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大阪万博

1970年日本万国博覧会の噂

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  1. 1970年(昭和45年)、大阪府吹田市で開催された。
    • 吹田市といっても1956年9月30日まで三島郡山田村だった区域。
    • 茨木市との境にも近かった。
  2. 日本が1945年に敗戦してからわずか四半世紀で「世界第2位の経済大国」になったのを世界に広めた。
  3. 高度成長の到達点のようなもの。
    • 当時の日本人の半数以上が足を運んだという。
      • 入場者数が一番多かった日には当時の島根県の総人口に匹敵する人が会場内にいたという。
        • 2020年の人口だと山梨県佐賀県の総人口に近い。
        • 9月5日。まだ夏の暑さが残る時期だと思うがそれでも今と比べると涼しかっただろう。
      • 猛烈な混雑のため一部では「残酷博」と揶揄された。
      • 当時は農業もまだ盛んだったため地方から農協を介しての団体旅行も盛んだったらしい。
    • この博覧会の入場者数は40年後の上海万博まで破られなかった。
  4. テーマは「人類の進歩と調和」。
    • 英語で「人類」部分を"mankind"と訳しているあたりに時代を感じる。
    • 当初は「人類の調和と進歩」にして進歩一辺倒の風潮を疑う問題意識が高いものにするはずだった。
    • こちらも長い待ち時間と行列のせいで「人類の辛抱と長蛇」と揶揄されてしまった。
  5. 開催当時、21世紀には技術進歩がこれ程進むだろうと予想されたが、いざ21世紀になったら想定外に進んだ技術もあれば、21世紀になっても進歩が遅い技術もある。
  6. 当初は日本の国際博覧会ということで「JEXPO」と略す予定だったが一部言語で発音しにくいため「EXPO」にされた。
    • シンボルマークも変更されている。
      • 最初の案が「日本が全世界の上にあぐらをかいているようだ」と非難され変更された。
        • 下半分が鉄アレイのように見える。
      • 没になった方をデザインしたのは後に福岡市営地下鉄各駅のマークをデザインした西島伊三雄だった。
  7. 参加国は当時としては最多の77か国。
    • これでもポーランド、イスラエル、オーストリア、ボリビア、現在のコンゴ民主共和国などが出展をキャンセルしている。
      • 特にハイチ・ガイアナはかなり差し迫ってからのキャンセルだったため公式ガイドブックにもパビリオンの記載が残ったまま。
      • 国内の企業・団体では国鉄がパビリオン出展を取りやめ新幹線を「動くパビリオン」に見立てていた。
        • 実際万博へ行く際に初めて新幹線を利用したという人も多い。
    • 中華人民共和国の参加を呼び掛けるという話もあったが国交がなかったため断念。
      • 後に跡地で「中華人民共和国博覧会」を行うという荒業が出る。
        • 一方台湾は「中華民国館」で出展した最後の博覧会である。
      • 東ドイツやモンゴルも国交がなかったため呼べなかった。
        • ドイツもベトナムも資本主義陣営側の国だけ参加。
          • ベトナム館のテーマは「自由世界の諸国との調和を保つベトナム共和国の過去と現在と未来の発展」と東側との対立を押し出したものだった。
      • 中華人民共和国との国交回復は2年後の1972年だった。
        • 沖縄の日本復帰も。
  8. 開催国としてはオーストラリアがライバル視されたが向こうが譲歩したため無事開催決定。
    • 日本国内では他に東京、筑波、大阪南港、神戸市、現在の守山市が候補とされた。
      • あと富士山麓も
      • 長久手村(35年後に愛地球博が開催)も。
      • 東大阪市も。近鉄が推していたらしい。
    • オーストラリア側自体も国際博覧会条約未加盟だったため開催優先度は低めだった。
  9. 一部からは「日米安保改定から目をそらさせるための陰謀」とも呼ばれた。
  10. この博覧会を機にフライドチキン、動く歩道、電気自動車などが日本に定着したとされる。
    • 人間洗濯機は定着しなかった模様。
      • 今は介護用として実用化されているとか。
      • 後の高齢化社会を1970年の時点で想定していたのかと思う。
      • 今は門真市のパナソニックミュージアムに現物が保存されている。
      • 2025年の万博でも復活した。
  11. 入場券のセンスが半世紀経ってから見てもおしゃれ。
    • ただし半券のちぎり方は全体的に荒かった模様。
    • 自動改札も検討されたがシステムの信頼性が乏しく手作業に・・
      • 自動改札は万博の3年前の1967年に会場からほど近い阪急北千里駅で初めて実用化された。
  12. 多くの日本人にとって世界を体感できる貴重な機会だった。
    • コンパニオンどころか単なる観光客であっても外国人はサインをねだる対象になった。
  13. テーマ曲「世界の国からこんにちは」は今でも広く歌い継がれている。
    • 「桜の国で」と地味にマークのことも歌われている。
      • 桜は2025年万博のテーマソングにも歌詞に採り入れられている。
    • 三波春夫が歌ったものがもっとも有名だが他にも坂本九や山本リンダなどが歌っていた。
      • 吉永小百合も。
    • この曲は同年のセンバツ高校野球の行進曲にも採用された。
  14. この博覧会で外国語表示と言えば英語とフランス語だった。
  15. 実は開幕当日は雪だった。
    • ソ連館のロシア人ホステスまで寒がっていたという証言があるのでかなりの寒さだったと思われる。
    • 55年後の大阪・関西万博の開幕日は大雨で、ブルーインパルスのショーが中止されてしまった。
  16. 当時の新聞によると閉会式で万博旗が1976年のフィラデルフィア万博へ引き継がれたというがそのような博覧会は行われていない。
    • そもそも万博自体の熱気が下がり次に大阪と同格の一般博が行われたのは22年後のセビリア。
    • 76年のアメリカでの万博構想は全米各地での建国200年祭に転換された。
  17. 公式ガイドブックを見ていると今はない国や政体が変わった国もあり時代を感じる。
  18. 公式ではないガイドブックでは万博と合わせて京都や奈良などを観光するコースも紹介されていた。
    • 近鉄はこの万博に力を入れていたようで、難波線と鳥羽線の開通や志摩線の1067→1435mm軌間への改軌もこれを気に行われた。
      • だが新青山トンネル掘削を含む大阪線全線の複線化は万博には間に合わなかった。万博の1年後に正面衝突事故が起こっている。
      • 近鉄奈良駅の地下化も。
      • 「スナックカー」こと12200系特急車もこの万博がきっかけで大量増備された。数は多いもののビスタカーの陰に隠れて地味な存在だったがリクライニングシートや洋式トイレなど当時としては充実した設備だった。
    • 後年の大阪・関西万博はJR西日本がプラスワン戦略として万博+他地方の観光を推している。
    • 当時の国鉄も全国規模で万博のPRを行っていた。特に当時は地方の小駅でも駅員が配置されていたため、そんな駅でも万博の関連商品が発売されていた。
  19. この博覧会に関する資料は関西の古書店や古本市などで入手しやすい気がする。
    • 特に公式ガイドブックは出版数が多かったため運がいいと100円程度で買えることすらある。
    • 各パビリオンのパンフレットも取り扱いが多いように見える。
    • 会場の市外局番が(06)ではなく(068)だった(4年後の1974年に(06)へ統廃合)。
  20. 関西電力が東日本大震災直前に放送していたCMではこの博覧会に原子力で作った電気を届けたことが取り上げられていた。
  21. 「調和どんぶり」「万博ずし」「アポロ12号餅」などという得体の知れないメニューを食すことができたらしい。
    • 余談だがカップヌードルのデビューは万博翌年の1971年だった。もし数年早く発売されていたら会場にもカップヌードル自販機が設置されていたに違いない。
      • 恐らく万博がカップヌードルブレイクのきっかけになっていた。
      • ミスタードーナツ日本上陸も。余談だが、日本1号店は万博翌年に会場から近い箕面市だった。
      • マクドナルド日本上陸も。
      • UCCの缶コーヒーはこの万博がきっかけでブレイクした。
  22. 北大阪急行の運賃が安いのは万博輸送で大儲けしたため。
    • 当時は「万国博」行きの電車が大活躍していた。
      • 6ヶ月の会期のみのために千里中央(現在の駅とは異なる)~万博中央口に路線を建設した。今は中国自動車道になっている。
        • 途中で阪急千里線とも交差していた(現在の阪急・大阪モノレール山田駅のあたり)。
          • そのため大阪市営地下鉄御堂筋線と堺筋線の車両が地上で交差していた。
        • お陰で梅田難波天王寺の大阪3大ターミナルや新大阪駅から乗り換え無しでアクセスでき、伊丹空港もそれほど遠くないなど会場アクセスは抜群だった。その点2025年の万博は遠く及ばない。
    • 凄まじい混雑だったため降りたら万博土産の陶器が粉々になっていたという証言もある。
    • 会期終了間際の休日には最終電車に乗れずに会場内に野宿した人が大勢いたとか…。彼らは翌日朝イチで万博を見られるように配慮されたらしい。
      • その時大阪市交通局では電車運転士免許を持った助役や管理職も動員して電車の運行に当たらせた他、本局の背広組までも主要駅での乗客整理に動員させたらしいとか。
      • 1日で80万人も入ったらしい。
      • 2025年の大阪・関西万博でも同様の出来事があったが、こちらは電気関係のトラブルが原因だった。
      • 翌日は途中で満員札止めになり万国博中央口行きの電車を千里中央で打ち切るなどしたが、我慢できずに会場まで歩く人までいたらしい。
    • 加えて阪急も千里線の南千里~北千里間に万国博西口駅を臨時駅として開設した。会期終了後は廃止されたが3年後少し大阪寄りに山田駅が開業した。
      • 大阪・関西万博開催を前にした2024年に跡地に駅名標が一時的に復刻された。
  23. 万博で走ったモノレールは日本跨座式を普及させるうえで大いに役に立った。
    • 実は自動運転かつ全駅ホームドアつきだった。
      • 期間限定でない普通の鉄道におけるホームドアは4年後の1974年に新幹線熱海駅に設置されたものが初。
    • 当初案ではアメリカからこんなバスを走らせる予定だったと聞く。
      • この11年後に日本で新交通システムとして実現した。
        • 同年には神戸でポートピア博覧会が開催され、そのアクセスにもなった。
    • 湘南モノレールが1970年開業なのは懸垂式モノレールをアピールしたかったためとか。
    • その20年後この地に同じ日本跨座式の大阪モノレールが開業した。
    • 実は運賃は無料だったらしい。
      • とは言え、地方鉄道法に準拠した正規の鉄道だった。無料の鉄道としては当時近隣の箕面市にスパーガーデンのケーブルカーが存在していた。
        • 京都鞍馬寺のケーブルカーも寄付金という形で料金を取るが、運賃自体は無料。これは運営してるのが宗教法人で法律上運賃を設定できないため。
  24. 言うまでもなく昭和45年の日本にとって最大級の出来事だった。
    • 当時の週刊誌(週刊朝日など)でもあらゆるページが万博ネタで埋まっていた。
      • 広告では「我が社の○○は万博会場でもお求めになれます」「××グループの一員として××館に協力しています」などがよく目につく。
      • お悩み相談でも万博会場でのトラブルが取り上げられていた。
    • そのためか同年に生まれた子供には博・博美など名前に「博」の字が付くことが多かった。
    • 宮迫博之(1970年3月生まれ、会場に近い茨木市出身)とか。
      • 永作博美(1970年10月生まれ)も。
        • 輪島博 (1948年1月生まれ) は生まれ年は違えど初土俵が同年だったし、魁皇博之 (1972年7月生まれ)は惜しくも2年遅れで生まれるなど、この法則に当てはまらない人もいる。
    • 会期中の4月8日には同じ大阪で天六ガス爆発事故が発生している。
      • 開幕してすぐの3月31日にはよど号ハイジャック事件も発生した。
      • その影響で事故直後はガスパビリオンが一時休館した。
  25. 東海道新幹線もパビリオンの1つとされたらしい。
    • もし山陽新幹線の新大阪~岡山(1972年3月開業)が2年早く開業していたら。
    • 夜行列車も多数運転されたが、その中でも「エキスポこだま」は伝説の存在。
      • 夜行列車に使う車両が足りないため、大阪~三島を在来線夜行で運行し、三島~東京は新幹線の回送列車を客扱いした。
      • 当時は週休1日なうえに日曜と祝日が重なった翌月曜も普通の平日だった時代だったので、そのような需要も大いに存在した。
    • 12両から16両編成に増結されたのはこの万博がきっかけだった。
    • 国鉄自身も新幹線をパビリオンと位置づけ、万博本体へのパビリオン出展はしなかったらしい。
      • あと日本館でリニアモーターカーの模型が展示された。
  26. 中国で国民党が共産党に勝っていたら上海での開催になっていたが、大阪での開催は10年遅れていた。
  27. この万博がきっかけで大阪の交通整備が進んだ。
    • 都心部における地下鉄の路線整備や京阪京橋駅の新駅舎完成など。阪急梅田(現大阪梅田)駅はまだ移転の途中だったが(1973年全工事完成)。
      • 近鉄難波線は万博開幕当日に開業したが、直通相手の阪神なんば線の開業はこれから40年近く後の2009年3月まで待つ必要があった。九条地区で建設反対運動があったため。
    • 万博開催に2年先立つ1968年3月に主要地方道大阪中央環状線が開通した。
    • 新御堂筋が開通したのは万博のおかげ。12年後に国道へ昇格。
    • 御堂筋が南行き一方通行になったのもこれがきっかけだった。
    • 曽根崎通や千日前通の道路幅がそれまでの倍の広さに拡幅されたのもこれがきっかけで、さらに千日前通の上には阪神高速も建設された。
      • 中央大通の開通や谷町筋の拡幅も。地下鉄建設と並行して行われた。中央大通は中央部に阪神高速道路とその下の船場センタービルも建設された。
    • 国鉄→JRの網干・野洲両電車区も万博輸送がきっかけで開設された。
      • 新快速も実は万博の副産物。
        • 万博輸送のために投入した車両が終了後余剰になったことから生まれたものである。
          • 関東からスカ色の113系が転入してきた。国鉄時代だからできたこと。
          • 万博期間中は河瀬~網干間に臨時列車「万博号」が運行された。滋賀県側の始発・終着駅が彦根や米原ではなく中途半端な河瀬なのが気になるが、当時米原駅が大阪鉄道管理局ではなく名古屋鉄道管理局管轄であることも関係したか?余談ながら国鉄末期の新快速はその関係で米原ではなく彦根発着だったことがある。
      • 茨木駅への快速停車も。会期中は「万博東口」駅とも呼ばれていた。
        • 阪急南茨木駅も万博がきっかけで開業した。当初は臨時駅の予定だったが、終了後も常設駅とされた。
    • 淀川に豊里大橋が架かったのもこれがきっかけ。
      • 23年後に国道へ昇格。
  28. この万博の開幕直前である1970年3月1日に中山美穂が生まれたが、皮肉にも次の2025年大阪・関西万博開幕直前の2024年12月に54歳の若さで亡くなった。
  29. 会場の広さは330haで、2025年の大阪・関西万博の155haと比べても2倍以上広かった。
  30. 2025年の大阪・関西万博とは異なり、敷地内に駐車場が存在していた。
    • 大阪・関西万博は埋立地にあるため、会場から離れた尼崎市や堺市に駐車場が設置され、そこからシャトルバスで連絡する方法が取られた。

パビリオンの噂

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太陽の塔
  1. 各パビリオンの女性スタッフは「ホステス」と呼ばれていた。
    • なお愛知万博では「アテンダント」だった。
      • 1990年の大阪花博では「コンパニオン」。
    • 民族衣装や最新モードなど多彩なコスチュームがあった。
      • 多くは当時の流行であるミニスカートだった。
    • スイス館のホステスがスカート丈を勝手に短く改造し怒られたこともあったらしい。
    • 各館の男女スタッフが交流するうちに恋愛関係に発展することもあった。
      • 当時のマスコミに「昼はエキスポ、夜はセ×スポ」と書かれたこともある。
    • 今でも空港の女性スタッフは「グランドホステス」と呼ばれている。
    • お土産の子供向けおもちゃに「ホステス着せ替え人形」とかいうのも存在した。
  2. 全体的に未来建築っぽいものが大多数だったがラオスやタイのパビリオンは伝統建築がモチーフだった。
    • 国内なら東大寺七重塔(現存せず)がモチーフの古河グループ館も。
    • 天平様式でタイムカプセルを展示していた松下館も。
      • タイムカプセルのレプリカが大阪歴史博物館にある。
  3. やたらぶっ飛んだデザインの建物が特に国内企業のパビリオンに多かった。
    • 怪獣を思わせる外観の東芝IHI館(設計:黒川紀章)や足場を残し工事中の体にしたせんい館(横尾忠則がデザイン)などが代表的。
    • 前衛芸術の若手を積極的に登用した結果。
  4. 映像系展示が博覧会でおなじみになったのはこの博覧会から。
    • ただしこの時はヌードや屠殺場の映像など現代では大問題になりかねないものもあったという。
    • 以後の博覧会はこれの焼き直しに過ぎないと言える。
  5. 太陽の塔が最も有名。
    • 岡本太郎の代表作として知られる。
      • 本人としては万博の理念に思い切り異議を唱えるつもりで作ったらしい。
    • 内部には「生命の樹」と呼ばれるモニュメントがあった。
      • 2018年から色々作り直して再公開。
    • 丹下健三が設計した大屋根に穴を開けた姿が衝撃的だった。
      • 大屋根が消えた今では味わえない感覚。
      • なお大屋根の下は「お祭り広場」として様々なイベントに使われた。
      • 大屋根の中には都市計画の模型等。
    • 地下部分にあった「地底の太陽」は現在行方不明。
      • 2025年の大阪・関西万博開催地である夢洲の地下深くに埋められたという噂もある。
    • 会期中には目の部分に万博反対派が立てこもるという事件もあった。
      • 岡本太郎はその様子を見て「ダンスでも踊ればいいのに」と言ったらしい。
      • その男は「赤軍」と書かれたヘルメットをかぶっていたが無関係だった模様。
    • 今でも吹田市の代表的な建造物である。
      • カントリーサインにも太陽の塔が描かれているらしい。
      • マンホールにも採用されている。
    • 西鉄バスの夜行バスである「はかた号」に描かれているイラストと似ているが、実はこちらも岡本太郎氏がデザインしている。
  6. エキスポタワーは本来シンボルタワーになるはずだった。
    • 中に入れるカプセルがいくつも取り付けられ未来の住宅の姿を現していた。
      • 万博の2年後に完成した中銀カプセルタワービル(こちらも現存せず)にもあったがこちらは黒川紀章がデザインした。
    • しかし老朽化により90年閉鎖→03年解体。
    • 当時のガイドブック表紙などに描かれた会場のイラストで取り上げられなかったのは未来を暗示していたのだろうか…。
    • デザインしたのは菊竹清訓。他に大津西武(こちらも現存せず)なども担当した。
  7. 日本館は上から見ると桜の形状(=シンボルマーク)だった。
    • しかし横から見るとなんとなくコンビナートのような味気ない感じ。
    • 日本の歴史も扱うということで原爆にも触れられていたがタペストリーで抽象的に扱っただけ。
    • こちらも永久保存の予定があったらしいが閉幕後は一度も使われず79年に解体。
    • なぜか月の石のかけらも展示されていた。
  8. 外国館一番のスターは何と言ってもの石を擁するアメリカ館。
    • 大リーグやアメリカの自然に関する展示も一応あったがもはやそれどころではない。
    • 建物は東京ドームと同じエアドームだった。
      • 後にあるスーパーが店舗として使うという話もあったが消防法の絡みで断念。
      • 日本の建設会社では技術的に無理だったため米軍の工兵隊が建設した。
        • ドーム膜のメーカーが後に東京ドームの膜も担当する。
    • ちなみに会期中にあのアポロ13号の事故が発生している。
  9. ソ連館は会場一番の高さを誇る巨大建築だった。
    • 通天閣よりも高かった。
    • 大阪市長か誰かがこちらにも月の石の出展を要請していたがもちろん無理だった。
    • 宇宙関連以外では同志ウラジミール・レーニンの生誕100年を祝う展示があった。
    • 館内のレストランでは当時ソ連に属していた各連邦共和国の名物料理を食すことができたがとても労働者階級に手の出る価格ではなかった。
    • アポロ12号の宇宙飛行士が急遽ソ連館を訪問したのがちょっとした話題になった。
    • それに対し55年後の大阪・関西万博では大屋根リングの高さ(12~20m)を超える高さの建物がなく、インパクトに欠けた。ガンダム館の前にあるガンダム像でさえ直立形状ではなく膝をついている。
  10. 三菱のパビリオンは当初高さ400mもの超高層のタワーになるはずだった。
    • しかし大阪が地盤の住友から抗議されたり運輸省から伊丹空港の支障になると怒られたりして諦めた。
    • 出来上がった「三菱未来館」は何とも名状しがたい形状をしている。
      • 館内で上映された50年後の日本がテーマの映像では台風を上陸前に破壊するなど神をも恐れぬ技術も提案されていた。
        • 史実の50年後に実現できたのは激しい自然災害のみ・・・
        • もし実現していたら開発に当たった技術者はノーベル賞を獲ってそう。
      • その映像が円谷英二の最後の仕事だった。
      • 飛行機操縦のシミュレーターがあった日立グループ館と並んで子どもに人気だった。
  11. 日本家屋風の外見が特徴的だったサンヨー館の名物は「人間洗濯機」。
    • 水着姿の女性モデルが1日数回実演していた。
      • 今の時代なら若い男性のモデルも起用していただろう。
    • 頭を洗う装置は実装できなかった。
    • 今も門真市のパナソニックミュージアムで実物を見ることができる。
    • 今はパナソニックの子会社になっているが、当時は単独でパビリオンを出展できるほど勢いがあった。
    • 在阪3大家電メーカーのうち松下、三洋はパビリオンを出展したがシャープのパビリオンはなかった。
      • 「千里から天理へ」
  12. 万博初参加だったブルガリア館はバルカンの山々をイメージした尖った建物。
    • 万博後は本国に移築されたらしい。
    • 明治乳業(当時)の幹部がここで出会ったヨーグルトに感銘を受け「ブルガリアヨーグルト」を開発したのは有名。
  13. 国連、ECなど国家ではない国際団体のパビリオンもあった。
    • 串間勉が著書で「フジパン館か」と記載していたパンの展示は国連館の可能性大。
      • そのフジパン館は当初パンの未来をモチーフにする予定だったが企業イメージが強すぎるとしてロボットメインに。
        • 手塚治虫がプロデュースしていた。
        • ミツバチの腹の部分に見えて仕方がない。
        • 万博後は愛知万博で会場になる愛知青少年公園に移築されたが愛知万博までもたなかった。
          • ただし一部のロボットは展示されたという。
  14. 参加要請一番乗りのカナダは中央政府だけでなくケベックやブリティッシュ・コロンビア州なども出展。
    • アメリカもハワイやロサンゼルスなどが別のパビリオンを出していた。
  15. オーストラリア館は北斎の「富嶽三十六景」から「神奈川沖浪裏」をモチーフにしたものだがどう見てもブラキオザウルスにしか見えない。
    • 万博後は四日市市に移され長く親しまれたが2014年に解体された。
      • マンホールのデザインではまだ健在。
  16. フランス館は一見何かの観測施設のような4つの白いドームでできている。
    • 中には映像展示やコンコルドの模型だけでなく本格的なフレンチレストランもあった。
    • 当初案ではエアドーム式とする予定だったとも。
  17. イギリス館は上から見るとユニオンジャックが描かれたいかにもという感じだが横から見ると工場を思わせるやや味気ない鉄骨が目立つ。
    • 壁の「英国」という漢字表記を書いたのは当時の大阪府知事。
  18. 鉄鋼館は当初から永久保存前提で作られ今では「EXPO'70パビリオン」として使われている。
    • 大阪万博を追体験したい人はぜひ。
    • なお館内にあった立体音楽ホールは現在全く使われていない。
      • ガラス越しに当時の演出再現を鑑賞する形に。
  19. スカンジナビア館はこの博覧会としては珍しく科学技術のマイナス面も大きく取り上げていた。
    • 万博後は北海道に移築され81年まであったという。
  20. ガスパビリオンは笑顔がテーマということで豚の蚊やり器にもドラクエのスライムにも見える独特のパビリオンに。
    • ここにあったミロの壁画は現在中之島の国立国際美術館にある。
    • 天六ガス爆発の翌日はさすがに営業を自粛していた。
    • テーマが笑顔なのは笑いは火を使うことと並んで人間特有の行動だからという。
    • ガスで洗浄するトイレもあったらしい。
  21. 電気通信館は携帯電話の原型が展示されたことだけで有名。
    • 建物は黄色い芋虫のようなちょっと不気味な感じだった。
    • NHKの万博番組の公開放送にも用いられた。
  22. どこのパビリオンにもスタンプがあった。
    • 07年時点では一部のスタンプが復元され「EXPO'70ホール」(現存せず)で押すことができた。
  23. ワコールとリッカーミシンは社長が仲良しだったというだけで共同出展した。
    • 世界からカップルを集めパビリオンで結婚式を行った。
    • 中高学校の修学旅行では、「ワコール館だけは入ってはいけません」という制約があった。
      • 見るからにセクシーな女性の映像が流れていたため。しかし却って注目を集めてこっそり訪れる男子が続出。
      • もちろん18禁というわけではなく、ワコールが下着を展示できなかったら意味がないわけだが、当時の校則は今より遙かに硬直したものだった。
  24. 自動車館では自動運転システムの先祖とでも言うべき交通ゲームができた。
    • 王貞治が万博会場を訪れた際に挑戦したらしい。
  25. 2025年万博では複数の国家が1つのパビリオンに出展する「コモンズパビリオン」があったがこの万博でも同じような「国際共同館」が存在していた。
    • 但し2025年のコモンズパビリオンとは異なり、各国が独自の建物を建てていた。
    • 中でもカンボジア館は閉幕後に神戸市北区に移築され、地元住民の集会所として使われている。

フィクションでの大阪万博

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  1. 磯野家の面々が訪問するがタラちゃんが迷子になってしまう。(アニメ版『サザエさん』)
    • しかし迷子ワッペンやテレビ電話のおかげで無事発見される。
    • 原作の漫画の方では波平が混雑に疲れ果て手前の写真パネル(推定)を背に撮影しただけで帰ろうとする。
      • なお宿としてあてにしていた大阪の親戚は万博前に東京転勤になってしまった。
    • アニメ版はスポンサーの関係か東芝IHI館が登場する。
  2. ひろしが月の石を見たがる。(『クレヨンしんちゃん』)
    • 映画冒頭では「ヒーローSUN」という架空の特撮番組の主人公になりきってひろしが怪獣(名称不明)を倒す。
      • 怪獣によりアメリカ館、ソ連館、松下館が破壊される描写もある。
      • その映画で子供の姿に戻ったひろしがしんのすけに声を掛けられ、回想しながら現実に戻るあの感動シーンも万博会場でのもの。
        • 「とうちゃん……オラが分かる?」「ああ……ああ……!!」
    • 全く関係ないが、この4年前の映画では敵組織のメンバーたちが「世界の国からこんにちは」にのせて踊るシーンがある。
  3. 科特隊が万博会場に展示するため怪獣ゴモラを運ぼうとして大失敗。(『ウルトラマン』)
    • ウルトラマンに倒された後剥製にされて展示されたらしい。
  4. 万博会場でガメラとジャイガーの最後の決戦が行われる。(『ガメラ対大魔獣ジャイガー』)
    • 大映の営業力不足が原因で正式にタイアップできなかったとか。
  5. 長崎から北海道へ移住する途中の風見一家が見物し損ねる。(山田洋次監督作品『家族』)
    • 移住資金を借りた知人とはち合わせて口論になった。
  6. 悪魔くんの父親(太平洋電機社長)が「ブータン館」で特別な酒を飲まされ空飛ぶホウキ事業に手を出す。(『悪魔くん千年王国』)
    • パビリオンは実は悪魔の偽装だった。
  7. 会場内で夜明かしを試みた若者が地獄に迷い込みレジスタンス運動に協力する。(ムロタニツネ象『パビリオン地獄』)
  8. 核戦争で人類滅亡後に取り残されたパビリオン内で動き続けるカプセル内でカップルが成長する。(手塚治虫『ふたりは空気の底に』)
  9. 番外:未来都市の風景に使いたかったが会期中に間に合わず断念。(『惑星ソラリス』)
    • 結局首都高の風景で代用した。
  10. 20世紀少年では、幼少期に1970年大阪万博に行くことができなかった「ともだち」が、2015年に独裁者になり、東京で「大阪万博」を再現する。
    • 「人類の進歩と調和」というスローガンそのまま。太陽の塔の顔が、「ともだち」のマークになっていて、不気味すぎる。

2025年日本国際博覧会の噂

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関連項目

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