もしあの選手がドラフト指名を拒否しなかったら
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この項目では最終的にプロ入りした選手を扱います。最終的にプロ入りしなかった選手の場合はもしあの選手が日本プロ野球入りしていたらへお願いします。
1960年代[編集 | ソースを編集]
平松政次(1965年・中日)[編集 | ソースを編集]
- 巨人のV9はなかった。
- 通算250勝していた。
- あるいは「雨、雨、権藤、雨、権藤」が「雨、雨、平松、雨、平松」になっていた。
- この場合、投手としての寿命は3年程度だった。
- 通算白星は100勝程度か?
- この場合、投手としての寿命は3年程度だった。
- 大洋、横浜からは生え抜きの200勝投手は出ない。
- カミソリシュートを会得していたか怪しい。
- 同郷の星野仙一と打倒巨人に燃えていた。
江本孟紀(1965年・西鉄)[編集 | ソースを編集]
- 史実よりは活躍できなかった。
- えっ、もっと活躍したのでは?
- ノムさん補正が(ry
- 「ベンチが(ry」発言もなかった。
- あるいは田淵らとのトレードで阪神入りし史実通りの現役末期を過ごす。
- 彼の告発により、八百長事件が史実より早く露見する。
山田久志(1967年・西鉄)[編集 | ソースを編集]
- 阪急は史実より成績が低下していた。
- 初日本一は早くて1980年代、下手すればオリックスになってからだったかもしれない。
- 11位という下位指名のため、入団後しばらくはファーム生活が続いたかもしれない。
- 西鉄末期~西武初期の低迷もあり、通算200勝を達成できたかは微妙。それでも西武黄金時代前期の貴重な戦力として通算180勝位は挙げたと思う。
- 福岡時代は東尾とともに投手陣の柱として活躍。その後チームの西武への身売りと同時かその前後にトレードで放出、となっていた可能性も。
- 田淵獲得の際の交換要員として真弓らとともに阪神へ、となっていたかも。
門田博光(1968年・阪急)[編集 | ソースを編集]
- 現実以上の大豊作ドラフトとして語り継がれる。
- 阪急黄金期の成績がさらに向上していた。
- 西本監督時代に1度は日本一になっていたかも知れない。
- 戸板で搬送されることはなかった。
- 加藤英司がレギュラーに定着できず他球団に移籍していた可能性も。
- それはない。その代わりに、大熊忠義氏の引退が早まっていたか、バーニー・ウイリアムス氏の入団はなかった可能性の方が高い。
- 南海末期の成績が更に悲惨な状況になり身売りが早まっていたかも。
- 門田本人は阪急・オリックスとブレーブス一筋でプレーし「ミスターブレーブス」と呼ばれていたかも知れない。
- ブーマーとのハイタッチで肩を脱臼、は史実通り、か?
- 最も低い指名順位でプロ入りした名球会員と呼ばれる。
- 引退後、朝日放送の解説者に就任していた場合、福本豊氏との交流が盛んになっていた。
- サンテレビの「熱血!!タイガース党」に出演していたかもしれない。
荒川尭(1969年・大洋)[編集 | ソースを編集]
- 厳密には期限ギリギリに入団している。
- 暴漢に襲われることもなく、大洋の三塁手として80年代前半まで君臨した。
- クリート・ボイヤーは入団しなかった。
- 田代富雄はブレイクが遅れていた。
- 『がんばれ!レッドビッキーズ』に出演することはなかった。
- 養父である荒川博が大洋の監督に就任していた。
- 新人のトレード禁止規定は今の形になってなかったかもしれないから、江川はもっと早期に巨人に移籍できていたかも。
山本功児(1969年・南海)[編集 | ソースを編集]
- 実家が中百舌鳥球場に近く、幼少時から選手と親交があったので入団当初から地元ファンの期待を集めていた。
- ただし一塁はクラレンス・ジョーンズが守っているので、彼が1974年に近鉄へ移籍するまでは二軍暮らしが続いたかも。
- 山本が定位置を掴んでいたら柏原純一は一塁手に転向しなかった。
- ただし一塁はクラレンス・ジョーンズが守っているので、彼が1974年に近鉄へ移籍するまでは二軍暮らしが続いたかも。
- 宇野ヘディング事件も起きなかった。
- ロッテへの移籍はあったか疑問。
- 史実通り1988年まで現役だった場合、南海の身売りとともに引退したことになる。
- その後はダイエーのコーチになって、史実より早く福岡に移住したかも。
- ロッテのコーチ・監督にならないので福浦和也やサブロー、小林雅英らが大成できたか怪しい。
- 史実通り1988年まで現役だった場合、南海の身売りとともに引退したことになる。
1970年代[編集 | ソースを編集]
新井宏昌(1970年・近鉄)[編集 | ソースを編集]
- 1979年の初優勝及び1980年の連覇に貢献。
- しかし当時の近鉄外野陣は栗橋茂、佐々木恭介、平野光泰と実力者が揃っていたため、レギュラーで活躍できたかどうかは微妙。
- その3人は71年以降のドラフトで近鉄に入団したので、新井が1年目から主力に定着していたら最低1人は指名されなかった可能性が高い。
- しかし当時の近鉄外野陣は栗橋茂、佐々木恭介、平野光泰と実力者が揃っていたため、レギュラーで活躍できたかどうかは微妙。
- 1989年の優勝にも史実通り貢献し、近鉄一筋で現役生活を終える。
- 史実でのトレード相手だった山口哲治も近鉄一筋で現役生活を終えていた。
- ダイエー・ソフトバンクのコーチに就任することはなかった。
- 登録名は本名の「新井鐘律」のままだったかもしれない。
福間納(1970年・阪急)[編集 | ソースを編集]
- 阪急の日本一3連覇に貢献していた。
- 「優勝請負人」と呼ばれていた。
- 1978年の日本シリーズでは、投手陣で困ることがなかったので、日本一になることができたかもしれない。
- 谷村智啓氏とのトレードで阪神に移籍していた。
- 1年遅れて入団していた可能性が高い。
山倉和博(1973年・南海)[編集 | ソースを編集]
- 香川伸行の南海への入団はなかった。
- 城島の師匠は山倉だった。
- 巨人は優勝回数は史実より少なかった。
- 退団の原因となっていた山倉が巨人でコーチをやっていた可能性は低いので、デーブ大久保はもう少し長く巨人に在籍していた。
古賀正明(1974年・阪神)[編集 | ソースを編集]
- 阪神の投手陣が史実より充実していた。
- トレードに出されたのは史実通り。
- 1975年に、新人王を獲得していた。
住友一哉(1975年・阪急)[編集 | ソースを編集]
- 史実より活躍していた。
- 阪急はV5を達成していた。
- 同じ徳島県出身の上田利治氏と長池徳士氏から可愛がられていた。
- 引退後は、スコアラーやスカウトやコーチや球団職員を歴任していた。
江川卓[編集 | ソースを編集]
森繁和(1976年・ロッテ)[編集 | ソースを編集]
- リリーフ転向はなかったかもしれない。
- 1978年ドラフトで江川を指名する球団が増えていた。
- 落合監督就任後に中日の投手コーチを務めるのは史実通り。
川口和久(1977年・ロッテ)[編集 | ソースを編集]
- ロッテは史実以上に好成績を収めていた。
- 10.19はロッテと近鉄のパ・リーグ優勝を決める試合となっていたかもしれない。
- 逆に広島は低迷していた。
- それでも史実通りFAで巨人に移籍。
- ロッテは川口の穴埋めとしてエリック・ヒルマンを獲得。
- その後はコーチを経てロッテの監督に就任。
木田勇(1978年・広島)[編集 | ソースを編集]
- 1年目から北別府学との二枚看板で優勝に貢献。
- 史実では経験できなかった日本一も経験。
- 史実通り新人で投手タイトルを総ナメした場合、MVPは江夏豊ではなく彼になっていたかも。
- 1981年の日本ハムは優勝できたかどうか微妙なところか。
1980年代[編集 | ソースを編集]
川村一明(1980年・阪急)[編集 | ソースを編集]
- 史実より活躍していた。
- 1984年の日本シリーズでは、確実に日本一になっていた。
長冨浩志(1983年・ロッテ)[編集 | ソースを編集]
- 千葉移転後、小宮山悟と共に地元のエースとして親しまれる。
- 終始ロッテでプレーし、引退後投手コーチに。
- あるいは高橋慶彦とのトレードで広島へ、となっていたかも知れない。
- もしくは史実通り98年に衰えていたところをダイエーから獲得の意向があり移籍。
- 1985年ドラフトで広島は誰を1位指名しただろうか?
- おそらく伊東昭光あたりかと(清原は当時の戦力とポジションを考えると恐らく回避の可能性が高い)
蒲谷和茂(1984年・大洋)[編集 | ソースを編集]
- 中継ぎ投手として、重宝されていた。
- 交通事故に巻き込まれることがなかったので、史実以上に活躍していたことであろう。
- 西武は1991年のドラフト会議で林尚克氏を指名していた可能性が高い。
元木大介(1989年・ダイエー)[編集 | ソースを編集]
- 外国人に頼らずとも小久保、松中と共にクリーンアップを形成していた。
- 城島、ズレータも含めて超重量打線に・・・。
- 元木の出番がないような気がする・・・
- 2番レフトとしてダイハード打線の一翼を担う。
- 正遊撃手に定着し、鳥越の移籍はなかった。
- ダイエーは史実より早く1990年代半ばには弱小球団から脱皮していた。
- 生卵事件もなかった。
- 城島、ズレータも含めて超重量打線に・・・。
- FA宣言し巨人移籍を試みるが、王監督に説得され思いとどまる。
- というか王監督になった時点で解雇されるのでは。
- 本人はもともとホークスのファンだったので、小学校時代に王氏と会わなければ、意中の球団として入団していた可能性がある。
- というか王監督になった時点で解雇されるのでは。
- あのキャラクターから巨人以上に叩かれる。
- 大神いずみと結婚しない。
- 在福局の女子アナ、もしくはローカルタレントが結婚相手だった?
- お姉ちゃんと遊ぶ場所が中洲になる。
- 1990年ドラフトでは巨人は小池秀郎を1位指名し、1989年ドラフトの野茂の8球団競合を超えて9球団1位競合になる。
- 大越基の入団時に2人が高校時代に甲子園で対戦したことが話題に上る。
- ハワイ留学はないのでその時のチームメイトだったベニーは赤の他人に。
1990年代[編集 | ソースを編集]
小池秀郎(1990年・ロッテ)[編集 | ソースを編集]
- 1995年のバレンタイン監督初就任の年に優勝していた。
- マリーンズになってから2~3回は優勝していた。
- バレンタイン就任までは投げてもなかなか勝てない不運な投手として同情されていた、と思う。
- 引退は数年遅れていた。
- 黒木・小宮山と並ぶ三本柱になっていた。
- 1996年の開幕投手を務める。
- なのでダイエーの王監督の開幕投手には格というものがという発言は無かった。
- ロッテになじめず近鉄時より悲惨な成績に。
- 史実通り中日にトレード、という可能性も。
福留孝介(1995年・近鉄)[編集 | ソースを編集]
- アトランタ五輪には参加していなかった。
- 2000年のシドニー五輪に選出されていたかも。
- 中村、ローズ、福留の最強クリーンアップが実現していた。
- クラークは獲得していなかった。
- 礒部公一も捕手のままだったか、外野に転向していてもレギュラーを取れなかった。
- 磯部はそもそも近鉄に指名されていなかった可能性もある。その場合、代わりに地元の広島か当初志望していたオリックスが指名していた。
- どちらの球団も外野陣の層が厚いので、捕手でレギュラーを掴み、打てる捕手としてブレイクしていた。
- 磯部はそもそも近鉄に指名されていなかった可能性もある。その場合、代わりに地元の広島か当初志望していたオリックスが指名していた。
- 礒部公一も捕手のままだったか、外野に転向していてもレギュラーを取れなかった。
- 日本一になっていた…、かな?
- クラークは獲得していなかった。
- オリックスとの合併時にFA宣言し中日に移籍。
- 高卒入団なので1年目からレギュラーを掴むことが出来れば、最速で8年目の2003年にFA権を取得し、同年オフに本来希望していた中日にFA移籍し、以降は史実通りか!?
- 史実通り、中日でも活躍して2006年に首位打者、MVPに輝いてリーグ優勝に貢献していた。
- 史実より早くメジャーへ移籍したかもしれない。
- その場合、2013年に日本球団に復帰して阪神に入団するのは現実通りだが、元が在阪球団の選手だっただけに人気は現実以上だっただろう。
- 中日にFA移籍していたら史実通りだろう。
- 高卒入団なので1年目からレギュラーを掴むことが出来れば、最速で8年目の2003年にFA権を取得し、同年オフに本来希望していた中日にFA移籍し、以降は史実通りか!?
- 2002年の松井秀喜は三冠王を獲っていた。
- その代わりに、2002年の小笠原道大(打率.340)はパ・リーグ首位打者になれなかった。
- 福留孝介(打率.343)がこの年のパ・リーグ首位打者になっていた。
- その代わりに、2002年の小笠原道大(打率.340)はパ・リーグ首位打者になれなかった。
- 史実通り2022年に引退した場合、ヤクルトの坂口智隆と合わせて現役最後の近鉄戦士の1人となっていた。
- この年は、福留孝介と坂口智隆という2人の近鉄戦士が現役を引退し、現役選手から近鉄戦士が消滅すると同時に、2004年の球界再編問題でブルーウェーブと近鉄の合併により誕生したオリックス・バファローズが合併後初の日本一になったため、史実以上に元近鉄ファンにとっては時代の変わり目を感じさせる年となっていた。
- また時期的に、他球団を含めて最後の藤井寺球場でプレーした現役選手になっていた。
- 最後の西武ライオンズ球場でプレーした現役選手にもなっていた。
- 近鉄に残留し続けた場合、2004年の球界再編問題で新たに誕生したオリックス・バファローズに残っていた。
- 合併直後のオリックス・バファローズの成績が史実よりもマシになっていた。
- 2005年のオリックスは、西武とのプレーオフ争いを制してAクラス入りできていた。
- 仰木監督は体力の続く限り監督を続けていたかも。退任したとしても史実よりは長生きしていただろう。
- 2006年、2007年もプレーオフ・CS争いに絡み、場合によってはプレーオフ・CSに進出できていた。
- 2008年にはローズ、カブレラと強力なクリーンアップを組み、チームの12年ぶりのリーグ優勝に貢献していた。
- このときにパ・リーグMVPに選ばれ、リーグ優勝を置き土産にメジャーリーグに移籍していた。
- メジャーから帰国後の阪神入団が史実通りなら、元が同じ在阪球団のスター選手なので、関西人からは大歓迎されていた。
- 2020年オフに阪神を自由契約になった後は古巣のオリックスに復帰し、代打の切り札として2021年と2022年のリーグ連覇と2022年の日本一に貢献し、2022年に有終の美を飾って史実通り引退していた。
- このときにパ・リーグMVPに選ばれ、リーグ優勝を置き土産にメジャーリーグに移籍していた。
- 一方の中日は、2004年ぐらいは優勝できていたかもしれないが、2006年は優勝を逃し代わりに阪神が優勝していた。
- 井端弘和はルーキーイヤーの1998年からショートのレギュラーに定着し、チームメイトの川上憲伸や巨人の高橋由伸と新人王争いをしていた。
- 通算2000本安打も達成でき、巨人に移籍することなく史実よりも早く引退していた。
- 2001年に北川が代打逆転サヨナラ満塁本塁打で優勝決定したシーンに福留もいたことになる。
- もしくはこのとき福留が走者か打者だったかもしれない。
- 01年のメジャーでのイチローをみて、この01年の優勝をきっかけに、01年オフに移籍を迫っていたかもしれない。
- 優勝を盾に経営状態の悪い近鉄に大幅年俸アップかポスティング容認を迫っていた。もしかすると、「誠意は言葉ではなく金額」という有名なフレーズはこのときのものになっていた。
- 史実通り2004年にけがと不調を経験した場合、このときメジャーから見放され04オフに中日入りしていたかもしれない。(この頃はまだ中日が金銭力と戦力を持っていたため。)
- その場合、落合政権の成績は史実以上に優れたものになり、史実以上に評価されていた。
- それでも国内FA権を取得したらやはり宣言し銭闘を行っていたかもしれない。その場合、やはり阪神入りしていたかも。
- もしくは最初からメジャーに評価されなかった場合、史実の大塚晶文ルートで中日で少し下積みして再度メジャーにチャレンジした。
- 史実通り2004年にけがと不調を経験した場合、このときメジャーから見放され04オフに中日入りしていたかもしれない。(この頃はまだ中日が金銭力と戦力を持っていたため。)
- 優勝を盾に経営状態の悪い近鉄に大幅年俸アップかポスティング容認を迫っていた。もしかすると、「誠意は言葉ではなく金額」という有名なフレーズはこのときのものになっていた。
新垣渚(1998年・オリックス)[編集 | ソースを編集]
- 1年目からオリックスのエースとして活躍し、松坂との熾烈な新人王争いをしていた。
- しかし、ダイエーに対する未練は残っていて、2004年オフに合併のどさくさに紛れて、ソフトバンクにFA移籍。
- FA権取るのは早くても2006年では?
- 三輪田さんは自殺せずに現在もオリックスでスカウト部長をしていた。
- 三輪田さんの実力で良い選手を獲得することができ、オリックスの戦力が今より少しマシになっていた。
- 彼のシーズン暴投記録は2003年にオリックスで達成していた。
- 2004年時点での成績によっては、分配ドラフトで楽天に移籍していた可能性もある。
2000年以降[編集 | ソースを編集]
内海哲也(2001年・オリックス)[編集 | ソースを編集]
- ブレイクできない、あるいは大幅に遅れていた。
- オリックスは高卒の生え抜きを育てるのが下手だし・・・。
- 出場機会を獲得していたとしても、当時のラビットボールとダイハード打線のせいで、ホークス相手に2桁失点していた。
- 成績によっては、2004年オフの選手分配ドラフトで楽天に行っていただろう。
- さすがに成績が悪くても若くて期待の大器なのでオリックスバファローズが確保するのではないだろうか。
- オリックスは高卒の生え抜きを育てるのが下手だし・・・。
- 結局どこかで巨人にトレードされ、そこでようやく活躍の場を得ていた。
- おそらく谷と同時に移籍した。
- それでも、炭谷銀仁朗の人的補償で西武に移籍するのは史実通り(2018年度の内海の成績にもよるが)。
- 李景一が巨人に指名されなければ拒否しなかったかもしれない。
- 仮に『内海がオリックス入団、李が指名漏れ』となっていた場合、李は史実の内海同様、東京ガス経由でプロ入りしていただろう。
- 当時のオリックスの悪名高い契約金ゼロ枠でオリックスに入団した可能性も。(人質効果がないが…)
- 李景一は史実通り成績を残せなかった場合、数年で解雇されていた。
- ただし選手分配ドラフトで楽天にいっていた場合、一軍出場機会があったかも。特に中村が引退した06年、野村が身びいきしなければカツノリよりはマシだろう。その後は嶋が台頭したが第三捕手としてなら
- 李景一は史実通り成績を残せなかった場合、数年で解雇されていた。
- 当時のオリックスの悪名高い契約金ゼロ枠でオリックスに入団した可能性も。(人質効果がないが…)
- 仮に『内海がオリックス入団、李が指名漏れ』となっていた場合、李は史実の内海同様、東京ガス経由でプロ入りしていただろう。
- 村松の人的補償でダイエーに移籍していたかも。その場合、ダイエーはかなりお得なトレードとなり、史実以上に黄金時代を築いていた。
- もしくは(それまで中途半端な成績でくすぶっていた場合)ミンチェの人的補償で西武にいっていた。
福井優也(2005年・巨人)[編集 | ソースを編集]
- 結局芽が出ることがなく一軍登板がないまま解雇になっていた(同じくドラフト下位指名の東野のように這い上がってくる、という可能性もなくはないが…)
- 退団後に広島に拾われて後は史実通りになった可能性も。
- 早稲田大学で斉藤佑樹・大石達也と同僚になることもなかった。
- 2010年のドラフトでは広島も大石を指名していた可能性も。
- 史実でも大石を指名し、抽選に外れた後に福井を指名したのですが。
- この場合、外れ1位で柳田悠岐を獲得していたか?
- 史実でも大石を指名し、抽選に外れた後に福井を指名したのですが。
- フルジャンプのほうの福井と同じ名字であるため比較されてネタにされた。(フルジャンプ福井は当時のネット民にかなりいじられていた)
長野久義[編集 | ソースを編集]
- 2006年・日本ハム
- 4番を任されていた可能性も。
- 坪井智哉はこの時点で引退していた。
- おそらく長野の背番号は坪井の7、もしくは小笠原の移籍で空き番になっていた2。
- 他球団に拾われていて現役続行もあった、場合により阪神復帰も。
- 中田翔を獲得しに行かなかったかもしれない。
- 2008年オフに二岡智宏・林昌範とのトレードでM・中村とともに巨人に移籍。
- 糸井嘉男のブレイクもなかったかも。
- Hondaは2009年の都市対抗で優勝できなかった。
- 2014年にFAで巨人に移籍していた。
- 日ハムは11年連続Aクラスを達成していた。
- 2008年・ロッテ
- 2009年ドラフトでは巨人も菊池雄星を指名していた。
- 大村三郎(サブロー)が巨人に移籍することはなかった。
- サブローの代わりに巨人に移籍した。
- サブローは人脈を持って派閥を作ろうとしていたうえに、フロントと対立していたからああされたわけで、長野が代わりにされることはありえない。
- サブローの代わりに巨人に移籍した。
- レフト角中・センター岡田・ライト長野という12球団屈指の外野になっていた。
- 2009年はレフト大松、センターサブロー、ライト長野という起用がメインになっていた。
- 09年のロッテの成績が改善していたため、バレンタイン監督ファンやmvpとフロントの対立が史実以上にヒートアップしていた。
- それでもゲーム差とWAR考えると長野1人でAクラス、CSはないだろう。
- ドラゴンズの落合退任以降のように、ファンの内戦状態が10年以上継続したかもしれない。
- 派閥問題におけるこの人の振る舞い次第では、マリーンズの民主化とバレンタインの復権があり得た。
木村雄太(2006年・横浜)[編集 | ソースを編集]
- 投手事情が悪いので1年目から酷使されていた。
- しかし、裏金発覚時に強制的に2軍落ち。残りシーズンの1軍昇格禁止に。
- 横浜球団も厳重注意処分になっていた。
- 2009年オフに清水直行とのトレードでロッテに移籍。
- となると、那須野巧はどこにトレードされていたのだろうか。
- さすがに初勝利まで7年もかかるということはなかったはず。
菅野智之(2011年・日本ハム)[編集 | ソースを編集]
- 入団発表は斎藤佑樹同様札幌ドームで行われていた。
- 2012年の巨人は東浜巨の指名に動いていた。
- 大谷翔平かもしれない。
- おそらく背番号はダルビッシュの着けていた11。
- 翌年大谷翔平が入団した場合は大谷は何番になっていたことやら?
- ローテーション入りしていたら、2012年日本シリーズで原監督率いる巨人との対決が実現
- もし敗戦投手になっていたら「スパイ」「八百長」等マスコミやアンチ巨人が騒いでいた。
- そして「だから菅野は巨人に入ったほうが良かった」と不毛な言い争いが発生した。
- もし敗戦投手になっていたら「スパイ」「八百長」等マスコミやアンチ巨人が騒いでいた。
- 栗山も後任に原が就任なんてことも。