリニータのユースに所属した選手は福岡と鳥栖のユースでデビューしていた
- 西川周作が福岡に居たらアビスパはJ1に定着している
- 或いはフロントと大喧嘩して史実より早い時期に広島か浦和に移籍してたかも、00年代後半のアビスパのフロントはアレだったので