もしあの鉄道事故が○○だったら/1970年代以前
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1960年代以前[編集 | ソースを編集]
大阪駅清水太右衛門殉職事故[編集 | ソースを編集]
- 清水太右衛門が助かっていたら
- 清水太右衛門は昇進していた。
参宮線列車転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 一身田駅は悪い意味で有名になっていない。
根府川駅列車転落事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- =もし関東大震災が起きていなかったらである。
大鉄電車三重衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 近鉄になって以降、南大阪線への設備投資が積極的に行われた。
- 大軌とは合併せず、戦時中にようやく近鉄入り。その後独立するか、南海の路線になっていた。
西成線脱線火災事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 西成線の電化が遅れた。
- 関西線奈良地区が先に電化していた。なぜならこの時、西成線と関西線奈良地区のどちらを先に電化するかといわれていたので。
- 関西線奈良以西では1950年10月に京阪神間から転用したモハ43形・モハ52形(阪和線と共用)によって急行電車の運行が開始され、1955年からは70系(塗装は当初ベージュと赤のツートンカラーで、後に阪和線用同様スカ色に変更)に置き換えられると同時に、種別も快速に変更されて30分ヘッドに増発された。1973年以降は史実と同様。
- ガソリンカーの全廃はヨン・サン・トオのころになっていた。
- 安治川口駅が悪い意味で有名にならなかった。今でもマイナーな駅のまま。
- 電化はおそらく環状線開業と同じ時期になっていた。
- 電化自体は事故以前から計画されてたので、史実より1.2年ほど後になってそう。
- 関西線奈良地区が先に電化していた。なぜならこの時、西成線と関西線奈良地区のどちらを先に電化するかといわれていたので。
- ゆめ咲線には今頃、昔の京葉線に例えるとシャトルマイハマのような車両が走っている。
- キハ126系以降の一般形は3扉が標準だったかも。
- ガソリンカーは燃料統制で(エンジンなど軍事転用を目論み)客車化を避けられなかったかも。
- 事故車両の車掌が労働組合員だったら
- 関西には関東でいう千葉動労のような組織ができている。
- JR西日本の砂丘色のような派手なキハ58系は登場しなかった。
- JR西労組もJR総連から脱退しなかった。よってJR連合は誕生せず。
- 運転士も死亡していたら
- 現実では乗務員は車掌のみ死亡しましたがではもし運転士も死亡していたら。
- 極めて珍しい運転士・車掌ともに死亡した事故となっていた。
- 事故車が気動車でなかったら
- 死者はいなかったか少なかった。
北条線列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 飛行機が原因の鉄道事故は発生していない。
八高線列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 八高線のイメージがそれほど悪くなっていなかった。
- 西成線脱線事故の知名度が史実より上がっていた。
- 1945年の正面衝突事故もなければ、八高線絡みの事件といえば線路内の犬の立ち入りになっていた。
- Chakuwiki住民以外には知られてないだろうが。
- 木造客車の鋼体化は史実より遅れ、木造客車の全廃はヨンサントオ改正の頃になっていた。また、オハネ17(→スハネ16)・オシ16は木造車の台枠を流用して製作された。
- 別の時代に起きていたら
- 全般
- 死者は現実より少なかったはず。
- なぜなら戦後の混乱期で定員の3倍もの乗客を乗せていたため。
- 国鉄末期ならけが人が何人か出たぐらいだったかもしれない。
- 1960年
- 事故車は気動車になっていた。
- 死者の数は史実より少なかった。
- 1985年
- 日本航空123便の事故と重なった場合、その事故の遺族の身元確認にも影響が出ていた。
- 距離が離れていたので高崎付近のみの折り返し運転で対応したか。
- 1994年
- 八王子~高麗川の電化工事に影響が出ていた。
- 1~2年ほど延期されていたかもしれない。
- 史実同様「超満員の乗客による事故」だった場合、電化と同時期に6両編成化も行われていた。
- 中央線の乗り入れが行われていた場合、逆に五日市線が4両になっていた。
- 1996年3月
- 非電化時代最後の事故になっていた。
- 気動車によるラストランなどは行われず、電車化も少し遅れていた。
- 1996年4月以降
- 事故車は電車だった。
- 電化早々の事故となり、八高線への不信感が強まっていた。
- 中央線との直通運転はなかった。
- 一時的に女性専用車が導入されることもなかった。
- 福知山線事故の知名度が史実より下がっていた。
近鉄奈良線暴走追突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 生駒トンネルの付け替えが現実より遅れていた。
- ブレーキの取替が遅れていた
塩狩峠での暴走事故[編集 | ソースを編集]
詳細はWikipedia:ja:塩狩峠#鉄道事故を参照
- 職員が線路に飛び降りなかったら
- 事故が史実以上に大きくなり多数の死者が出ていた。
- 三浦綾子がこの職員をモデルとして「塩狩峠」を書くことはなかった。
- 起きていなかったら
- 塩狩信号所(後の塩狩駅)はなかったかもしれない。
- この場合も小説「塩狩峠」は存在せず。
- かつて発売されていた「ご当地入場券」の設定駅も和寒駅になっていた。
桜木町事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 非常用ドアコックの設置が遅れていた。
- 逆に三河島事故は防げていたかもしれない。
- 63系の置換えが遅れた。
- 73系への改番は1960年代になってからで、同時に72系920番台と同じ車体への載せ替えも併せて行われた。また、モハ63形のうち855-858は1959年の形式称号改正時にクモハ73形400番台に改番された。
- 当然ながら国鉄戦後五大事故も大きく変わっていた。
六軒事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 三重県内のJR東海にもフリークエンシーダイヤが導入されている。
- 快速みえの利用客も多かった。
- 伊勢線・参宮線・紀勢本線は全線電化されていた。
- 伊勢線は3セク転換されなかった。
- 伊勢志摩方面への輸送で近鉄に客を奪われる時期は史実より10年以上遅くなっていた。
- JR東海もSLの動態運転に積極的になっていた。もちろん葛西氏の勢力は強くならなければの話だが。
- 定期運行のSLの全廃は史実より10年遅くなっていた(動力近代化計画でSL全廃方針を打ち出したのはこの事故で多数の死傷者が出たことが一因)。
- 本州以南でのSL定期運行全廃は1984年1月末、北海道でのSL定期運行全廃は1986年10月末となっていた。
- 別の時代に起きていたら
- 2011年
- 事故車両は快速みえだった。
- 東海の会社のカラー自体変えることになっていた。
- 現実以上に利用客が近鉄に流れていた。
- 事故車両が〇〇だったら
- 現実ではSL同士でした。
- キハ55系
- キハ55系同士の場合、SLではないため水蒸気漏れはなかった。
- その代わり西成線事故のように炎上していた。
- ディーゼル車であるため、むしろそこまで深刻なものではない(西成線の事故はガソリン車だから余計に炎上させた)。
- その代わり西成線事故のように炎上していた。
三河島事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 三河島は今でもマイナーな地名のまま。
- むしろ荒川区の行政地名としての「三河島」が存続していた。
- 古参の相撲ファンには三河島事件のイメージを持たれる。
- 国鉄がスワローズをフジサンケイグループに売却することはなかった。
- それでも1980年代に国鉄分割民営化が決まる前後には売却されていた。ただ売却先はヤクルトではないかも。
- ATSの整備が遅れていた。
- 常磐無線アンテナも存在しなかった。
- 漫才の春日三球・照代コンビは誕生していない。
- JR東日本では首都圏の複々線と3複線路線において何か発生した場合、全ての線路を止めることはなかった。
- 映画「ある機関助士」もなかった。
- 「特捜最前線」の第163話の内容なども変わっていた。
鶴見事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 三河島事故がなかったら起きなかった。
- JR東日本は、複々線区間でトラブルがあったときに、平行する線路全てを止めることはなかった。
- 金子勝彦がアナウンサーを引退することを決意したり、毎日放送から東京12チャンネルに移籍することもなかった(この事故で義弟を失ったので)。
- それでも「オフィス・ワン・ツー・リターン」を設立するのは史実通り。
名鉄パノラマカー踏切事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- パノラマカーは「ダンプキラー」と呼ばれなかった。
第一富士脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- クロ151-7は新性能電車廃車第1号にならなかった。
- 新幹線開業後に格下げ改造され「クハ181-57」を名乗る。
- クロ151-7はむしろ九州乗り入れ対応改造され、その後はクロ181・クロハ181を経て1970年代にクハ181-63に改造されて、晩年は「とき」で1978年まで活躍した。一方クロ151-8は東海道新幹線開業後の早い時期に格下げ改造されて「クハ181-58」となり、こちらはクハ181-56ともども1975年に廃車された。
- もちろんクロ150-3→クハ181-53は誕生しない。
- 国鉄特急型初の先頭車化改造車はクロ481-50番台だった。
- 新幹線開業後に格下げ改造され「クハ181-57」を名乗る。
- 153系「かえだま」の記録写真が少なくなる。
- 157系が新潟県内で営業運転することはなかった。
- 事故を起こしたのが○○だったら
- 他の151系
- 上りの特急列車だった場合、クハ151が衝突に遭っていた。
- 代替の先頭車は新製された。
- 車番によっては九州乗り入れ対応の改造工事に影響が出ていた。
- 下り「第一つばめ」以外の場合、80系が大阪以西を代走することはなかった。
- 153系
- 先頭車に乗っていた運転士や一部の乗客が犠牲になっていたかもしれない。
- 事故車の補充としてクハ165がその編成に組み込まれた。
- 157系
- 先頭が動力のあるクモハなので損傷が小さく、廃車にならず復帰した可能性も。
- 「こだま」ではなく「ひびき」に153系が抜擢され「ひげき」のあだ名が付く。
- 客車列車
- 先頭が動力のある機関車なので損傷が小さく、修理を受けて復帰した可能性も。
- 寝台特急だった場合は1961年の準急「あきよし」追突事故後の「さくら」同様、暫定的に10系と20系を併結していた。
- 下りだと電源車も被害を受けるため、代役としてマヤ20が東京口に顔を出すことに。
- 因みに当時は20系のブレーキが旧型客車とほぼ同じものだったので、10系を含む旧型客車と20系との併結も普通に可能であった。
近鉄河内国分駅列車追突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 10000系初代ビスタカーの先頭車であるモ10007が18200系に準じた貫通型に改造されることはなかった。
- 10000系は71年に引退するのは史実通りだが、電機品の流用先は2680系ではなく12200系(スナックコーナーのない後期型)に準じた外観・車体を持つ特急車(形式は10600系)となっていた。
- 2680系は登場せず、代わりに2800系3連車が近鉄通勤車初の冷房車として1年早く登場していた。
- 10600系は1990年代まで活躍したが、12200系と違って車体更新は実施されずそのまま廃車された。
- 性能の関係で主に名古屋線で運用されていた。
急行安芸食堂車全焼事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 戦前製食堂車の全廃が遅れた。
南海三大事故[編集 | ソースを編集]
男里川橋梁列車脱線転落事故・箱作駅構内列車衝突事故・天下茶屋駅列車衝突事故
- 起きていなかったら
- 南海の新塗装が史実と異なっていた。
- 新塗装は緑をベースにしていた。
- 羽車マーク→Vマーク→ファインレッドとブライトオレンジのCIマークへの変更もなく今もターミナル駅や広告は「NANKAI」ではなく「南海電鉄」と書いていた。
- 新塗装は緑をベースにしていた。
- 南海は女性乗務員を派遣会社に委託することはなかった。
- その結果、関西の鉄道で初めて南海は駅員と乗務員は全員スラックスになっている。
- 女性鉄道職員と言えばスカートがいいという輩から「南海の女性乗務員の制服は男性とそっくりでつまらない」といれれた。
- 「パッセンジャー・アテンダント」という造語もない。
- もしくは仮に女性乗務員を業務委託していても90年代中に女性乗務員の業務委託は廃止されてそれと同時に南海の鉄道職員の制服はスラックスのみに統一されていた。
- アバンという名の会社も登場していないかあっても今は解散して跡形もない。
- もしくは仮に女性乗務員を業務委託していても90年代中に女性乗務員の業務委託は廃止されてそれと同時に南海の鉄道職員の制服はスラックスのみに統一されていた。
- 「パッセンジャー・アテンダント」という造語もない。
- 女性鉄道職員と言えばスカートがいいという輩から「南海の女性乗務員の制服は男性とそっくりでつまらない」といれれた。
- その結果、関西の鉄道で初めて南海は駅員と乗務員は全員スラックスになっている。
- その後の南海ホークスは史実よりも成績が良かった。
- 1970年代のパ・リーグが阪急ブレーブスの一強にならなかった。
- 場合によってはダイエーに球団売却されることはなかった。
- それでも大阪球場は再開発のため撤去され、中百舌鳥あたりに新球場を作っていた。
- 11001系は元の形式のままで全車昇圧改造・冷房改造を受けて、1000系に形式名が変更されたり京福電鉄福井支社に譲渡されたりすることなく、1980年代後半まで南海本線で使命を全うした。
- 1974年に京福に譲渡されたのは別の私鉄の車両になっていた。また11001系(史実の2代目1001系)は1987年に引退後、一部は大井川鉄道に譲渡されていた。
- 混雑緩和のため3扉化された車両があったかもしれない。その場合後の近鉄5200系やJR221系のような3ドアクロスシート車となっていた。
- 置き換えは史実通り9000系で行われるが、こちらの導入両数は史実よりも多かった。
- 泉北高速鉄道は当初から南海の路線として建設されていた。
- 1970年代以降関西大手私鉄における南海の政治力が現実よりも高くなっていた。
- 地下鉄に置き換えられて平野線と天王寺支線を失わなかったかもしれない。
- 阪堺電気軌道の発足もなかったか現実より遅れていた。
- 貴志川線撤退の時は両備グループに売らず近鉄でいう伊賀鉄道・養老鉄道のような方式の分社化で対応した。
- 阪堺電気軌道の発足もなかったか現実より遅れていた。
- 地下鉄に置き換えられて平野線と天王寺支線を失わなかったかもしれない。
- 20000系二代目こうや号はあと2編成ほど増備され、史実より早く通年運転が実施されていた。
- 通勤特急としての利用も史実よりも早く行われていた。
- 阪和線直通列車とサービス水準を合わせるため、南紀直通列車の「きのくに」にも冷房付きの新型車が投入されていた。
- 南紀直通列車の廃止は史実より1年半遅く1986年11月のダイヤ改正であった。
- キハ65をベースにした南海仕様の車両(キハ6501形)か、名鉄キハ8000系のような冷房付き転換クロスシートの車両(キハ8001形)が投入されていた。
- キハ5501系は冷房付きの新形式車が投入された後は、関東鉄道や有田鉄道に譲渡されていた。また冷房車(キハ6501形?もしくはキハ8001形?)も南紀直通列車の廃止後は全国の第三セクター鉄道などに譲渡された。
- 高野線の河内長野~橋本間の複線化や線形改良も史実よりも早く行われ、1980年代のうちに橋本までの全線が完了していた。
- 林間田園都市の開発も史実より早く、人口も増えていた。
寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故[編集 | ソースを編集]
- この時点で規定を改定していたら
- 急行きたぐにの火災事故は起きていない。
1970年代[編集 | ソースを編集]
富士急行列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 終点まで走って車止めに追突していたら
- 後の福島交通の事故と同じように思われた。
- 起こっていなかったら
- 5000形は登場しなかった。
- その分、京王5000系を多く譲受していた。
近鉄特急正面衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 近鉄大阪線の全線複線化はなかったか遅れていた。
- 恐らく全線複線化されていたとしても1980年代になっていた。
- 全線複線化されるにしても旧線に沿う形で線増されていた。そのため現実よりカーブが多くなり、大阪~名古屋・伊勢間の所要時間が増加していた。
- 「アーバンライナー」は振り子式車両になっていたかも。
- 21020系・22600系以降の特急車には車体傾斜装置が設置されていた。
- 旧青山トンネルが現役のため、心霊スポットになることもなかった。
- 東青山駅前の「四季のさと」もなかった。
- 「アーバンライナー」は振り子式車両になっていたかも。
- 現実の鳥羽線が戦前に開業していたら最初の大阪万博までに複線化された。
- 下手すれば大軌が破産していたかも。
- 名古屋線の伊勢中川駅構内の複線化も遅れていたかもしれない。
- 近鉄とは関係ないが、東武日光線の全線複線復活(合戦場-新鹿沼の複線復活、史実では1973年)も1980年代まで実施されなかったかもしれない。
- 事故車両が違っていたら
- 現実には12200系でした。
- 10100系
- 事故で廃車が出ることから、補充を目的に30000系ビスタⅢ世が現実(1978年)よりも6年程早く登場していた。
- 但し前面スタイルは12200系に類似したものになっていた。
- VISTA CARのロゴも10100系や20100系のデザインを踏襲していた。
- 別の時代におきていたら
- 1970年
- 3~9月に起こっていた場合、大阪万博に行った人が事故に巻き込まれていた。
- 乗車率も高かったので、死傷者も増えていたかも。
北陸トンネル火災事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 10系客車の早期廃車はなかった。
- JRマークが付いた車両が見れたかも。
- 燃焼実験のために廃車となることもなかった。
- その代わり旧型客車の廃車のペースが早かった。
- ナハ11形・ナハフ11形については冷房改造も実施されていた。
- 食堂車の衰退はなかった。
- 数年遅れた程度で、80年代には衰退していただろう。
- 24系客車は登場しなかった。
- 14系15形が1974年に登場し、史実の24系25形と同様の形態変化を見せる。
- 自動消火装置の実用化が遅れた。
- KATOのオシ17は違う車番になっていたかもしれない。
- 青函トンネルが気動車での自走ができなくなることもなかった。
- 中島伸子も井村屋グループ代表取締役会長兼CEOにならず、高校教師になっていた。
- 客車が尾久所属だったら
- 確実に事故は起きていなかった(高砂工場のいい加減な施工と宮原区の検査手抜きが火災原因)。
- オシ17は50.3改正まで生き残っていた。
- でも、12・14・20系の急行運用は下手すると分割民営化直前の61.10改正まで無かったかも?
- 火災を起こしたのが○○だったら
- 現実では10系客車でした
- 気動車
- 事故が起こる1か月前まで特急白鳥はキハ82系気動車を使用していた
- 火災が気動車白鳥だった場合、特急の火災という事で国鉄内部のショックは大きかった。
- 後の石勝線火災事故と比較されていた。
- 石勝線は長大トンネルもあるので、むしろ開業時から電化されていただろう。
- その場合根室本線の新得-釧路間も電化されていた。
- 石勝線は長大トンネルもあるので、むしろ開業時から電化されていただろう。
- 後の石勝線火災事故と比較されていた。
- この事故以降長大トンネルでの気動車の通行が禁止されていた。
- 電車
- この事故が起きた直後に急行立山3号(電車)がトンネル内に進入しようとしていた
- 原因の一つに架線設備の故障が疑われていた。
- 電車の不燃化が推進されていた。
- 半鋼製車両の地下線乗り入れが禁止されていた。
- 京阪1300・1700・山陽820系などの廃車が早まっていたか、車体の載せ替えが行われていた。
- 規則を無視してトンネルを抜けていたら
- 被害は最小限で済んだだろう。
- 場合によっては乗客の避難に成功し、死者0だったかもしれない。
- 後に2024年1月2日の羽田での日航機事故と比較されるようになっていた。
- 場合によっては乗客の避難に成功し、死者0だったかもしれない。
- それでも乗務員は規則に違反したとして何らかの処分を受けていた。
- ただマスコミは「規則を無視してでも多くの乗客を救った」として当該乗務員を賞賛し、直後に国鉄側も規定を改正した。
- 3年前に起こった「日本海」の火災事故と比較されていた。
東海道新幹線回送列車脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 1970年や2004年に起きた脱線事故の扱いが大きくなっていた。
- ATCの安全性が問題提起されることはなかった。
- 営業列車と衝突していたら
実際上下線とも数分違いで通過していました。
- もちろん新幹線の営業列車としての初めての事故に。
- 確実に死者が出ていた。
- 新幹線の安全神話は生まれず、利用者も史実ほど増えなかった。
- 現実よりも航空機に旅客がシフトしていた。
- 近鉄名阪特急も史実より数年早く回復していた。名阪ノンストップに18200系が使用されることはなかった。
- 基地から最寄り駅までの回送線と営業線の分離が検討されていた。
関西線平野駅列車脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 113系はその後も普通列車で運用。
京阪100年号事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 大都市の蒸気機関車運転が躊躇されることはなかった。
- C57 1は山口線ではなく奈良線や山陰線などで運転されていた。
- 梅小路蒸気機関車館が作られたのはそのためだということがよく知られていた。
- 蒸気機関車館から直接本線に乗り入れるイベント列車なんかも運行されていただろう。
- 電化も早まっていたかも。
- 梅小路蒸気機関車館が作られたのはそのためだということがよく知られていた。
- 「SL北びわこ号」の運転開始も早かった。
- C57 1は山口線ではなく奈良線や山陰線などで運転されていた。
- 鉄道事故は起きなくても群衆事故はそのうち起きただろうから史実と大差ないような。
西鉄大牟田線列車衝突脱線事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 2000系2041の廃車は現実より遅かった。
山陽線須磨駅ホーム転落事故[編集 | ソースを編集]
- 2人とも助かっていたら
- 大山車掌は昇進して新幹線の運転士になっていた。
高松琴平電鉄志度線列車正面衝突事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 四国の鉄道では土佐くろしお鉄道の事故まで鉄道事故がなかった。
営団東西線列車横転事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- 「地下鉄に鉄橋なんかあるわけない」と誤解されることはなかった。
- 『スパイダーマン』の映像のネタにされることはなかった。
- 横転したのが国鉄車だったら
- 103系1200番台が追加製造されていた。
- 10両化に影響が出た。
- 301系だったら103系との混結編成が史実より早く登場した。
常磐線列車衝突脱線転覆事故[編集 | ソースを編集]
- 起きていなかったら
- モハ403-1がモハ401-26に改造されることはなかった。
- モハ401-7の寿命がもう少し延びた。
- クハ401-51は非冷房のまま廃車されたかもしれない。
- 「低運転台・デカ目・新塗装」の401系は存在しなかった。
- クハ401-83・84の前面強化はJR化後になってからだった。
- その際前照灯がシールドビーム化される。
- 1984年以降に起きていたら
- モハ403-1は電装解除されてサハ401-1になっていた。